こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

待降節第1主日(マルコ13:33-37)救い主を待ち望む心を呼び覚ます

2014-11-30 | Weblog
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http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/141130.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。)
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こうじ神父
「今週の説教」
14/11/30(No.739)
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待降節第1主日
(マルコ13:33-37)
救い主を待ち望む心を呼び覚ます
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待降節、新しい典礼暦年が始まりました。「救い主を待ち望む心」を呼び覚ましましょう。「目を覚ましていなさい」という主の呼びかけに答えて、去年の待降節と何か違う心構えを準備できるようにしましょう。

この前調子に乗っていっぱい根魚を釣り上げましたという話を入れようと思っていたら、福見教会出身の岩本繁幸神父さまから24日のクリスマスイブから25日クリスマス当日にお休みを取って帰省しますと電話がかかってきました。

ミサの時間は何時ですかと言われたので、思い切って24日福見の夜7時のミサと、25日朝9時の高井旅のミサをしてくれとお願いしましたら、いいですよとすぐ承諾してくれました。そういうわけで、福見と高井旅のミサは岩本神父さまがささげてくださいます。

今、岩本神父さまは教区会計という重い務めを果たしながら、カトリックセンターで日々人間関係に苦労しているだろうなぁと思っています。ですから、今回は巡回教会の皆さんとミサをささげて大いに慰められるに違いないと思っています。

わたしたちはどうかすると、クリスマスも毎年のこととしてその年その年のクリスマスの違いを意識しないで迎えることがあり得ます。けれども各自よく考えると、毎年何かしらの違う環境の中で待降節を過ごし、クリスマスを迎えるのではないでしょうか。

たとえば、子供たちがいる家庭であれば、子供たちの成長に応じて、去年と今年では違った待降節、違った降誕節を迎えているはずです。上の学校に行くことになり、県内県外に子供が出ることになれば、家族みんなで迎えられるのは今年までかもしれません。就職していよいよ離れた場所で住み始めるとなればなおさらです。家から離れる子供たちも、今までとは違った環境で待降節・降誕節を迎えることになります。

ある人は結婚し、新しい家庭の中で今までと違った待降節を過ごし、クリスマスを迎えます。子供に恵まれれば、今まで存在しなかった全く新しい命と、この季節を迎えるわけです。赤ちゃんの声がする環境で迎えるクリスマスは、聖家族の雰囲気を味わえる特別な時期です。

ある人は家族を見取る時期が来ています。今年の待降節とクリスマスは、来年は見取っている家族がこの世を旅立ち、一緒に祝うことはできないかもしれません。すると今年の待降節とクリスマスは特別なものになります。一日一日、大切に過ごしたいと思える日々になるでしょう。

中田神父は「浜串小教区の皆さんと過ごす5回目の待降節だなぁ」と思っています。やはり5回目ともなると、この先そう長くは皆さんとこの季節を過ごせないだろうなぁと思うわけです。司祭は常に異動が付きまといますから、今年も浜串小教区の皆さんとこの時期を迎え、クリスマスを迎えられたなぁと感謝するのです。本当にありがたいことです。

何らかの、目の付けどころを持って、これからの待降節を過ごしてほしいと思います。準備したり待ったりという営みは、ついつい単調なものになりがちです。環境の違いがあるかもしれないし、心境の違いがあるかもしれません。立場の違いもあるだろうし、楽しみの度合いも、緊張の度合いも毎年違う人がいるはずです。

そうした違いを見つけて心に留め、待降節を実りあるものとしていきましょう。今週選ばれた福音朗読には、「目を覚ましていなさい」という呼びかけが繰り返されています。朗読では主人の帰りを、目を覚まして待っているようにということですが、わたしたちは救い主の到来を、目を覚まして待ちます。

神の御子イエス・キリストの到来が、待降節を心して過ごす唯一の理由です。イエスはわたしたちを救いへと引き上げてくださる唯一の希望です。イエス・キリストが与えられるという喜びには何物も代えられない。かたい希望のうちに、これからの待降節を過ごすことにいたしましょう。

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‥次の説教は‥‥
待降節第2主日
(マルコ1:1-8)
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ちょっとひとやすみ
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▼嫌な予感が的中した。毎年年賀状を用意する(手書きではなく、印刷)ころになると、プリンターが働きたくないと言って駄々をこねる。今使っているプリンターは2009年9月に購入したものだが、5年経ちましたと言わんばかりに「エラーが発生しました。操作説明書をご確認ください」とメッセージが出たっきり言うことを聞かなくなった。
▼使用しているのはキャノンのプリンター。6c10というエラーメッセージだったのだが、ネットで調べると有名なエラーメッセージのようで、ていねいに「これを試してみてください」という書き込みがいくつも見つかった。だがうまくいかない。修理に出したいのだが、年賀状の印刷ができなくなる。
▼仕方なく、年賀状の印刷のためにはキャノンのプリンターを新調し、故障のプリンターは修理に出して再就職先を考えることにしようと思っている。再就職は、たとえば巡回教会の司祭館に置いて簡易コピー機として使用するとか、その程度だろうか。
▼浜串教会には事務用のコピー機がある。しかしこれは年賀状印刷には向かない。これまで何回もだましだまし使用してみたが、インクが乗らない。インクが乗らない印刷をしてしまうと、今度はコピー機内部にインクのカスが残る。これがまた面倒を起こす。リース料も半端ないのだが、コピー用紙以外にはきれいにインクが乗らないのは困りものだ。
▼カラーコピー機の利用方法はさまざまあるのだが、今回こちらでお世話になっているコピー機のメーカーは、内心失敗だったと思っている。年賀状印刷のことを前もって話して、それが無理なら断ると、それくらいの態度で臨むべきだった。次に転勤した時は、今回のことを教訓にしたいと思う。
▼年賀状の印刷レイアウトは1種類は用意できた。だいたいいつも2種類用意する。1種類は大人に送るレイアウト、1種類は子供が単独で送ってきたときのレイアウトである。まれに親から言われた子供なのか、年賀状を書いてくるときがあり、大人用のレイアウトではつまらない時があるので、使い分けているわけだ。
▼今年は、ひょっとしたら早めに年賀状を投函できるかもしれない。何が幸いしてこういうことになったのか分からないが、いつもだったら忙しくて正月三日間で急いで返事を書いているところだが、去年までと生活のパターンが変わったのかもしれない。そう思って考えてみれば、今年はいろんなことに手を出さず、本当に必要なことしかしなくなっているような気もする。いや、それすらしていないから時間があるのかもしれないが。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第346回目。初めて福見教会の人たちにお魚を配った。ハタ系の魚が多かった。

ホームページもご覧ください。
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王であるキリスト(マタイ25:31-46)最も小さな者に駆け寄り、癒す共同体に

2014-11-23 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
14/11/23(No.738)
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王であるキリスト
(マタイ25:31-46)
最も小さな者に駆け寄り、癒す共同体に
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王であるキリストの祭日を迎えました。典礼暦を振り返りながら、今年の典礼暦、どのようにキリストを王として認め、受け入れてきたか確かめることにしましょう。キリストを王と認める具体的な行動は「最も小さな者のためにどんな行動をしたか」を問うことでもあります。

恥を忍んで逃がした魚の話をします。浜串漁港からまっすぐ700mほど沖に出るとキジハタやアコウが釣れるのですが、ついこの前ここで大きな魚をかけました。直前に1.5kgの鯛を上げていたので、ドラグ調整は問題ないはずだったのですが、ジャーっと音を立てたまま糸が出て行き、リーダーが瀬に当たったのか、あっという間にサヨナラでした。

この魚は針を口に差したまま今も泳いでいるはずです。針はケイムラ真鯛鈎のSサイズです。オサダの釣具コーナーのレジ寄り、いちばん右端に並んでいた針です。もし、この針を2本口にくわえた魚を釣り上げましたら、それはわたしが一度かけた魚です。ぜひわたしのところに持ってきてください。

では典礼暦を振り返りながら、最も小さな者のために続けてきた行動を思い起こしてみましょう。教会の暦である典礼暦は、待降節から始まります。待降節の準備を経て、わたしたちは救い主イエス・キリストの誕生を喜び合います。待降節と降誕節の中で、わたしたちは「最も小さな者」のために一つのことを欠かさず実行しています。上五島の中心部にある商業施設の周辺で行う「街頭募金」と、クリスマス当日に行う「クリスマス募金」です。

特に街頭募金は、時には寒さ厳しい中で、その年にさまざまな災害に遭った被災者のために全くのボランティアで呼びかけをしています。この募金は確実に、最も小さい人々を助ける力になります。

償いの季節である四旬節には、カリタスジャパンの呼びかけに応えて「四旬節愛の献金」を実施しています。これは自分たちの生活の中から、四旬節の犠牲の意味も含めて、それぞれが可能な範囲でおささげをするものです。この献金も、日本全体で集められてたくさんの社会貢献に充てられています。

キリストの勝利をたたえる復活節・年間を通しては、たとえば長崎教区では女性部のいのちの募金や、教区全体で取り組む一菜募金などが、最も小さな人々の支援のために活かされています。ここまでは、募金や献金を通しての最も小さな人々に対する配慮でした。

今年長崎教区は、大きな方針を立てようとしています。それは教区シノドスでまとめようとしている提言案です。来月発行される長崎教区の教区報「カトリック教報12月号」に、現時点でまとめられた最終提言案の全文が掲載されています。その中で「教会から遠ざかっている、また遠ざけられている兄弟姉妹への配慮」を第一の課題として掲げ、共に連れ立って『父の家に帰ろう』と呼びかけています。長崎教区は「『最も小さな者』とは教会から遠ざかっている人々、教会から遠ざけられている人々である」という結論にたどり着いたわけです。

ここで福音朗読に目を留めてみたいと思います。すべての民族を裁く王として来られるイエスは、右側にいる人たちに言います。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」(25・34-36)

イエスは王座にどっかり座って最も小さな者に意識が向かない王ではありません。最も小さな者が叫びをあげれば、飛んで行ってその叫びに耳を傾け、癒す王です。長崎教区民もそうでなければならないと、今年の教区シノドスで方針を決めたわけです。

共に連れ立って「父の家に帰る」その道筋として3つの具体策が示されました。「(1)司教・司祭・修道者・信徒の回心と霊的養成(2)祈りと信仰教育を再興し、カテキスタ養成、司祭・修道者召命に力を注ぐ(3)よき隣人として、傷ついた人たちを癒やす教会共同体であること」です。

とくに3つ目の項目「よき隣人として、傷ついた人たちを癒やす教会共同体であること」は、今週の福音朗読の呼びかけと呼応しています。「最も小さな者」を心にかけ、その人々にとって癒しとなることが長崎教区の教会共同体の歩むべき道になります。イエスが最も小さな者を見てそのもとに駆け寄ったように、わたしたちも同じ生き方を求められているのです。

福音朗読の中に登場する王は左側にいる人たちに言います。「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。」(25・41-43)

たとえば長崎教区の司祭たちは、「最も小さな者」の痛みに敏感でなければならない立場にあります。それなのにこれまで鈍感であったことを率直に認め、ゆるしを願わなければなりません。今まで声も出さずに司祭の鈍感さを忍耐し、自分の痛みをこらえていたかもしれません。

過ちのゆるしを請い、再び司祭たちが最も小さい人々に敏感になり、教区民みなで最も小さな者をイエス御自身と受け止めてお世話する。そのような教区に新しい典礼暦年から歩み出すことができるように、ミサの中で恵みを願いたいと思います。

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‥次の説教は‥‥
待降節第1主日
(マルコ13:33-37)
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ちょっとひとやすみ
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▼恐ろしいと思った。ある女性と過去に結婚した3人の男性、過去に交際した3人の男性、合計6人が次々と不審な死を遂げ、今回の逮捕容疑になった男性と2012年事故死した男性から青酸化合物の反応が出ている。しかもこれまでの男性の遺産が女性に入るように仕立てられていて、手に入れた遺産は8億とも10億とも噂され、すでに大半を投資で失っていると言う。
▼仮に不審死が事件でないとしても、この女性は受け取った遺産をなぜ投資につぎ込んで失ってしまったのだろうか。これまでに死んだ男性に、遺産の中からいくらかでも弔いのお金は支出したのだろうか。カトリック教会で言う追悼ミサとか、仏教で言う法事とか、そうしたことにお金は支出したのだろうか。そんなことも行わずに投資で投げ捨てたとしたら、亡くなった男性は浮かばれない。
▼わたしは男性だから、過去の男性たちに同情する。最後に結婚していた男性は、週4回通ってくる容疑者である妻に「新年を一緒に迎えよう」とメールしていたのだそうだ。この人たちすべて、かかわっている一人の女性に期待をかけ、将来を夢見て報われなかったのだとしたら、男性すべてに報いてくれるのは誰だろうか。不条理なまま人生に幕を下ろした人たちは、どのようにして報われるのだろうか。
▼ニュースで次々と事件の続報が流れる。もはやほとんど、わたしの耳には届かない。わたしは報道の間、神が悲しみと嘆きをいやしに変えてくださるようにと祈る。悲しみと嘆き、苦しみの叫びを喜びに代えてくれる救い主が人類に与えられなければ、この世界には希望がない。来週から待降節、主の降誕を心待ちにしたい。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
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第345回目。釣り針(フック)は、一度かかったら簡単には外れません。

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年間第33主日(マタイ25:14-30)この一年の清算は人生全体の総決算にもつながる

2014-11-16 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
14/11/16(No.737)
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年間第33主日
(マタイ25:14-30)
この一年の清算は人生全体の総決算にもつながる
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年間第33主日、来週の「王であるキリスト」を迎えると典礼暦も終わりを迎えます。僕たちの主人が、僕に預けたお金の清算を始める場面は、わたしたちにこの一年どのように過ごし、どのように結果を出したか問いかけているようです。「この一年の清算は人生全体の総決算にもつながる」こうした点について考えてみたいと思います。

たとえ話の主人は、僕たちにお金を預けています。細かい指示は出さず、僕たちが思い思いに活用して儲けを出すことを期待しているのが分かります。もし、このたとえが主人にどれくらい忠実に仕える僕であるかを測るたとえであるなら、細かい指示を出して、その指示にどれくらい忠実であったかを判断材料にするでしょう。

そうではなく、このたとえは主人が自分を信頼してお金を預けてくれたことを喜びと感じ、どれくらい積極的に活用するかを見ようとしているのだと思います。そしてこのたとえから天の国について考えるなら、規則や指示から右にも左にも逸れなかったことが天の国で評価されるのではなく、信頼されていることを喜びと感じて、どれくらい積極的に動いたかが評価されるということです。

皆さんは、積極的に動いてみなさいと言われてお金を預けられたとき、どのように行動するでしょうか。タラントンという単位は6000ドラクメ、何かの仕事に就いてだいたい20年間働いて稼ぐお金です。年間300万円の稼ぎがある人なら、20年分で6000万円ということになります。これが1タラントン。5タラントンと2タラントンは、それぞれの倍数になります。

金額がピンと来なければ、少し金額を下げてみましょう。一人には500万円、一人には200万円、一人には100万円預けた。これくらいの金額でしたら、実感が湧くかも知れません。さてこれだけのお金を主人から預かって、みなさんはどのような積極策に打って出るでしょうか。

たとえ話の主人は、銀行に入れればよかったのにと、主人を恐れている僕を叱りつけていますが、今の時代、銀行の利子は当てになりません。100万円銀行に入れても、金利0.1%と仮定して1000円しか利子は付きません。主人に利子1000円を返すくらいなら、今の時代だったら非課税枠の投資に回したほうがましだと思います。

200万円預けられたら何を考えますか。わたしは半分は非課税枠の投資、半分は教会の絵葉書を販売します。これで別に200万円生み出そうと思います。もっと預かる、500万円預かる立場なら、半分は投資と絵葉書の販売、残る半分で鮮魚店を開店します。仕入れも自分でします。これで別に500万円を手に入れる目論見です。

「神父さまは働いたことがないから簡単に考えている」と笑うかもしれません。また、違う計算を立てる人もいるでしょう。いずれにしても、主人が僕に期待することは、任せられたことを喜びと感じてくれることです。任せられたことを重荷と感じ、わたしに任せたあなたが悪いのですよというような態度を、主人は最も嫌うのです。

主人は僕の報告を聞きながら、こんなことを言いました。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」(25・21,23)主人にとっては、預けたお金は大した問題ではないのです。わたしたちには大きな金額に見えるかもしれませんが、主人が見ているのは任せてもらった僕が、任せられたことを喜びに感じているかどうかなのです。

わたしたちも、まことの主人に人生という限られた時間の中で預けられたものがあり、それを元手に積極的に行動することを期待されています。ある人は優れた頭脳を預けられているかもしれません。ある人は、友達づくりの才能を預けられているかもしれません。またある人は音楽やその他の芸術、または運動の才能が与えられているかもしれません。それらを積極的に活用して、まことの主人である神を喜ばせるような最終報告を待っているのです。

考えてみると、わたしたちが与えられた才能は「少しのもの」に過ぎないとも言えます。わたしの才能が人類の運命を握っているわけでもありませんし、わたしの芸術活動が歴史を塗り替えるわけでもないと思います。たとえそうであっても、才能を与えられたことは喜びと感じてほしいし、結果を報告するわたしたちを神は喜んでくださるのです。手放しで喜んでくれる神が待っておられるのに、それに答えない理由がどこにあるでしょうか。

神はわたしたちに、さまざまな才能を預けました。神が最も恐れているのは、それらの才能を重荷に感じて使わないことです。神がわたしに友達をつくる才能を与えてくれた。それなのに家に閉じこもってだれとも友達にならない。芸術やスポーツの才能を与えられたのに、それを使って人に感動を与えようとしない。こうして神に報告するものを何も準備しないことを、神は最も恐れているのです。

典礼暦は一年の終わりに近づいています。教会の暦を過ごす中で、「御覧ください。積極的に動いて、こんな結果を出しました」と、この祭壇を囲みながらまことの主人に報告をしましょう。こうして典礼暦の終わりを迎えるたびに、祭壇でわたしたちを待っておられる主に報告できるなら、それはそのまま、人生全体の総決算にも活きてくると思います。

人生のいろんな時期で、わたしたちが任せられるものの量や質は変わってくることでしょう。それでも、任せられたことをつねに喜びと思い、誇りに思い、任せられたものに応じた報告を「御主人様、御覧ください」と声を上げることができるように、ミサの中で照らしを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
王であるキリスト
(マタイ25:31-46)
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ちょっとひとやすみ
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▼日本は冬のスポーツと言ったらラグビーということになるだろうか。もちろん他にもあるとは思うが、わたしが思い付いたのはラグビーである。だがテレビ中継はあまりない。サッカーは中継されているが、特に冬のスポーツという印象はない。
▼わたしにとっては冬のスポーツは「アメリカンフットボール」である。衛星放送を観るようになってから、格段にこのスポーツの面白さが分かってきた。だがほとんどの人から聞こえてくるのは、「ルールが難しい」ということだろう。
▼ラグビーのルールすら、難しくて分からないと言う人が多いが、アメリカンフットボールのルールはその比ではない。ラグビーは「前に投げてはいけない・ボールを持っていない人にタックルしてはいけない」それだけ分かっていれば試合を観ているうちに楽しめるようになると思うが、アメフトはそうはいかない。「何でもあり」のスポーツだからだ。
▼アメフトはだれにタックルしても構わないから、いろんなところでいろんなことが起こっている。試合を審判が止めるときに、黄色いハンカチのようなものをグランドに投げるが、どこで何が起こって試合を中断したのか分からないこともしばしばある。そのたびに、「これこれの理由で反則。何ヤード罰退」となる。「罰退」とは何ぞや?
▼分からないルールが多すぎて、最初は何が面白いのかすら分からなかったが、ルールが1つずつ分かってくると、「こんなルールもあったのか」と試合の楽しみとは違うところで興味をかき立てられる。守備と攻撃で選手がそっくり入れ替わる。スポーツ体型でない丸々と太った選手が現れて、攻撃側の選手に立ちはだかる。「分からないことだらけで面白い」といったところか。
▼おかげで、最近わたしのテレビはヨーロッパサッカーが中継されていようがNBAバスケットが中継されていようが、それらを観ることなくNFL中継専用という状態だ。それでも錦織圭選手のテニス中継は別。いつかユニクロのウエアを買い揃えて「なんちゃって錦織」になりたいなぁ。

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今週の1枚
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第344回目。画像が少し荒いかもしれないが、保育園の七五三の様子。

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ラテラン教会の献堂(ヨハネ2:13-22)新しい神殿、新たな時代の幕開け

2014-11-09 | Weblog
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14/11/09(No.736)
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ラテラン教会の献堂
(ヨハネ2:13-22)
新しい神殿、新たな時代の幕開け
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ラテラン教会の献堂の祝日を迎えました。ローマを巡礼したことがないので実際のラテラン大聖堂を見たことがないのですが、コンスタンチヌス帝によってローマのラテランに建てられたこの聖堂の記念は、十二世紀から11月9日に行われたと伝えられています。

この聖堂はローマ司教区の司教座聖堂ですから、初めはローマ司教区だけで祝われていました。わたしたち長崎教区も、浦上教会を司教座聖堂としていまして、献堂の記念は諸聖人の11月1日に長崎教区だけで祝うわけですが、「ローマと世界のすべての教会堂の母であり頭」「全カトリック教会の司教座聖堂」と呼ばれたラテラン大聖堂をたたえるために、全世界のローマ典礼の教会で祝われるようになりました。この日を共に祝うことで、ペトロの座に対する一致と親愛のしるしを表します。

福音朗読に入りましょう。今日のラテラン教会の献堂の祝日と関連付けて、わたしたちの教会のあるべき姿について考えてみたいと思います。イエスは神殿から商人たちを追い出しました。神殿の境内には、牛や羊や鳩を売っている者たちと、両替をしている者たちがいました。

当時の神殿での礼拝は、収入に応じていけにえをささげ、神殿税を納めていました。いけにえは、各自が持ち寄ってささげることも可能でしたが、遠方からはるばる礼拝に来る人たちにとっては、神殿でいけにえの動物を調達できるほうがはるかに便利でした。また神殿税は、当時一般に流通していたローマ皇帝の肖像が刻まれたデナリオン銀貨ではなく、神殿専用の古い貨幣で納める必要があったので、両替をする人もおのずと幅をきかせていたのです。

イエスはこれらの人々を追い出し、強い口調で立ちはだかります。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(2・16)神殿で売り買いをすることがイエスの神経に触ったのでしょうか。

それだけでは、「縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し(た)」(2・15)行動が説明できません。イエスが腹立ち紛れにこのようなことをするとは考えられないからです。二度とこのようなことは行われない。今後、従来の礼拝に立ち戻ることは決してない。その決意の表れが見て取れます。

イエスは何を知らせようとしたのでしょうか。イエスはこの日の出来事で、「新しい神殿、新たな時代の幕開け」を知らせようとしたのです。動物のいけにえをいくらささげても、人間の罪が償われ、救いが完成することはありません。もはや後戻りすることのない救いの完成、イエスによって救われる新たな時代が到来したことを、はっきりさせるためにイエスは神殿から商人を追い出したのでした。

犠牲の動物をいくらささげても救いは完成しませんが、イエスがご自身を犠牲としてささげるなら状況は一変します。神は御子の犠牲を受け入れられ、人類を救ってくださいます。わたしたちは御子が十字架の上で完全な犠牲をささげてくださったことを知っており、この犠牲は今もカトリック教会の祭壇の上で繰り返し行われていると理解しています。

祭壇で行われるミサを通して、動物の犠牲では果たせなかった完全ないけにえがささげられます。そして今日は、ラテラン教会の献堂を祝い、全世界の祭壇でミサをささげることで、一致してこの世界には新しい神殿が建てられていて、新たな時代が到来していることを世に示しているのです。

ところで、イエス・キリストという「新しい神殿」でご自身を犠牲としてささげた唯一の礼拝はすでに完成していますが、この唯一の礼拝は、世の終わりまで受け継がれる必要があります。イエスはご自分をいけにえとしてささげる礼拝を、ミサという形で弟子たちに残し、「記念として行いなさい」と命じました。

ミサ聖祭は、イエス・キリストの身分において祭儀を執り行う司祭と、祭壇を囲む信徒によって行われます。司祭はここにいますが、祭壇を囲む信徒とは誰のことでしょうか。わたしは、今日堅信の秘跡を受けて大人の信徒の仲間入りをする受堅者が、祭壇を囲む信徒なのだと思います。

つまり、堅信の秘跡を受けるまでに長い準備を行い、堅信の秘跡によって聖霊の七つのたまものを受けた信徒が、これからも教会に与えられなければ、イエス・キリストによる唯一のいけにえ、唯一の礼拝は続けていくことができないと思うのです。

もちろん司祭は必ず必要ですが、たとえ司祭がいても祭壇を囲む信徒がいなければ「主は皆さんとともに」「また司祭とともに」というミサ聖祭は豊かさを失ってしまいます。洗礼の恵みを強められ、信仰を強く表す聖霊のたまものを受けた信者が、これからの教会に必要なのです。

中田神父が考える教会のあるべき姿は、堅信の秘跡を受けた大人の信者が常に与えられ、祭壇を囲む姿です。信仰に反する考え方や態度に勇敢に立ち向かい、祭壇を囲んでくれる姿です。イエス・キリストの唯一の礼拝であるミサに集い、共にささげる信徒が絶えない教会です。

堅信の秘跡を受けた信徒がこれからもミサ聖祭にたえず集まる教会は、自分たちが受けた聖霊のたまものによって、信徒同士の活動と、宣教活動にも照らしを与えられ、教会は活動していくでしょう。

今年も、堅信の秘跡を受ける子供たちが上五島地区にたくさん与えられました。イエス・キリストという新しい神殿による唯一の礼拝はすでに始まり、新たな時代が幕を開けています。今年の受堅者にも豊かに聖霊の恵みが与えられ、「わたしを教会の中で使ってください」と勇気をもって答える人に育っていけるよう、わたしたち皆で願い求めることにしましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第33主日
(マタイ25:14-30)
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ちょっとひとやすみ
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▼堅信の秘跡を受ける中学2年生に、筆記試験・口頭試験・祈りの試験の3つを課した。先では就職や進学で親から離れたところに放り出される。その時に教会のことを忘れないように、カトリック信者として自分がどんな教えを受けていて、どんなことを信じていて、どのようにしてキリストにつながって生きていくか、それを確かめるためのものだ。
▼信仰の面で、試験を受けるのはこれが最後になると思う。間違ってわたしが赴任している教会で将来結婚の秘跡にあずかるような生徒がいれば、その時はまたわたしから試験を受けるかもしれないが、それ以外ではもう試験されるようなことはないだろう。だから今回の試験でも、わたしは甘い態度は見せなかった。3人のうち2人は不合格だった。
▼しかし、厳しかったことが記憶に残り、今後は多少の苦しさでは音を上げないで済むと思っている。今は立ちはだかる壁になってくれる人がいない時代だから、主任司祭くらいは壁になってあげようと思う。
▼35年前、自分も堅信の秘跡を受ける前に試験を受けた。だが当時は特別勉強した覚えはない。合格不合格も聞かされなかったし、いくらか形式的なものだったのかもしれない。それでも試験を受けたことで、何かを通らなければ秘跡に近づくことはできないのだと感じたものだ。
▼長崎教区の信仰教育は、「今は理解できなくても後で分かるようになる」という姿勢なので、今は覚えるのも大変だし、本当に御苦労だと思う。それでも覚えたことはじわじわと効いてくる。教えられたことは生活の中でどのように役立っているのか、その時になると気付くことがあるからだ。
▼ことしも小教区から3人が堅信の秘跡を受けて大人の信者の仲間入りをする。身につけたことが社会の荒波を乗り越えていくのに要所要所で力になってくれることを、ぜひこれからの人生の中で経験してほしい。そして、鍛えられた信仰は必ず生きてくることを、年齢を重ね、次の世代にもバトンを渡してほしい。

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今週の1枚
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第343回目。うまく撮影できたら、上五島地区堅信式の様子を紹介。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
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2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
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死者の日(ヨハネ6:37-40)すべての人が終わりの日に復活する

2014-11-02 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/141102.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。)
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こうじ神父
「今週の説教」
14/11/02(No.735)
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死者の日
(ヨハネ6:37-40)
すべての人が終わりの日に復活する
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11月に入りました。教会の暦では死者の月です。今生きている人と死者の違いを今週考えてみたいと思います。そして、すべての人が終わりの日に復活することについて考えることにしましょう。

最近よくキジハタが釣れているのですが、前回出かけたときはいちばん釣れるだろうと思っていた時間帯にまったく釣れませんでした。どういうことだと思っていたのですが、それらしい原因が見つかりました。イルカが四頭、悠々と泳いでいるのです。

わたしのボートから20mくらいしか離れていないところを、しばらく泳ぎ回っていました。おそらくイルカを警戒して、すべての魚がじっとしていたのではないでしょうか。人間は何と鈍感なのでしょう。イルカが呼吸をするために水面に出てきて初めてその存在を意識したのです。水中で魚を追い回している間、魚はたまったものではないはずです。

というわけで釣り始めた場所をあきらめ、1kmくらい場所を移動しました。ここなら大丈夫と思ったのに、場所を変えてしばらくしたらまたイルカがやってきました。しつこいにもほどがあります。ただ、その後1kgくらいのキジハタを立て続けに釣ったので、イルカに追われたのがかえって幸運を呼び寄せることになり、悪い気はしませんでした。

今日の典礼に移りましょう。今生きている人と死者の違いをまず考えてみたいと思います。手足があるかないか、わたしの考えるところそういう点は大した違いではありません。むしろ、どれくらい神を意識しているかという違いが大きいとわたしは思っています。

つまり、生きている人はそれほど神を意識しなくても生きていくことができますが、死者は常に神を意識しています。この違いは大きいのです。実際、この世にあって神を忘れて生きている人、神がいることすら認めずに生きている人もいますが、死者は死後にすぐ第一の審判である私審判を受け、天国か、煉獄か、あるいは地獄のいずれかに置かれ、神の存在を常に感じているのです。

わたしたちは、神の存在を避けることもあるでしょうし、神から遠く離れて逃げることもあるでしょう。いつも神を意識して生きることは、心から願っている人であってもそう簡単なことではありません。

しかし、死者の置かれている状態は、言わば神と向き合っている状態です。死者は神の存在を片時も忘れません。神を避けることも、神から逃げることも不可能なのです。天国に迎えられている人は、神の愛を常に感じていますし、煉獄にいる人は神の深い憐れみを感じています。地獄にいる人が神をどのように感じるのかは分かりませんが、もしかしたら神の裁きは正しくまことであると感じているのかもしれません。

地上の人間も、徐々に神を意識するようになります。年齢を重ねながら、また人生のいろんな場面で病気を経験するたびに、あるいは罪のゆるしを受け、償いを果たすうちに、神を避けては生きられないことを徐々に意識するのです。

すると、今日の福音朗読のみことばが誰のためのものであるかが分かってきます。「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」(6・39)復活の希望へと導く人を一人も失いたくないと願っているイエスの思いは、ほかでもないわたしに向けられているものなのです。

死者も、最後の審判と言われる公審判がまだ控えています。この公審判によって、煉獄にいる人々がすべて天国に迎えられます。天国に入るまでの間、煉獄にいる人々は神の憐れみを一瞬も忘れずに過ごしています。なぜなら彼らは疲れることも眠ることもないので、片時も神の愛の内に招かれる日を忘れないのです。

地上にいる人が片時も神の存在を忘れずに生きることは困難ですが、ミサに参加しているこの時間は、ほかのどの時間よりも神と向き合っていることを意識できる時間です。罪を抱えて神と向き合っているかもしれません。または生活上の悩みや不安を抱えて神と向き合わなければならないかもしれません。それでも、何とかここに集うことで、神を避けることなく、逃げることもしないひと時を作っているのです。

これはかけがえのない時間です。「たしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」(6・40)「子を見て信じる」という態度は、何よりもミサの中で果たすことができる姿なのです。

ミサに集い、神と向き合うなら、より深く神の存在を意識している身近な死者に思いを向け、わたしたちも神を間近に感じる時を過ごせます。死者の日のミサを通して、神を近くに感じる生き方を遠ざけない、むしろ喜んで受け取る勇気を願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
ラテラン教会の献堂
(ヨハネ2:13-22)
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ちょっとひとやすみ
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▼正しい例とは言えないかもしれない。だが面白かったし、よくできた話なので紹介する。木曜日の午後2時のことだった。机でパソコンに向かっていたがあまりにも眠く、そのまま机に伏してしまった。
▼それでも眠気が取れず、今度は頭を後ろに倒し気味に椅子で伸びをして眠った。どうすることもできず、午後3時の町内一斉チャイムが聞こえた。「神さま何か仕事をください」。夢うつつの状態でつぶやいた。
▼すると固定電話の着信音が鳴り、「わたしは○○県に住んでいます。あちこち住所を移しているうちに教会の台帳から名前が整理されて消されてしまいました。あらためて教会籍を所属の教会に作成してもらうために、出生地である福見教会から洗礼証明書を取り寄せるようにと主任司祭に言われました。それでこうして電話でお願いしています。」
▼「求めなさい。そうすれば、与えられる。」(マタイ7章7節)こういう使い方が正しいとは思わないが、寝言のように願ったことがすぐに実現して本当に驚いた。この電話の主はすぐに洗礼台帳の記録が見つかり、その日のうちに書類を郵送することができた。
▼わたしたちは、もっと神がわたしたちの願いを知り、求めれば与えてくださることを体験すべきだと思う。もちろん、ふさわしくない願いもあるかもしれない。「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。」(ヤコブの手紙4章3節)だが願い求めれば、これが適切か適切でないかは経験を積むうちに分かってくると思う。
▼この日は幸いに眠い牢屋から解放された。だが最近は午前中は何をやっていても眠い。唯一眠くならない活動は釣りくらいのものだ。だからと言って「眠って時間を無駄にするよりは、毎日釣りに行ってください」と勧めてくれる人は誰もいない。わたしは週に八日釣りに行ってもかまわない人間なので、多くの人の願いがあれば、行きたいなとは思う。

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今週の1枚
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第342回目。11月1日、諸聖人の祭日。土曜日朝6時のミサだが、日曜日並みだ。

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文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
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2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
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