こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

神の母聖マリア(ルカ2:16-21)出来事の真の見方をマリアに学んでいく

2019-12-31 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2020/01/01(No.1040)
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神の母聖マリア(ルカ2:16-21)
出来事の真の見方をマリアに学んでいく
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「羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。」(2・17)本日新成人の祝福式があります。羊飼いが幼子イエスのことを人々に知らせたように、自分の信仰を人々に知らせる人になってもらいたいと思います。

まずは新年明けましておめでとうございます。今年もよい年でありますように。神の母マリアの祭日のミサを通して一年を始めることで、神の計画を静かに思い巡らすマリアの姿を今年一年の鏡としましょう。年賀状をくださった方もおられると思います。この場をもって、お一人お一人へのあいさつの代わりとさせていただきたいと思います。

福音朗読に戻りましょう。羊飼いたちは飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけ出しました。単に幼子を見つけ出したわけではありません。幼子を見つけるだけなら、毎晩羊の見張りをしながら夜を明かす彼らにとって何も難しいことではありません。そうではなく、飼い葉桶に眠る乳飲み子の中に、「救い主」「主メシア」を見つけ出したのです。

どういう意味でしょうか。羊飼いたちは天使によって出来事を知らされました。天使が語ったことは神の救いの計画と、それが今や実現したことを示す「しるし」でした。羊飼いがマリアとヨセフを訪ねてみると、その両方を確認できたので、人々に「天使が話してくれたこと」を知らせたのです。出来事の向こうにあるものを見る目が、必要でした。

もちろん、羊飼いの話を聞いた人が皆、「神の救いの計画」と「計画が今や実現したというしるし」と、両方を理解できるとは限りません。私は田平教会にいて旅行者の中にロザリオを首から提げてネックレスにしている人を見ました。「ジャラジャラ重たいだろうに。ご苦労様」と思うと当時に、「その身に着けているものが何か、分かりますか?」と話しかけたくなります。祈る道具としてのロザリオが、彼らには見えていないのです。

2019年は皆さんが、教皇フランシスコを直接目で見、あるいはテレビで姿を拝見した年になりました。2020年は私たちの信じているキリスト教に話題を結びつけるまたとない機会です。二度と無い機会かも知れません。神様は、長い教会の歴史の中で、もう一度、小さな人々、貧しい人々に手を差し伸べるイエス・キリスト、神の子みずからが貧しくなって人々に寄り添ってくれたことを示したかったのです。

今、私たちに与えられた教皇は、刑務所に服役している人を聖木曜日の典礼で足を洗ってあげたり、路上で生活している人のお世話をする担当司教と衣服を交換して変装し、自ら食べ物を配ってあげたりするお方なのです。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25・40)この世界に生まれたままのイエスを、現れたときにおこなっていたことそのままを、フランシスコ教皇様は実践してくださっています。

新成人の皆さんにも、周りの人に自分の信じていることを説明してあげる人になって欲しい。「飾り付けているクリスマス飾りの意味がお分かりですか?馬小屋に眠る幼子イエスが、これからどんなことをするかお分かりですか?」あなたの身の回りには、キリスト教の信仰に繋がることをイベントとして単に楽しんでいる人がたくさんいるはずです。その人たちに、「その意味を、教えましょうか?」と近づいてください。

きっと人々は、皆さんが話すことを不思議に思うでしょう。けれども何人かに一人は、出来事の向こうにある意味に気づいてくれるかも知れません。新成人の皆さんが20年前に受けた命、キリスト教の信仰は、出来事の向こうに神の働きがあるのです。目に見える命だけでは、命の大切さを説明し尽くせません。「神が与えてくださった命だから大切なのですよ」と、見える命の向こうにあるものを話してあげる人になってください。説明に行き詰まったら、遠慮無く私を訪ねてください。私の所にその人を連れてきてください。

今日、新成人を迎える皆さん、神の母聖マリアがこの門出を祝ってくださいます。マリアがこう語りかけてくれます。「私は、あなたの母です。肉親の母ではないかも知れませんが、出来事の向こうにあるものを説明するお手伝いのできる母です。私を通してイエスに祈ってください。イエスが出来事の本当の意味と価値を教えてくださいます」そう言ってこの門出の日を祝ってくださいます。

マリアを通してイエスに祈る人であってください。世の中の出来事は、イエスという光に照らさなければ理解できないものがたくさんあります。悩むとき、目の前のことだけにとらわれずに答えを探す導きを、マリアはきっと助けてくださいます。これからも、田平教会と繋がって、神の母聖マリアと繋がって、日々生きることを期待しています。

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‥次の説教は‥‥
主の公現(マタイ2:1-12)
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ちょっとひとやすみ
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▼いつ頃からだったか、結婚のために講座を受けに来るカップルに話をしていると、いつの間にか熱が入って「親が子に言い聞かせるように」話をするようになってしまった。「大丈夫なのか?そんな心構えで。」神様から余計な心配だと言われそうだ。
▼同じことで、新成人の皆さんに私はいかにも人生の先輩のような目線で話をしているのではないかと思った。それでも構わないとは思うが、問題は相手の心に響くかどうかだ。響くのであればそれは方法として正しいが、まったく響かなければ方法を変えなければならない。
▼市町村の成人式で、原稿を朗読している人にひどい言葉を浴びせる新成人の様子とかが報道され、市町村は対応を検討して、原稿の棒読みはやめて市長や町長が新成人の知っている流行の最先端を取り入れたり、涙ぐましい努力をしている姿も流れる。いかにして新成人の胸に響く式典にしようかと、努力している姿は一見の価値がある。
▼成人の年齢が18歳になれば、さらに対象年齢にあった対応が必要だろう。2018年(平成30年)6月13日、成人の年齢を20歳から18歳に引き下げることを柱とした改正民法と、それに関連する22の法律の見直しが可決・成立した。 2022年(令和4年)4月1日に施行される。教会も新成人の祝福式を心に響くものにする工夫が必要になる。

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今週の1枚
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第647回目。もし可能なら、新成人との集合写真を。令和5年からは18歳に?

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聖家族(マタイ2:13-15,19-23)エジプトからイエスが両親を渡らせた

2019-12-27 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/12/29(No.1039)
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聖家族(マタイ2:13-15,19-23)
エジプトからイエスが両親を渡らせた
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聖家族の祝日です。イエスを迎え入れたヨセフとマリアが聖家族の姿です。私たちも家族の中にイエスを迎え入れることで、聖家族に近づくことができます。

鯛ノ浦から、「かんころ餅」が届きました。結構な本数でした。どんな品物でも、ある程度の本数で届くと風邪を引くようです。鯛ノ浦から届いた「かんころ餅」も、「ゴホンゴホン」と言っておりました。

今日は日曜日でありながら「祝日」です。一般に日曜日は「主日」と呼ばれますが、実際の典礼は理屈よりもっと面白く、理屈っぽくありません。ついでですが、神の母聖マリアのあとに祝われる「主の公現」は、日曜日に祝われていながら「祭日」であります。大勢の皆さんには気にするほどのことでもありませんが、気にする人もいるようなので並べてみました。

さて29日9時のミサで、亡くなっている田平教会歴代主任司祭、田平教会出身司祭、修道者、教会建設で命を落とした功労者のために祈っておりますが、教会新聞「瀬戸山の風」でクイズを出しておきました。百周年記念誌をよく見てみると、田平教会出身の亡くなった神父様の一人は、百周年記念誌の通りであれば私より一年あとに司祭に叙階されたことになります。

もちろん間違いを見落としているのですが、間違いに気づいた記念誌作成に携わっていない一般の方がおられましたら、主任司祭に声かけしてください。商品券をお渡しします。一応、20枚用意していますので、気づいた人は早めにお知らせください。記念誌編集にたずさわった人や、百周年の実行委員会メンバーは、見つけても商品券はあげることができませんのでご遠慮ください。

さて、亡くなられた諸先輩を思い浮かべる時、諸先輩方が肌身離さず持っていたものは何かと考えました。亡くなるにあたってはさまざまなものを手放さなければなりませんが、神様は幸いに両手をお与えくださって、両手で何か一つくらいは肌身離さず持って神様のもとへ行けるようにしてくださいました。何を最後まで握りしめていたのでしょうか。

それは、イエス・キリストだったのではないかと思います。どんな人でも人生の最後にあれもこれも持って旅立つことができないことは分かっていますが、それなのに持っていっても仕方のないものや、持っていくべきでないものにすがりつくこともあるわけです。そんな中で、ミサの意向に加えた諸先輩方は、イエス・キリストだけを、肌身離さず持って、旅立っていったわけです。

イエス・キリストを抱いて旅立つ人は、きっと生きている間もイエス・キリストがより頼むのに値するお方だと理解して生きていたことでしょう。イエス・キリストと縁遠い生活をしている人が最後だけイエス・キリストを抱きしめるとはとても思えないからです。どんな思いでイエス・キリストに自分を委ねて生きたのか、本人にしか分かりませんが、今日の福音朗読は、私たちの先輩方の思いを理解させる鍵になると思います。

本日の朗読箇所は、ヨセフを通して明らかにされた神の計画を紹介しています。主の天使が夢でヨセフに現れ、「エジプトへの避難」と、「エジプトからの帰国」に聖家族を駆り立てます。ヨセフには時間が与えられませんでした。何も持たずに、行動したのです。二度とも「起きて、子供とその母親を連れて・・・」と命じられていますから、あえて言えばイエスを抱きかかえてエジプトに逃れ、イエスを抱きかかえてエジプトから帰国したのでした。

エジプトでの生活がまったく見通せなかったにもかかわらず、イエスを抱きかかえていた聖家族は困難な生活を乗り越えました。エジプトから帰国する時、ヘロデの子アルケラオが引き続き命を狙う可能性があったのに、イエスと一緒であった聖家族はナザレで生活し始めます。何も見通せなくても、危険のさなかにあっても、イエスを受け入れた家族は常に守られ、導かれていくのです。

私たちが聖家族に近づくために必要なことがこれで見えてきました。聖家族はイエスを腕に抱く家族です。聖家族はイエスを家庭に受け入れた家族です。イエスを腕に抱いたまま、自分優先の生活はできません。イエスが家族の中にいて初めて自分の家族は成り立っている。そう理解できるようになった時、私たちの家族は聖家族に近づいていきます。

先が見通せない時、腕に抱きかかえたイエスを地面に置いて、両手を使って自力で道を開こうとしますか?イエスと共にいない未来を切り開いて何になるでしょうか。危険のさなかで、イエスを脇に置いて自力で安全を確保しますか?イエスに守ってもらえない安全に、何か意味があるでしょうか。聖家族に近づけば近づくほど、私たち神の家族はこのように考えるはずなのです。

もう一度、聖家族の前に家族で身を置きましょう。私たちは聖家族を遠ざけて生活を確立できるかどうかを。答えをはっきり示してもらったなら、正直にその答えに沿って歩きましょう。一人ひとりの人生、家族の未来、教会家族の未来も、聖家族に近づこうとするかどうかに、最初の一歩がかかっているのです。

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‥次の説教は‥‥
神の母聖マリア(ルカ2:16-21)
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ちょっとひとやすみ
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▼田平小教区内には、引退した田平出身の先輩司祭がいる。以前メルマガ890号と1028号の「ちょっとひとやすみ」で登場しているが、金曜日に司祭館を訪ねてくれた。ご降誕を迎え、馬小屋に御子様を礼拝に来てくださった。歩いて10歩もない司祭館に住む私が聖堂にわざわざ御子様を拝みに行かないというのに、先輩司祭はシニアカーで、寒い中おいでくださった。まったく頭が上がらない。
▼その神父様が私を喜ばせてくれた。「主任神父様に届けてもらった教皇ミサで支給された祭服でご降誕のミサをささげたよ。どうもありがとう。」私に洗礼を授けてくれた神父様から「ありがとう」と言われる日が来るとは夢にも思わなかった。
▼ついでにこんなことを尋ねた。「あの祭服一式を見て思ったのだが、祭服のストラは上に着けるものか、中に着けるものか?」「神父様、最近通達が出てですね。カズラを着用するときのストラは中に着けると指示されているのですよ。」「おーそうだったか。初めて聞いた。大事なことを聞けて良かった。どうもありがとう。」ますます恐縮の至りである。
▼恐らくその通達は、現役の司祭には届いたが、引退の司祭には届いてないのかも知れない。ひょっとすると、「小教区内の管理者は主任司祭なのだから、引退司祭に知らせるべきだ」ということだったのかも知れない。教区本部にもいろいろ余裕がなくなってきているのだろう。私か、前任者が知らせれば済んだ話だということにしておこう。
▼最近、「今日に限って説教の前に雑談しませんでしたね」と声をかけられた。「最初の話に興味があるのだな」と思ったがそうでもないらしい。「面白くは無いけれども、いつものことがいつも通り行われないと変な感じがするもので、どうしたのかなぁと思っただけです。」どうやら面白くなくても定着はしているらしい。

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今週の1枚
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第646回目。2019年が終わる。2020年代に入る。しばらく戸惑うことだろう。

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主の降誕(日中)(ヨハネ1:1-18)「ことば」こそ、人間にいちばん近くあるもの

2019-12-25 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/12/25(No.1038)
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主の降誕(日中)(ヨハネ1:1-18)
「ことば」こそ、人間にいちばん近くあるもの
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あらためて、主のご降誕おめでとうございます。ご降誕日中のミサでヨハネ福音書の冒頭部分が読まれます。この部分、今年は夜半のミサとうまくつながりをもって説教ができそうです。

夜半のミサの説教で、「いちばん近くに来られた救い主」について話しました。この日中のミサでは、「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(1・14)と証言しています。この宣言は、何がいちばん近くにあるものかを考えさせます。人間にとって、いちばん近くにある道具は何でしょうか。それは「ことば」ではないでしょうか。

私たちには目や口、手足といった見える部分がありますが、それ以上に近くにあるものがあるとしたら、それはことばではないでしょうか。この世に生を受けて、私たちは、最初は手足を動かす力もありません。ですが生まれたその時から「声」を発しています。頭も座っていない、寝返りも打てない時から、自分の存在を知らせるために「声」を発しているのです。これは、人間にとって最も近い道具が「ことば」だと感じさせる出来事ではないでしょうか。

また物心つくと私たちはことばで自分の意思を伝えます。ことばで思いを表現します。ことばを空虚なものにしないために、手足を使ってそれを証明しようとします。思いを伝えるため、多くの場面でことばが先にあるのではないでしょうか。ことばが先にあるのは、すなわちことばが私たちのいちばん近くにあるからだと思うのです。

イエスは「言(ことば)」です。「言(ことば)が肉となった。」ことばが肉体と一つに結ばれました。いつか、発せられたことばは肉を離れますが、これから発せられようとしていることばはその人の最も近くにいます。神は人間の最も近くにおられるために、「言(ことば)」としておいでになったのです。

ことばはいつか外に向かいます。ことばは相手を必要とするからです。私たちを離れて、誰かの元に届いていきます。ここで私たちは、外に向かおうとしていることばに十分注意を払うべきです。私たちと同じ肉体に、ことばが宿りました。ことばが肉となった姿をこのご降誕で見たのですから、私たちはこれから語ることばに十分注意を払うのです。

私の語ることばに、御子イエスがおられるでしょうか。私たちが他の人に向けて放つことばに、喜びの知らせが込められているでしょうか。私たちのことばにとげがないでしょうか。誰かを悪く言って自分を守ろうとする企みがないでしょうか。

神の言(ことば)が肉となった今、そのようなつまらない策を練っている場合ではありません。まっすぐに、口から溢れることばが救い主の喜びを告げることばとなるように、幼子の前に跪き、語るべきことばを受け取ることにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
聖家族(マタイ12:13-15,19-23)
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ちょっとひとやすみ
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▼かつて浦上でお仕えしたK神父様は、よくお祝い日にご馳走の食事会を開いてくれた。考えてみれば主任司祭と助任司祭がいる生活なので、一人でケーキをつつく場面にはならない。そんな中でにぎやかにクリスマス、復活祭を祝った。とても懐かしい。
▼他にも、日頃から親しくしてくれている家庭にお邪魔して食事の招待を受けることもあった。当時は大勢で押しかけていたので、その家族はかなり忙しかったに違いない。しかも主任司祭の話、助任司祭それぞれの話、まったく同じではないので聞くのも疲れたことだろう。
▼「ひとり焼き肉」があるから、「ひとりクリスマス会」もあるのだろうが、私は望んでは「ひとり・・・」は避けたいので、寄せてもらうなどしてにぎやかにクリスマスを祝おうと思う。24日は幸いに「クリスマスの集い」があるから良しとして、今年はアタックしてみる。
▼できれば、思いがけない家、思いがけない声かけになるような場所がいい。イエス・キリストは家畜小屋で生まれ、そこに居た家畜は、「思いがけない客」の相手をしたわけだ。

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今週の1枚
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第645回目。御子様、聖マリア、聖ヨセフが揃い、羊飼いも訪ねてきた。

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主の降誕(夜半)(ルカ2:1-14)救い主はあなたのそば近くに

2019-12-24 | Weblog
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2019/12/24(No.1037)
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主の降誕(夜半)(ルカ2:1-14)
救い主はあなたのそば近くに
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主の降誕おめでとうございます。今年のご降誕を「人間にいちばん近い場所まで来てくださったイエス」とまとめたいと思います。私たちのためにいちばん近い場所まで来てくださった幼子イエスを受けとめ、人々に告げ知らせましょう。

今年、私たちは生涯忘れられない体験をしました。それは教皇様をこの目で見たということです。身体の調子その他で長崎での式典、あるいはミサに参加できなかった人もいるでしょう。そんな人も教皇フランシスコがいる場所は、少なからず見覚えある場所だったでしょう。

原爆落下中心碑、西坂公園、県営野球場。どれかは私たちがその足で立ったことのある場所のはずです。そこに教皇様が同じく留まってくださったことは、田平でテレビで観ていたとしても、それは教皇様をそば近くで見たのと同じです。離れていると言うなら、ミサの会場にいた人でさえも、目の前で見た人と100m離れていた人がいました。それでも教皇様をそば近くで感じたのです。

私たちがあと10年生きたとしても、これだけ近くに教皇様を感じることはできないと思います。教皇様を身近に感じたことで、ご降誕の神秘を通して、神が人間のそば近くまで来てくださったことを想像しやすくなりました。どんなに願っても、神が私たちのそばに来てくださることを私たちは要求できないのです。神が私たちのことを深く憐れんでくださったので、この神秘に触れることができました。

神は私たちの所まで来ました。どれくらい近づいてくださったのでしょうか。それは神が人間となられるところまでです。肉体を受け取るところまでです。弱さ、欠点だらけの肉体を受け取るところまで近づいてくださいました。今年のご降誕はこの点に特に注目したいのです。

私たちは肉体の弱さを嫌と言うほど思い知らされています。年齢を重ねてくると、ものを落としたり、手が震えたり、覚えていたことを忘れたり、本当に嫌になります。介護の時、良好な関係を保っている時は良いけれども、辛くなると当たったりします。そんな人間の弱さ、肉体の弱さを、神の独り子は受け入れられたのです。神が弱さを受け入れられたのに、私たちが現実を拒むことが許されるでしょうか?

神の独り子は私たちの弱い肉体、欠点だらけの肉体を取られました。私たちは人間の弱さを感じたり目にしたりします。その時こそ、私たちが人となられた神の神秘を告げ知らせる時です。神は御子イエスを通して、人間の弱さをとことん受け取られました。私たちは関わる人すべてに、神の子が人間のいちばん近くまで来られた。弱さにまで近づかれたことを感謝して告げ知らせましょう。幼子イエスがそば近くにいるうちに、神の不思議な救いの計画を人々に知らせに行くことにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
主の降誕(日中)(ヨハネ1:1-18)
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ちょっとひとやすみ
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▼主の降誕おめでとうございます。聖地巡礼で巡るベツレヘムの「聖誕教会」は言わずと知れたキリスト生誕を記念する教会。この聖誕教会はイスラエル領土にあるかと思いきや、「パレスチナ領土」にある。つまり、エルサレムから10kmしか離れていないのに、パスポートを提示して入国手続きを経なければならない。
▼イエスの誕生は、人の住む宿屋ではなく、家畜小屋であったとされる。それはユダヤ社会から拒絶されてしまったという暗示だったかも知れない。現在の聖誕教会もユダヤ人の住む場所ではなく、パレスチナ住民の住むベツレヘムに置かれている。ベツレヘムという場所は変わらないのだけれども、イスラエル国外であるというのは考えさせられる。
▼イエスは誕生してすぐにヘロデに命を狙われ、エジプトに避難した。早くから避難民の生活を味わったわけだ。避難民の生活、移住移動者の生活は、私もよく分かる。同じ場所に根が生えるほど住むわけではないから、イエスの宣教生活の心境は、どの司祭にも理解できるものではないだろうか。
▼イエスは呼ばれたところに宿を取り、食事を受けた。あるときは「ぜひあなたの家に泊まりたい」と願って宿を取ることもあった。食事は我が家が一番おいしいと考える人が多いと思うが、「我が家」も考えもので、毎年誰もいない司祭館でケーキのローソクを眺めるのもなぁ、と思うわけだ。

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今週の1枚
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第644回目。現時点では御子様が飾られていない。どんな御子様か、イメージ。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/191224.jpg

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待降節第4主日(マタイ1:18-24)我々と共におられる救い主を両手で受ける

2019-12-21 | Weblog
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2019/12/22(No.1036)
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待降節第4主日(マタイ1:18-24)
我々と共におられる救い主を両手で受ける
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「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」イザヤ書を引用して、マリア様が身ごもっている方の未来を天使ガブリエルがヨセフに示した言葉です。「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ(た)」(1・24)とあるようにヨセフは人間としてのためらいを横に置いて行動します。ご降誕ももうすぐそこまで来ていますから、私たちもためらうことなく行動を起こしましょう。

先週の説教に少し触れたいと思います。日本においでになったフランシスコ教皇が、刷新のために選ばれた方、今の時代に必要な方として選ばれたということはお話ししました。教皇様は特に社会の手を必要としている人、さらに社会から必要な支援を受けられない人にまで近く寄り添ってくださる方として知られています。

一つ例を挙げると、教皇様は「焼き場に立つ少年」を示してくださいました。原子爆弾の犠牲となった兄弟をおぶって、火葬してもらう順番を待つ少年です。日本で起こった出来事ですから日本人の私たちのほうが知っていて良さそうな話です。しかしあの写真の少年を知ったのは、教皇様を通してでした。教皇様は、最も助けを必要としている人に寄り添う姿を、私たちに示してくださったのです。

それだけでも日本全体が驚きましたが、教皇様はさらに、私たちのそば近くに来て、寄り添う姿勢を見せてくれたのです。82歳で、足もとが少し不安そうに見えました。けれども教皇様はご自身の心配を横に置いて、日本のカトリック信徒に、日本の教会に、日本の社会に、最も助けを必要としている人に目を向けて寄り添ってあげなさいと模範を示しに来たのです。

ところで、皆さんも少しは聞いたことがあるかも知れませんが、教皇様は80歳以下の枢機卿様による選挙によって選ばれます。2013年当時、世界の枢機卿様は151名いまして、そのうち80歳以下の、選挙権を持つ枢機卿様が115人いました。この115人が選挙して、フランシスコ教皇を選んだのでした。実は教皇ベネディクト16世が選ばれた時、二番目に票を集めたのがベルゴリオ枢機卿、のちのフランシスコ教皇だったそうです。

枢機卿団は、高齢で選ばれたベネディクト16世の後継者は、もっと若い、60代後半から70代前半の人が選ばれるべきだと考えていたそうです。もう一つ、推薦の票が次点だった人が次の選挙で教皇様に選ばれたことは過去に一度も無かったそうです。そうなると、ベルゴリオ枢機卿は候補から漏れていたはずですが、神様は次の教皇様として、「最も助けを必要とする人のそば近くにいてくれる指導者」を必要としていて、選挙の行方を導いていたのだと思いました。

ですから、今、カトリック教会に必要な指導者は、「最も助けを必要とする人のそば近くにいてくれる指導者」ということです。この必要な指導者の姿を完全な姿で示してくださるのは、言うまでもなくイエス・キリストです。今年のクリスマス説教のテーマも、「最も近くに来てくださった救い主」という形で示そうと思っています。来日したフランシスコ教皇様は、このイエス・キリストを見える形で、私たちに示してくださったわけです。私はその意味で、教皇フランシスコは今年最大の、神様からのプレゼントだったと考えています。

「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」救い主の誕生は、「神は我々と共におられる」ということの証です。私たちが受け取るのは、人となって幼子の姿で現れた神様というだけでなく、「我々と共におられる」神様を受け取るのです。

幼子の姿に、すでに示されているものがあります。幼子は、腕に抱きかかえなければ、その場から動くこともできません。私たちと共にいるために、最も近くいるために示された姿が幼子という姿だったのです。すると、私たちが幼子イエスを迎えるために必要な準備があります。一つは、私たちは両手を空にして、幼子の誕生を待つ必要があります。もう一つは、「神は我々と共におられる」というメッセージを受け入れ、繰り返し思い起こしながら生きる覚悟です。

ヨセフはマリアと一緒になるために、思い悩みを捨てる勇気が必要でした。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」(1・19)人間の思いを両手一杯抱えていましたが、身ごもっているマリアを受け入れるために、両手を空にする勇気が必要でした。人間にはできないことですが、夢に現れた天使の言葉をよく考え、神の助けに信頼し、まもなくお生まれになるイエスを、両手で受け取ることにしたのです。

マリアと、幼子イエスを受け入れたヨセフには、これからいくつもの困難が待ち受けています。けれどもヨセフが両手で受け取ったイエスは、「神は我々と共におられる」このメッセージの見えるしるしでした。たとえヘロデに命を狙われても、たとえエジプトでの生活が見通せなくても、「神は我々と共におられる」このしるしであるイエスを抱いて、毎日を過ごします。ヨセフの中にすでに、私たちに必要な準備のお手本があります。

さらに私たちは、教皇フランシスコを通して「神は我々と共におられる」この証しに生きるお手本を頂きました。まもなく迎えるご降誕は、「インマヌエル」「神は我々と共におられる」を受け取る日であり、「神は我々と共におられる」と証しする日の始まりでもあります。最も助けを必要とする人のそば近くにいてくれる指導者を私たちは見ました。私たちも証の生活をしながら、私たちの支えを必要としている人に寛大に心を開く。両手を空にして、残る日々の準備を急ぎたいと思います。

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‥次の説教は‥‥
主の降誕(夜半)(ルカ2:1-14)
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ちょっとひとやすみ
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▼教皇フランシスコの訪日は、今年最大の神様からのプレゼントだった。私たちに宣教者のあるべき姿を植え付けてくれた。最近読み続けている教皇フランシスコの人柄を紹介する本に、教皇になる直前の修道女への黙想の中で「イエスは戸口に立って叩いているのではなく、今や外に出してくれと戸を叩いている」と語ったという場面があった。
▼日本でのキリスト教の宣教も、きっとそのような状況だ。さまざまな宣教の手詰まり状態を、外に原因を求めて(宗教への無関心、経済優先の社会、価値観の多様化)、自分たちがイエスを閉じ込めてしまっていることを棚に上げているのだと思う。
▼教皇フランシスコは外へ出て宣教した。アルゼンチンで布教していた時も、バチカンに移られてからも。私たちは外に出もしないで、外の状況をああでもないこうでもないと議論している。外に出てみれば分かる。外に出なければ、拾える声も拾えない。
▼小学生と中学生の赦しの秘跡をしてクリスマスの準備をさせた。子供達がクリスマスに向けて少しずつ準備し、その日を迎えるのを見るのは大きな希望だ。子供のときにどんなクリスマスを過ごしていたかを覚えたなら、きっとこの時期は教会に足が向く、そんな大人に成長していくだろう。

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今週の1枚
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第643回目。夜半のミサ前のキャンドルサービス。保育園児の記憶力には驚く。

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待降節第3主日(マタイ11:2-11)あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか

2019-12-14 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/12/15(No.1035)
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待降節第3主日(マタイ11:2-11)
あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか
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「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。」(11・7)イエスが洗礼者ヨハネを紹介する時に群衆に呼びかけた言葉です。私たちが見ようとしているものを超えて、真実を指し示してくださるイエスにさらに心を向けることにしましょう。私たちが見ようとしているものを超えて、おいでになる救い主は私たちに必要なものを見せてくださいます。

「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。」私にとってこのイエスの言葉は呼びかけであり、振り返りでもあります。先に呼びかけとして考えると、私たちは長崎で教皇様のミサに参加しました。「何を見に行ったのか」と問われるなら、教皇様を見に行った、ということになるでしょう。ただ、見たのは教皇様ですが、イエス様から見せていただいたのは、これまでとはまったく違う、「刷新をもたらす教皇様」だったのです。

恥ずかしながら、教皇様のミサに参加してから、教皇様の人柄を知るための本をいくつか買いました。その中で「これがいいかな」と思った本を現在読み続けておりますが、教皇フランシスコはこれまでの教皇様とは明らかに違う面を持ち合わせていて、それが現代の教会に必要だったので選挙で選ばれ、第266代の教皇フランシスコとして神様が私たちに与えてくださった方でした。

明らかに違う点は、フランシスコ教皇がヨーロッパからの教皇様ではなく、南米からの教皇様だということです。このあたりは、3月の黙想会で詳しく話したいと思っていますが、今や地域の教会が、全世界のカトリック信者を導く教皇様を生み出す時代になったということです。すべてのことはローマからやって来て、ローマに忠実に従っていればよい。
その伝統と歴史に新しい時代が来たと、教皇フランシスコをお選びになったイエスが示しておられるわけです。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。」新しい教皇様、地域の教会が育て、送り出してくださった新しい教皇様を、私たちは見たのです。

イエスの問いかけを振り返りとして考えるなら、それは私が中学生のときにさかのぼります。神学生は毎年2月5日に西坂まで歩いて行き、26聖人のミサに参加していました。この日も寒い夜で、手をこすり合わせながらミサの説教を聞いたのでした。その年に説教された神父様は、誰だったのか当時は分かりませんでしたが、生涯心に残る説教をしてくださいました。

「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。」「風にそよぐ葦か。しなやかな服を着た人か。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。」(11・7-9参照)ここには殉教者がおられて、私たちに期待しているもの以上のものを見聞きさせてくれるのだ。そういう説教でした。

感銘深いその説教を、私はずっと心に暖めて神学校生活を続けました。ただその説教をしてくれた神父様が誰だったのか確かめる方法を持たず、いつかお目にかかりたいものだと思いながら、ついに大神学校も卒業して司祭となり、浦上教会の助任として赴任したのでした。主任神父様は川添神父様でした。

クリスマス夜半のミサ後だったか復活徹夜祭のミサ後だったか、司祭全員が食堂に残っていろんな話に花が咲いていた時に、主任司祭の川添神父様がおもむろにこう言ったのです。「あなたたちが司祭になるまで大切に暖め続けていたものがあったら話してみなさい。」

年配の助任司祭からそれぞれ話してくれて、いちばん年下の私に順番が回り、「26聖人ミサの説教で『あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。』という説教を聞いて、ぜひこんな説教をする神父様になりたいと思って、それを暖め続けて司祭になりました。」と答えました。

すると川添神父様が一呼吸おいて、「その説教をしたのは私だ。よく司祭になってくれた。よく浦上教会の助任に来てくれた。」と喜んでくださったのです。少年だったあのとき、私が見に行ったものは寒さの中で燃えるような説教をしてくれた神父様でしたが、二度と会うことはないと思っていた神父様を、イエス様はすぐそばで見せてくださり、その神父様に五年間手取り足取り教えていただいたのでした。私たちが何気なく見ているものは、しばしばそれ以上の素晴らしさがあります。イエスが見せてくださっているものは、私が見ている理解をはるかに超える意味と価値があるのです。

私たち自身に当てはめてみましょう。私たちは待降節を通じて馬小屋を準備します。馬小屋には確実にマリア様とヨセフ様、御子イエス様が飾られます。それは毎年のことです。けれどもこの毎年の出来事の中に、私たちが見ているものを超えた意味と価値を、イエス様は示してくださるのです。私たちはそれを楽しみにして、ご降誕のその日を待ちたいと思います。

教皇フランシスコの人柄を紹介する本を読み進めるごとに、私たちが今頂いている教皇様が特別な恵みなのだと理解できます。どこまで紹介できるかは分かりませんが、3月下旬に予定している黙想会で、教皇様に親しみを持つことを黙想会のテーマとして、私たちが誰とでも、どこででも教皇フランシスコについて語れる人になりたいと思います。

聖書の分かち合いはまだできないという人でも、教皇フランシスコの話題はぜひ私も分かち合いたい。そういう人になれるよう、3月の黙想会では実りを願いましょう。これらの力を勇気を与えてくださるのは、まもなくおいでになる救い主イエス・キリストです。私たちにイエスを信じる喜びを確かなものとしていただけるよう、今週もミサの中で恵みを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
待降節第4主日(マタイ1:18-24)
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ちょっとひとやすみ
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▼保育園のクリスマス会に出席してきた。去年は私がうっかりしていたため見ることができなかったが、今年は決して忘れないようにと思っていたので参加できた。入口を通ってみると「席を用意しています」というので案内されるまま向かうと小学校の校長先生が座っている隣の席だった。
▼「田平教会です」とひとまずあいさつしたが、それ以外は何も言葉を交わすことは無かった。それもそうだろう。「教育関係者」の目からは、「宗教関係者」は違う畑の人に見えているはずだから。私のほうからは教育関係者は大いに関係ある人なのだが。
▼校長先生2人は第1部をもって席を外し、退出された。第2部は聖劇だったが、聖劇は「宗教関係」ということなのだろうか。私は久しぶりに聖劇を観て、今までに無い新鮮な驚きがあった。その中で園児を二人取り上げたい。
▼一人は、「大天使ガブリエル」である。大天使は天使を引き連れて登場したが、この園児だけは一切手抜きなしで任せら得た演技をこなしていた。「どこまでが手抜きでどこまでが手抜きでない」のか。私の基準は明確である。
▼大抵、舞台の袖に来ると誰でも手を抜くものだ。多くの観客は舞台の袖、消えかかっている場面はあまり気にしていないのだから。ギリギリになると、両手を羽ばたかせていた天使も手を下ろして走って奥に退く。それは許される範囲だと思う。
▼しかしこの園児は違った!舞台の袖に来ても、完全に消えるところまできっちり演技を続けていた。これは指導する先生のおかげか、この園児の天才的なセンスか、どちらかなのだが、私はこの園児のセンスだと信じたい。なぜなら引き連れていた天使たちは舞台の袖に来るとさっと演技を終了していたから。最後の最後、消えてしまったその時まで美しい演技をしていた大天使ガブリエルに拍手を送りたい。
▼もう一人はマリア様である。当然、劇の終わりの場面では幼子イエス様がお生まれになり、マリア様とヨセフ様が幼子を見守る場面となる。今年の幼子イエス様役はじっとしていない活発な子だった。そのままだと「しずけき真夜中」を台無しにしてしまう。
▼ところがマリア様は、なんと幼子の為に用意されていたおもちゃで気を引いて、あやしていたのだ。私がヨセフ様だったら、幼子イエス様をあやして「おとなしくしてね」となだめることなどとても思い付かない。幼子役の乳児はおもちゃにも飽きて投げ捨ててしまった。するとマリア様は目の前にあった「黄金・乳香・もつ薬」を揺すってコトコト音を出し、幼子をなだめ始めた。「最優秀主演女優賞」に値する名演技であった。

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今週の1枚
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第642回目。もしチャンスがあれば、イルミネーションを。今日が田平の点灯式。

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待降節第2主日(マタイ3:1-12)主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ

2019-12-07 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/12/8(No.1034)
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待降節第2主日(マタイ3:1-12)
主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ
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「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」(3・3)私たちも洗礼者ヨハネからこの言葉を聞いて、待降節の準備を急ぎたいと思います。洗礼者ヨハネの呼びかけから、救い主イエスを迎える準備がどれほど大切なものか、もう一度考える機会としましょう。

皆さん公園デビューという言葉をご存知でしょうか。知っているという前提で、中田神父はこの前「アリーナデビュー」をしました。何を買ったかなぁ。そうでした。「卵1パック・しゃぶしゃぶの豚肉2パック・豆腐2丁・エノキ1パック」を買ってきました。ただ残念ながら、だし昆布を買うのを忘れてがっかりしました。

皆さんもう一つ、キャッシュレス支払いというのをご存知ですか?現金以外の支払い方法です。キャッシュレス支払いだと5%の還元を受けることができます。そこで店員さんに「Suicaでの支払いは可能ですか?」と聞いたら「大丈夫ですよ」と笑顔で応対してくれました。

こう言っては失礼ですが、あの「アリーナ」でさえも、現金払いとキャッシュレス支払いが可能なんです。今回は1021円の買い物をSuicaで支払いを済ませましたが、51円の還元を受けて970円で済みました。私の理解ですが、スイカで払えるなら、ミカンでもリンゴでも支払い可能だと思います。今度試してみたいと思います。

さて、福音朗読に移りましょう。洗礼者ヨハネが教えを宣べる場面です。洗礼者ヨハネの語りは預言者の語り方そのものです。群衆の耳に心地よい言葉を語るのではなく、多くの場合群衆の耳に痛い言葉をまっすぐに語りかけます。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。」(3・7-8)

なぜ耳に痛い言葉を、遠回しにではなくまっすぐに語るのでしょうか。それはおいでになる救い主を迎える準備を怠らないためです。どんな言い逃れもできないような厳しい口調で、ここにいるすべての人が、おいでになる救い主が歩かれるまっすぐな道、整えられた道を今すぐに用意せよ。それが洗礼者ヨハネの伝えたいことです。どんな言い訳も通らない、はっきりした主張です。

ところが私たちは、仕方が無いと自分を納得させるような理由を並べて、イエスのために整えられた、まっすぐな道をなかなか用意しません。たとえば、どうしてもしなければならないことがあったので、晩の祈りを後回しにします。後回しにしただけではなく、どうしても時間が取れなかったので、晩の祈りをしないで寝たりするのです。

それはもちろん他人事ではありません。11月半ば、年内にご主人を亡くされた私の同級生から、新年のあいさつを失礼しますという案内が届きました。私のためにも連絡をしてくれた同級生だから、すぐに手紙を書いて力づける必要がありました。しかし、いろんな仕事を抱えて、明日に回そう、明後日にしよう、年内なら大丈夫、と言い訳をして数日が過ぎ、それでも返事をしなければとこの前手紙を書きました。

しばらく、返事は来ませんでした。「返事は来ないんだなぁ」諦めかけていたその時に電話がかかってきました。感謝の電話でした。それまで離れて住んでいるお子さんが父親の死に大変ショックを受け、立ち直れるようにそばにいたため、私への連絡が遅くなったということでした。自宅に戻ってすぐに、電話をかけてくれたのでした。

私はすぐ思ったのです。「『主の道を整えよ。主の道をまっすぐにせよ。』この通りに振る舞うことが、人生に必要なことを果たす近道なのだ」と。おいでになる救い主に大きく心を開き、何を優先することが救い主の喜びになるだろうか、何に心を向け、心を寄せることを救い主は喜ぶだろうか。このことに特別な注意を払うなら、私たちは人生に必要なことを最短距離で果たせる。そう思ったのです。

お悔やみの手紙を書いて長く返事を待ったのでした。同級生はお子さんを力づけたあと、すぐに返事をくれました。人間的には長く待ったかも知れませんが、神の前にはすぐに返事をくれたのと同じことです。私が「どのように振る舞うことが、救い主をいちばん喜ばせるだろうか」その考えに正直に振る舞った時に、答えが返ってきたということです。人生に必要なことを最大限果たせる生き方は、「主の道を整えよ。主の道をまっすぐにせよ。」という生き方だと、改めて悟ったのです。

私たちは待降節を過ごしながら、救い主の到来を準備しています。確かに準備していますが、年末年始の用事の合間に、救い主を待っているのでしょうか。洗礼者ヨハネの呼びかけは、「何よりもまず、救い主のために道を整え、その道をまっすぐにせよ」です。私たちはそれでも、「いや、洗礼者ヨハネの呼びかけは二の次だ」と言うのでしょうか。私は今回の体験ではっきりと悟りました。「主の道を整えることに力を注げば、人生に必要なことはすべて整えてもらえる」と。

私は、自分が体験し、確信したことを語り続けます。たとえそれが今の時代にそぐわない、今の時代の人々の耳に煩わしい響きであったとしても、私は語り続けたいと思います。洗礼者ヨハネが告げる「救い主のために道を整えよ。その道をまっすぐに保て。」そこにキリスト者としての新しい道が開けます。私はそれを叫び続けて、クリスマスのその日を迎えたいと思います。

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‥次の説教は‥‥
待降節第3主日(マタイ11:2-11)
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ちょっとひとやすみ
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▼自炊生活が始まった。先の「しゃぶしゃぶの豚肉・豆腐・エノキ」は、野菜をたくさんもらったので「鍋」をしようという魂胆である。土鍋にこれでもかと野菜を入れ、アドバイスを受けながら鍋を火にかけた。野菜がしんなりしてきたところでだし調味料をお玉一杯分投入。味見してみると私には少し「甘い」と思ったが、薄味でちょうど良い。
▼野菜が十分火が通ったので、豚肉と豆腐を入れ、適当なところで食堂に。実際に食べてみると昼に食べ切る分量では無くて、これをもう一回食べることになりそう。でも残ったのは三分の一だから、メインは早速頂いたお肉を焼こうか。ここまで料理して食べることしか書いてないが、誰が洗うのよ?ということだ。それは鍋の蓋を開けてのお楽しみ。
▼料理を始めると、説教など二の次である。ほんとに。マジで。内心はそう思っているけれども、もう少し慣れたら、説教もちゃんと「料理」できるようになるかも知れない。A神父様も自炊、B神父様も自炊、C神父様も自炊、ついに私も自炊。神学院はこの状況を何と心得る?神学の講義も大事だが、料理を教えてはいかがか?料理をして、掃除をして、その上に神学を学び続け、説教を準備する司祭をどう育ててくれているのか?
▼まぁ、とやかく言っても始まらない。誰の邪魔も入らず、したいようにする時間は与えられた。しないといけないことは増えたが、したいようにできることを幸いと思うことにしよう。もはやこれからの心配は冷蔵庫に入れたものを食べずに処分するような羽目にならないことだ。言っておくが、それ以外は今の中田神父には「二の次」だ。マジで。

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今週の1枚
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第641回目。誰も興味ないと思うが、本日の一品。名付けて「なんとなく鍋」

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