こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

聖霊降臨の主日(ヨハネ15:26-27;16:12-15)聖霊はイエスをあますところなく教える

2012-05-27 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/05/27(No.593)
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聖霊降臨の主日
(ヨハネ15:26-27;16:12-15)
聖霊はイエスをあますところなく教える
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聖霊降臨の主日を迎えました。イエスによって約束された弁護者、真理の霊が、聖霊です。特に今年は、真理の霊と呼ばれていることに触れて、聖霊について考えたいと思います。

弟子たちはイエスに選び出されてから、3年間イエスと生活、行動を共にしました。その間、聖霊を送る約束はいただいていましたが、実際に聖霊が注がれるのはイエスが御父のもとに昇ってからでした。

今になって思うのですが、イエスはなぜ、ご自分が弟子たちと共におられた時に、聖霊を弟子たちに送らなかったのでしょうか。別の箇所では、「わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」(ヨハネ16・7)とあります。イエスのこのような言葉を重ねて考えると、やはりイエスがおられるあいだは、聖霊を送る時ではないということになります。

そこでわたしが考えたのは、聖霊はイエスと別の何かを教えるものではない、聖霊は、御父とイエスのことを教えてくださる霊なのだ、ということです。聖霊がイエスのことを余すところなく教えてくださるのであれば、目の前にイエスがおられるあいだは、「イエスとはこのようなかたである」という弁護者は必要ないわけです。目の前にイエスがおられるからです。

ここで聖霊のもう1つの呼び名、「真理の霊」について考える必要が出て来ます。「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(16・13)とあります。では「真理とは何か」が問われるのです。それはつまり、イエスとはどのようなおかたであるか、ということです。

今回の説教で参考にした材料から、4つの特徴を取り上げます。1つは、イエスは神の愛を人々にすべて示しました。弱い立場の人に対して、病気の人に対して、悲しみの中にある人に対して、神が人間に注ぐ深い愛のすべてを示してくださいました。

2つめに、イエスは交わりをもたらすかたでした。神が、人となってくださったことは、神が人間に交わってくださった何よりのしるしでした。イエスは罪人と呼ばれる人とも交わり、すべての人と交わりました。

3つめに、イエスは永遠のいのちを与える方です。「子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです」(17・2)とあります。イエスを信じる者すべてに、永遠の命を与えてくださいます。

4つめとして、イエスは祈るかたでした。大切な決定をなさるために、朝早く、一人静かな場所に行って祈りました。受難の場面を目前にして、苦しみもだえながら祈りました。十字架の上でも祈りました。こうして御父に祈ることで、御父の望みに忠実であり続けました。

聖霊は、イエスのこの4つの特徴を、弟子たちに忠実に教えてくださる霊なのです。真理、そのすべてをわたしがとらえたわけではありませんが、イエスの真理の4つの特徴を、聖霊は余すところなく弟子たちに教えてくださるのです。

4つ、もう一度確認しますと、神の愛を示し、交わりをもたらし、命を得させ、御父に祈るということです。イエスが生きられたように、わたしたちの信仰生活を導くために、今聖霊がわたしたちに注がれます。わたしたちはイエスの4つの特徴を、聖霊によっていつも教えてもらうことができます。あたかもイエスがそこにいるかのように、教えてもらえるのです。

特に堅信の秘跡を準備している皆さんに、この聖霊の恵みを願って欲しいと思います。堅信を受けようとしている皆さんが、イエスが生きたように、この時代の中で生きていく。そのための助けが、与えられるからです。

特に、証しをする力を願いたいと思います。「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」(15・27)わたしたちは何をどうすればよいのか、ほとんど分かっていません。どうすれば、イエスを知らない人々が、「あなたの信じている神について、わたしにも教えてください」と近づいてきてくれるのか、ほとんど分かっていません。

カトリック教会が2000年の長きにわたり、受け継がれている一方で、教会は完全に一つではなく、分かれています。どうすれば一致できるのか、ほとんど分かっていません。

今信仰の大切さを理解している人が何とか教会を維持していますが、次の世代が同じように維持してくれるのか、ほとんど分かりません。さまざま、難しい状況が存在します。そんな難しい中で、もっとイエスそのものを聖霊に悟らせてもらい、証しによる実りが与えられるよう、このミサの中で恵みを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
三位一体の主日
(マタイ28:16-20)
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ちょっとひとやすみ
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▼どうしたことか、去年8月に交換したケータイ電話が不調で、ひんぱんに電源が落ちて困っていた。そこで、再度ドコモショップに行ってケータイ電話を交換することにした。また5000円分のポイントが消えた。修理という方法もあったが、修理も4700円かかるらしく、それなら交換してくれと頼んで、交換することに。
▼この文章を書いているうちに、その交換用ケータイが届き、急いでデータの移行をしている。説教を書くタイミングにこんなトラブルだから、本当に困ったものだ。うまくデータは移行できたが、細かい設定や、おサイフケータイ絡みは自分で引き継ぎの作業をしないといけない。面倒だ。
▼初めショップで相談した時、「修理と同じ4700円くらいで、この場で交換できる機種はないの?」と尋ねたら、「あります」というので「どれ?」とさらに聞くと、「いろんなサービスや割引を組み合わせて、スマートフォンなら交換可能な機種があります」と言われたが、上五島ではほとんどメリットがないので、そこは思いとどまった。
▼ケータイ(スマートフォン)がほぼ国民の2人に1人行き渡った。ケータイを持たないのは乳幼児と修道者くらいか。修道者も最近は持っている人もいるので、乳幼児だけだ。こんなに広まって、通信業者は定期的にお金が入って、さぞ笑いが止まらないだろう。
▼過ぎた週に葬儀を依頼されて長崎市外海町に出かけたが、親戚の修道女から「あなたのお母さん、ケータイ持ってるの?」と聞かれ、かえってビックリした。最近の孫を抱えた祖父母は、ケータイどころかパソコンも駆使して、孫と通信している。
▼修道女はそのことを知らなかったらしい。そんな時代遅れの生活をしている人種が、ある意味幸せだなぁと感じた。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第200回目。もう200回になったの?葬儀ミサの様子。
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主の昇天(マルコ16:15-20)あなたの中の喜びを宣べ伝えなさい

2012-05-20 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/05/20(No.592)
‥‥‥†‥‥‥‥
主の昇天
(マルコ16:15-20)
あなたの中の喜びを宣べ伝えなさい
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浜串教会の3人の小さなマリアさまは、火曜日の夕方5時のミサに来て、休まず侍者をしてくれています。小学1年生が1人、小学2年生が2人の合計3人の小さなマリアさまたちです。夕方5時のミサと言っても、それより1時間前から教会で要理を受け、その後ロザリオの先唱をして、それからミサの侍者を務めてくれています。

今年は、本人たちが3人で喜んで侍者をしているので3人のままで侍者をさせていますが、この3人のうち、教育係の2年生2人は、熱心さのあまり侍者をしている間も1年生に声を出して指導をしておりまして、いろんな声が足もとで聞こえております。

たとえば、杯のカリスにぶどう酒と水を司祭が入れる時は、容器のとってに司祭が指を入れてぶどう酒と水を入れますから、とっての部分を司祭に向けて差し出す必要があります。1年生はまだそこまで理解していませんので何気なく容器を持っているわけですが、「そうじゃなくて、指を入れるところを神父さまに向けるの。違う違う。」おー厳しい指導だねぇと思いながらそのときは様子を見ております。

鈴を鳴らす場面になりますと、まぁ多少タイミングが遅れたりすることは十分予想できるわけで、そういうときに「ほら、今鈴を鳴らして」と指示が飛ぶのは分かるのですが、「もっとていねいに鳴らして」と、ていねいさまで細かい指示が飛んだのには驚きました。わたしは一度も「ていねいに鳴らしなさい」と言ったことはないのですから、どこでそんなことを覚えたのだろうと面白かったり驚いたりしております。

ただ問題は、司祭もミサをささげるのにはリズムとか調子があるわけで、足もとで教育係の指示が飛んでいる中で、気を散らさず、唱える言葉を間違わずにミサを進めていくのは実に至難の業です。たまには唱える言葉が思い出せなくなったり、途中まで唱えていて真っ白になってもう一度最初から唱え直したりして、司祭のほうも自分のリズムを守ろうと必死に闘っていたりするわけです。

わたしはここに至って、この小さなマリアさまたちは小さな子どもなりに福音宣教をしているのだなぁと思うようになりました。今週は主の昇天の祭日で、選ばれたマルコ福音書の朗読箇所には、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(16・15)というイエスのご命令が響いています。ただし、イエスの言葉からは、福音として何を宣べ伝えなさいと言っておられるのかは見えてきません。

たとえばマルコ福音書が書かれたのと同じ時期、パウロは地中海沿岸で宣教活動をしていたのですが、パウロははっきりと「十字架のイエスを宣べ伝える」という使命を意識していました。コリントの信徒への手紙Ⅰ第1章18節には「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」とありますし、ガラテヤの信徒への手紙第6章14節には、「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。」とあります。

パウロは、十字架のイエスを徹底して宣べ伝えようとしました。それと比較すると、マルコ福音書からは、福音として何を、伝えるべきなのか見えてこないのです。

でも大丈夫。浜串教会の小さなマリアさまたちは教えてくれています。祭壇のそばでお仕えする喜びを、新入生に教えようと身振り手振り、声を大にしています。主任司祭を通してイエスさまが教えてくださった、祭壇に使える喜びを生き生きと伝える。それが、小学2年生の小さなマリアさまたちにとっての福音宣教なのです。

今、1つの例を挙げました。イエスは誰か手伝ってくれる人を通して、イエスを信じる喜びを全世界に行って宣べ伝えることを願っているのです。何を伝えるかは、それほど問題ではありません。自分が、イエスを信じたことで体験した喜び、イエスに結び合わされて味わった支えや励まし、安心感などを伝えて欲しいのです。

その際、上手下手も関係ないのだと思います。わたしたちは、イエスを信じたことでイエスの弟子となりました。イエスは天に昇って、弟子たちを使って働きます。弟子たちが自力で結果を出すのではありません。あくまでも、弟子たちを使ってイエスが働くのです。ですから、わたしたちはイエスに使ってもらうだけでよいのです。上手でなくても、上等でなくても構わないのです。

「ていねいに鈴は鳴らして」と、わたしが教えてもいないことまで付け加えて侍者の喜びを伝えた小さなマリアさまたちを見ていると、この子たちを通してイエスが働いていることは十分伺えます。教育係の2人の中でイエスが働いて、成長してそのように言ったのではないでしょうか。

「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」(16・17-18)これらのしるしは弟子たちの中でイエスが働いているからこそ可能になります。

わたしたちは、しるしができなければ福音を宣べ伝えることはできないのではないか、しるしがなければ福音を宣べ伝える資格がないのではないかと恐れる必要はありません。わたしたちに、イエスを信じたことで喜びを体験したなら、十分です。

体験したことを、宣べ伝えましょう。必要があれば、あなたの中で働くイエスが、しるしを伴わせてくださいます。あなたの中に伝えることのできる喜びがあるうちに、出かけて行くことにいたしましょう。

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‥次の説教は‥‥
聖霊降臨の主日
(ヨハネ15:26-27;16:12-15)
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ちょっとひとやすみ
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▼ついにと言うか、とうとうと言うか、アップルのiPadを購入してしまった。たいてい新しい物好きなので興味はあったのだが、今回は半年くらい前から「買って、使いこなせるだろうか」「いやいや、アップルの宣伝に乗せられてないか」と、ずいぶんためらった挙げ句に購入した。
▼購入理由もはっきりしていた。さまざまな資料を持ち歩くためである。PDFにまとめたお知らせ、説教案を練るための資料、要理のテキスト、書きかけのワードやエクセルの文書、マリア文庫に届けている朝礼の動画、個人的に出先で楽しみたい動画、とにかくいろんなものを持ち歩くためである。
▼目的ははっきりしていたのだが、実物はやけに不親切で、あーこうやって使うんだなと分かるまで30時間くらい要した。Windowsパソコンを20年近く使っているのだから、ちょこちょこっと触れば使えるようになるのだと思っていたが、そうは問屋が卸さない。使い方は、自分で身につけてねとばかりに、分厚いマニュアルもなければ、ガイドのDVDもなかった。
▼仕方なく、触れる部分をいろいろ触ってみた。最初は「この野郎」と思ってたたき割ってやろうかと思うほど悪戦苦闘した。30時間が経過して、今になってみると、シンプルで直感的な操作方法は、いかにも洗練された、こだわり抜いた逸品だと分かる。よくたたき割らなくてよかったと思う。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
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第199回目。よくこんな薄い物の中に、ノートパソコン並みの機能が入るものだ。
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復活節第6主日(ヨハネ15:9-17)イエスの掟を世界に告げ知らせる

2012-05-13 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/05/13(No.591)
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復活節第6主日
(ヨハネ15:9-17)
イエスの掟を世界に告げ知らせる
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今週復活節第6主日の福音朗読はヨハネ15章の9節から17節になっていますが、そのうちの12節から17節が、2日前の金曜日の福音朗読に選ばれていました。木曜日から金曜日というのは中田神父が福見教会の司祭館に泊まって朝を迎える、そういう時間の過ごし方をしている日です。

具体的には、木曜日夕方5時半に福見教会でミサをして、6時過ぎからの小学生高学年のけいこを終えて、晩ご飯食べたらいろいろ持ち込んだ仕事や趣味をごそごそして、眠りに就くわけです。

さてこの前の木曜日から金曜日のことをなぜ取り立てて話しているかと言いますと、実は金曜日の朝ミサに寝坊しまして、ミサが始まる時間に誰かが司祭館のチャイムを鳴らしてようやく起き上がり、ミサをささげに行ったのです。

福見教会に泊まる時は、わたしのケータイの目覚ましは2回に分けてセットしたものが鳴り出すことになっています。1つは5時15分、たいていこれでは起きませんが、もう1つの5時30分ではさすがに飛び起きて準備をしています。司祭館から香部屋まで10mもありませんから、起きさえすればすぐに行くことができます。

ところがこの前は、2回の目覚ましにまったく反応できませんでした。福見教会は5時35分に教会の鐘も鳴ります。わたしのベッドから10mという至近距離でけたたましく鐘が鳴ったはずなのに、その鐘にさえもまったく反応せず、寝込んでいたのです。

それでも、5分前に誰かが鳴らしてくれたチャイムにはビックリして起きまして、申し訳ない思いでミサを始めました。福音のあとの短い説教も、ふだんは少しくらいは準備をするのですが、準備もなく福音朗読に向かったのです。

わたしが言うのも変な話しですが、神さまはいますね。絶対にいます。福音朗読のあとの説教は、準備して話しをする時よりもよほどまともなことを話していました。自分で話しながら、「なるほどなぁ」と思ったくらいです。そういうことで、金曜日に話したことをもう少し膨らませて、今週の福音の学びとしたいと思います。

選ばれた朗読の中で、イエスの次の語り掛けに注目しました。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(15・12)

イエスは掟を弟子たちに示しました。「掟」ということばは、日本語では「社会の定め、決まり」という意味ですが、聖書の世界での「掟」は、神が人間に与える指示、イエスが弟子たちに与える指示という意味があります。人間の掟を破っても、人間として生きることはできますが、神の掟、イエスの掟を破れば、人間は神との絆、イエスとの関わりを失ってしまい、霊的に死んでしまうのです。

すると、イエスが弟子たちに「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」と仰ったのは、たいへん重いことなのだと分かります。互いに愛し合う生き方をしなければ、わたしたちは神との絆、イエスとの絆を失ってしまうのです。

人を、愛する相手として見ること。わたしは、この見方が他のどんな見方よりも人を価値あるものとして見る生き方だと思います。わたしたちはこの世界の人々をいろんな見方で見ています。見知らぬ人、知り合い、友人、親戚、兄弟、家族などです。

その人をどう見るかで、わたしたちは接し方も変えています。見知らぬ人には、それほど親身になることはありませんが、兄弟や家族には、最後まで心配したり面倒を見たりするのです。その中で、愛する人への接し方がいちばん相手を大切にします。イエスは、互いが互いを、愛する人として接する。これを掟として残しました。

それは、人を、最も価値ある見方で見なさいという招きでもあるのです。いちばん相手を大切にする見方、いちばん相手を価値あるものと見る見方を、わたしたちに求めているのです。

実際、イエスさまがそのようにわたしたちを見てくださいました。ある時ファリサイ派の人が、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。」(ルカ7・39)という場面がありました。イエスはこの時も、女性をいつものように価値ある人として見てくださいました。

また神殿でファリサイ派の人が祈った時も、「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。」(18・1)と言いましたが、イエスは徴税人を価値あるものとしてくださいました。イエスさまの模範に、わたしたちは謙虚に見倣う必要があります。

わたしたちの生活を振り返ってみましょう。誰か自分よりも劣る人を心の中に置いて、わたしはあの人よりはましだと、自分を慰めてはいないでしょうか。イエスは違う生き方を求めています。あなたが、自分より劣ると思っているその人を愛してあげなさい。自分よりも劣るのではなく、最も価値ある人として接しなさい。そう呼び掛けるのです。

イエスの呼び掛けは守れる人は守ってくださいという呼び掛けではありません。払える人は払ってくださいという指示ではありません。すべての人が、神との絆を失わないために、神の愛にとどまって生きるために、イエスが求めている指示なのです。

わたしは、毎日の生活の中で接しているいろんな人をどのように見ているのでしょうか。いちばん価値のある見方、その人を愛するという態度で、接してみましょう。今までは見落としていたその目の前の人の価値、良い所が発見できるでしょう。そして互いに愛し合う生き方を選ぶなら、わたしたちはイエスと心を通わせる友となれるのです。

今週は、世界広報の日でもあります。イエスが自ら模範を示し、掟として与えた互いに愛し合う生き方、相手を最も価値あるものとして接する生き方を、生活の中で証しして、世界にイエス・キリストを告げ知らせる者となれますように。このミサの中で力を願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
主の昇天
(マルコ16:15-20)
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‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼とても長いが、1991年11月4日、聖スルピス大神学院(現日本カトリック神学院福岡キャンパス)での召命の集いの説教全文を紹介する。説教のタイトルは「イエズスさまみっけ!」
▼むかーしむかしのそのむかし。かくれんぼが遊びのなかでいちばん人気のあった時代がありました。かくれんぼをするときは、最初に場所を決めてしまいます。「隠れるところはここからここまで!」そして鬼を一人決めたら、ほかの人はすぐ隠れます。「もーいいかい」「まーだだよ」「もういいかい」「もういいよ」。みんながそう言ったら、さっそく探しにいきます。そして、見つけたら、こう言います。「太郎君みーつけた」。
▼隠れているときは、ものすごくドキドキします。「ぼくは、すぐに見つかってしまうんじゃないかな。でも動いたときに見つかったら困るなぁ」。ときどき、自分が隠れたところに、ほかの友だちが来ることもあります。「困ったなぁ、あっちに行ってくれないかなぁ」。神学生は、自分の息が鬼に聞こえてるんじゃないかと思って、「はーっ」と息を止めたりしました。でもきつくなって、はぁはぁ息をしていたら、見つかってしまったことがあります。「コージ君みーつけた」。
▼いつも、鬼のことが気になっているから、かくれんぼは面白いんですね。もう見つかるんじゃないか、まだ大丈夫かな、ちょっとほかのところに行ってみようか、でも見つかるかも知れない。ぼくと、鬼になっている人の気持ちが、どこかでつながっている。だからスリルがあるし、ドキドキするわけです。
▼鬼になっているほうはどうでしょうか。鬼も、どこにみんなが隠れているか、頭をひねって考えます。ものかげに隠れているかな。あの木のうしろにいるのかな。鬼も、近づくときはそーっと行かないといけません。あー、いるいる。あの木の陰にいるぞー。見つからないように、そーっと近づいてぇ。「みーつけた」
▼鬼も、隠れている子に気がついて、「いまから見つける」というときはわくわくします。やっぱりこれも、鬼と、隠れている子の気持ちが、つながっているから、スリルがあるし、わくわくするんだと思います。
▼今日読まれた、イエズス様のお話に入りましょう。イエズス様はぶどうの木のたとえ話をして、弟子たちにこんなふうに呼びかけました。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」。イエズス様の呼びかけは、わたしたちにとって何よりも大切なものです。それはどうして?それは、イエズス様が言っている通り、呼びかけにわたしたちが応えれば、わたしたちはすばらしい実を結ぶからです。すばらしい実って、いったいどんなものなんでしょうか。
▼「すばらしい実」というのは、みんなが、イエズス様につながって実らせた、一つ一つの善いおこないです。困っているお友だちを助けてあげたことがあるでしょう。それは、あなたが、イエズス様とつながって、イエズス様に教えられてできた、とっても善いおこないです。バス(または電車)の中で、おじいちゃんおばあちゃんに席をゆずったことはないですか。それも、イエズス様に導かれてできたおこないです。善いことができたのは、イエズス様につながっていたから、イエズス様に教えられたからなんです。イエズス様も、きっぱりと言っています。「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」。
▼みんなは、今まで、いろんな善いことをしてきました。イエズス様につながっていると、これからも、善いことがたくさんできます。かくれんぼの話を聞いて気がついたと思うけど、「つながっている」ときには、気持ちがわくわく、ドキドキします。みんながイエズス様につながっているときにも、わくわく、ドキドキするし、そんな気持ちになるすばらしい体験を、イエズス様に教えられてできるんですね。小学生のときだけではありません。中学生、高校生、大人になっても、おじいちゃんおばあちゃんになってもできるんですよ。
▼だから、一人ひとり、イエズス様とつながりながら、大きくなるようにしましょう。しばらく、大人になったときのことを考えてみてください。「ぼくは大きくなったら、何になろうか。学校の先生になろうか。そしてその時は、イエズス様と気持ちがつながっている先生になろう。そうすれば、イエズス様に導かれて、わくわくするような善いことができるに違いない」。「わたしは、かわいいお嫁さんになりたい。それも、イエズス様と気持ちがつながったお嫁さんになりたい。そうしたら、きっとわくわくするような結婚生活ができるから」。ほかの人は、大きくなったら、どんな人になるのかなぁ。どんな実を結ぶのかなぁ。
▼最後に、ちょこっとだけ、わたしの宣伝をします。わたしは、神父様になるために、今まで準備を続けて、今年の三月に、やっと助祭になりました。助祭になると、こんなふうに、福音のあとの説教をすることができます。
▼今、わたしは、わくわく、ドキドキしています。それは、これまで、何とかかんとか、イエズス様につながって、イエズス様に導かれて、こんなすばらしい務めをすることができるようになったからです。もし、イエズス様とつながっていなかったら、こんなすばらしい仕事、わくわくする仕事はできなかったでしょう。もし、イエズス様につながってなくて、助祭になっていても、説教のときにこんなにわくわくすることもなかったと思います。もう一つおまけに言うと、今わたしは、うしろが気になって、足もガタガタしています。
▼みんなも、大きくなったとき、どんな人になりたいか、今日のこの集いの中で考えてみてください。イエズス様とつながって、イエズス様に導かれてできる、すばらしい仕事があるはずです。その仕事を見つけたとき、きっとみんなは、イエズス様とつながって幸せになれた自分を見つけていることでしょう。実はその時が、「イエズス様を見つけたとき」なのです。

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今週の1枚
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第198回目。那覇教区の巡礼団が、浜串に来てくださいました。中央は司教さま。
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復活節第5主日(ヨハネ15:1-8)イエスに信頼し、ただただぶどうの実を付ける

2012-05-06 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/05/06(No.590)
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復活節第5主日
(ヨハネ15:1-8)
イエスに信頼し、ただただぶどうの実を付ける
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今から21年前の夏の話しです。上五島地区で子どもの集いが開催されまして、上五島備蓄記念会館を会場にミサが行われました。あの時わたしは司祭になる一歩手前の助祭でして、子どもミサの説教を地区の司祭団から依頼されていました。その当時の地区長神父さまは7年前に亡くなった丸尾武雄神父さまでした。

たまたまその年は、福岡の大神学院で秋に開かれる召命の集いに、1000人が集まる野外ミサの説教を担当することになっていました。夏休みにはすでに説教原稿を書いていましたので、上五島地区司祭団から依頼された時は、「度胸試しにいいか」くらいの気持ちで引き受けました。

もともと、野外ミサでの説教のつもりで用意していたので、備蓄会館のような大きな会場にもぴったりでした。実は上五島地区子どもの集いのミサと、大神学院の召命の集いのミサに選ばれた福音の朗読の箇所が、今週朗読された「イエスはまことのぶどうの木」だったのです。

みなさんの中で、21年前の子どもの集いに、子どもを連れて備蓄会館に行った人はいないでしょうか?あるいは子どもとではなくても、「もういいかい?まぁだだよ」と若い助祭が説教で語り掛けていたミサに参加した記憶がないでしょうか。

わたしは当時は25歳とかなり若かったので、とんだりはねたりして説教をしたのです。説教の取っかかりに使ったのはかくれんぼです。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(15・5)イエスと弟子たち、イエスと人類とのこの緊張感に満ちた関係をどうやって子どもたちに伝えるか。その取っかかりに、かくれんぼを選んだのです。

ご存じのようにかくれんぼは、「もういいかい」「まぁだだよ」で鬼と隠れている人とが巧みに距離を置いて楽しむものです。ある時は息を潜めて隠れている自分の近くを通り過ぎるかもしれない。ある時はせっかく最高の隠れ場所に入ったのに、違う友だちがやって来て、その友だちのために自分が見つかるかもしれない。生き生きとした緊張感の中で、隠れている人と、探し出そうとする鬼とがつながっている。それが、ぶどうの木であるイエスと、わたしたちとの生き生きとした関係なのだと、ステージいっぱいに動き回りながら話し掛けたわけです。

最後まで、その説教はやりきりました。考えていたことはすべて出し切りましたし、当時としては持てるすべてを出し尽くしました。ところが、ミサが終わってからわたしは、地区長神父さまに叱られまして、あんな説教があるか、だれがこの人に説教を任せたのだと、酷評されたのです。あー、ご年配の神父さまには、ちと刺激が強すぎたかなぁと反省したのでした。

ですが本番は上五島地区の子どもの集いではありません。福岡の大神学院での野外ミサです。九州全域から1000人もの子どもたちが集まり、数多くの司祭も集まり、当時の松永司教さまが司式をなさるミサの中で、まだ司祭になっていない助祭に過ぎないわたしが説教する。これが本番だったわけです。

気を取り直し、11月3日の召命の集いの日までもう一度説教の内容を完全に覚えて、それこそ野外ミサのグランドをいっぱいに使って子どもたちに話し掛けました。説教が終わった時、「やり遂げた」という実感がありました。それを後押しするかのように、会場の子どもたちや保護者がわたしに拍手をくださったのです。説教に拍手が来るなんてそうそう無いことですが、そのときはそういう雰囲気になっていたのでしょう。

無事に、本番の召命の集いのミサ説教が終わった。わたしはそう思いました。ところが、わたしはこの時も、司式された司教さまから説教を酷評されたのです。まるでなってない。説教にあるまじきパフォーマンスだと。この時は本当にうちひしがれました。

この日のために半年掛けて準備したのに、理解されなかった。司祭団の中には理解を寄せてくれる方もいたわけですが、司教さまが公然とあの説教は何だと言っておられるのですから、あえてそれを遮って盾になってくれる司祭はいません。わたしは孤立してしまいました。

あれから長い時間を経て、あらためて考えるわけです。「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」(15・5)そうイエスは仰ったのですが、あの時わたしは、イエスというぶどうの木につながって説教していたのだろうか。それとも、イエスにつながっていないまま、意味の無いパフォーマンスをして終わったのだろうか。

3年前も、同じ答えを探し求めていました。そのときたどり着いた答えを引用したいと思います。21年前の子どもミサと召命の集いの野外ミサに参加した司祭たち、だれもがイエスにつながっている枝だという自覚を持っていたのですが、それぞれの枝が、はじめて説教を任された助祭という別の枝を認めることができないでいたということです。

いろんな理由がそこにはあるかも知れません。今枝を伸ばし始めたあいつに何ができる。わたしたちは何度も枝にぶどうの実を付けてきた者だ。同じ仲間だと言われてもそう簡単には認められない。このような思いが、心のどこかにあったのでしょうか。

問題を複雑にしている原因があるはずです。おそらく原因は1つです。1つの枝から、他の枝を見ているからです。自分という枝から、他の枝を見れば、かなり遠く離れて見える。もしかしたら正反対の方向に伸びているので、全く共通点が見いだせないかも知れません。どうしてこれだけかけ離れている相手を、仲間だと信じられるだろうか。

けれども、わたしたちすべてに聖霊を注ぎ、養っておられるイエスという木から枝を見ることで、見え方は変わってきます。あの枝も、この枝も、もっと言うとすべての枝が、等しくイエスから聖霊を注がれた枝なのです。

わたしという枝から見れば遠く離れているかも知れないその枝も、イエスという木から見たとき、だれもがほぼ同じ距離にあるのです。イエスが注ぐ聖霊の届くところに、すべての枝がつながっているのです。

3年前に思い巡らしたことを読み返して思いました。わたしも、イエスというぶどうの木から聖霊という養分をいただいて説教をしたのだ。枝が伸びた方向は、他の多くの司祭たちと違う方向に伸びていたかもしれない。それでも、神はわたしがいよいよ豊かに実を結ぶように、手入れしてくださったのだと。

わたしたちも、たとえば一つの活動に参加しているある方を見て、自分たちと同じように動いてくれないから、認めたくないと思うことがあるかも知れません。けれども、枝から枝を眺めるのは良い観察の仕方ではないのです。あくまでもぶどうの木であるイエスにつながって相手を観察しましょう。そのとき、違う個性であっても、イエスにつながっている別の枝として認め、理解する道が開けると思います。

互いが互いを認め合い、多くの枝があることを知って、教会にたくさんのぶどうの実が与えられますように。わたしと違う枝であることにこだわるのではなく、違うたくさんの枝を聖霊の賜物で養っておられるイエスのご計画の深さ、広さに信頼できますように。信頼する心を、このミサを通して願い求めましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活節第6主日
(ヨハネ15:9-17)
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ちょっとひとやすみ
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▼あー、しまった!月の第1週は中学生の典礼当番。直前の教会学校の時に必ず日曜日の聖書朗読を割り振りさせて練習もさせる。それが中学生のクラスを受け持つ主任司祭の仕事だった。せっかくの直前の水曜日、連休の合間で勉強に来てくれていたのに、割り振りをするのを忘れてしまった。
▼どうしよう?いちおうどうするかの解決策は頭に浮かんだので、それを実行するしかない。忘れたことはしかたがないが、1つ忘れた代わりに、1つ収穫があった。今の中学生(去年もだったかもしれないが)、学校の勉強はかなり苦手の様子。平均60点台を右往左往しているらしい。
▼そんな成績を取ったのは中学1年の1学期中間試験の時しかないので(それでも平均67点)、彼らの苦悩があまりよく分からないのだが、それにしても平均80点を超す生徒が目の前に1人もいないというのはある種の驚きである。むしろ平均80点とか85点というほうが珍しいのだろうか。
▼その、悩める中学生に勉強を教えながら、どう教えたらこの子たちの心に響くのだろうかといつも試行錯誤している。そんな中で、先週は予想外に集中して取り組んでくれた。カトリック教会の聖歌集に、「典礼聖歌集」というものがあって、その聖歌集の印刷に「ヤーウェ」と書かれている部分を、中学生の手ですべて「主」に修正しようと呼びかけたのである。
▼「やりたくない。」すぐに反抗的な態度の意見が出た。想定内の答えなのだが、わたしはそれを理詰めで説得しようと言葉を並べていたら、「意外とおもしろそうじゃない」という声が上がり、わたしの理詰めの説得は遮られて作業が始まった。
▼取り組み方はこうだ。今回はまず、どこに修正すべき単語があるかを探し出すことに集中したかったので、「Aさん。あなたは1頁から20頁までを担当してください。Bさんは21頁から40頁です」と、7人に担当頁を受け持たせた。すると見つける作業はまるでゲーム感覚、我も我もと発見した子がわたしに場所を教えてくれ、すぐに8箇所の修正箇所が見つかった。
▼問題がここで起きた。ある子は、聖歌集の頁ではなく、曲の番号だと勘違いしたようで、たとえば聖歌161番から180番までと考え、その部分を探し続けていた。すると間違いの箇所が見つかったのだが、同じ箇所を201頁から220頁まで正しい方法で探していた子も見つけ、「なぜ同じ場所を2人探していたのか」で言い争いになった。
▼女子の言い争いは男子より熾烈である。「バカじゃ?」とまで言われて、相手は「なんであんたからバカ呼ばわりされないといけんと?」ときた。それもそうだ。だれも平均80点台などいないのだから。そこでわたしが仲裁に入る。
▼「はいはいそこまで。頁と曲の番号を間違って探した子がいたからって、あとを振り返らない。前を向いて次の修正箇所を探そう。もし2人が重なって探したことで、頁が漏れてしまったとしても、責任はわたしが取る。」ようやく言い合いが収まった。この子たちの心に火を付ける「やる気スイッチ」を見つけたような気がした。

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今週の1枚
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第197回目。この春最初のイトヨリとカワハギ。どちらもいきなり竿をしならせた。
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