こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第21主日(ルカ13:22-30)たくさんの物を持って狭い戸口は通れない

2007-08-26 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/08/26(No.314)
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年間第21主日
(ルカ13:22-30)
たくさんの物を持って狭い戸口は通れない
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今日の話は、夏の思い出という感じで話してみたいと思います。かつて中学生が15人とか20人いた教会で、黙想会というかたちで休みに入る直前の第二土曜日と日曜日に一泊黙想会をしていました。とある年度の中学生黙想会の時も、開始日の午前中、その日の夕食の買い出しをスーパーでこなしていました。

私がスーパーで買い物するといったら、釣り具コーナーで釣り餌を買うくらいのものですから、こういうまとまった買い物となると、どこに何があるのか、また15人近くの子供たちの材料の分量はどれくらいになるのか、さっぱり見当もつかないまま、適当に材料をかごに投げ込み始めたわけです。その年はカレーを作る予定でした。

当たり前のことですが、カレーの箱に5人前と書いてあれば、まあ、そのカレーを3箱買うわけです。タマネギやニンジン、ジャガイモなどの野菜も買う、お米も買う、しまいには中学生だからデザートも買わなきゃあと、次から次に買い込みまして、まあ見事な量の買い物になりました。

押し車のカートに乗せているので、レジを通るまではよかったのですが、さてこの買い物を袋に詰めて、自家用車まで運ばないといけません。あーどうしようかと思ったら、神様はちゃんとしてくださるんですね。当時の教会の顔見知りの方が手伝ってくれまして、ようやく買い物の労苦から解放されました。

15人分、時には20人分のあの買い物を、もしも最初から最後までひとりで済ませようと思えば、できないことはないでしょうけれども、きっと車に乗り込むまでに一波乱あっただろうと思います。たとえば、詰め方が悪くて買い物袋が破れるとか、出入り口を通るときに人様に触れて、迷惑をかけるとか、いちばん考えられるのは、両手に山のように抱えたままで、どうやって駐車場に置いている車のドアを開くか、考えれば心配がたくさんあったわけです。

スーパーのドアは、たいてい広い出入り口です。そんな広い出入り口ですら、こんな心配が頭をよぎるのですから、出入り口が狭かったら、どうなることでしょう?今日の福音は、そういうことを私たちに問いかけているのではないでしょうか。買い物袋を下げている姿が、今日の福音を読み解くきっかけになります。イエスが仰るように、人が救われていく戸口が、狭い戸口だとしたら、両手に荷物を抱えてなんてとても入れないのではないか。そう考えてみたのです。

両手に荷物を抱えると、荷物はしばしば横に膨らみます。これではさすがに、狭い門を通ることはできないかも知れません。イエスが、「狭い戸口から入るように」とおっしゃるのですから、少なくとも、「あれも持っていきたい、これも手放せない」と言っていては、救われるものも救われなくなるのではないでしょうか。

狭い戸口をもう少し踏み込んで考えてみましょう。イエスは、朗読箇所にある「狭い戸口」というたとえを通して、本当に言いたいことがほかにあるのではないでしょうか?イエスは、狭い戸口から入るためには、ご自身への全面的な信頼、これだけをもって戸口に近づきなさいと呼びかけておられるのではないか、そう思います。

もしかしたら、イエスのおっしゃる戸口は、人間の常識を越えた狭さかも知れません。その狭さが、両手でこじ開けでもしないと入れないような狭さだとしたらどうでしょう。そうなると、手にはもう何も持つ余裕などないはずで、ただ一つ、私はイエスを通して救われたい。あなたにすべてを託したい。この一点だけが、私たちに許される持ち物なのではないでしょうか。

この地上で、私たちはたくさんのものを手に入れたり、失ったりするでしょう。それらは、イエスのおっしゃる「狭い戸口」の前に立つときには、すべて、はかないものなのかも知れません。私は、そのはかないものと、ふだんの生活の中でどのように付き合っているのでしょうか?「詰まるところは、この世のものに過ぎないのだ」ということが、頭の中できちんと理解できているでしょうか?この点を今日私たちは問われているのだと思います。

たった一つのものだけが、この狭い戸口を通り抜ける際の持ち物です。私に必要なもの--それは、今このときでも救いのためにかけがえのないものでもあるのですが--イエス・キリストあなただけですと、はっきり信仰表明できるでしょうか?もう一度、自分の生活を振り返ってみたいものです。


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ちょっとひとやすみ
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▼1年ぶりに郷里の五島に帰った。帰っても何もない田舎。ケータイが圏外になり、ちょっと連絡取ったりメールを受信するために外の車庫に出て戻ってくる。何度かメールでやりとりするためには、家にいながら連絡取れない。悲しい。
▼火災で全焼した新上五島町北部の江袋教会を休暇を使って訪ねた。初日は父親が運転するトラックで出かけたが残念ながらアポイントメントを取らずに行ったために主任司祭に会えず。アポイントが取れて、翌日、帰りの船を気にしながらママ原チャリ(=母親のスクーター)で出向く。
▼詳しいことはここに書かないが、やはり目で見て、地元の人の声を聞いて、何かをつかむことは大切だと思う。そういう意味では、今回の休暇はものすごく収穫があった。この休暇中にどうしても果たしたかったことが実現できてよかった。
▼帰ってきてみると、また現実が待ち受けていた。時間が止まったような休暇から、嵐のような現実に引き戻され、また日々を走り抜ける。

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こうじ神父絵手紙
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第94回目。ふるさとでちょっと目を引いた看板。「ざーま」を意訳してみてください。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第22主日
(ルカ14:1,7-14)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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年間第20主日(ルカ12:49-53)わたしは火を投ずるために来た

2007-08-19 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/08/19(No.313)
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年間第20主日
(ルカ12:49-53)
わたしは火を投ずるために来た
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「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」。イエスの言葉は、この先、きっとビックリするようなことを話すのだろうなあと感じさせます。

私たち日本人は、火を「ものを清めたり」「不純なものを取り除いたり」「あっという間に焼き尽くしたり」するものとして、力強さやある意味での神聖さのあるものとみなしていると思います。

その、私たちが「神聖」と思っている火を、まことの意味で神聖な方、イエスがこの地上に投じると仰います。きっとそこには、何かが清められ、不純なものが取り除かれ、神聖なお方の望みに沿わないすべてのものが、あっという間に焼き尽くされるのでしょう。イエスはそのために、「火」をたとえにして話してくださったのだと思います。

私は、「イエスそのもの」が、ここで言われる「火」ではないかと思っています。目に見える火も、たしかに鉄のようなものでも溶かし、あるいは鍛え上げ、不純物を取り除くかも知れません。ですがイエスそのものは、目に見える火にさらにまさって、人間を含むすべてを清め、鍛えていくのです。

実はイエスという「火」は、人としてこの世に生まれ、十字架を通って復活されたことで、すでにこの世に投げ込まれたのです。「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」。イエスがおっしゃるこの「どんなに願っていることか」は、どれほど強い願いでしょうか。これ以上の願いが、考えられるでしょうか。

その火は、既に投げ込まれました。既に投げ込まれているのであれば、イエスという火は、私たちの教会の中で、燃え広がっているでしょうか。また私たち一人ひとりの中で、どうしても必要なものとそうでないものとを選び分け、取り除くために燃え続けているでしょうか。イエスの救いの働きに反対する考え方や習慣を、燃やし尽くそうと働き続けているでしょうか。イエスの救いの働きに逆らうけれども、私の中にいつまでもためておいて、燃やし尽くさずにとっておこうとしていないでしょうか。

親の過保護や、子どもの甘えによって、神が清めようとする時間を清めさせまいと抵抗したり、人の目をいちばんに気にして、信仰の話を遠ざけようとしたりしていないでしょうか?火が、既に燃えていたらと願っているところに、私たちは「この世」という名のバケツの水をかけてはいないでしょうか。

さて、日曜日は、伊王島の小中学生で宿泊学習を予定しています。今年も、朝のミサに来てラジオ体操をするぞと言っておいたのですが、かなり努力して参加してくれています。宿泊学習も含めて、夏休み中に甘えたりサボったりしたい気持ちをイエスは導き、燃やし尽くして、鍛え続けてくれていると思っています。

きっとこの子供たちは、自分たちがひと夏ずつイエスの鍛錬によって鍛えられているとは感じていないかも知れません。けれども、この小学生中学生の時期にイエスに鍛えてもらったことは、大人になったときにきっと効果が現れると思っています。朝早くからミサに参加し、祈った子供です。ふだんの学期中よりももしかしたら早起きしてイエスの鍛錬にしっかりついて行ったのですから、大人になったときに神はこの子供たちを助けてくださるに違いありません。

ただし、そういう感心な子供も「なかにはいた」ということであって、私は、もっとたくさんの子供が、イエスの内なる火によって鍛えられることを願っています。できることなら、小学生中学生全員が夏休みは毎日ミサに来て、イエスによる訓練を受けて欲しいと思っています。

私たちは皆、イエスという内なる火をいただいた者です。この火にバケツで水を掛けることなく、あるいはこの世の風に吹きさらしにせず、投げ込まれた火を大切に保つことにしましょう。移ろいゆくものはあるときは火に燃やしてしまうという決意が、求められていると思います。

火によって鍛えられて私たちは信者らしくなります。火に耐えられないあいまいな部分は思い切って火の中に投げ込むという潔い信仰を目指しましょう。この潔い信仰に土台をおいて日々を生きることができるように、ミサの中で続けて祈ってまいりましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼土曜日は早朝のミサ、10時半から○○教会をお借りしての結婚式、午後5時20分のミサ前に高島教会で幼児洗礼式、午後5時20分から高島教会の主日のミサと、いつもながらそうとうに中身の詰まった一日だった。走り抜けた感じ。
▼今週、一度釣りに行った。アジ、エソ、イトヨリなどが釣れたが、最近釣っていちばん興奮するのはアジかも知れない。何せ口が弱くて身切れしやすく、最後の取り込みの場面で海に「ポチャン」と落ちて逃げられることがあるからだ。逃げられるのもご愛敬で、そこまで含めてスリル満点なのが、アジ釣りと言える。
▼結婚式では「誓い」ということについていろいろ話してみた。私たちは「約束」は日に何度もすることがあるが、「誓い」を日に何度もするわけではない。「誓い」は「約束」よりも頻度が少なく、そうとうに重い意味合いがあることが分かる。「誓い」はある意味「担っていくもの」であり、生涯にわたって、片時も忘れずに担っていくものという意味合いがあると思う。
▼新郎新婦が誓うものは何か。一言で言えば「あなたを生涯にわたって愛します」「命に代えても愛し抜きます」ということ。それは生涯にわたり、片時も忘れずに担っていくものである。だが人間は完全ではない。生涯にわたって担う「誓い」を、イエスが共に担ってくださる。イエスが先に模範を示し、生涯にわたって共に担ってくださる。イエスへの深い信頼があれば、夫婦は生涯にわたる「誓い」を担っていくことができる。

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こうじ神父絵手紙
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第93回目。本日ヤフオク落札を狙っているカセット型mp3プレーヤー。ほぼ同型です。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第21主日
(ルカ13:22-30)
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聖母の被昇天(ルカ1:39-56)マリアの模範をたたえ、取り次ぎを願いましょう

2007-08-15 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/08/15(No.312)
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聖母の被昇天
(ルカ1:39-56)
マリアの模範をたたえ、取り次ぎを願いましょう
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初めに、与えられた朗読箇所の少し前にエリザベトの取った態度を思い出しましょう。彼女は身ごもって、五か月の間身を隠していたことになっています(1・24)。その理由を想像するのはなかなか難しいですが、彼女の年齢からは考えられない体験を持って、その神秘的な出来事を話す相手が見つからなかったのかも知れません。

マリアもまた、天使から告げられた言葉を誰にも説明できなかったのでしょう。マリアとエリザベト、互いに自分の身に起こったことを話し、分かってもらう相手を必要としていました。そしてマリアは、エリザベトこそその人だと考えたのです。

そこでマリアは、「急いで」山里に向かいます。エリザベットを助けたいという気持ちと、自分もまた話を聞いてもらい、分かってもらうことで助けてもらいたいという思いからでした。マリアの願いが強かったことは、「ザカリアの家に入ってエリザベトに挨拶した」(1・40)ことでわかります。マリアが先に、エリザベトに挨拶します。

エリザベトが先に、「遠いところをわざわざありがとうございます」と挨拶してもおかしくない場面でした。けれどもマリアは、誰よりも先に、よく気づき、思いやりある配慮を示したのです。それは、カナでの婚礼(ヨハネ2章)でぶどう酒がなくなったときに示した配慮につながっていくものでした。

エリザベトは子を宿したためらいをマリアに理解してもらって喜びました。マリアは、「お言葉どおり、この身に成りますように」(1・38)と天使に答えた生き方がエリザベトの賞賛を受け、理解されました。ここには、人と人との最高の対話が成り立っています。伝えたい気持ちが十分に理解され、お互いに喜び合う姿です。

今日は「聖母の被昇天」の祭日です。マリアが、体も魂も天に上げられたことを祝っています。マリアにだけ目を向けると、マリアが天に上げられたという見方になりますが、違う見方もあるかも知れません。それは、「聖書と典礼」の最後の頁に紹介されているように、「マリアが、再びイエスと出会う」という見方です。

マリアが天に上げられることが、イエスと再び出会うことであれば、イエスと出会うその時には、地上では解き明かされなかった出来事がすべて解き明かされるのです。マリアは、地上において、イエスにまつわる出来事で何度も理解に苦しむ思いをしました。救い主が生まれると天使に告げられたのに、救い主には宿屋もありませんでした。救い主イエスが生まれて間もなく聖家族はエジプトに避難しなければなりませんでした。

12歳になったイエスとエルサレムの神殿に礼拝に出かけたとき、マリアはイエスを見失い、神殿でやっと見つけたときに「どうしてわたしを捜したりしたのですか」(ルカ2・49)と言われたこともありました。いちばん苦しんだのは、イエスが十字架にはりつけになって亡くなったときでしょう。

多くの理解できなかった出来事がすべて解き明かされる、それはマリアがエリザベトを訪ねて喜びを分け合ったときにまさる喜びだったことでしょう。マリアはすでに地上において深くイエスと対話していましたが、天に上げられてイエスと再び会うとき、マリアはイエスと完全な対話を交わすことができるのです。

最後に、天に上げられたマリアを仰ぎ見て、マリアの取り次ぎを求めることことにしましょう。マリアは、地上においてエリザベトを訪ね、深い対話を交わしました。また天に上げられて、イエスと完全な対話にはいることができました。このマリアの姿を思い描くとき、私たちが取り次いでもらうべきものがはっきり見えてきます。それは対話の能力です。

人と人との間で、よく気づき、思いやりある配慮をもって周りの人と対話する力を願いましょう。そして、私たちと神との間で、これまで以上に神の計らいに信頼を寄せることを、聖母の取り次ぎによって主に願いましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼いやー、英単語集ものすごく難しい。丸暗記って意気込んでいたけれども、すごく難しい。こんなに難しいの?って思うほど。ビリーズブートキャンプのほうがまだまし。ビリーズブートキャンプもかなりハードだけれども、まだ体を動かして汗をかくほうが、頭を動かして汗をかくよりもやさしいと思う。
▼それは覚悟の上のことだろうし、それでもやるのだろうから勝手にどうぞって感じなのだけれども、頭で汗をかくのはつらいねー。まあこの話は今回はこの辺にして、思いがけないことを思いがけないときに思い巡らしたのでその話を書き残しておきたい。それは司祭館を出て、駐車場に向かっていたほんのわずかの時間に受けた神からの照らしだった。
▼「わたしは、あなたをあがなった」。こんな感じのメッセージだっただろうか。直感のようなものなので言葉に言い表すのは難しいのだけれども、あえて言葉にすると、「わたしは、罪深い人間と、聖そのものであるわたしとを交換して、あなたたち人間をあがなった」という説明になるだろうか。
▼罪に満ちた人間と、聖そのものである神とはまったく釣り合わないので本来交換できないはずである。それを、神はみずからすすんで、交換してくださった。そんなメッセージを、司祭館から車庫までのわずか30歩ほどで受けたのである。どこで何が示されるか分からない。長いこと祈っているから照らしを受けるとも限らない。神は思いがけないときにやって来るのかも知れない。

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こうじ神父絵手紙
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お休みします。

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年間第20主日
(ルカ12:49-53)
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年間第19主日(ルカ12:35-40)私たちは目を覚まして今を生き抜きます

2007-08-12 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/08/12(No.311)
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年間第19主日
(ルカ12:35-40)
私たちは目を覚まして今を生き抜きます
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みなさんは、「合板」という言葉を聞いて、あー、あれのことかとすぐ思い付きますか。思い付かない人のために説明しておくと、一般にベニヤ板と言われているのが「合板」です。薄い板を何枚か縦横に接着剤で貼り合わせたものです。今日の福音を説明するために必要なので、まずベニヤ板のことを取り上げました。今日朗読した福音の箇所は、1枚のベニヤ板のようになっています。中心にいちばん大切な芯になる1文があって、その1文を両方から、同じ材料で接着して組み合わせているのです。どのような作りになっているのか、確認しておきましょう。

今日の福音朗読のいちばんまん中、合板の芯になっている1文は、イエスが今日私たちにいちばん言いたいことです。「はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」。イエスから幸いと言われた僕たちは、将来神の国の宴会の時には、もはや僕ではなく友として、神から給仕をしてもらい、おいしい食事をいただくことになるのです。

考えてみると、神から食事の世話をしていただいてゆっくり食事をするなんて、これ以上ないぜいたくな食事です。いちばんすばらしい方に、いちばんすばらしいもてなしをしてもらって、「どうぞごゆっくり」と声をかけられながらの食事です。ここからは私が考えたことですが、神の国に入るにふさわしいとされた僕たちは、その日から毎日、こんな夢のような食事をするのでしょう。

こんな幸せを味わえる人に、私たちもなりたいものです。そのためにどうすればよいのか。それが中心の1文をはさんで合板のように張り合わされているのです。一方は「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」(12・37)という言葉、もう一方は、「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」(12・38)です。

中心のメッセージを挟むように貼り付けられたこれらの文は、2つの勧めを守る人は幸いだと教えています。一つは「いつでも主人を喜んでお迎えすること」、もう一つは、「主人がいつ来てもいいように、ふだんからよく準備していること」です。この教えを補強するために、今週の福音朗読はさらに両脇に命令する文章を貼り合わせています。「主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい」(12・35)と、「あなたがたも用意していなさい」(12・40)です。これらで中心にある1文を挟み込んで、合板を作り上げているのが今週の朗読箇所です。

繰り返しますが、主であるイエスに食卓でもてなしを受けるという幸せにあずかるためには、2つのことが必要でした。「一つは「いつでも主人を喜んでお迎えすること」、もう一つは、「主人がいつ来てもいいように、ふだんからよく準備していること」です。それぞれ、生活の中でどうやったら実行していけるのか考えてみましょう。

最初の勧めは、私たちに心構えを尋ねているのだと思います。「あなたはいつも、主人である神を喜んで迎えるつもりですか?」この質問に「はい」と答えるためには、よく準備された心構えが必要です。たとえば、「わたしは神に養われているから、とても幸せです。神にいつも見守られていることは本当にすばらしいことだと思っています」というような、神に養われていることを心から感謝する姿勢が必要です。もしも、「どうしてこんな忙しいときにやって来たのですか。もっと暇なときに来ればいいのに」と感じてしまうような体験があれば、私はまだ感謝の心、神をいつも喜んで迎える心が育っていないということになります。

次に、「主人である神がいつ来てもいいように、ふだんからよく準備していること」についてです。これは、はじめの「神を喜んで迎える心」とつながっています。しばしば神は私たちが考えていなかったときにやってきます。神が入り込んでくるにはちょっと早すぎると感じたり、あるいは反対にもう遅すぎると感じるときに神は介入したりするのです。実際には神はいちばん適切なときに、私たちの理解を超えたタイミングで介入しているのですが、こんなときでも「どうぞ、お入りください」と迎えるためには、慌てたり恐れたり疑ったりすることのないように、日頃の準備が大切なのです。

神は考えもしなかったときに「こんにちわ」と言ってやって来ます。それは、あなたの人生の折り返しという場面かも知れません。さあこれで計画したことが実行できそうだというときに計画を白紙に戻すような場面かも知れません。こんな形での介入や、こんなタイミングでの計画変更はどう考えても理解に苦しむと思えるときに、「イエスよ、あなたはどうしてこんな時に割ってはいるのですか」とつぶやいてしまうのです。

神が介入してくるタイミングは、神ご自身が決めることですから私たちには分かりません。神がこうと決めた時間と場所へ、神が決めた形でやってきます。こんなとき、「まいったなぁ」ということがないように、神が計画した介入であればきっと十分な理由があるに違いない、そう受け止めるための訓練を積んでおかなければなりません。

訓練を積む場はいくらでも見つかります。「こんなことをしているときに神が来たら、神は喜んでくれるだろうか」「こんなことを話題にしているときに神がやってきたら、喜んでくれるだろうか」こういう気持ちで、一つひとつの出来事が、神に喜んでもらえるか自分の心に問いかける習慣を付けること。そうすれば、いつ神と出会っても困ることはありません。思いがけない神の介入は、初めは驚き怪しみ、ある時は悲しみや嘆きの原因にもなりますが、最後には信頼と深い心の底での喜びに変わることでしょう。

私たちは福音の呼びかけを長崎の地で考えています。長崎ではこの8月の時期は、戦争について深く考えさせられる出来事を体験しています。それは62年前の8月9日、たくさんの人の命を奪った原子爆弾が落とされた出来事です。本当に、たくさんの人が、無理矢理に命を奪われました。神のもとに、この日一日で何千何万人という人が召されたのです。

あの日の出来事は、神もまた人類の歴史の中でもっとも苦しみを受けた1日だったと思います。だれもが本来の寿命を全うする権利があります。それは、すべての人に約束されなければならないことです。人間同士の悪意のために戦争が始まったとしても、人の命が奪われることはゆるされるべきではありません。8月6日と8月9日に原爆で亡くなった人々だって、命を奪われることを大きな理由のためだったなどと弁解してはならないのです。

現実には、62年前に一つの爆弾で何千人もの人の命が奪われました。神も大きな苦しみを担ったに違いありません。人間がどれだけ人を犠牲にしても武器を捨てず、武器で押さえつけようとするこの過ちを、神は苦しみとして受け止めておられると思います。だれも、命に手をかけてはいけないはずです。戦争をする人間の過ちを見て神は苦しんでおられる。そう考えるとき、私たちはもっともっと、命の大切さを考える必要があるのではないでしょうか。

本当に、与えられた命を大切に思うなら、すばらしい命だと思うなら、私たちは戦争を放棄すべきです。怒りを握りしめている人は怒りの拳を降ろすべきです。こんなことをしていて、神は喜ぶのだろうかと真剣に考えれば、争いはどんなに理由を探しても無意味なはずです。むしろ、争いの道具を手に持つのではなく、両手を自由にして、その手を使って神に感謝を捧げるべきではないでしょうか。私たちのためだけではなく、命を無理に取り上げられ、賛美することを奪われた人の分も、私たちが代わって賛美することも期待されていると思います。

私たちがどんな時代、どんな場所にいても神を迎え入れる準備を怠らないなら、私たちはついに、神の国に召されるとき、神にお世話してもらって食事の席に着くことになるでしょう。神が私たちに、腕をふるって食事を用意してくださいます。私たちは、その神の真心に、お腹がいっぱいになるのではないでしょうか。


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ちょっとひとやすみ
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▼予告通り、英語の勉強のことを話そうと思う。これも話せば長い話になる。ある人から「あんたは英語できるはず、わたしはかつて英語を駆使していた中田神父を知っている」とまで言われた。そういう時期もあったわけで、もう少し辛抱して勉強を積み重ねれば、がらくたの道具ではなくて使える道具になるのではないか。
▼100回の絵手紙シリーズを終えたら、英語シリーズに入ろうかと思っている。目標は、100語から150語程度でまとめられた文章を覚えて、いつでも引き出しから出して使えるようにしておくこと。ある出版社の本を使おうと思っている。
▼さまざまなテーマを取り上げていながらなおかつ単語、熟語、語法、文法、文章の展開、英語を使う人の思考方法など総合的に学ばせてくれる優秀な本だと思っている。初めは丸暗記だが、暗記していつでも引き出しから出せるようにしておけば、いつかそれらを組み合わせて新しいものを生み出せるようになるかも知れない。
▼100語の文章を読み終えるのは2分とかからないが、暗記するとなると10時間くらいかかるかも知れない。気の遠くなるような道のりだが、何かを達成するのだったらこれくらいのハードルを置いても良いのではないかと思っている。ハードルに足を引っかけて膝をすりむいて、松葉杖をついて歩くようになってもやり遂げ・・・たい。

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こうじ神父絵手紙
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第92回目。家族で田平家畜市場に牛を出品した時の様子。県代表でしたが優勝ならず。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
聖母の被昇天
(ルカ1:39-56)
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年間第18主日(ルカ12:13-21)お前が用意した物は、いったいだれの物になるのか

2007-08-05 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/08/05(No.310)
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年間第18主日
(ルカ12:13-21)
お前が用意した物は、いったいだれの物になるのか
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「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りだ」(12・21)。イエスが話したたとえ話の結びの言葉です。私たちはこの言葉を、よく考えて自分に当てはめる必要があります。「自分のために富を積む」とはどういう態度か、「神の前に豊かになる」とはどういう状態か、ここに集まっているすべての人が、両方の面を真剣に考えてみる必要があります。

それぞれに分けて考えてみましょう。たとえ話に出てきた人は「自分のために富を積む」具体例として、「作物をしまっておくこと」(12・17)を思い付きました。しかも、この人は同じ考えを繰り返して、「こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまおう」(12・18)とまで言っています。この人が思い付いたのは、貯めに貯め込むことだけでした。

ところが、この人の命は「取り上げられる」(12・20)ときっぱり告げられます。誰でもいつかは命を取り上げられることになりますが、命を取り上げられたとき悲しい思いをするか、反対に信頼がさらに深まって安心できるかは、命を取り上げられるその日までに取ってきた態度によって大きく変わってくるのです。

たとえ話に出てくる人は、極端に「自分のために富を積む」生き方を選んだのでした。私たちは今どのような暮らし方をしているのでしょうか。与えられた人生の始めから終わりまで、極端に「自分のために富を積む」人はめったにいないと思います。「穀物と財産」この言葉でいろんなこの世の物が表されていると思いますが、多くの人は、何かを人のために差し出して生きているはずです。どこかで、人に喜んでもらえる部分があるはずなのです。

その、人に喜んでもらえる部分を生活の中で削り始めたとき、私たちにも「愚かな者よ」(12・20)という厳しい言葉が降りかかってくるのです。貯めに貯め込むとか、人に喜んでもらうはずの時間や労力を惜しむようになったとき、私たちは本当に大切な命、この世の命が取り上げられても失うことのない永遠の命を危うくしているのです。

人がこの世の物を貯め込むのはなぜでしょうか。いざとなったら誰も頼れないとか、神が何よりも確かな頼りだとどうしても思えないからではないでしょうか。自分の手元からこの世のいろんなものが離れていく、離れていったらもう戻ってこない。こういう経験をするたびに、できるだけ出ていかないようにしなければ自分が損をすると思ったり、神はこの世のものが減っていってもいっさい助けてはくれないと見切りをつけてしまうのかも知れません。

こうなったときこそ、「神の前に豊かになる」ことをじっくり考える必要が出てきます。神の前に豊かになるためには、神のためにこの世のものを使うこと、ここからすべてが始まります。私たちが自分のために貯め込まないで、神のために使えるものはどんなものがあるのでしょうか。

私たちがすでに神のために使っているものを、考えられる限り並べてみましょう。まずは時間です。神を礼拝し、賛美するために、私たちは少なくとも日曜日の1時間あるいは2時間を費やしていると思います。この時間は、決して失っている時間ではありません。神の前に豊かになっている時間です。いちばん実感できる部分かも知れません。

次に、収入の一部を、私たちは神のために捧げています。日曜日の献金がそうですし、年に6回まわってくる特別献金がそうです。また教会維持費や、特別の目的のための積立金など、十分に神のために捧げている部分があります。私たちのもとから必ず出て行っているお金ですが、確実に神の前に豊かになるための支出となっています。神のために手放したものが、神の前に自分を豊かにしてくれないわけがありません。金額の多い少ないはあるでしょうが、神のために手放しているということが大切なのです。

また、教区の行事や地区の活動、小教区で組まれた予定に参加することも、神の前に自分を豊かにすることです。ほとんどのことが、日曜日に組まれています(高島では、婦人会の掃除、大明寺でも大掃除)。馬込教会は7月に、境内清掃をしました。たくさんの方が、汗を流してくださいました。日曜日の休みたい時間です。いろんな使い方があったでしょう。その中で、たくさんの時間を小教区の活動に割いてくださいました。こうしたことは、自分のためには何も残りませんが、神の前には豊かな過ごし方、時間の使い方なのです。

形は違いますが、もう一つ、神の前に豊かになる生き方があります。それは、人のために自分の持っているものを使うということです。ある人は自分の楽しみも横に置いて、家族のためにすべての時間を使います。少しは自分の楽しみのために使ったらと促しても気に留めず、人生のすべてのを家族のため、周囲の人のために使う人がいます。こうした人々は、確かに神の前に豊かな人です。自分のために時間を使いませんでしたが、家族や隣人の中に留まっているイエス・キリストにお仕えするために、自分の一生を捧げたからです。私たちの身の回りにも、このような人がいるのではないでしょうか。

私も自分の司祭職を見つめて思うことがあります。司祭職を通して、「自分のために富を積む」生き方をしてはいないか、「神の前に豊かになる」生き方になっているだろうか、いろんな機会に考えさせられます。洗礼・堅信・聖体・病者の塗油・婚姻など秘跡に関わるお世話をします。これまでに何人洗礼を授けたんだぞとか、これまでにどれだけの人に聖体を授けたんだぞとか考えているとしたら、私は司祭職を通して「自分のために富を積む」ことに心を向けていることになります。自分に何も残さず、「神の前に豊かになる」すばらしい生き方に招かれていても、それでも「自分のために富を積む」危険は減らないのです。

いろんな機会に集まっている人の前で話をします。ミサの説教、結婚式や葬式の説教、または学校やボランティア活動をしている人に向けてなどです。ほとんどの場合、説教をすると同時にその内容は自分から離れ、聞いている人のものとなっていきます。ところが、私の心の中では、ある場合は「どうです、ためになったでしょう」「なかなかいい話だったでしょう」と思っているときもあるわけです。

いつも「なかなか良かったでしょ」と思っているわけでは決してありませんが、まったく思っていないとは言えないのです。こんなことでは、聞く人のためにしているはずの説教が「自分のためにしている」説教に落ちてしまいます。司祭生活が20年、30年続けば数限りなく説教したり話を載せたりするでしょう。こうしたたくさんの説教のうち、9割が神の前に豊かになるような説教になってなかったとしたら、私は20年あるいは30年かけてほんのわずかしか豊かになっていないことになるのです。その危険はおおいにあると思っています。

「お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」(12・20)。私自身のことで言えば、これまでしてきた説教が、本棚に残るのではなく、説教を聞いた人の心の中に残るように、何度も自分に言い聞かせる必要があります。同じように、一人ひとりが、自分の用意した物が、いったいだれの物になるのか、十分に考えておきましょう。いくらかでもいいから、神の前に豊かになるための物であるようにと、心がけたいと思います。


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ちょっとひとやすみ
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▼先々週あたりに体脂肪率25.0%という話題に触れたが、2週間経過して体脂肪率は23.5%位まで下がった。下がったといっても、まだ「やや肥満」であって、一つも自慢にはならない。ただ、汗をかいて努力すれば、体は内部から変わるのだということだけは、この2週間で実感できた。
▼運動はしても食事の管理ができていないのか、2週間で体重は1キロくらいしか落ちなかった。まああっという間に落ちてしまっては「なーんだ、簡単じゃん」と過信してしまうのでそれはそれでいいのだけれども、欲を言えば3キロは痩せたかったなぁ。
▼いちばん変化を感じたのは腹筋運動。ウエストが3センチ細くなったが(たったの3センチ?)そのおかげでベルトをもう一つ細い場所で閉めても苦しくない。あと3センチ細くなったら、着ることができなかったあのスーツ、このスーツを着ることができそう。あと首周りがもう少し細くなったら、ずいぶん楽になりそうだ。
▼来週は細々と続けている英語の勉強のことを話そうと思っているが、これも話せば長い話になる。どこから話してよいのか分からないくらいだが、来週になれば話はまとまっているかも知れない。不思議なもので、前の週には山ほど話すことがあってもその週になるとそんなに話すことってあったっけ?みたいになるから不思議だ。

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こうじ神父絵手紙
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第91回目。MP4プレーヤー。ビリーもお勧めです。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第19主日
(ルカ12:35-40)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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