こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第4主日(マルコ1:21-28)中から出るイエスの権威で教え、導く

2012-01-29 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/01/29(No.573)
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年間第4主日
(マルコ1:21-28)
中から出るイエスの権威で教え、導く
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いよいよ火曜日にはマラソン大会に出場して来ます。練習以上のものは出ないと思いますから、いきなりトロフィーをもらってくるとか、そういうことは言えませんが、去年の長距離の部14人中13位よりは、明らかに順位を上げられると思います。

タイムとしては、今年の長距離の部は浦頭教会からマリアの園までの往復8キロだそうですから、48分、順位は1桁台、あわよくば8位入賞と、その辺が目標でしょうか。練習は昨日までで仕上げました。今日からは体を休めて、火曜日に走りたくてたまらないと、そういう状態に整えたいと思います。

もしも、冷やかし半分で応援に行く人がいらっしゃるようでしたら、当日朝8時10分に土井ノ浦から出る船に乗ってください。これが便利です。同じ船は、午後3時55分に出て、5時ごろ土井ノ浦に着きます。わたしは前日よきおとずれの仕事で長崎にいるので長崎から福江に行きますが、帰りは土井ノ浦に着く船に乗ろうと思っています。

2ヶ月の練習でしたが、あらためて分かったことがあります。練習を積んだ人には、練習に裏付けられた自信が、顔に表れるということです。何か目標を見据えているとか、周りにだれがいても自分の走りをちゃんとできるとか、そうしたことはかぶり物では決して身につかないもので、中からにじみ出てくるものだと思います。

さて今週の福音朗読ですが、イエスが安息日に会堂に入って教えると、「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(1・22)とあります。

律法学者たちも、実は権威を振り回していたのですが、彼らの権威は律法に頼った権威で、いわば律法をかさに着て、威張っているだけでした。イエスは、律法学者とは全く違った形で、「権威ある者として教えた」のです。イエスには、中からにじみ出る権威がありました。

律法学者たちも、正しい権威を振るうことは可能だったでしょう。しかしそれは、常に律法に依存していて、しかも律法を正しく理解しているときにのみ備わっている権威です。彼らは律法を離れては、単なる人間に過ぎなかったのです。

イエスは違いました。会堂で教える時も、汚れた霊を追い出す時も、どんな時でもイエスの中に権威がありました。それは、だれとも違う、イエスだけが備えていた中からにじみ出る権威でした。

この、イエスだけが持つ権威、中からにじみ出てくる権威に、人々は驚いたのです。不思議に思ったのではなくて、圧倒され、畏敬の念をもったのです。中からにじみ出てくるものは、その人を雄弁に物語ります。人々は、イエスこそ真の権威をもっている方だと、理解したのです。

この場面から、わたしたちも何かを学び取りましょう。わたしたちも、自信を持って何かを話したり、教えたりしなければならないときがあります。よくわたしがたとえにあげる話ですが、外出先で食事をするときがあるわけです。そういうときに、食前食後の祈りを唱えることはすばらしいことですが、どのような権威を示すかに注意が必要です。

わたしたちは、見せびらかそうとして祈ることもできます。反対に、だれかに見せようとしてではなく、心から食事に感謝するために祈ることもできます。前者は、権威をかさに着た態度ですが、後者は権威がにじみ出た態度です。人々が公の場で祈るあなたを見て、その姿に圧倒されるのは、どちらの心がけでしょうか。見せようとして祈った姿でしょうか、心から感謝の気持ちがあふれて祈った姿でしょうか。

皆さんは、スポーツ選手が十字架の印をする姿を見たことがないでしょうか。その十字を切る姿にわたしたちが圧倒されるのは、見せようとして十字を切っているからでしょうか、喜びが心からあふれて十字を切っているからでしょうか。答えは明らかです。

いつも、中からにじみ出てくる権威が人を圧倒します。中から表れる権威が、本当の意味で人を教え、子供を導き、従わせるのです。権威をかさに着ても、権威を振り回しても、人は心を打たれないし、子供は心を開き、耳を傾けようという気にはなりません。ですから、わたしたちが何かの場面で教えなければならない、導かなければならないとしたら、中から出てくる権威によって、教え導くのです。

人によっては、自分にはそんなものが備わっていませんという人がいるかもしれません。何かの仕事を任されたり、選ばれて上に立つことになった。けれどもどんな顔をして、自分に任せられている人を教え、指導すればよいのだろうか。悩むかもしれません。

権威をかさに着てはいけない、権威に頼ってはいけないと言いましたが、1つだけ、頼れる権威があります。それは、イエス・キリストです。イエス・キリストは、わたしたちにとっての唯一の権威です。ですから、あなたが自信をなくし、子供に、また人に教え導くのをためらっているなら、あなたの中にイエス・キリストがいるように心がけたらよいと思います。

つまり、「イエスだったら、この場面をどのように教え導くのだろうか」と考えながら、声をかけるということです。自分自身は確信を持てなくなっているかもしれませんが、「イエスだったらどう判断し、行動するだろうか」そのことに心を配るようにすれば、あなたが教え導こうとするとき、イエスが権威を与え、助けてくれるのではないでしょうか。

突き詰めると、わたしたちの中からにじみ出てくるものは、イエス・キリストであるべきだ、ということです。練習に裏打ちされた自信や、積み重ねた経験もあるでしょうが、それらは一歩間違えると、かさに着てしまうものになります。いつも、わたしたちの中から、イエス・キリストがにじみ出てくる。そういう権威の使い方を、イエス・キリストに願い求めましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第5主日
(マルコ1:29-39)
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ちょっとひとやすみ
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▼メルマガ配信のタイミングについて。メールチェックをしていて、これまで「メールマガジン配信完了」というメールが届いても、特別気にしていなかったのだが、今回は嫌でも気になる時間にこの案内が来た。
▼「まぐまぐメールマガジン配信完了」という件名で、1月22日(日)23時37分に案内メールが届いていた。実際にこのメールを見たのは月曜日だったから、ふだんであれば読みもせずに削除していたことだろう。だが届いた時間が気になり、目を通してみた。
▼「?」「!」目を疑った。おもな部分を抜き出すと、「件名:こうじ神父今週の説教No.572→配送予定日時:2012/01/21 13:57:10→配送完了日時:2012/01/22 21:23:20→発行部数:236」となっているのである。
▼明らかに、土曜日の14時少し前に配信したのに、配送されたのは日曜日の21時過ぎだという。しかも、「※ご注意・実際にメールマガジンが読者さんの手元に届き始めるのは、これからです。配送経路の混雑具合によっては、読者さんにメールマガジンが届くまで時間がかかる場合があります。ご了承ください。」とまで釘を刺している。
▼てっきり数時間のうちには配送されていると思っていたので、今回の案内には正直驚いた。そこでまぐまぐから配信を受けている230人くらいに問い合わせたところ、何人かの人から「土曜日、午後2時頃には配信されていましたよ」とていねいな返事をもらった。どうやら実際は問題なく届いていたようである。
▼今回のハプニングがかえって、何かが起こった時には気にかけてくださる人がちゃんといることを教えてくれた。久しぶりに連絡を受けた人もいたし、中には初対面と思われる人も声をかけてくれた。多くの熱い声援があるから、このメルマガは成り立っている。感謝の気持ちがあふれて来た。

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新企画今週の1枚
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第180回目。92歳で天の国に召された大先輩司祭の追悼ミサ。29日16時から。
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年間第3主日(マルコ1:14-20)時は満ちた。生活の中心に何を据えますか

2012-01-22 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/01/22(No.572)
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年間第3主日
(マルコ1:14-20)
時は満ちた。生活の中心に何を据えますか
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この前、信者さんからこう言われました。「気のせいかなぁ。神父さま、痩せたような気がする。」気のせいじゃないですよねー。お腹とか、今までサッカーボールが入っていたのが、ソフトボールくらいになったのですから、これで痩せたことに気づかないなんて、どうかしています。

痩せてちょっと助かっていることがあります。これまでは歩いたりするとシャツとかがはだけたりして、ひんぱんに前を整えなければなりませんでした。最近は、少し歩いたくらいでは洋服がはみ出さなくなりまして、あーこれもお腹が引っ込んだ効果なんだなぁと実感しています。

福音朗読は、マルコ福音書からイエスの宣教開始にあたっての第一声と、ガリラヤで漁師を弟子にする場面が選ばれました。イエスは宣教にあたっての第一声で「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1・15)と仰いました。この呼び掛けをどう理解するか。漁師を弟子にする場面からヒントを得たいと思います。

まずガリラヤの漁師だったシモンとその兄弟アンデレ、彼らがイエスの招きを受けます。イエスは2人が湖で網を打っているのを御覧になり、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(1・17)と言われたとあります。

みなさんは、この場面に驚きとか、疑問とか、何か感じないでしょうか。仮にわたしたちがイエスさまと同じように岸にいて、網を打っている漁師が浜串の沖の波止場にいるとしましょう。どれくらいの声だったら、沖にいる漁師に聞こえるのでしょうか。あるいは、沖にいる漁師の心をとらえて、網を捨てて従ってくれるでしょうか。

おそらく、大声で叫ばないと、岸にいる人の声は聞こえないはずです。イエスは大声で言ったのかなぁと、みなさんはお考えでしょうか。もしそうであれば、少なくとも最初の言葉は、「おーい」と呼び掛けてからでないと、漁師はイエスの声に気付かなったでしょう。

わたしは、今話したこととはちょっと違う考えをもっています。つまり、イエスが呼び掛けたのは、湖で網を打っている真っ最中ではなく、岸に戻ってから、静かに声をかけたのではないかなぁ、と考えたのです。タイミングを見計らって、それから声を掛けた。そう考えます。

この方法ですと、「おーい、ちょっと話があるんだけど、聞こえるか―」みたいな大声は出さなくて済みます。一方で、2人の漁師がどうしても話を聞かなければならない、そういう雰囲気作りが必要です。

そこでこう考えました。シモンとアンデレが湖で網を打っているのを御覧になった時からずっと、片時も目を離さず、2人を見つめておられたのではないか。そう考えました。さっきからずっとわたしたちを見ているあの人は、いったいだれだろう。わたしたちに何の用事があるのだろうか。わたしたちが岸に上がって来てからもずっとわたしたちを見つめている。きっと何か大事なようがあるに違いない。イエスがひたすら見つめ続けたことで、2人の漁師に心の準備ができた。それを見計らって、声を掛けたのではないか。そう考えたのです。

もちろん真実はどうか分かりませんが、十分に心の準備をさせてから、声を掛ければ、効果的だというのは皆さんも理解できると思います。いつか岸辺に立って、海の上にいる人を見つけて、考えてみてください。わたしの考えもまんざらでもないと思います。

さて、シモンとアンデレは、網を捨ててイエスに従いました。また、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネも、イエスの呼び掛けに応え、父ゼベダイと雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行きました。

彼らが取った行動をまとめると、漁師の仕事を生活の中心に据える生活から、イエスに従って歩むことを生活の中心に据えた、となります。ここから、さかのぼってイエスの宣教活動にあたっての第一声「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という呼び掛けは、「イエスに従って歩むことを生活の中心に据える」そういう呼び掛けだったと理解するのが適当だと思います。

ここで考えてほしいことがあります。イエスは、この宣教活動の始まりに、初めて「イエスに従って歩むことを生活の中心に据えなさい」と呼び掛けたのでしょうか。第一声としてはそうだと思いますが、わたしは、もっと以前から、具体的にはイエスの誕生のその時から、この第一声を発し続けていたのではないかと思うのです。

イエスの誕生は飾りも何もない、粗末な場所での誕生でした。喜ばしいことの何もない中での、唯一の喜びの源でした。そこへ羊飼いが訪ねて来て、後には占星術の学者たちも贈り物を携えて拝みに来ます。神殿に奉献される時、シメオンは幼子を抱いてもうこれで十分だと満たされました。12歳になって神殿へ出向いた時も、父なる神のもとに留まりました。

これらはすべて、中心に何を据えて生きるべきかを教えているのではないでしょうか。どの場面も、中心に神を据えて、イエスの導きを中心に据えて生活することを、教えていると思うのです。

そして、イエスはあらためて、何を中心に据えるべきかを第一声として呼び掛けられました。これは、わたしたちへの呼び掛けでもあります。ガリラヤの漁師たちのように、すっかり生活が入れ替わる人も中には必要でしょう。男の子が司祭職を目指して神学校に行くとか、女の子がシスターを目指して志願院に行くとか、それも大い期待します。それと同時に、わたしたちの日々の生活も、中心に何を据えるかを考えてほしいのです。

中心に何を据えるのか、見誤ってはいけません。これが中心だと思っても、それが根こそぎ揺さぶられ、洗い流され、何も残らないかもしれないのです。イエスの第一声「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」この声にふさわしい生活を積み重ねることができるように、ミサの中で照らしと導きを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第4主日
(マルコ1:21-28)
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ちょっとひとやすみ
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▼申し分ない天気になった。風はあるが、日差しはかなりきつい。本来ならこのタイミングで外に飛び出して、5キロか、それ以上走ると汗もしっかり出せて気持ちいいはず。ところが、メルマガの配信が午前中に果たせず、残念ながらランニングは夜に持ち越し。
▼気が付いたら1月21日、1月31日の大会当日まで10日となっている。12月1日走り始めた時はずいぶんあるように思っていたが、時間は本当にあっという間に進むものだ。司祭団マラソン大会のお世話をしてくださる若手の司祭からケータイにメールが届いて、距離、コース形態などの概略を教えてもらった。
▼イメージしてきた練習通りなのだが、やはり本番は何が起こるか分からない。メールを送ってくれた若手の司祭も、「足がつらないように、注意してください」と書き添えられていた。それはそうだ。練習をしていても、いつも以上に力が入れば、けがをする危険はある。十分注意して本番に臨みたい。
▼大人の黙想会を例年通り3月の月夜間の期間に設定した。上五島は特に、漁業に従事する人が多いので、月夜間に黙想会を設定する教会が多い。この機を逃すと、遠洋漁業に従事する人は黙想会参加の機会を失ってしまう。そうやって、信者としての務め(ゆるしの秘跡・聖体拝領)を果たしている。本当に感心する。
▼説教師に、郷里の出身で修道会の司祭を依頼し、了解を得ていたのだが、ご本人から連絡があり、代理を立てて来てもらうとのこと。ちょっと残念。切り替えて、来てくださる説教師の話を楽しみにしたい。面識がないので、長崎に行った折に、どこかで顔をつないでおかねば。

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新企画今週の1枚
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第179回目。やや軽くなって、ランニング。でも考えている姿からはまだまだ。
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年間第2主日(ヨハネ1:35-42)「来なさい。そうすれば分かる」と言える生活を保つ

2012-01-15 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/01/15(No.571)
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年間第2主日
(ヨハネ1:35-42)
「来なさい。そうすれば分かる」と言える生活を保つ
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マラソン大会に向けての走り込みはぼちぼち進んでいますが、張り切りすぎたかもしれません。背中で腰に近い部分の筋肉を痛めてしまいました。まったく走れないわけではないのですが、走り出しを恐る恐るしているといった現状です。

急に練習を始めて、あんまり詰め込み過ぎたかなぁと反省しています。ここ数日は、様子を見ながら練習を増やしたり減らしたりしているところです。体を壊してしまっては元も子もありませんので、用心したいと思います。

年間の主日に入りました。今年は主日の朗読配分がB年ですから、マルコ福音書を中心に日曜日の朗読が選ばれます。今週はたまたまヨハネ福音書が選ばれていますが、来週からはマルコ福音書が選ばれていきます。

今週の朗読箇所は、「最初の弟子たち」がイエスによって選ばれる場面です。ヨハネ福音書は、最初の弟子たちが選ばれる場面を、マタイ・マルコ・ルカの共観福音書とは違った見方で描いています。

共観福音書では最初の召命物語はガリラヤ湖で、4人の漁師を弟子にするという形で描かれていますが、ヨハネ福音書では洗礼者ヨハネの弟子であった2人がイエスの泊まっている場所に泊まり、弟子になっています。さらにイエスのもとに泊まった人がほかの人を連れて来て、イエスの弟子が増えていきます。

ここで疑問を感じるでしょう。最初の弟子たちは、共観福音書が述べているように湖で選ばれたのか、ヨハネ福音書が描くように違う形なのかということです。

わたしは、どちらも最初の弟子たちを選ぶ物語なのだと思います。一方は湖畔で起こった出来事で、今週朗読されたのは陸上での出来事です。同時に出来事は起こりません。それぞれ、別の場面と考えるべきです。

ですから、共観福音書は湖畔での出来事を最初の出来事ととらえているし、ヨハネ福音書は洗礼者ヨハネのもとにいた弟子たちのことを最初の出来事ととらえている、それだけなのだと思います。

今回は、ヨハネが最初の弟子たちを選ぶ場面ととらえた出来事にそって、学びを得ることにしましょう。最初は洗礼者ヨハネの弟子であった2人の人が、洗礼者ヨハネから促されてイエスのもとに行きます。そしてイエスのもとに泊まりました。

この、イエスのもとに泊まったことが、2人に決定的な影響を与えることになりました。日本人の感覚で言うと、「寝食を共にした」ということです。どこかに集まってしばらくの時間過ごすのとは違う何かが、寝起きすることで起こったに違いありません。

今日の出来事につながる、面白い体験を思い出しました。太田尾教会に赴任していた時のことです。1人の小学生男子が、「神父さまと一緒に泊まりたい」とわたしのところに願い出ました。生まれて初めてのことでした。戸惑いながらも、本人の母親に了解をもらってからおいでと伝えると、母親も喜んで送り出してくれまして、その男の子はパジャマと着替えを持って、司祭館にやって来たのです。それこそ、金曜日の午後4時ごろのことです。

わたしは子供の扱いに全く慣れていないので、午後4時から次の日まで、どんなふうに時間を過ごせばよいのか、まったく見当もつきませんでした。思い出せるのは、風呂に一緒に入ったことと、晩の祈りを一緒に唱えたことと、わたしの布団の隣に小さな布団を敷いて、一緒に眠ったこと、そして、目を輝かせてとても楽しかったと母親に報告しながら帰っていったこと、それくらいです。

けれども、その子にとっては一生忘れない思い出になったことでしょう。その時のことがどのように本人の信仰に影響していくのかはわかりませんが、少なくともわたしは、神父さまに興味を持ち、神父さまと一緒に寝泊まりしてみたい、神父さまの生活を体験してみたいと思っている子供が、中にはいるものだということを強く感じたのです。

イエスに、「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」と尋ねた最初の2人は、イエスに強く惹かれ、イエスの生活を体験して、いつもイエスと共にいたいと感じた人たちです。イエスはほんのわずかの言葉で、イエスと共にいたいと感じた人を引き寄せました。「来なさい。そうすれば分かる。」(1・39)

イエスの言葉は、わたしたちの生活を振り返る大切な点を教えてくれます。わたしたちは、どこかにいるはずの「自分に興味関心を持っている人」を前にして、見て、一緒に寝泊まりして、それで自分がどんな人かわかる、そういう生活をしているでしょうか。わたしの生き方に興味をもって訪ねて来る人に、「来なさい。そうすれば分かる」という単純な言葉で呼びかけることができるでしょうか。

カトリック信者がどのような人たちなのか、修道者がどのような人たちなのか、司祭がどのような人なのか、面白半分ではなく、真剣に知りたがっている人もいるはずです。よく学んで、その生活を自分も受け入れたいと考えている人がいるかもしれません。そういう人たちに、わたしたちの生活は、「来なさい。そうすれば分かる」と言える生活ができているでしょうか。

もしも、「来なさい。そうすれば分かる」という言葉をかけるチャンスが回ってきたら、それはまたとないチャンスです。本当に、二度とないチャンスかもしれません。そのチャンスを、神の国のために最大限活用しましょう。

信徒、修道者、司祭、それぞれがこうやって自分の召された生き方を全うしているのだなと、すぐに見てとれるような生き方を整えておきましょう。神は準備をして待っているわたしたちに、救いの道を尋ねてくる人を必ず送ってくださいます。

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‥次の説教は‥‥
年間第3主日
(マルコ1:14-20)
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ちょっとひとやすみ
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▼どうやら初夢を見たようだ。すぐに書き留めるなどしなかったので、残念ながら思い出せない。初夢は忘れたが、ここからは夢でなく現実でよかったという話。40後半のおじさんも、ユニクロは大好きだ。長崎本土に渡ったついでに、コーデュロイの生地のズボン(パンツ、とは言いにくい)を買いに行った。
▼ズボンに関して、わたしはサイズで迷わなくてもよいように、ケータイの電話帳にメモを取っている。1年前に買ったメモに従って好みの色を選び、試着室に持って行った。試着して、困ったことになった。「お客さま、サイズが大き過ぎるようですが。」
▼1年前のウェストのズボンをはいたまま、両手がすっぽり入った。きっとわたしの顔は緩みっぱなしだったに違いない。それでも必死にうれしさを隠して、店員にお願いした。「すみません。このズボンからワンサイズか、ツーサイズ細いものと取り換えてください。」店員は何事もなかったかのように、ツーサイズ細いものを用意して、「お客さまにはこれでちょうどよいかと思います」と言ってくれた。
▼すべての面で、減量の効果が表れている。寒さが寒いと思うけれども受け入れられるようになった。これまでは寒いと思っただけで一歩も外に出ようとしなかったのだから、大きな変化である。また、さまざまなことが億劫でなくなった。体を動かすことと関連しているから当然のことだが、体重が気になっていた頃は何をするのも面倒だと感じていた。
▼表情にも変化が表れて来た。丸々と太った顔をしていたのが、心なしか細くなり、気分も晴れ晴れとしてきた。勢いがついて、メガネも購入。ずれないという触れ込みなので、スポーツの時に重宝すると期待している。

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新企画今週の1枚
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第178回目。初代希望の聖母像(右)から現在の希望の聖母像(左)まで往復。
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主の公現(マタイ2:1-12)自分のすべてを持ち寄って幼子にひれ伏す

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12/01/08(No.570)
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主の公現
(マタイ2:1-12)
自分のすべてを持ち寄って幼子にひれ伏す
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先週の水木金、実家に帰っておりましたが、戻って来て体重計に乗りましたら、73キロが75キロに増えていました。つい気を緩めてしまって、こたつに入ったままポテトチップスをつまんでいたのがいけなかったようです。とは言っても、練習はサボりたくないなぁと、気にはしておりました。

休暇の初日は雪が降って、走りに行く勇気が出ませんでした。翌木曜日は、めったにない好天だったのですが走らず、かわりに1万歩くらい歩きました。ようやく金曜日に、片道2キロのコースを見つけて2往復しました。1キロ6分でカバーするのが今年の目標ですから、8キロを48分で走れば設定タイムです。

最近はストップウォッチをたすき掛けして走っていまして、確かめてみたら46分でした。1キロ5分45秒でカバーした計算です。ようやく、おととし霊名のお祝いで買ってもらったウェアの出番がやってきました。今年はこれと、ランニングパンツを着て、マラソン大会に出場しようと思っています。

わたしにとっての司祭団マラソン大会は、かつては記録を争う大会でした。記録を争えない今は、過ぎた1年をどのように過ごしてきたか、不摂生して過ごしたのか、現状維持なのか、少しは自分に鞭打って過ごしてきたのか、公の前に報告する大会になっています。

相手がどうこうというのは関係ありません。あくまで自分との闘いです。健康維持のために走ろうとか、そんな気はさらさらありません。公の面前で、「来年はもっと準備して来ます」と宣言して、結果を出す。それが、わたしにとっての今の司祭団マラソン大会だと思っています。

さて、今日の典礼は「主の公現の祭日」です。東方の占星術の学者たちが、幼子イエスを拝み、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げたことが福音朗読で読まれました。「占星術の学者たち」と訳されているギリシャ語は、英語のmagicとかmagicianのもとになっている言葉で、一方で学者という意味、他方で魔術師という意味を持っています。

すると、もとのギリシャ語は2通りに訳すことができるわけで、わたしたちが朗読した新共同訳聖書のように「学者」と訳した場合と、もう1つの可能性「魔術師」と訳した場合では、話の内容もずいぶん変わってくることになります。

学者であれば、彼らは星の研究を通して幼子にたどりつき、これからは幼子を心の導き手、星として自分たちの国でこれまで通り学者として活躍する話ということになります。一方、「魔術師」という意味であれば、魔術に明け暮れていたこれまでの生活を改め、魔術にではなく幼子によって世界が救われることを自分たちの国で告げ知らせ、人々に貢献する話ということになります。

あえて、「魔術師」という意味に取らなくてもよいのですが、「学者」であれ、「魔術師」であれ、自分たちにとって大切な物を贈り物として幼子にさ献げたことは、よく考える必要があると思います。真の学問を追い求める人であれ、魔術に心を奪われている人であれ、自分にとって最上の物を、幼子イエスの前に献げたのです。

この態度は、わたしたちも見習う必要があります。東方から訪ねて来た「学者」または「魔術師」は、自分の知恵を絞って得た結論が、目の前にいる幼子にひれ伏すことでした。

人が、だれかの前にひれ伏すというのは、自分を低いものと認める姿です。自分よりも高い人にかがむことで、教えられ、導かれ、以前よりも豊かな生き方をいただこうとする態度です。身をかがめる相手のちょっとした言葉やしぐさで自分は幸せを感じることができる。そういう相手だからこそ、身をかがめ、ひれ伏すのです。

わたしたちは、幼子イエスの前に、喜んでひれ伏すことを願っているでしょうか。イエスが、わたしたちの知恵を絞って得た結論として、教えてくださる方、導いてくださる方、以前よりも豊かな生き方をくださる方であると感じているでしょうか。

また、占星術の学者たちは、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。それぞれがやってきた土地で、これ以上ない最高のものがこれらの贈り物だったでしょう。仮にこの人たちが魔術師で、贈り物は彼らの商売道具であったとしても、彼らは自分たちの持ち物をなげうっても構わないと考えたことがわかります。

わたしたちは、ミサの献金をもって、イエスさまへの日々の献げものとしているわけですが、自分がこれだけ献げても構わないと考えて、献金しているでしょうか。

「自分は幼子イエスの前に出るにはふさわしくない」そう考えている人がいるかもしれません。心配要りません。「魔術師」だったかもしれない、占星術の学者たちが、幼子の前にひれ伏したのです。イエスの導きを受け入れ、これまでの生き方を入れ変えようという心のある人ならば、幼子の前にひれ伏すことはふさわしくないどころか極めてふさわしい態度なのです。

馬小屋の飾り付けも、御公現が終わると片付けることになります。しるしがなくなっても、わたしたちの心に星が指し示したお方が住んでくださり、導きを与えてくださいます。これから、たくましく成長して数々のしるしを与えてくださるイエスの声に耳を傾ける。その決意を、このミサの中でおささげいたしましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第2主日
(ヨハネ1:35-42)
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ちょっとひとやすみ
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▼実家に3日間滞在していちばん驚いたこと。それは孫ができると孫見たさに祖母となった母が信じられないような努力をするようになるということだった。パソコンの「パ」の字も知らないで一生を終えるのかと思っていたが、茨木にいる孫とコミュニケーションを取るために、Skypeを使えるようになっていたのだ。
▼別にSkypeを使ったからと言って驚くことではないが、問題はパソコンを、まるでテレビのスイッチのように電源を入れて、母の娘でありわたしの妹でもあるKと示し合わせた時間にSkypeを開いて(ここでは、パソコンが立ち上がると同時にログインする設定になっているのだが)、まるで電話をかけるかのようにやり取りしていることである。
▼不思議に思わないだろうか?うっかり他のソフトを立ち上げでもすれば、Skypeとディスプレイ上でダブって表示され、「孫が見えない、娘が見えない」と大騒動になるに違いないのである。Skype上でも何が起こるかわからないのに、それらの対処法も学ばずに、ひとまずSkypeを立ち上げてパソコンを終了させている。たいした度胸である。
▼きっとわたしだったら、パソコンの原理や仕組みから理解して、そのコミュニケーションソフトを使うことだろう。いきなりやってみるという冒険は、とてもではないがわたしにはできない。つまり孫の存在は、それらすべての不安材料を忘れさせて、いきなり行動させる力を持っているらしいのである。
▼実家のパソコンは3年しか使ってなかったのにビデオ表示に問題があって使い物にならず、6万ちょっとの最新型に買い換えて帰って来た。解雇されたこれまでのパソコンは、例によってわたしがいったん引き取り、3000円切るビデオカードを新調した上でいろいろいじるための実験材料にしている。
▼さんざんいじり倒して、再利用が可能であれば、また実家に持って帰ろうと思っている。ルーターでパソコンを2台つなげば、1階と2階どちらでも孫の顔が眺められるわけだ。そういうわたしも、親のためならどんな努力でも買って出るのかもしれない。

‥‥‥†‥‥‥
新企画今週の1枚
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第177回目。48分の設定タイムで走ったところ、46分21秒で走ったが背筋を痛めた。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/120108.jpg

ホームページもご覧ください。
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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神の母聖マリア(ルカ2:16-21)神の言葉は出来事となって実現する

2012-01-01 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
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こうじ神父
「今週の説教」
12/01/01(No.569)
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神の母聖マリア
(ルカ2:16-21)
神の言葉は出来事となって実現する
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神の母聖マリアの前晩のミサに参加している人は、今年1年本当にお世話になりました。また、来年もよろしくお願いいたします。当日のミサに参加しているみなさん、新年明けましておめでとうございます。今年も、よろしくお願いいたします。

年賀状は、こうして目の前であいさつできる方には原則出しておりません。ご理解賜りたいと思います。2012年、平成24年の信仰の歩みを、神の母聖マリアの姿に倣って1歩ずつ進めて行きたいと思います。

皆さんにとって、年の初めの行事は何でしょうか。長崎教区の司祭にとって、新年早々の行事と言えば、1月最終火曜日の司祭団マラソン大会です。昨年1月のマラソン大会にわたしは12年ぶりに参加しまして、10キロのコースで1時間を切ることもできず、自分としてはみじめな思いでレースを終えました。

マラソン大会終了後の懇親会でそれぞれの成績が発表され、感想を一言述べるように求められました。わたしは、自分のふがいない記録に腹が立っていましたので、腹立ちまぎれにこう言ったのです。「来年はもっと準備して、1時間を切ることができるよう仕上げて来ます。だから、今回1時間前後だった先輩後輩の神父さま方は、来年はわたしのケツを拝みながら走ることになるでしょう。」

大口をたたいてしまいました。結果を出すため、昨年12月から努めて走ってきました。おかげで10月頃に80キロあった体重は現在73キロになり、体の切れが戻れば、10キロを1時間切るタイムで完走できると感じています。気合が入っています。

前回1時間6分かかったのを、6分以上縮めると公言したわけですが、実現できなかったら笑い物になります。言葉は、どんな時でも責任を伴います。その言葉が実現する言葉なのか、実現しない言葉なのか。言葉が実現した時、その人は信頼される人になります。

1月1日、神の母聖マリアの祭日にわたしたちに与えられている福音朗読は、羊飼いが幼子を探し当て、その光景を、人々に知らせる場面です。羊飼いたちは、先に飼い葉桶に寝かされている乳飲み子について天使から告げられていました。

天使に告げられた出来事は、すでに実現していました。それは羊飼いが確認しなくても、必ず実現する言葉です。なぜなら告げられた言葉は天使の言葉ではなく、天使が神から託された言葉だからです。神の言葉は、必ず実現するのです。

羊飼いたちは、急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てました。ところで羊飼いたちは、天使から何を期待されていたのでしょうか。飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てることでしょうか。羊飼いにとって、飼い葉桶に寝かされている乳飲み子を探し当てることはたやすいことだったでしょう。彼ら自身羊を飼っていました。だいたいどんな場所に動物を休ませるか、羊飼いは熟知していたはずです。

天使は、もっと大きな使命を羊飼いに期待したのではないでしょうか。羊飼いたちがマリアとヨセフ、飼い葉桶に寝かされてある乳飲み子を探し当てたあと、自分たちが目にした出来事は、「天使を通して神から告げられた言葉」「必ず出来事となって実現する言葉」だと人々に告げ知らせること。これが、天使が羊飼いに期待したことではないでしょうか。

「わたしは、出来事となって必ず実現する言葉を確かめて来た。」この通りに羊飼いは話したわけではないでしょうが、人々に知らせたのは同じ意味の言葉だったと思います。ただ単に、乳飲み子が飼い葉おけに寝かされていたよと話したわけではありません。天使が出来事を告げ、それを聞いた羊飼いたちがその目で確かめ、「神の言葉は、出来事となって必ず実現する」と、理解したのです。

話を聞いた人々は、羊飼いたちの話を不思議に思ったとあります。これは、理解できずに戸惑ったということです。理解できなかったのです。ただの赤ん坊の誕生と変わらないと、それ以上の意味を探ることができなかったのです。

ところがマリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていました。マリアは天使に告げられた言葉と、生まれた乳飲み子とはつながっていると感じたのです。マリアが産んだ乳飲み子は、「必ず出来事となって実現する言葉」なのだと、感じ取っていたのではないでしょうか。

この神の母となったマリアの姿、羊飼いの行動が、わたしたちの今年1年のあるべき姿だと思います。「神の言葉は、出来事となって必ず実現する。」わたしたちに与えられた救い主は、必ず出来事となって実現する神の言葉なのだと、思い巡らし、人々に知らせること。これが、わたしたちが毎年新たに掲げる1年の抱負だと思います。

では具体的に、どんな神の言葉を思い巡らし、人々に知らせればよいのでしょうか。アヴェ・マリアの祈りと、ミサの奉献文から、例を挙げましょう。アヴェ・マリアの祈りの中で、「主はあなたとともにおられます」という天使の言葉が含まれています。

わたしたちが、「神の言葉は出来事となって必ず実現する」と信じて今年歩き始めるなら、必要な時、必ず神はわたしたちのそばにいてくださるでしょう。あなたの暮らしの中で出来事となって、必ず実現するでしょう。

ミサの奉献文の中では、「これは、あなたがたのために渡される、わたしのからだである。」という聖別の言葉があります。わたしたちが、「この言葉は出来事となって必ず実現する」と信じて1年を始めるなら、わたしのからだ、わたしの血となってくださった神の言葉が、わたしたちを生かしておられると、生活の中で実感できる場面が与えられます。

ぜひ、神の母マリアの姿と、羊飼いの行動を、この1年の大きな目標として据えましょう。わたしたちが神に感謝できる体験を積む時、「神の言葉はやはり、出来事となって必ず実現する」と思い出せますように。神の母聖マリアの取り次ぎを、ミサの中で祈り求めましょう。

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‥次の説教は‥‥
主の公現
(マタイ2:1-12)
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ちょっとひとやすみ
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▼新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。NHKの紅白をちらっと見たら、「ふくしまが好き」と歌っていた。訴えかける力があった。歌っているからではなく、本当に福島が好きだから、それが伝わって来たのだと思う。それが素直に表現できているから、下手な細工もなしに伝えているから、伝わるのだと思う。
▼わたしにも伝えるものがある。しかし、過ぎた一年、本当に伝わったと言えるだろうか。訴えかける力があっただろうか。本当にイエス・キリストに魅せられて、それが伝わっただろうか。表現にこだわり過ぎたり、下手な細工でごまかしたりしなかっただろうか。
▼年末の押し迫った中、県外から旅行者が巡礼に来て、わたしにも一目会いたいということで訪ねて来てくれた。この人は夏に五島巡礼をしている人で、この年の瀬になぜ?と思っていたら、1人ではなく2人で来ていた。いわゆるカップルである。
▼ちょうど会いに来た時はすぐにでも走り込みに出ようかという時だったので、せっかく来てくれていたのだけれども短い時間会話しただけだった。だが話の続きがきっとあるに違いないと感じ、夕食をご一緒させてほしいと持ちかけたら、喜んで引き受けてくれた。
▼奈摩に「やがため」という旅館がある。ここに2人は宿を取っていた。車で食事に向かうと言ったら、「迎えに来ます」ということだった。三菱の電気自動車で来てもらい、帰りはタクシーで帰る予定だった。食事は会話も弾み、福見教会では大切な場面もあったと聞いた。
▼食事も満足して、帰ろうかとしていたら、「帰りも車で送ります」と言う。甘えて帰りも載せてもらったのだが、それが失敗だった。浜串に帰りついたときには、車の残り走行距離は3キロになっていて、充電ステーションまでもたどり着けない状況だった。
▼困り果てて、わたしの車を乗って帰るよう提案し、あとのことは明日また考えようと勧めると、「そうします」ということになり、何とか2人宿に帰ることができた。翌日はレンタカー会社が車の引き取りと、貸した自家用車の返却に来てくれた。電気自動車も、もっと走行距離が延びてくれないと、こんなことはまだまだ起こるだろう。

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新企画今週の1枚
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第176回目。新年に、何が撮影できるかわかりませんが、初日の1枚。
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お知らせとお願い☆彡
■■アンケートを実施します■■

メルマガも500号を超え、ちょっとした長寿メルマガに育ってきました。
ここでアンケートを実施し、みなさんの声を少しでもメルマガに反映
させたいと思いました。実施は、10月1日から年内いっぱいを考えて
います。アンケートの集計結果はこうじ神父だけに届きます。性別を
お尋ねする項目はありますが、匿名で実施します。

アンケートのURLと内容は以下の通りです。内容をお読みになり、もし
ご理解を得られましたら、アンケートにご協力ください。

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