こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

復活節第4主日(ヨハネ10:27-30)羊は、主の声を聞き分けることができる

2007-04-29 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/04/29(No.296)
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復活節第4主日
(ヨハネ10:27-30)
羊は、主の声を聞き分けることができる
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今日の福音で、私が強く感じたことは、イエスの語る一つひとつの言葉が、どれをとっても曇りがないということです。力強い一つひとつの言葉は、わたしたちに安らぎと勇気を与えてくれます。

「わたしは彼らを知っており」と仰います。ヨハネ福音書で、「知る」ということは「愛する」ということに通じますが、イエスはご自分の羊である人々を知り、愛しておられます。

イエスが確信をもって話しているのは当然ですが、この呼びかけは、イエスに愛されている人にとっても慰めになります。「わたしのことを、イエスは知っておられる。イエスは、わたしを愛しておられる」。そこには、イエスは本当に私が置かれている場を知っておられるのだろうか?という不安や疑いを、完全に取り払ってくださる力強さがあるのです。

「彼らは決して滅びず」「だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」。滅びるか滅びないかということで言えば、この世の中のものすべてが滅び去るものに属しています。

形あるものは壊れ、記録は塗り替えられ、歴史は繰り返す。永遠に続くものなど、ひとつもないわけですが、イエスに愛され、イエスを通して永遠のいのちをいただいた人たちは、決して滅びないのです。この世のものではない、永遠なもの、イエスだけが与えることのできる、神からの賜物をいただくので、その人は滅びないのです。

今の世の中は、ますます滅びないものにあこがれる時代と言えます。かつては揺らぐことのなかったものが揺らいでいるからです。家族の絆、目上の人に対する尊敬、命の大切さなど。どれも、努力しなくても守ってもらえるものだと思っていました。

ところが、今は家族の絆が揺らいでいます。年長者であるというだけで尊敬してもらえなくなりました。命をあまりにも簡単に考える青少年が増えてきました。そういう、滅びるはずがないと思われたものさえ、この世に属する限り、永遠ではないと思い知らされます。

けれども、イエスは、ご自分の持っておられる永遠の命を通して、滅びないものを与えてくださいます。イエスの与えてくださる永遠のいのちに土台をおいた家族の絆、イエスの命の上に立った人間関係、いのちへのまなざしは、いつの時代にも通用する力強さをもっているのです。

一方で、イエスは羊の態度も力強いと仰います。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」「彼らはわたしに従う」。滅びるものに属しているわたしたちに、どうしてそれほどの信頼を寄せてくださっているのでしょう?

どうも、この点については心配があります。「わたしたちは、イエスの声を聞き分けることができているだろうか?」「わたしたちは、そんなに忠実にイエスに従って生きているだろうか?」

私自身のことを考えると、確実にイエスの声を聞き分けているという自信もないし、忠実にイエスに従っていると言い切る力も持ち合わせていません。イエスはどうしてここまできっぱりと「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」と言い切れるのでしょうか。わたしたちの不足分を、どうやって補ってくださるというのでしょうか。

それは、先にイエスがわたしたちを知り、愛してくださったこと、これ以上ないというほどにご自分を与えつくし、永遠の命にあずからせてくださったことによります。

私たちは、胸に手を置いて考えたとき、イエスの声を聞き分けていると言い切れないし、忠実にイエスに従っているという自信もないのですが、その分は、深く愛してくださったイエスが不足を満たしてくださるのではないでしょうか。

「あなたをわたしは深く知り、深く愛しているよ。だから、あなたはわたしの声を聞き分けることができる。信じて、よく耳を傾けなさい」そう呼びかけておられると考えるべきではないでしょうか。

私は、イエスの声を聞き分けることができるだろうか?私は、イエスに従っていくことができるだろうか?イエスが、大丈夫、できるよと言ってくださっています。私たちには、自分で言ってのける力はないのですが、私たちの不足をイエスが補ってくださるなら、私たちにも力が与えられると思います。

イエスの自信に満ちた言葉、確信に満ちた言葉に信頼して、「あなたは、わたしの声を聞き分けることができるし、信じてついていくことができるよ」という招きを、今週一週間、喜んで受け入れることにいたしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼ふ5424。ピンクのナンバープレート。ここまで話してピンと来る人は相当バイクのことに詳しい。バイクの免許を取得して初めて手に入れたバイクが125ccのアメリカンバイクだったが、250ccのバイクを取得するに当たって手放してしまった。
▼ところが、いざ250ccのSUZUKIカタナを手に入れてみると、島から本土に持ち出すのに大変な目に遭う。片道2000円、しかも日帰りしたくても帰る頃には輸送船が出ていない。するとどうしても余計に時間もお金もかかることになる。
▼4月の転勤で隣の教会に恩人の神父様が引っ越してきたので、ときどきは顔を出したい。そういうときに適当な交通手段がない。ということで、別にスクーター(100cc)を手に入れることにしたわけ。贅沢してるなぁ。
▼「お魚料理入門」(DVD付属)という本を見つけて、買い求めた。釣った魚を最高の状態で食べるために、勉強しようと思っている。素材が良くても、包丁でダメにしてしまっては元も子もない。一通りDVDを見たが、まあまあためになると思う。料理の腕をもう一ランク上げたい方は、ぜひご購入を。

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こうじ神父絵手紙
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第77回目。ふ5424。ピンクのナンバープレート。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
復活節第5主日
(ヨハネ13:31-33a,34-35)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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復活節第3主日(ヨハネ21:1-14)復活の主に自分を委ねる

2007-04-22 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/04/22(No.295)
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復活節第3主日
(ヨハネ21:1-14)
復活の主に自分を委ねる
‥‥‥†‥‥‥‥

今日朗読された福音朗読の前半は、復活したイエス様と出会った弟子たちが、不思議な漁を体験する場面でした。弟子たちは、網が破れそうになるほどの大漁を目にして、岸に立っておられる方がイエス様だと気付くわけですが、どうも私たちは、153匹もの魚が網にかかった、そのところだけに目がいってしまって、復活の出来事とどう結びつくのかを考えなくなる可能性があります。

大漁を通して、弟子たちの目は徐々に開いていくわけですから、たくさんの魚がかかったことはもちろん大切なのですが、ここでヨハネが伝えたい内容はそのことだけではありません。不思議な大漁を経験した弟子たちがなぜ復活したイエスに気づいたのか。そこに至る弟子たちの心の動きについて考えてみましょう。

よく読み直してみると、彼らは前の日の晩に漁に出ています。「わたしは漁に行く」と言ったペトロの思いはどうだったのでしょうか。「わたしたちも一緒に行こう」と言って、連れだって出かけました。それなのに、「その夜は何もとれなかった」わけです。

夜中の肉体労働は、そうとうつらいと思いますし、何もとれていないときは、なおさら疲れて帰ってくることでしょう。夜という時間の闇は、朝になれば必ず去っていきますが、彼らの心は、朝になってもまだ、闇の中にいただろうと思います。

私は、このときの弟子たちの心境は、とても大切ではないかと考えています。弟子たちが、せめてその日の糧になる程度の漁でもあがっていれば、そのあとの大漁の奇跡を見ても、別の思いを持ったかも知れません。

何もとれなかったから、何も希望を持てずに陸に上がろうとしていたから、不思議な大漁は、岸に立っているその人がイエスだと、気付かせてくれた。何もとれなかったから、ここに立っているのは、これまで何度も、希望のないところに希望を与えてくださった、あのイエスなんだと気が付くことになったのではないでしょうか。

ところで、153匹の魚にはいくつかの解釈がありますが、当時の人々に知られている限りの魚の数ではないかとという解釈を取る人もいます。弟子たちはのちに、人間をとる漁師になるわけですから、153匹の魚は、象徴的に全世界の人のことも言っているのでしょう。イエスに自分をまかせきって、自分の持ち場で精一杯生きるなら、それは思いがけない収穫となるということを言っているわけです。しかも、網は破れそうになるほどの結果になって返ってくるというのです。

わたしたちの一生涯にも、同じことがあると思います。夜も昼も頑張って、何も収穫がなかった。何も実を結ばなかった。でも、その無駄と思えるような時間と労力を経験した人だけが、イエスの声にすべてを委ねることができ、イエスによる大漁を実感し、「このわたしの人生に実りをもたらしてくださったのは、主だ」という確信を持つのではないでしょうか。ひとつの団体、ひとつの事業、ひとつの教会の歴史の中でも、同じことはあるのだと思います。

これまでの人生の中に、まったく実を結ばなかったと思えるような、不毛な時間があったでしょうか?イエスは、その直後に声をかけます。その時すかさずイエスにすべてを委ねた人だけが、人生の中に本当の実を結んでいくのです。

次に、今週の朗読の後半、ペトロはイエスに三度も「わたしを愛しているか」と問われています。三度目にはペトロは悲しくなったとありますが、ここでも、イエスにのみ絶対の信頼を置いて羊のお世話をすることが求められています。出来事は違いますが、不思議な大漁と、イエスを愛しているかとペトロが問われたこととは、つながっているのです。

ペトロが悲しくなったというのは、「わたしはイエスを愛している」と絶対の自信を持っていたのに、イエスに何度も尋ねられ、イエスから理解されていなかったのではないかと思ったからです。自分に自信を持っていた、ペトロのその過信をイエスは静かに指摘なさったのです。

ペトロは自分を絶対視しているところに、もう一度イエスによって心を砕かれ、イエスにみずからを委ねる余地があったわけです。大変厳しい要求ですが、「多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」(ルカ12・48)ということです。

またこの時のイエスとペトロのやりとりは、神が先に人を愛し、先にゆるしてくださることを教えてくれます。かつてペトロは、イエスが十字架に向かっていく最後の場面で三度イエスを知らないと言いました。イエスが十字架にはりつけにされるとき、ペトロは十字架のもとを去りました。そんなペトロに、イエスは何も責めずに「わたしの羊の世話をしなさい」(21・16)と仰います。

ペトロに代表されるすべての人間は、神から先に愛され、先にゆるされて今こうして活かされています。復活したイエスは、ペトロとのやりとりの中でそう教えています。ペトロは、今度こそすべてを委ねて使命をまっとうします。同じく私たちも、イエスに自分をすっかり委ねるべきだと知り、社会生活においても、信仰においても、自分の使命をまっとうする者へと変わりましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼長崎で、市長候補(現職)が銃撃され、命を落とした。暴力に訴えて黙らせようという態度は、絶対にゆるされるものではない。市長の命を奪って、自分も死のうと思ったなどと言っているようだが、本人は生きているのだし、亡くなった現職市長に説明が付かない。裁判の中で動機や経緯が明らかにされることを望む。
▼事件は火曜日に起こった。市長選挙はどうなるのだろうと思っていたら、補充の立候補を受け付けて、投票日に変更はないとのこと。1週間の選挙日程の中で、補充の立候補者に与えられた日数はわずか3日。不公平だと思う。また候補者の死亡までに期日前投票した人の票は、無効票として処理されるという。
▼ちなみに私は、期日前投票を火曜日の午前中に済ませた。ということは、私には再度市長に投票することはできず、新しい候補者を含めた中で検討することもできないということだ。私に落ち度があるのなら、期日前投票が無効になっても文句はないが、私を含め期日前投票を無効にされた人たちは納得できないに違いない。
▼おさまらないので、市の選挙管理委員会に救済策を考えてくださいとメールを入れた。併せて総理官邸にも救済してくださいとメールを入れた。メールの返事を待っているが、今のところどちらからも何の返事もない。無視されたか?今日、寝る前にもう一度メールを入れてみるか。

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こうじ神父絵手紙
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第76回目。最近、財布を買い直しました。お歳暮の商品券で買ったので得しました。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
復活節第4主日
(ヨハネ10・27-30)
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神のいつくしみの主日(ヨハネ20:19-31)神のいつくしみはミサの中で再現されています

2007-04-15 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/04/15(No.294)
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神のいつくしみの主日
(ヨハネ20:19-31)
神のいつくしみはミサの中で再現されています
‥‥‥†‥‥‥‥

復活節第二主日、この日は亡くなられたヨハネ・パウロ2世の意向によって「神のいつくしみの主日」という特別の呼び名が与えられました。この日に思い起こすように勧められている「神のいつくしみ」について、昨年取り上げた点を今年もう一度考えることにいたしましょう。

朗読は復活した主がトマスを除く弟子たちに最初に現れる場面と、トマスも一緒にいるときに再び現れるという出来事です。朗読された出来事が「週の初めの日に起こったこと」という点を意識して読むと、神のいつくしみが私たちにも感じられるようになります。そこで出来事を「週の初めの日」という切り口でまとめてみましょう。

週の初めの日の夕方、弟子たちは恐れの中で一軒の家の中に集まり、鍵をかけ息を潜めていました。彼らは誰にも気づかれないように、見つからないようにするために隠れていたのです。そこへイエスがおいでになります。素朴な弟子たちは、主を見て素直に喜んだのでした。

出現なさったイエスは、真っ先に「あなたがたに平和があるように」(20・19)と言います。そしてこの言葉を繰り返しました(20・21)。当然、同じ言葉を繰り返すのは、念を押したりとか、強調したりするためです。

それから弟子たちに使命が与えられます。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(20・22)。

実はこのあとのトマスが一緒にいた時に出現された様子も、同じような書き方がされています。ある意味で出来事は繰り返され、強調されているわけです。

ここまでいろいろと並べてみました。思い切ってまとめると、週の初めの日、皆が集まったところへ復活したイエスがおいでになり、「あなたがたに平和があるように」と仰います。次いで弟子たちになすべき事が伝えられます。この一連の動きが、週の初めの日に起こったのです。

賢い皆さんはここで一つのことに気が付くはずです。週の初めの日とは日曜日のことです。日曜日、イエスを信じる弟子たちが一堂に集まった場所に復活した主がおいでになり、「あなた方に平和があるように」と声をかけ、なすべき使命をお授けになる。これは何も当時の弟子たちだけに関わることではなくて、私たちの今の暮らしそのものなのです。

日曜日、私たちはミサに集まります。イエスを信じている兄弟姉妹として集まっています。そしてミサの初め、司祭はイエスの代理として集まった皆さんに言います。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんとともに」。きっと皆さんは「また司祭とともに」と答えることでしょう。そしてこのあいさつは、「主は皆さんとともに」とか、「主の平和が皆さんとともに」といういくつかの言い回しで繰り返され、念を押し、強調されています。

さらに、イエスは日曜日ごとに選ばれている福音朗読の中から私たちになすべき事を知らせます。私たちはその呼びかけを心にとめて、ミサが終わるときに「行きましょう。主の平和のうちに」という派遣の言葉を受けてもとの生活に送り出されているのです。

そうです。賢い皆さんはここではっきり気が付きました。日曜日、ミサに集まってみことばの祭儀と聖体の祭儀を執り行う私たちの中に、当時の復活の出来事が繰り返されているのです。ミサの中に復活したイエスと弟子たちとの出会いの主な点が盛り込まれているのですから、あとは私たちがそのことをどれくらい理解するかという問題になります。

はっきりと、私たちが参加している日曜日のミサの中に当時の出来事の内容を読みとりましょう。弟子たちが集まっていたところに復活した主が現れました。私たちが日曜日にこうして集まるとき、復活した主はここにとどまってくださいます。ということは、私たちが日曜日にこの礼拝の場所に集まること、これがすべての出来事の出発点ということになります。私たち皆が日曜日に集まらなければ、復活した主との出会いも始まらないのです。

次に、主は弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と挨拶します。当時の弟子たちは恐れに捉えられていました。復活した主はともにいてくださり、恐れを取り除き、平和を与えてくださると教え諭します。

同じことが、このミサの中で繰り返されます。私たちも恐れに捉えられているかも知れません。もう続けていけないとか、もう我慢できないとか、いろんな限界にぶつかっているかも知れません。そうした中で、今日皆さんと一緒に集まることができました。

さまざまな悩みをいったん横に置いて、荷物を両手から離して、賛美のために集まりました。これまで苦労して抱えていた生活の重荷をささげものとして主は受け取ってくださり、代わりに平和をお与えになります。

私たちの恐れを受け止めて、代わりに平和で満たしてくださる。復活したイエスは、今もいつも、神のいつくしみを示し続けておられるのです。当時の弟子たちに対してそうであったように、今の私たちにもいつくしみを注いでくださるのです。

平和を告げた後に続けて主はなすべき事を示します。今日の朗読では、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」と仰って罪の赦しに弟子たちを向かわせ、トマスには「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」というより個人的な呼びかけもなさいました。私たちも、日曜日ごとの福音朗読から今週なすべき事が示されるのです。

自分自身の生活をふり返るとき、今週の朗読と説教とを総合すると、私は今週どんな事に目を向けるべきか見えてきます。はじめは難しいかも知れませんが、今週私に向けられた呼びかけは何だろうと、毎週毎週考え続けるならば、しだいにその答えをいただけるようになります。

こうして考えると、週の初めにミサに参加するたびに、当時の弟子たちが復活した主との間で経験したことは、今も繰り返されているのだと分かります。私たちも復活した主と出会い、「主は皆さんとともに」「主の平和が皆さんとともに」という言葉を聞き、なすべき事が示されて生活の中に送り出されています。神のいつくしみは、ミサの中で、復活したイエスを通して永遠に続くのです。

今参加しているミサ、今目の前で行われていることを私たちがよく理解すれば、ミサはイエスが復活された当時を再現するものだと、信じることができるのではないでしょうか。そこまで出来事を読み解くことができたなら、その時こそ私たちは「見ないで信じる人は幸い」と呼ぶにふさわしい者になるのです。


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ちょっとひとやすみ
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▼土曜日、久しぶりに会う青年(女子)が教会を訪ねてきた。1999年の夏にイスラエル巡礼に参加(ずっと2000年と思っていたけど、1999年だったのね)していたメンバーのひとりだ。その人は、今年校名を変更して男女共学になった大学から教会を訪ねてきますという連絡だった。そう言われたが私は首をひねった。彼女は1999年の巡礼の時にどう考えても大学生だったはず。なぜ今年2007年に、大学からですという連絡で電話してきたのか。
▼その答えは実際に会ったときに解決した。この女性が友だちと連れだってやって来たのではなかった。外ががやがやと騒がしいので何だろうと思ったら、明らかに大学生がわんさかと教会に上がってきている。その、引率らしきメンバーの中に当人を見つけたのだ。何とこの女性は、大学の教師になっていたのである。
▼教会の中を案内することもそっちのけで、久しぶりにあった当人と懐かしい話をした。巡礼に行った1999年当時のまま、変わらぬ姿に思わず「並んでいても学生とあまり変わらないでしょ」と言ったら「そうなんです」と言って笑っていた。当時の印象としては、「キャンディキャンディ」のような人だったと思うが、今は見違えるようなレディに変身していた。
▼この7年間でどんな変化が起こっているのか、想像でしかないが、かなりしっかりした目的意識を持って生活してきたのだろうという印象を持った。巡礼以後、引率した大司教は4年後になくなっているが、今でも命日近くに当時のメンバーで集まって追悼ミサをお願いしているという。忘れてはいけないものは決して忘れることなく、変わるべき目標に向かっては大胆に変わっていく姿がまぶしく思えた。
▼これは余談だが、今回のような内容を公表して、実際の関係者の目に触れたりするのだろうか。1999年当時のメンバーでこの記事を読む人、つまりメルマガの読者か、ホームページの訪問者がいるのだろうか。1人もいないとすれば、メルマガのこと、もう少し宣伝した方がいいのかも知れない。こういうものもあるよ、という提案として。

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こうじ神父絵手紙
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第75回目。その大学の先生と写真を撮っておけば良かったけど、忘れたので昔の写真。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
「復活節第3主日」
(ルカ24:35-48)
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復活の主日(日中)(ヨハネ20:1-9)復活したイエスは亜麻布に縛られません

2007-04-08 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/04/08(No.293)
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復活の主日(日中)
(ヨハネ20:1-9)
復活したイエスは亜麻布に縛られません
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復活徹夜祭の喜びの余韻がまだ残っているこの時間に、ヨハネ福音書の朗読を使って復活したイエスとの出会いを探し求めることにしましょう。朗読の中で一つの場面に注目してほしいと思います。それは、マグダラのマリアが墓に行って大慌てで二人の弟子を呼び、彼らが墓にたどり着いたときのことです。墓の中には亜麻布が置いたままになっていました。

この、亜麻布があるということ、置かれたままになっていることが何を意味しているかを考えましょう。イエスは十字架にかけられるときに、上着も兵士たちに取られ、下着さえもくじ引きにされて取り上げられたのでした。つまり、イエスは墓に納められるとき、亜麻布はイエスの遺体をくるむ大切な布だったということになります。

その、亜麻布が墓に置いたままにしていたということは、どういうことでしょうか。それはつまり、イエスは亜麻布に縛られて安置される遺体ではなくなっていたということではないでしょうか。イエスは一度死にましたが、復活されたので、亜麻布はもはや必要なくなっていた、ということになります。

もう一つ、イエスを包んでいた亜麻布が墓に残されていたということは、イエスが確かに死から解放され、復活の栄光に包まれているということです。墓の中の遺体を包む布が必要なくなったというだけではなく、イエスを死の滅びに縛り付けておくことももはや意味がなくなったということです。イエスは死の縄目に縛られることなく、復活して今は生きておられるのです。

イエスが空の墓で伝えようとしている意味を、私たちも理解しましょう。私たちはイエスの復活を信じ、ともに喜び合うために昨晩の徹夜祭のミサと今日の復活の主日のミサに集まりました。イエスは、ご自分を信じる私たち一人ひとりも復活にあずからせてくださいます。すなわち、イエスの復活を信じる私たちもまた、亜麻布に縛り付けられたままではいないということです。

イエスは、復活によってご自分が肉体の滅びからまぬかれていることと、罪の結果である死から自由であるということを示してくださいました。私たちも、いったん死ぬことは逃れられませんが、イエスを信じるなら、体の復活と永遠のいのちを希望することができます。

イエスの復活は死後のことだけではありません。この世にあっては、イエスの復活を信じる人は、自分がいつか死ぬのではないかと恐れながら生きるのではなく、信頼をもって生きることができます。復活の希望は死んでから味わうものではなく、喜びをもって生きるための力でもあるのです。

今日の祝いは、徹夜祭の喜びとはまたひと味違います。昨日は夜の暗闇がイエスの復活によって打ち払われたという意味合いがありましたが、今日、この日中に祝うことで、今度はイエスを日中を照らす太陽として理解することができます。この世界に輝く光として、人間の歩く道になくてはならない方であることをもう一度確かめましょう。この太陽の輝きを曇らせることのないように、一人ひとりの生活を神の望みにかなうものとしていきましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼復活徹夜祭はいつも何かが起こる。そして学生時代に習い覚えた言葉に戻ることになる。「典礼は、練習通りにいかないのが典礼です」。今回は「ことばの祭儀」の中で旧約聖書の朗読後に「祈願」を唱えるところを1度飛ばしてしまった。
▼188殉教者の列福はいつ発表されるのか。報道の準備をしていてもローマの発表はこちらの予想通りに行くとは限らない。結局、「ローマの言うままにすればいいのです」ということなのだろうか。こんなことを言ってはいけないのだろうが。
▼私たちは今当たり前と思っていることを当たり前としてしまうので、どうしても自分中心にものを考えてしまいがちである。パソコンでできることを手作業でしているのを見ると「時代遅れだ」と思ってしまう。けれども結局は手作業でしたときのほうが作業の仕上がりが緻密だったりする。
▼私が知らない世界ではあるが、建築士の設計図は、今でも手書きのもののほうが値段が高いらしい。そんなものかなあ、と思うけれども、そんなものなのだろう。今すべての場面でパソコンが取り上げられたらどうする?そう考えたら、私はどこかで手書き、手作りの良さをもう一度見直すことも必要かも知れない。今年の復活祭、何が言いたかったのだろうか。

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こうじ神父絵手紙
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第73回目。中学生に、復活徹夜祭のカメラを握ってもらいました。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
神のいつくしみの主日
(ヨハネ20:19-31)
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復活徹夜祭(ルカ24:1-12)一人残らずキリストの光のうちに歩もう

2007-04-07 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/04/07(No.292)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活徹夜祭
(ルカ24:1-12)
一人残らずキリストの光のうちに歩もう
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主の御復活、おめでとうございます。今日のこの日のために、聖木曜日からの三日間、典礼にずっとあずかってくださった方は、イエスが私たちのために、どこまでご自分を与え尽くしてくださったかを、よく学ぶことができたと思います。今日私は、ミサのはじめで祝った「光の祭儀」から話に入っていきたいと思います。

「光の祭儀」は、真っ暗な状態から典礼が始まりました。真っ暗な中で静かに始まったわけですが、暗闇は、金曜日に亡くなられたイエスを表しています。手元を確かめることすらできない暗闇。それはそのまま、私たちが、イエスなしには、この世を歩くことができない、早く、光であるイエスに照らしていただきたいという気持ちに私たちを向けます。

暗闇は、イエスの死を表すだけではありません。じつは私たちも、あの闇の中に沈められていました。誰も、この暗闇を破ることができない中で、イエスは光として現れて、この暗闇を払い、私たちの心を照らしてくださったのです。

今、私たちは光の中にいます。もちろん、電気がこうこうとついているのも、光の中ですが、私たちの心の中を照らしているのは、まぎれもない、イエスの光です。この光が、今日私たちに与えられたことを喜ぶのです。

朗読された福音に移りましょう。イエスがお亡くなりになった直後の、日曜日の朝の出来事でした。登場人物すべてが、暗く沈んでいました。もう少し考えると、一人ひとりが包まれていた「暗闇」は微妙に違っていて、婦人たちは沈んではいましたが、イエスの遺体に手当てをしに行こうと出かけましたから、「行動する」だけの力は残っていたのだと思います。ところが、弟子たちはもう絶望の淵に沈んでいたのか、何もする気力がありません。

婦人たちには、イエスへのかすかな希望があったので、いちばん最初にすばらしい出来事に出会いました。天使たちがイエスの復活をお知らせしてくださったのです。婦人たちは喜び、弟子たちに一部始終を話しに行きます。

弟子たちはどうだったでしょうか。かなり、まいっていたのではないかと思います。婦人たちの言葉を聞いても、それがたわごとのように思われたといっています。きっと、弟子たちはイエスと深くつながっていただけに、置かれていた暗闇も深かったのでしょう。

ここには、私たちへの教訓も含まれていると思います。今日のこの日を迎えるまでに、私たちはいろんな深さで、暗闇を抱えていたのではないでしょうか。生活に喜びがないとか、日々降りかかる問題に疲れているとか、親身になってお世話しているのに、ちっとも喜ばれないとか。いろんなことで心の闇を抱え、それを照らしてもらいたいと願って、ここに集まったのだと思います。闇の深さは、それぞれ程度が違っていたのでしょう。

けれども、イエスは、どんなに闇が深くても、光として、私たちを照らしてくださいます。今日、完全に取り去ってもらうことのできない人もいるかもしれません。実際弟子たちは今日完全に喜びに包まれたわけではありませんでした。けれども最後には、イエスの復活が、心のすべてに届き、いっさいの暗闇がなくなっていったのです。

これは、私たちへの教訓となります。この世が作り出す光は、たとえどんなにまぶしくきらびやかであっても、私たちが閉ざされている闇があまりにも深ければ、簡単には届かないかもしれません。けれども、イエスの光は、私たちの心をかならず照らし始め、最後には完全に照らし尽くすのです。

今日、一人の方が洗礼の恵みを受けます。イエスは、洗礼を受けようとしておられる方を、これから生涯にわたって照らし続ける光となって下さいます。私たちは照らしてくださる方がいなければ、闇を歩くしかありませんが、照らしてくださる方がいれば安心できます。しかもイエスは、生涯にわたって照らし導いてくださるのです。イエスを信じて歩き始めようとしている受洗者とともに、私たち自身もイエスの照らしを受けて人生を生きていくことをあらためて確認しましょう。

復活したイエスは、暗闇を照らす光として今私たちのもとにとどまっておられます。まずは私たちがこの光をしっかりと心にたずさえて、光をともし続けましょう。そして、一人でも多くの人に、このキリストの復活の光を届けることができるように、これからのミサの中で続けて願っていきましょう。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼うちの教会学校の子どもたちは優秀というのか何というのか、お手上げです。聖木曜日、夕方7時の典礼の練習のために6時半から来なさいと伝えておいたところ、5時から来て司祭館のチャイムをピンポンピンポン、1人鳴らした後は鳴らさなくてよいといくら言っても各自ちゃんとピンポンと押してやって来る。
▼侍者には2人頼んだつもりだったが、いつもやってくるメンバーが全員揃って1階の部屋で時間までは大騒ぎ。こちらは復活徹夜祭の原稿とか、復活祭の原稿とか、考えるために静かな環境で過ごしたいのに、連中は決してそれをゆるしてくれない。
▼聖金曜日、今度は12時からピンポンピンポン。何の用だとイライラしながら聞くと、「今日は3時から何かあるでしょ。だから12時から来たの」とのたまう。そう言えば、3時からは十字架の道行きだった。司祭が忘れていたところを、子どもたちが教えてくれたと言うことだ。えらいえらい。
▼3時の行事が終わり、やれやれと思っていたら子どもたちが「1度戻っても何だから、もう戻らないで7時までずっとここにいます」だって。母親に電話をかけて、「お母さん、もう賄いさんの家に今日はずっといるけんね」。賄いさんの家じゃないぞ。司祭の家だい。そんなことで怒っても、子どもはどこ吹く風。子どもには勝てないのだなぁ。

‥‥‥†‥‥‥
こうじ神父絵手紙
‥‥‥†‥‥‥
今回お休みします。

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‥次の説教は‥‥
「今週のお説教」
07/04/08(No.293)
‥‥‥†‥‥‥‥
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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聖金曜日(ヨハネ18:1-19:42)イエスは私たちに罪を問わなかった

2007-04-06 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週のお説教」
07/04/06(No.291)
‥‥‥†‥‥‥‥
聖金曜日
(ヨハネ18:1-19:42)
イエスは私たちに罪を問わなかった
‥‥‥†‥‥‥‥

今日はイエスの御死去を静かに偲ぶ一日です。イエスはご自分から進んで命を差し出されたのですが、それがどれだけ大きな犠牲なのか、私たちはなかなか感じ取ることができません。初めに、私たちの経験から、イエスの偉大なわざをいくらかでも感じ取る努力をしてみましょう。

長い長い朗読の中に自分を置いて聞いてくださった方々は、今私たちの目の前でイエスがお亡くなりになったことを感じ取ることができたと思います。朗読が私たちに投げかけていることは、イエスが当時の指導者たちの憎しみ・ねたみのために、扇動された群衆、丸め込まれた権力者によって死に追いやられたということでした。そうであれば、イエスは人々から命を奪われたのです。

人のいのちを奪ってしまった場合、私たちはどれくらいの償いが必要でしょうか?車の事故、借金の過酷な取り立てで命を奪ってしまった、あるいは憎しみに駆られて人をあやめてしまった。加害者は裁判を受け、補償をし、社会的な制裁を受け、ある時は刑務所に入ることにもなるでしょう。人のいのちを奪うとは、これほどの重大な過ちであるはずです。

さて、私たちは――もちろん直接には当時の人々ではありますが――今イエスがお亡くなりになったのを目の当たりにしました。辛い言い方かも知れませんが、イエスは人間の犯した罪を償うために命を捧げたのです。そして、教会が当時の出来事を聖金曜日に繰り返し思い起こしているということは、罪を犯す人は皆、本当は加害者なのです。イエスが死をもってすべての人の罪を償ってくださったのですから、罪がなければ、イエスが十字架にかかる理由もないのです。罪から逃れられないのであれば、私たちはやはり、責任を免れません。

人のいのちを奪った人の受ける制裁は、先に話した通りですが、大なり小なり罪を犯してしまう私たちは、イエスの命を奪った償いに、何かの補償をしたでしょうか?社会的な制裁を受けたり、刑を受けたりしたでしょうか?いっさい、そのようなことはしていないと思います。「いっさい」というのは言い過ぎかも知れませんが、罪を犯すことでイエスに十字架を担わせたふさわしい責任を、私たちは果たしておりません。また果たすこともできません。

そうです。もし正直に、私が自分の罪を認めるならば、イエスを死に追いやった、イエスの命を奪ったことも認めないといけませんし、何かの償いをしなければならないはずです。社会であれば、何も償わずにいるということはゆるされないのです。出るべきところに出て、果たすべき責任を果たしてすら、なかなかゆるしてもらえないのが現実です。

そんな大変なことをした人間に、あわれな人間に、イエスは「責任をとれ」とは仰いませんでした。御父も、「わたしの愛する独り子を返せ」とは仰いませんでした。ただ、黙ってゆるしてくださった。責任を問わず、すべてゆるしてくださったことで、イエスはすべてにまさる栄光をお受けになりました。返せ、と言えば言えなくもない。それを、反対に、ゆるして、その上に救いをもたらしてくださった。これが、神のなさり方、神が示してくださった愛なのではないでしょうか。
今日、あらためて十字架を眺め、礼拝いたします。十字架は私が罪を犯してしまったことを見せつけていると感じるかも知れませんが、同時に、神の愛を示している姿でもあるのです。磔にされているイエスは仰います。「わたしは、あなたを罪に定めない。だから、わたしが与える愛に飛び込んできなさい。わたしは今も、あなたを愛しています」。

引き続き、盛式共同祈願と十字架の礼拝に移ることにいたしましょう。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼「明日の記憶」という映画を観た。主人公は今をときめくハリウッドスター、渡辺謙。いろんな見所が詰まっているが、記憶が壊れていく過程は他人事とはとても思えない。1度目は「そのうちこうなるのかなぁ」という見方をしていたが、2度目の鑑賞では「あの場面はすでに始まっている、あのシーンはまだ自分には当てはまっていない」と、かなり深刻に観ていた。
▼いちばん恐ろしいと感じるのは、ほんの少し前の記憶が思い出せないということ。実際の体験。(1)「あのサイトをインターネットで開いてみよう」と思ってブラウザを立ち上げてみたけれども、「開いてみよう」と思ったサイトが分からなくなっている。
▼(2)住まいの二階から一階に降りるとき、「そうそう、ついでにあれを下に降ろしておこう」と思って階段を降りたのに、肝心のものを手に握らずに降りてしまっている。(3)聖木曜日に祝別された油をミサの帰りに持ち帰る、その容器は島を出発する時に当然持って行くはずだが、船に乗ったときに「しまったぁ」と思い出した。(4)「うーん、何を書こうかなぁ」とデスクチェアーのリクライニングで思いっきり背伸びしたらそのまま寝てしまい、風邪を引きそうになった。
▼こんなことはまだまだ先のことだとばかり思っていたが、すでにこうした症状に悩まされている。いつだったかの葬式ミサの中で、(5)省略されるはずの平和のあいさつを声に出して言ってしまい(「平和のあいさつを交わしま・・・うっ」)、葬儀の場であるにもかかわらず「主の平和」と危うく平和のあいさつを交わしそうになった。悲しい事実が積み重なると、十字架を背負っている気分になる。明日はどうなっているのだろうか。

‥‥‥†‥‥‥
こうじ神父絵手紙
‥‥‥†‥‥‥
今回お休みします。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活徹夜祭
(ルカ24:1-12)
‥‥‥†‥‥‥‥
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聖木曜日(ヨハネ13:1-15)主は誓われた、そして後悔しておられない

2007-04-05 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週のお説教」
07/04/05(No.290)
‥‥‥†‥‥‥‥
聖木曜日
(ヨハネ13:1-15)
主は誓われた、そして後悔しておられない
‥‥‥†‥‥‥‥

いよいよ、一年の頂点、聖なる一週間の中でも礼拝の頂点となる三日間を迎えました。イエスはこの日、御聖体の秘跡と、御聖体を取り扱う司祭職をお定めになります。私たちが司祭になってよく聞かされていた言葉は、「聖木曜日の今日は司祭のお祝い日です」という言葉でした。

さて聖木曜日は、皆さんなかなか参加はできないでしょうが、とっても大切なミサが行われます。現在は聖火曜日に日程が移されていますが、司教司式で行われる「聖香油のミサ」です。

子供のころに勉強した方々は、堅信の秘跡に用いる「聖香油」のことを習ったと思います。堅信の秘跡に用いる油は、「司教が聖木曜日に、香を混ぜて祝別したオリーブ油」です。この油と、ほかに「病者の塗油の油」「洗礼志願者のための油」というものを聖木曜日のミサの中で用意します。

聖木曜日の、司教が油を祝別するミサを「聖香油のミサ」と言ったりしますが、このミサが現在は聖火曜日に行われ、司祭はもちろん、信徒や修道者もなるべくこのミサに集まって、司教と一緒にミサを捧げるように呼びかけられています。

今年も、この聖香油のミサに与って、油を持ち帰ってまいりました。毎年この聖香油のミサの中で、司祭は司教との固い絆を確認し、司教への忠実、司祭としての忠実を約束するわけです。これから、5年前の島本大司教の説教に触れることで、聖木曜日の主の晩さんと司祭職の結びつきについて考えてみたいと思います。

5年前の聖香油のミサで、島本大司教は一つのラテン語の聖歌を引き合いに出されて、司祭職の尊さについて語り始めました。ラテン語のタイトルは、”Tu es Sacerdos”「あなたは永遠の祭司」という聖歌です。その詩の一節に、「(あなたを司祭にすることを)主は誓われた、そして後悔しておられない」という言葉があり、それを取り上げて切々と司祭職の尊さを思い起こすように、集まった司祭に諭されたのでした。

大司教が特に伝えたかったことは、次のことでした。「司祭をお選びになったのは神ご自身ですから、あなたのほうに欠点があっても、神はあなたを司祭として選ばれたことを後悔しておられません。ですから、聖木曜日にこうして集まり、司教と司祭団が一堂に会してミサを捧げる中で、尊い司祭職に招かれたことをあらためて感謝しましょう」。

大司教の説教で、これほど感心して聞いた説教はありませんでした。司祭は、常に自分の才能や、適性や、期待されていることにいくらかの矛盾を感じて生きております。自分はここまで司祭としてやってきたけれども、本当は適性がなかったのではないか、期待されていることに応えてこなかったのではないか、そもそも才能に欠けていたのではないか。

そうした矛盾や、不安や、悩みをかかえながら日々祈りの中で努力しているわけですが、大司教はそれを承知の上で、司祭一人ひとりを励ましてくださったのだと思います。「あなたをお選びになったのはイエスです。イエスは十二人の弟子をお選びになったようにあなたも司祭として選んでくださいました。イエスが、お選びになった十二人の弟子を後悔しておられないのと同じように、あなたを選んだことを後悔しておられません。あなたはイエスから愛されています」。

今日、福音書ではイエス様が弟子たちの足を洗いました。ご自分がお選びになった弟子を、まったく後悔しておられないこと、むしろ今でも、裏切りを受ける直前になってまでも、愛し抜き、後悔なさられない姿が描かれているのでしょう。

聖香油のミサに参加する司祭たちにとって、あの説教は大きな慰めになりました。また一年、司祭として新たな一歩を踏み出すために、イエスの「わたしはあなたを選んだことを後悔していない」という、その一言で十分だと思います。

そして馬込教会に戻っての聖木曜日のミサの中で12人の方の足を洗います。私にとってもあの奉仕は、司祭職という道を後悔していないと実感できるまたとない機会です。不足をあげればきりがありませんが、今年もまた、弟子たちの足を洗われたイエス様に倣って、置かれた中で真心込めて奉仕する一年でありたいと思いました。

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼興味深いサービスを見つけた。地図サービス。人工衛星から世界中を眺めるような仕組みになっていて、興味ある土地は拡大して詳しく見ることができる。それも、都市部になると洗濯物まで区別できそうなくらい詳しくなる。上空30メートルとか、そういう高さで遊覧飛行をしているような正確な地図になっている。
▼アメリカの衛星が捉えた世界中の地図が元になっているのだと思うが、こんなに詳しい写真をアメリカは自由に利用し、世界中を偵察しているのだろうかと不思議に思ってしまう。この精度の地図が公開されているのであれば、非公開(軍事目的)の衛星写真は犯人捜索や行方不明者なども空の上から見つけることができるのではないだろうか。
▼懐かしい場所を拡大してみてみた。福岡の大神学院は、上空15キロからでも緑に囲まれた土地として発見することができる。接近して周囲の住宅と比べても、その広大さは群を抜き、大学の施設と遜色ない広さであることが分かる。もちろん大学と同等の教育を受ける場所であるから、当然と言えば当然かも知れないが。
▼海外の有名な場所、例えばフランスのエッフェル塔、アメリカフロリダ州のディズニーランド、バチカンのサンピエトロ大聖堂、ロシアの赤の広場、まるで世界一周旅行をしているかのように世界各地を巡ることができる。この衛星地図を大きなスクリーンに映せば、本当にちょっとした旅行気分か。いやいや、今日は司祭の日だから司祭らしい一日を過ごそう。

‥‥‥†‥‥‥
こうじ神父絵手紙
‥‥‥†‥‥‥
今回お休みします。

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‥次の説教は‥‥
聖金曜日
(ヨハネ18:1-19:42)
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受難の主日(ルカ23:1-49)イエスにしっかりと留まる一週間にしましょう

2007-04-01 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/04/01(No.289)
‥‥‥†‥‥‥‥
受難の主日
(ルカ23:1-49)
イエスにしっかりと留まる一週間にしましょう
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今日、ミサの入祭に、枝の行列をしました。枝を振りながら行列をしたのは、エルサレムに入るイエスを喜び迎えているしるしでした。もちろん、イエスと共にエルサレムに入っていく群衆も、イエスを喜び迎えたのでした。

ところが、わずかな時間で、群衆は当時の宗教指導者たちの言葉を信用して、イエスを十字架に付けろと叫びました。枝を持って、イエスといっしょに喜びながらエルサレムに入った彼らは、なぜ短い時間でイエスを拒み、憎むようになったのでしょうか。

そこで、群衆がイエスといっしょにエルサレムに入ったときのことを考えることにしましょう。もしも、群衆が枝を手に持ってエルサレムに入ったあの時、イエスを固く信じて喜び迎えたのなら、そんなに簡単に態度を変えることはしなかったことでしょう。つまり、群衆はイエスを固く信じてはいなかったということになります。イエスにしっかり留まるほどの固い信仰を、彼らは持っていなかったのです。

群衆の表面的な信仰に対し、固い信仰でイエスから離れなかった人がいました。途中から十字架を担いで行くキレネ人のシモンと、イエスに従った婦人たちです。婦人たちは嘆き悲しみながらも、イエスのもとを離れませんでした。

私たちは、固く信じてイエスから離れなかった人々から今日の学びを得たいと思います。固く信じた人たちが、イエスのエルサレム入りの時に枝を持ってイエスに付き従ったか、はっきりわかりません。または通り道に服を敷いたかもわかりません。けれども、この女性たちはずっとイエスを離れなかったのです。

浮かれているときはイエスのそばにいて、雲行きが怪しくなると手の裏を返してイエスをののしる人々とは違って、ずっと、イエスから離れないこと。これが今日私たちの学ぶべき姿です。イエスから決して離れないという強い気持ちを、今日私たちは学び取っていく必要があります。

そこで、イエスにしっかり留まることを一つの形にして示したいと思います。私たちは今日のミサの始まりに枝を手に持ちました。枝は、イエスを喜び迎えたしるしでした。私たちもまた、イエスを喜び迎えるしるしに枝を持ったのです。

この姿を、そのまま今週一週間につなげていきましょう。私は、枝を手に持つことでイエスを喜び迎えました。この枝を、家の中の毎日目にする場所に、置いてほしいのです。毎日、この枝を見るたびに、イエスを固く信じて留まろうと思っているのか、思い出してほしいのです。

今日、お一人おひとりが手に持った枝を自宅に持ち帰ります。家に持ち帰るとき、もし手が空いているならば手に握ったまま持ち帰ってみてください。手に握ったまま持ち帰った枝は、イエスを喜び迎えたしるし、イエスにしっかり留まることを表明するしるしです。

また、今週は聖木曜日から始まる聖なる三日間の典礼も行われますので、普段以上に典礼に触れることになります。三日間の典礼に触れることは、イエスから離れないということです。生活の中で、また聖なる三日間の典礼を通して、イエスへの信仰に固く留まる一週間といたしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼日曜日はもちろん4月1日。待ちに待った4月1日。いったいどこの国の習慣か知らないけれど、エイプリルフールにだまされたーと怒らないでください。昨年からの一年で思い出せる範囲の「嘘ネタ」、それも特別ひっかかった嘘を挙げてみる。最近はかなり警戒するのでそう簡単にはひっかかってくれないが。
▼パソコン関連で。パソコンに明るくない先輩から「部屋の模様替えをするけれども、パソコンを置いた机を動かすときに、コンセントを抜いても大丈夫だろうか」と聞かれたことがあった。私はまじめに、厳粛に、「そーっと、コンセントは抜いてください」と言った。きっとまじめな人だから、音も立てずにそーっと抜いたに違いない。
▼ヒラメという魚について、「カレイとヒラメのちがい」と断って、「カレイはごはんにかけてたべますが(カレイライス)、ヒラメはごはんにかけません」と言ったこともあったっけ。まじめに聞いていたなぁ。あんなダジャレ、さらっと流してくれないとね。
▼そういえば、ヒラメにはえんがわという部位がある。最高に美味な部位で、思い出しただけでも喉が鳴る。ところがえんがわを知らない人も結構いるようで、「ヒラメには、えんがわがあるんですよ」と言ったら「ウソ!」と言うので、この人は知らないのだなと思い、「えんがわのほかにも、軒下とか、裏庭とかあるんですよ」と追加しておいた。その人が親しい友だちに「ヒラメの軒下ってどの部位?」と聞くまでは黙っておくつもり。

‥‥‥†‥‥‥
こうじ神父絵手紙
‥‥‥†‥‥‥
第72回目。枝を祝別しているところか、行列しているところです。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
聖木曜日
(ヨハネ13:1-15)
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