こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

神の母聖マリア(ルカ2:16-21)羊飼いに倣い、言葉が出来事となったと告げ知らせる

2022-12-31 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

■■YouTubeチャンネル登録はこちら■■
https://www.youtube.com/channel/UCYRgrlA29PNjJmB0gngYQqA

↓↓聖週間の説教一覧はこちらから↓↓
ご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/230101.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2023/1/1(No.1215)
‥‥‥†‥‥‥‥
神の母聖マリア(ルカ2:16-21)
羊飼いに倣い、言葉が出来事となったと告げ知らせる
‥‥‥†‥‥‥‥

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。2023年は、この田平教会聖堂についてこれまで以上に具体的な決断をし、新しい聖堂に生まれ変わるため、動き出す年になると思います。主任司祭として果たすべきことを、誠実に果たしていくつもりです。

福音朗読は、羊飼いたちが天使から告げられた言葉を頼りに、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てたところから始まっています。私たちのこの一年も、羊飼いたちの行動に倣う必要があります。私たちもついこの前、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てたばかりだからです。

羊飼いたちの働きは探し当てただけでは終わりませんでした。「その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた」(2・17)とあります。天使に告げられた言葉は確かに出来事として形になっていました。言葉が見える姿になったことを確かめた彼らは、さらに人々に知らせたのです。

羊飼いたちは人々に知らせ、「あなたがたのために、救い主がお生まれになった」(ルカ2・11)との天使の言葉がより多くの人の中でとどまるよう、力を尽くします。ここに、新しい一年を教会の門をくぐって始めようとする私たちの生き方が示されているのです。

どのように伝えましょうか。正月は、正月料理を毎年用意する家庭もあると思います。正月に家族が集まって正月料理を食べながらゆっくり過ごす。そうすると、長い時間家族団らんの楽しさが続きます。そしてその楽しさは、次の世代に受け継がれていくわけです。

かつてカトリック信者は貧しい暮らしの人が多かったわけですが、それでもお祝い日には新しい服を着せてもらい、ふくれ饅頭を作って祝ったものでした。これはお祝い日ならではの過ごし方をすることで、カトリック信者として大切に守るべきことを伝える工夫だったと思います。ここに伝えるヒントがあるかも知れません。

新しい年が始まりました。田平小教区のこれから一年の目標として、「ここに、イエスさまのところに連れていきましょう」を掲げました。黙想会でより詳しく説明したいと思いますが、まずは「わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」と理解して一年を過ごすことから始めましょう。私たちの喜びの源である幼子イエスを知っているわたしたちは、すでにすばらしい光景を目の当たりにしているのです。

救い主が、羊飼いにさえ訪ねて行くことのできる場所にお生まれになった。この神秘を知っているのは私たちキリスト者だけです。なぜみすぼらしい場所で生まれたのか知らない人に、出来事のすばらしさを知らせに行きましょう。知らせてあげた人を馬小屋に導くならもっとすばらしい。ここには、出来事をすべて心に納めて、思い巡らすマリア様が待っておられます。

私たちは一つ実現できたら、次にまた一つできることを積み重ね、そうして一年を前進させていきます。御公現までの一週間、新しく幼子イエスを訪ねに来てくれる人を見つけることができるよう、神の母聖マリアの取り次ぎを願うことにしましょう。

このあと、20歳を迎えた方の祝福式を行います。きっとこれから、人の前に出て自分の考えを述べたりする場面が増えるでしょう。イエスの仲間である皆さんが「何をどう言おうか」となったときは、三位一体の神が助けてくださいます。聖霊が言うべきことを教えてくださいます。

中田神父は、まさに成人式の時にこの体験をしました。その日は午後一時から福岡サンパレスでの成人式が予定されていました。直前に、一緒に成人式に参加する大神学院の同級生と鴨鍋を食べ、日本酒も飲んで成人式の会場に行きました。タクシーから降りた私は、明らかに酔っていました。

式典が進み、「新成人の決意表明」という案内が会場に流れました。そして案内の女性が、「新成人を代表しまして、『ナカタコウジ』さんに決意表明をお願いします」と言うではありませんか。前もって連絡ももらっていません。「大丈夫か?」と同級生も心配しています。

一分ほど、考えを巡らせました。大神学生として少しカトリックの考えを混ぜた決意表明を考え終わった頃、司会を務めていた民放アナウンサーが「ではナカタさん、お願いします」と言うと、別の「ナカタコウジ」がマイクの前に立って決意表明をしていました。

たまたま同じ名前の人がいたというオチですが、言うべきことを聖霊は教えてくださる、その体験をするには十分でした。どんな窮極の場面でも、聖霊は必ず皆さんを助け導いてくださいます。聖霊の助けを願いながら、20歳の祝福式に臨むことにしましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
主の公現(マタイ2:1-12)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼20歳の祝福式をミサの中で実施。この原稿を書いているのは12月31日だが、今や法律上は18歳で新成人となる。だから20歳は「成人式」ではなく、「祝福式」に変更となった。
▼政府の考えでは、18歳から責任ある行動を期待するのだろうが、中田神父は福岡サンパレスでの成人式で「20歳でも責任ある行動に責任が持てない」そんな気さえしている。18歳で本当に責任ある行動を期待できるものなのだろうか。
▼司祭として務め始めたとき、よく主任司祭が「おれが責任持つから、おまえがやってみろ」と背中を押してくれた。今は自分自身が、役員に「おれが責任持つから、おまえがやってみろ」と背中を押す年齢になった。一つのことを20年務めたら、責任ある行動ができるようになるのかも知れない。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第822回目。今年は「うさぎ」。この軽いノリ、受け入れてもらえるだろうか。

http://ss104313.stars.ne.jp/230101
.jpg

ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

【重要なお知らせ】ウェブリブログサービス終了のお知らせ
ウェブリブログは、2023年1月31日をもちましてサービスを終了いたします。
日頃はウェブリブログをご利用いただき、ありがとうございます。2004年3月にサービスを開始したウェブリブログは、来年2023年1月31日に終了します。


† 神に感謝 †
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

主の降誕(日中)(ヨハネ1:1-18)御子の受肉はすべてを意味あるものとしてくださった

2022-12-25 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

■■YouTubeチャンネル登録はこちら■■
https://www.youtube.com/channel/UCYRgrlA29PNjJmB0gngYQqA

↓↓聖週間の説教一覧はこちらから↓↓
ご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/221225.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2022/12/25(No.1214)
‥‥‥†‥‥‥‥
主の降誕(日中)(ヨハネ1:1-18)
御子の受肉はすべてを意味あるものとしてくださった
‥‥‥†‥‥‥‥

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」(1・14)先日、この箇所を黙想する機会を得ました。神様はなぜ、人となって、わたしたちの間に宿られたのでしょうか。全能の神様が、何か計画を果たすのに、人とならなければその無限の力を発揮できない場面があるのでしょうか。常識的に考えればそんな必要はどこにもありません。

しかし御父は、御自分の御子が人となってこの世界にお生まれになることを望まれました。神はあえて、生まれる体験と死ぬ体験をするために、人となられました。なぜでしょうか。それはひとえに、人間のためでした。すべての生きとし生けるものを救うため、すべての死にゆくものを救うため、マリアを通して人となってくださったのです。

神が人となってくださったので、私たち人間は神と関わりを持つものとなりました。神が人となって生まれてくださったので、生まれてきたすべての人が関わりを持ったのです。神は「全知全能永遠で限りなく尊く、また慈愛深いお方」です。もし神が人となってくださらなかったら、私たちの弱く不完全な特徴と、すべてに完全な神と、どこに共通点があったでしょうか。

神が、か弱さを身に受けてくださったことで、すべての生まれてきた人が繋がりを持つことになりました。寒さにこごえている幼子イエスのおかげで、全世界で寒さにこごえている人が繋がりを持つことになりました。家畜小屋の飼い葉桶に寝かされていることで、家を追われ、肌を覆う物も満足に持たない人が繋がりを持つことになりました。

神がか弱さを身に受けてくださったことがどんなに意味深いことか、数え上げればきりがありません。生まれたことすらほとんど気づかれなかったおかげで、誰にも気にかけてもらえない人、生きる意味を見失っている人が繋がりを持つことになりました。

神の独り子が私たちと繋がっているのは誕生だけにとどまりません。与えられた朗読には「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(1・11)とあります。誠実に生きても受け入れてもらえない人が、この世界にいるかも知れない。神が人となられたことで、このような人とも繋がりを持ってくださったのです。

私たちはどうでしょうか。馬小屋に足を運び、考える必要があります。私たちと、人となってくださった神の独り子とは、どのような共通点・繋がりがあるのでしょうか。「私は今、豊かである。満腹している。笑っている。すべての人からほめられている。だから馬小屋のイエス・キリストと共通点がない。」もしそうであれば、それは最大の不幸と言うべきでしょう。

か弱い姿でお生まれになったイエス。この方を受け入れましょう。受け入れるなら、私たちが弱さや限界を感じるとき、同じ姿を身に受けてくださったあなたを思い出すことができます。イエスのおかげで、私たちのどんな過酷な環境も、生きる価値がある場所となりました。ミサの終わりには、ぜひ馬小屋でしばらく祈り、感謝して帰ってください。またささやかですが、クリスマスプレゼントももらっていってください。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
神の母聖マリア(ルカ2:16-21)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼まれにしかない「日曜日に守るべき祭日」がやって来た。ちなみに一週間後の「神の母聖マリア」も日曜日。司祭にとっては「ありがたい巡り合わせ」なのだが、ただ一年後のことを考えるとそう単純に喜べない。
▼2023年12月25日は月曜日である。すると、12月24日の「主日のミサ」をして、夜に「主の降誕(夜半)」が来て、翌日に「主の降誕(日中)」が来る。三種類の違った説教が必要になる。同じように2024年1月1日は月曜日だから、23年12月31日の「主日のミサ説教」と、翌日の「神の母聖マリアの説教」が必要になる。これは頭が痛い。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第821回目。お生まれになった「ユダヤ人の王」にご挨拶するため、早速出発!

http://ss104313.stars.ne.jp/221225.jpg
ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

【重要なお知らせ】ウェブリブログサービス終了のお知らせ
ウェブリブログは、2023年1月31日をもちましてサービスを終了いたします。
日頃はウェブリブログをご利用いただき、ありがとうございます。2004年3月にサービスを開始したウェブリブログは、来年2023年1月31日に終了します。


† 神に感謝 †
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

主の降誕(夜半)(ルカ2:1-14)救い主誕生は、ごく小さな目立たない働きに宿った

2022-12-24 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

■■YouTubeチャンネル登録はこちら■■
https://www.youtube.com/channel/UCYRgrlA29PNjJmB0gngYQqA

↓↓聖週間の説教一覧はこちらから↓↓
ご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/221224.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2022/12/24(No.1213)
‥‥‥†‥‥‥‥
主の降誕(夜半)(ルカ2:1-14)
救い主誕生は、ごく小さな目立たない働きに宿った
‥‥‥†‥‥‥‥

主の降誕おめでとうございます。主の降誕夜半の福音朗読を、「救い主誕生の出来事は、ごく小さな働き、目立たない働きに宿った」このようにまとめたいと思います。お生まれになったイエスをヨセフとマリアは「布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」(7節)とあります。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」とも書かれています。こうした記述は、イエスの誕生がまったく人の目に留まらなかったことを伺わせます。

夜半の福音朗読後半では、主の天使が羊飼いに現れて、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げます。当時羊飼いは低く見られていた存在、話題に上らない目立たない存在でした。さらに天使は、「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」と言うのです。夜半の福音朗読からは外れますが、訪ねてみると、主の天使が告げたとおりの光景を目にしました。

あらためてここで考えるのは、もし当時ユダヤの人々がまことの救い主の誕生を待ち望んで真剣に探し求めていたら、遅かれ早かれ、イエスの誕生は皆に知られて、お生まれになった場所は人だかりになっていたはずです。場合によってはお金に余裕のある人が名乗り出て、「救い主をこんな粗末な場所に置いてはおけない。わたしが整えられた部屋を用意しましょう」こんなことが起こって、大騒ぎになっていたはずです。そうなっていれば羊飼いは、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」を見つけることはできなかったでしょう。

しかし現実はそうではありませんでした。訪ねていってみると、主の天使が告げたとおりの光景を見ることができたのです。つまりそれは、誰の目にも留まっていなかったということです。出来事の大きさで言えば、天地がひっくり返るほどのニュースなのに、誰の目にも留まりませんでした。そして、人から低く見られ、話題にも上らない存在である羊飼いが、救い主に最初のごあいさつをしたのです。

出来事をまとめるとこうなるでしょう。クリスマスと言われるイエスの誕生の出来事は、誰の目にも留まらないほど隠された出来事でした。そしてその出来事に最初に触れたのは、これまた人に低く見られ、話題にも上らない羊飼いでした。イエスの誕生を計画された神は、出来事が小さく目立たない働きに宿るように計らったのです。

なぜ、このような計画を神は考えたのでしょうか。ここには、「誰が救い主の誕生を認める人だろうか」という問いの答えがあります。救い主の誕生を認めることができる人は、実は小さく目立たない人たちなのです。皮肉なことですが、クリスマスにしか教会に来ない人は「クリスマスの日に目立ってしまう人」です。

そうではなく、「クリスマスの日にもあまり目立たない人」こそが、救い主に最初のごあいさつができる人なのです。ここに集まった私たちは、ほとんど目立たず、ネットで調べても見つけ出すことのできない人たちと言えましょう。まさに、救い主に最初にごあいさつをするのにふさわしい人々だと考えています。

私たちは今日、救い主を尋ね当てました。謙虚な心で待降節を過ごしてきたからです。小さく目立たない私たちだからこそ、神がご計画された最高の出来事に立ち会う喜びにあずかれているのです。救い主にごあいさつしようとしている私たちに今必要なのは知名度ではありません。むしろ、「何も誇るものがないという自覚」です。なぜなら、「救い主誕生のご計画は、ごく小さな目立たない働きに宿る」ものだからです。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
主の降誕(日中)(ヨハネ1:1-18)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼クリスマスカードを、覚えている範囲で2枚しか書いていない。1枚は、前任地の浜串からお告げのマリア修道会の志願者になっている高校生。もう1枚は、出津にある老人ホーム「マルコ園」。これだけしか書いていない。
▼もっと書くべき人はたくさんいるとは思うが、日本の習慣で年賀状の準備もしなければならない。中田神父は併せて田平に帰省する人のため、黙想会の準備もしなければならない。千手観音のように手があれば良いが、そうもいかないのである。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第820回目。クリスマスにおみやげを頂いた。下段のものはイスラエルの土産。

http://ss104313.stars.ne.jp/221224.jpg
ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

【重要なお知らせ】ウェブリブログサービス終了のお知らせ
ウェブリブログは、2023年1月31日をもちましてサービスを終了いたします。
日頃はウェブリブログをご利用いただき、ありがとうございます。2004年3月にサービスを開始したウェブリブログは、来年2023年1月31日に終了します。


† 神に感謝 †
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

待降節第4主日(マタイ1:18-24)ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい

2022-12-15 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

■■YouTubeチャンネル登録はこちら■■
https://www.youtube.com/channel/UCYRgrlA29PNjJmB0gngYQqA

↓↓聖週間の説教一覧はこちらから↓↓
ご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/221218.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2022/12/18(No.1212)
‥‥‥†‥‥‥‥
待降節第4主日(マタイ1:18-24)
ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい
‥‥‥†‥‥‥‥

12月14日、長崎教区のペトロ宮川俊行神父様がお亡くなりになり、通夜、葬儀ミサが浦上教会で執り行われました。90歳でした。長崎教区で唯一人東大卒の神父様で、大神学院では集中講義でお世話になりました。純心大学でも教鞭を執っておられたので、純心の卒業生はお世話になっていると思います。主の降誕を一週間前にした今週、宮川神父様の追悼を通してご降誕の最後の準備に充てたいと思います。

私が長崎の小神学校に入学したとき、宮川神父様は小神学校の三階の部屋にお住まいでした。部屋を出入りする一瞬だけしか、お目にかかることはありませんでしたが、部屋中に書物が積み上げられ、通路にも書物が平積みされていたのを覚えています。

宮川神父様は数々の伝説をお持ちでした。長崎東高から旧制一高、のちの東大を受験するのですが、「試験はとても難しいから、しっかり勉強して受けなさい」と先生に言われ、入念な準備をしていきました。東高に帰ると「どうだったか?」と聞かれ、「しっかり準備するようにと言うので準備したのに試験が簡単だった」と不満を漏らしたそうです。

東大を優秀な成績で終え、恩賜の時計を頂きました。同僚からは「国を大きく動かす仕事をするに違いない」と思われていましたが、司祭を目指していた宮川青年は上智大学に進みました。「東大を卒業して上智に行く必要があるのか」と問われ、「東大では学べないことを学ぶためだよ」と答えたそうです。さらにローマで研鑽を積み、1963年12月21日、司祭に叙階されました。今月21日で叙階60周年のはずでした。

宮川師の専門分野は「安楽死」を含む生命倫理でしたが、福岡の神学院時代、生命倫理以外にもさまざまな分野を教えていただき、学生がひねりにひねって考えたどのような質問にも明快に、最先端の知見を交えて答えてくださいました。ローマ教皇庁立アカデミーという世界中のカトリック神学者から最高の叡智を集めたグループがありまして、当時、アジアでただ一人そのメンバーにいたのが宮川師でした。

中田神父は伊王島の馬込教会時代に宮川神父様と個人的な付き合いがありました。どんなに優れた人でも何かしら助けを必要とすることはあるものです。宮川神父様は長らく論文の清書をワープロでしておられましたが、あるときから道具がワープロからパソコンに変わりました。しかしパソコンを十分に学ぶ時間が取れなかったようで、しばしば私に「手伝いに来てくれ」と電話がかかってきていました。

「わざわざ離島にいる私を呼び出さなくてもよさそうなものなのに」と、何度思ったことでしょう。けれども学生時代にお世話になったことを思えば、あらゆる都合を横に置いてでも手伝ってあげなければと最終的には考え、小菅町の司祭館に通って、パソコンならではの問題解決をお手伝いしました。

特に困っていたのが、ワープロは電源スイッチをいきなり切っても内容が失われませんが、パソコンはそうはいかないことでした。重要な論文の内容を消してしまったことがあったそうで、それが私を呼び出す最初のきっかけでした。他にも、ワープロ時代のフロッピー内の論文をパソコンデータに変換し、移し替えたりもしました。

宮川神父様の業績を、長崎教区、日本の教会はどのように受け継いでいったら良いだろうか。中田神父は最近そのことを考えていたのでした。神父様は、専門的な研究を志す司祭育成のため、多額の寄付を残されたそうです。中田神父は慶応大学卒ではありますが、平凡なレベルなので宮川神父様のご遺志を受け継ぐことなどできません。本当は脳みそだけ特殊な液体で生かして、今後も活躍してほしいところですがそうもいきません。何が、研究者であった神父様のご遺志に沿うのでしょうか。

1983年に宮川神父様が出版した「イエズスと共に」という本があります。聖書の13の箇所を黙想する手引書で、その中に今週待降節第4主日の福音の箇所を題材に「聖ヨセフへの崇敬」について書かれた章がありました。聖ヨセフが思い巡らしたであろうことを掘り下げて、聖人への崇敬を促すという流れです。B6版で14頁くらいの分量でした。

中田神父はこれまで、ヨセフが「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」(1・19)この箇所に明快な説明を持ち合わせていなかったのです。けれども宮川神父様の本の中に、「心もからだも神様のものとなっていたマリアを、あろうことか自分の妻としようとしていた。大変なことになるところだった。ここはいさぎよく身を引き、自分にふさわしい平凡な相手を見つけよう。」このように考えたのだろうと説明していました。深くうなずける説明でした。

さらに宮川神父様の考察は続きます。「しかしわたしが身を引いたとしても、マリアを守ることはできるだろうか?マリアと、マリアの胎の子を守るのは、わたしにしか出来ない務めではないだろうか」ヨセフの夢に現れた主の天使の言葉を思い巡らしたのです。神様の計画は、マリアにだけ課された務めではなく、マリアとヨセフとに共に課されたと。30年考え続けても解けなかった疑問に、宮川神父様は40年前に答えを示してくれていたのです。

コンピューターの世界では、「集中処理型」と「分散処理型」という方式があります。日本が誇る「富岳」は集中処理型ですが、計算内容によっては世界中のごく普通のパソコンユーザーが協力したときのほうが「富岳」よりも早く結果を導くことがあるそうです。

宮川神父様は例えて言えば「富岳」でした。しかし司祭は世界中にいて、聖書を学び、黙想し続けています。長崎教区の全司祭が聖書を学び、黙想し続けるなら、いつか宮川神父様の業績を、分野によっては引き継ぐことができるのではないか。中田神父はそのように考えました。

長崎教区に教区司祭はまだかろうじて100人おられます。一人もサボらず、分散してミサ説教のために朗読箇所を学び、黙想し続ける。一人もサボらなかったら、宮川神父様一人の業績は超えるかも知れません。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
主の降誕(夜半)(ルカ2:1-14)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼宮川神父様が上智大学時代の話。一緒に学んでいた学生に堤好治師(2022年没)がいた。堤学生は宮川学生にこう言った。「勉強ばかりしていたら体がもたない。わたしが『ラジオ体操』を教えるから毎日欠かさずしなさい。」宮川学生はこの教えを忠実に守り、毎日ラジオ体操をした。
▼のちに堤神父様が浜串小教区時代に学生時代の話を聞いた。「君たちは宮川神父様がどれだけ優秀かを知っているだろう。わしはその宮川神父様にラジオ体操を教えた。だからわたしは宮川神父様の先生と言える。」それを誇らしげに話していたことを懐かしく思いだした。中田神父もその意味では、パソコンを教えた「先生」と言えなくもない。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第819回目。新しい「ミサ儀式書」に刺繍入りのリボンを付けてもらった。感謝。

http://ss104313.stars.ne.jp/221218.jpg
ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

【重要なお知らせ】ウェブリブログサービス終了のお知らせ
ウェブリブログは、2023年1月31日をもちましてサービスを終了いたします。
日頃はウェブリブログをご利用いただき、ありがとうございます。2004年3月にサービスを開始したウェブリブログは、来年2023年1月31日に終了します。


† 神に感謝 †
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

待降節第3主日(マタイ11:2-11)イエスは私たちに「新しい景色」を見せてくださる

2022-12-10 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

■■YouTubeチャンネル登録はこちら■■
https://www.youtube.com/channel/UCYRgrlA29PNjJmB0gngYQqA

↓↓聖週間の説教一覧はこちらから↓↓
ご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/221211.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2022/12/11(No.1211)
‥‥‥†‥‥‥‥
待降節第3主日(マタイ11:2-11)
イエスは私たちに「新しい景色」を見せてくださる
‥‥‥†‥‥‥‥

今月、日本中がサッカーで沸きました。中には「ブラボー」と叫んで、はしゃいだ人もいるでしょう。「新しい景色を」という合言葉のもとに、選手達は懸命に努力してくれました。応援もしました。クロアチアとの一戦は夜中の放送でした。観た人は相当眠かったはずです。

「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」(11・11)洗礼者ヨハネは、救い主とはこのような姿だろうという予想を持っていました。予想していた姿と、耳に聞く姿とが違っていれば、確かめたくなります。洗礼者ヨハネは弟子をイエスのもとに送ります。

「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」(11・3)遣わした洗礼者ヨハネの弟子たちが「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」(11・4)と告げられたことは、見たことのない「新しい景色」だったのでした。

遣わした弟子から「新しい景色」を聞く洗礼者ヨハネは、態度を決める必要があります。思い描いていた救い主の姿を見ることができなかったのでイエスを諦めるのか、思い込みを捨てて「新しい景色」に自分を委ねるか、決断が必要でした。最終的に洗礼者ヨハネは、「新しい景色」に身を委ねる決断をします。のちにヘロデの妻ヘロディアの策略で命を落とすことになりますが、その時にはすでに、まだ見ぬ「新しい景色」に思いを馳せていた。私はそう考えています。

思い込みを捨てて、「新しい景色」に自分を委ねる。この態度は今まさに私たちに求められていると思います。それは「新しいミサの式次第」です。司式者も会衆の皆さんも、まだ戸惑いながら唱えています。最近の中田神父で言いますと、聖体拝領の招きでつい「神の子羊の・・・」と言ってしまいます。このたびの変更で「世の罪を取り除く神の子羊」をまず言わなければなりません。

先週の説教の続きで言えば、私は平日に何か追加でしなければなりません。ただ、私のことを棚に上げて言いますが、「言い間違えた人はその回数だけ平日のミサに来なさい」と先週言いましたが、一人も来ませんでしたね。「主任司祭が忠告しても誰も見向きもしなくなったら、そろそろ教会を異動すべき合図だ」と、先輩が言っておりました。

ともかく私たちは「新しい景色」を見る機会を与えられたのです。「昔が良かった」との思いを横に置いて、ミサの中で私たちを招いておられるイエス・キリストに信頼しましょう。神様は私たちに、新しいミサの式次第で、人生の中でベスト8に入るミサを見せてくれるはずです。

考えてみてください。田平教会の馬小屋に、幼子イエスは、両手を開いた姿で現れます。まるで司教様が「平和がみなさんとともに」と招いているかのようです。それに対して私たちはどう答えるのでしょうか。「またあなたとともに」と、当然答えるべきではないでしょうか?

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
待降節第4主日(マタイ1:18-24)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼「新しいミサの式次第と奉献文」を使い始めてから2週間が経過した。相変わらず、気を緩めるとあちこちで間違って唱える。大司教が主司式をした平戸ザビエル祭、手もとに信徒用の冊子を持って共同司式をした。理想であれば、手もとに何も持たずにささげたい。
▼老人ホームでのミサとか、病人の聖体訪問とか、何より葬儀についても、一冊の本でまかなえないので司祭も信徒も苦労している。正式に儀式書が出るとき、当然葬儀の儀式書や結婚式の儀式書、ほかの儀式書も新しくする必要があったのに、その点についてどのように考えていたのかの意見も聞くことができない。もっと、風通しを良くしてもらいたい。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第818回目。可能なら、馬込小教区時代にお世話になった賄い坂田さんの納骨式
http://ss104313.stars.ne.jp/221211.jpg
ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

【重要なお知らせ】ウェブリブログサービス終了のお知らせ
ウェブリブログは、2023年1月31日をもちましてサービスを終了いたします。
日頃はウェブリブログをご利用いただき、ありがとうございます。2004年3月にサービスを開始したウェブリブログは、来年2023年1月31日に終了します。


† 神に感謝 †
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

待降節第2主日(マタイ3:1-12)今年のクリスマスと来年以降のクリスマスを待つ

2022-12-03 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

■■YouTubeチャンネル登録はこちら■■
https://www.youtube.com/channel/UCYRgrlA29PNjJmB0gngYQqA

↓↓聖週間の説教一覧はこちらから↓↓
ご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/221204.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2022/12/4(No.1210)
‥‥‥†‥‥‥‥
待降節第2主日(マタイ3:1-12)
今年のクリスマスと来年以降のクリスマスを待つ
‥‥‥†‥‥‥‥

待降節第2主日、洗礼者ヨハネが登場します。彼は「悔い改めよ、天の国は近づいた」(3・2)と呼びかけます。しかし4章17節ではイエスも、宣教活動の初めに「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言っています。どこをどう見ても、違いは見られませんでした。念のため別の言葉で読み比べても、違いは見つかりませんでした。今年の待降節第2主日、違いのないところに違いを見つけることにしましょう。

「悔い改め」は、罪な生活から離れて、生き方を神に向けるということです。「罪な生活は送っていない」とお考えでしょうが、自分により頼む生き方、この世のものにより頼む生き方は、突き詰めると「罪な生き方」なのです。

ファリサイ派の人々、サドカイ派の人々は「我々の父はアブラハムだ」と考えていましたが、ここには血筋という、この世の要素が透けて見えます。アブラハムの子孫だというだけでは、神に正しいと認められないのです。むしろ、生活を神に向き直らせることが大切なので、その点では群衆、徴税人、兵士、遊女達のほうが真剣に悔い改めの実を結ぼうとしました。

さて違いを見つけるとっかかりとして、洗礼者ヨハネは「天の国は近づいた」と伝えるけれども、「天の国」についてどんな国なのかを示すことができなかったのです。ここがイエス様との違いです。イエスも「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言いますが、洗礼者ヨハネと違って「悔い改めの生き方とは、わたしの生き方のことです」「天の国とは、神であるわたしの支配が及ぶその日のことです」と、はっきり言うことができました。

洗礼者ヨハネが促す準備は、自分を荒れ野に導いた聖霊によるものです。イエスが「悔い改めよ、天の国は近づいた」と促す準備は、誰にも寄り頼むことなくご自身から出ていました。告げ知らせる言葉に一字一句違いがなくても、洗礼者ヨハネが告げる場合とイエスが告げる場合とでは大きく違うことが感じ取れたでしょうか。違いのないところに、違いを見つけることができたでしょうか。

ここまでの話を踏まえて、皆さんに聞きたいことがあります。中田神父が「今年のクリスマスと来年以降のクリスマスの違いは何ですか?」と聞かれたらどう答えるか考えてみてください。「今年のクリスマスも来年以降のクリスマスも同じでしょう」と考えますか?私は近い将来、今年のクリスマスが見納めになるだろう、という考えを持っています。

なぜそう言うのかは、言わなくてもお分かりでしょう。この田平教会聖堂で、来年以降にクリスマスが迎えられない可能性があるからです。すぐ一年後とは断言できませんが、必ずその日はやって来ます。すると、同じクリスマスの準備で良いものでしょうか?例年のクリスマスの準備とは違う何かが必要ではないでしょうか。

例年、脇祭壇を使った馬小屋でクリスマスをお迎えしてきました。しかし今年は、脇祭壇を使った馬小屋がなくても、クリスマスを迎えられる。その心の準備をしておきましょう。クリスマスのその日は、主任司祭が御子様を抱いてこの聖堂の通路全体を使って行列します。電気を落とした中で、聖堂ならではの荘厳さがあるわけですが、その荘厳さがなくても、クリスマスを迎えられる。その心の準備が今年は必要です。

今年のクリスマスで目にしたものの多くが、近い将来取り上げられるかも知れません。それでもクリスマスを揺るぎなく迎えられる。その自信というか確信を得るためには、今年、内面の準備がより重要になってくる。中田神父はそう思います。

幸いに、神の御子は人が誕生するときに期待できるものを何一つ与えられずにお生まれになりました。仮に私たちが、田平教会聖堂で期待できるものを取り上げられたとしても、神の御子は何もないところに、すべてを与えるためにおいでになります。これからどうなっていくのか、見えない中にはっきりと生き方を神に向ける姿を見せようとおいでになります。「わたしをごらん」と招くために、すべてを取り上げられても私たちのもとにおいでになるのです。

そのことを頭に置いた上で、今年のクリスマスの準備を進めましょう。今年の待降節は、今年のクリスマスのためだけの待降節ではありません。同じ準備で、違いを見つけられる年にしなければなりません。来年以降のクリスマスのために、何もないところにすべてをお与えになる神の御子を焼き付けるための時間としましょう。

洗礼者ヨハネは今の時代の人々をイエス様がいよいよ導かれるその時に向けていきました。そのように、私たちは今年の待降節を、見えるものが取り上げられても揺らぐことのない信仰を育てる待降節としましょう。神は、何もないところに、すべてを与えることのできるお方なのですから。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
待降節第3主日(マタイ11:2-11)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼急に寒くなった。体が硬く、体温を維持できない。暖房に頼り、洗濯物を外に干すのもおっくうになる。今年の冬は寒い冬となり、寒いクリスマスとなるのか。
▼最近、肌着などに「賞味期限・消費期限」があるかも知れないと思えるようになった。温かく保つ技術を施した肌着が、機能を発揮していないように思えるからだ。買い直すことに。買い直せば良いというものでもないだろうが、有意義な買い物だったと思う。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第817回目。YouTubeチャンネルに動画をアップしている様子。

http://ss104313.stars.ne.jp/221204.jpg
ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

【重要なお知らせ】ウェブリブログサービス終了のお知らせ
ウェブリブログは、2023年1月31日をもちましてサービスを終了いたします。
日頃はウェブリブログをご利用いただき、ありがとうございます。2004年3月にサービスを開始したウェブリブログは、来年2023年1月31日に終了します。


† 神に感謝 †
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする