こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

復活節第5主日(ヨハネ13:31-33a,34-35)神の民がイエスに倣い愛し合う

2013-04-28 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/130428.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
13/04/28(No.648)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活節第5主日
(ヨハネ13:31-33a,34-35)
神の民がイエスに倣い愛し合う
‥‥‥†‥‥‥‥

金曜日に、青方のゆうちょ銀行でATMを操作したのですが、すぐ脇の丸テーブルに、財布の入った手提げを置いたまま帰ってしまいました。郷の首のガソリンスタンドで「レギュラー、満タン。洗車もお願いね」と言って車を降りようとしたら、助手席に手提げがありません。

シートの下に落ちたのかなと思ったりしましたが、見当たりません。その瞬間、「あーこれは、どこかで忘れてきたんだな」と気づき、血の気が引きました。青方でどこを回ったか考えてみました。まず親和銀行に行って、新札を引き出しましたので、親和銀行に電話をしました。行員さんは、「手提げ類はないみたいですねー」という返事でした。

ガッカリしましたが、ならばゆうちょ銀行だと問い合わせると、「ありますよ。中身を答えてみてください。」と聞かれたので、「ねずみ色の手提げの中に、財布が入っていると思います。財布には、ナカダコウジという名前の免許証があります。」すると応対してくれた人が「はい、確かにあります。お預かりしておきます。」と返事をくださいました。

給油と洗車をしてくれたスタッフの方に事情を言って青方に引き返し、財布を取り戻して来ました。献堂百周年・献堂五十周年記念行事を目の前にしたこの忙しいときに、何をぼおっとしているのだろうか。どれだけ神さまも試練をくださるのだろうか。そんなことを思いました。

今になって考えると、よくまあ財布も持って行かれずに残っていたものだなぁと思います。カード類は役に立たないかもしれませんが、現金もそこそこ入っていましたし、一緒に入れていた免許証の住所を調べれば、わたしからもっとお金を要求することもできたかもしれません。だれもいたずらせず、小一時間そこに置いたままになっていたのですから、上五島の人たちは優しい人たちだなぁと感謝しました。

だれも気にしてなかったのかもしれませんが、もしかしたら、忘れ物をした人をかわいそうに思ったのかもしれません。「忘れた人は困っているだろうなぁ。そおっとしておけば、思い出して取りに来るかもしれない。」それは、ある意味、今週の福音でイエスが弟子たちに与えた掟、「互いに愛し合いなさい」という掟の実践なのだと思います。

さてイエスは、「あなたがたに新しい掟を与える。」(13・34)と切り出しました。この場面は、ユダがイエスを離れていって、夜の暗闇に消えて行ってからの話です。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」(13・21)この言葉がきっかけとなって、イエスのもとに留まる人と、イエスを見捨ててしまう人とが明らかになる場面です。留まる決意をした弟子たちに、「新しい掟を与える」と仰ったのです。

けれども、「互いに愛し合いなさい」という掟そのものは、そんなに目新しさはありません。「兄弟姉妹互いに仲良くしなさい」そうした言葉は、だれでも交わす言葉ではないでしょうか。この掟の新しさはどこにあるのでしょうか。

イエスの掟の新しさは、そのあとに続く「わたしがあなたがたを愛したように」ということばにあります。イエスは、留まる決意を示した弟子たちに、自分がこれまでどんなに深く弟子たちを愛してくださったか、身をもって示されました。多くの奇跡を行い、最後の晩さんの席では、弟子たちの足を洗ってくださいました。

そして今日の場面では、ユダが離れてしまい、裏切る者によってご自分が十字架にはりつけにされ、栄光を現すことが確実となりました。十字架上で人類のためにいのちを与えるほど、イエスは弟子たちに代表されるすべての人間を愛してくださったのです。

ですから、イエスの掟の新しさは、「お互い、できる範囲で愛し合いなさい」というものではないということです。自分を投げ出して、相手を愛する。イエスが示した新しさです。ですから、互いに愛し合うとは、「互いに相手のために自分を投げ出す」その覚悟が必要なのです。

幸い、福見教会は献堂百周年、高井旅教会は献堂五十周年、浜串教会も4年もすれば今の聖堂は50年になります。それぞれが、この聖堂に集い、声を合わせて祈り、声を一つに歌っていますが、互いに愛し合いなさいとのイエスの言葉に生きているでしょうか。

「人は人、自分は自分だから。」そんな雰囲気が、社会を飲み込んでいます。協力はするけれども、自分が損をするのは嫌だ。それがごく当たり前と思われています。その中で、新しい関わりかた、新しい隣人愛を示し、生きるようにイエスは求めているのです。

わたしたちの聖堂は、五十年・百年と年月を積み重ねる所まで来ました。この日までに、きっとだれかが、自分を投げ出してでも、この聖堂を愛し、守ってくれたことでしょう。懐を痛めずに、そこそこ協力しましょう。そんな関わりかたでは、この聖堂は今日を迎えることはできなかったでしょう。

さらに、あと五十年この聖堂を維持するためには、わたしたちの中から、自分を投げ出してでもこの建物を愛し、守ってくれる人たちが続いてくれないと、維持することは難しいと思うのです。そうして大切に守られてきた聖堂に集っているのですから、今がもっとも「互いに愛し合いなさい」というイエスの掟を学ぶにふさわしい時間だと思います。

全能の神と、兄弟の皆さんに告白し、ゆるしを願いました。ともに主の祈りを唱えます。平和のあいさつを交わします。同じご聖体から、皆が養われます。このミサの中で、自分をすっかり差し出して相手を愛する生き方を学びましょう。その生き方が社会の多くの人にも理解されるように心を配りましょう。

大きな喜びの日を前に、わたしたち小教区の神の民は、またとない学びの機会をいただいているのだと思います。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活節第6主日
(ヨハネ17:20-26)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼今回の福見教会献堂百周年・高井旅教会献堂五十周年記念事業は、考えれば考えるほど、準備していないこと、やり直さないといけないこと、配慮が必要なこと、見落としていることが出てくる。社会人としての常識も問われる。
▼だれでも分かりそうなことなのだと思うが、いかに自分が一般社会の常識をわきまえていないか思い知らされることばかりだった。たとえば、お祝い事に包む謝礼は、新札を用意すると知った。そう言えば、受け取ったことはあるが、用意して渡したことがなかった。
▼日本人のきめ細やかさの表れであるが、お祝い事は早くから日程が決まっているので、新札を用意することで心に留めていましたということを相手に伝えることになるらしい。反対に、弔意を表す香典には新札は用いないそうだ。
▼お祝いを包む封筒、「水引(みずひき)」は神事に用いられることから、神経質に考えれば手作りで教会の催しにふさわしい物を用意するくらいの慎重さが必要だったかもしれない。気にしなければ気にしなくてもよいのかもしれないが、あまりにも無頓着だった。
▼祝賀会の準備、食事を担当している婦人部のみなさんの財布はどうなっているのだろうか。わたしはまったく関知しなかったが、婦人部としてみればもっと早くから声を掛けてもらいたかったかもしれない。
▼考えれば考えるほど、頭が痛い。髪の毛が少なくなっていく。苦労したことは決して無駄にはならず、大いに勉強になったのだが、しばらくは「○○周年」には当たらないで過ごしたいというのが本音だ。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第255回目。中町教会に併設されている保育園の聖母像。並べてある物がかわいい。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

復活節第4主日(ヨハネ10:27-30)わたしの羊はわたしの声を聞き分ける

2013-04-21 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/130421.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
13/04/21(No.647)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活節第4主日
(ヨハネ10:27-30)
わたしの羊はわたしの声を聞き分ける
‥‥‥†‥‥‥‥

つい最近国民栄誉賞を受賞することになった長嶋茂雄氏、注目されているからでしょうか、よく特集番組が組まれています。何本か特番を見た中で、現在も懸命にリハビリを続けている様子を特集している番組に心惹かれました。

わたしはリハビリをさせられる経験はありませんが、番組の中での長嶋茂雄終身名誉監督のリハビリの様子を見ていると、相当苦しいものなのではないか、そう感じました。かつて立教大学時代、入学した同期には甲子園で活躍した錚々たるメンバーが集っていて、高校時代ほぼ無名だった長嶋は、だれよりも努力してスターの座を掴んだと言われています。

しかし、その苦しい思いと比べても、脳梗塞に倒れてから失った機能を回復させようとする努力は、比べものにならないほど辛く苦しい訓練ではないか。そう感じました。汗びっしょりになって全身を曲げたり伸ばしたり、マシンを押したり引いたり、文句一つ言わず、トレーナーさんの指示を守って全力で取り組んでいました。

どうしてそこまでできるのだろうか。ちょっと言えばもう後期高齢者のおじいちゃんなのですから、リハビリで苦しむ様子は可哀想でもあります。もう無理しないでいいよと言いたいくらいですが、本人は今も前を向いて、胸を張って長嶋茂雄を生きているのだと思いました。

彼がリハビリを決していやがらない理由を、番組はこう説明していました。大学時代に、だれにも負けないくらい練習して、監督からもしごかれて、「練習は嘘をつかない」ということを体で覚えたのだそうです。そして今は同じように、「リハビリは嘘をつかない」と信じて、見ている方が目を背けたくなるような辛いリハビリを自ら引き受けている。番組はそのように紹介していました。

聞く所では、長嶋さんの奥さんはカトリック信者だそうです。息子の長嶋一茂さんもカトリックの洗礼を受けています。そうすると、どこかで、長嶋茂雄氏もカトリックの教えに結びつくものを見たり聞いたり、また自ら学んだりしているかもしれません。

今週の福音朗読、羊飼いであるイエスと、羊であるイエスに耳を傾ける人々との固い絆、深い信頼関係が描かれているのですが、このたとえ話の羊の姿、わたしは長嶋茂雄氏がだれにも言わずに、自分に今必要な姿として、受け入れているのではないかなぁと思ったのです。

羊は、常に羊飼いによって守られ、導かれなければ生きていくことのできない動物です。実際、方向感覚が弱くて、放っておくとすぐに迷子になって、獣の餌食になる弱い生き物です。そんな羊ですから、羊飼いに従うことは生きる上でとても大切なことなのでしょう。

羊飼いも、羊のことをよく知っています。それぞれの特徴や、弱さまで知っていて、どのように導けば良いのかをわきまえています。だから、羊は自分を任せることができるのです。今日の朗読よりも少し前の箇所では、「ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」(10・5)とあり、やみくもに従っているのではなく、羊は羊飼いを信頼して、自分を委ねているわけです。

放っておけば固くなって動かなくなる体を、トレーナーの人が動かし、トレーナーを信頼して、汗だくになってこんな動きもあるのだよと体に思い出させる。トレーナーを家族のように信頼して、自分の体を委ねてリハビリを続けている。そんな長嶋さんの姿は、やはり今でも背番号にふさわしい毎日を生きているのではないか。そう思いました。

わたしたちはどうでしょうか。イエスを羊飼いとして、全面的に信頼して、一日を始めているでしょうか。全面的に信頼するとは、自分の予想に反する状況の中でも、信じ続けるということです。

努力を続けているのに、思っている結果に結びつかない。こうであってほしいと思う生活ではなく、望んでいないこと、避けて通りたいことが起こる。こんな中でも自分たちを導いてくれる羊飼いイエスを信じ続けることが、今日求められていると思います。

「わたしは彼らに永遠の命を与える。」(10・28)信じる道のりは、易しいことの連続とはいかないでしょう。けれども、導いてくださるイエスは、永遠の命を与えると保証しておられます。わたしたちが、イエスの声を聞き分ける羊と言えるただ一つの状態は、どんな場面でも羊飼いを信頼するという生き方です。わたしたちが羊飼いイエスの羊であるためには、信じ続けることが必要です。

脳梗塞に倒れ、一時は輝かしい場面から消えた偉大な野球選手が、トレーナーを全面的に信頼し、汗まみれになってリハビリを続けています。そうやって、今の生活の中でわたしたちに勇気と感動を与え続けています。

わたしたちが、社会に対して証しするためにも、イエスを信頼し続けることが必要です。わたしたちはだれであっても、どんな場面でもイエスを信頼して生きるなら、イエスを知らない人々に大きな影響を与えることができるのです。「わたしは、イエスの声を聞き分けることができます」と人々に証明する暮らしを続けていけるように、このミサの中で恵みを願いましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活節第5主日
(ヨハネ13:31-33a,34-35)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼人には積極的に行動するタイプと、周りから頼まれたり勧められたりして動き出すタイプがあると思う。わたしは「よっしゃ。任せなさい」というタイプではないので、周りからぜひお願いと言われて何とかやってみることが多い。今回の百周年記念の歌もそうだ。
▼1年ほど前から、「百周年を記念して、歌を作ってみては?」という意見は上がっていた。保育園の園長がとくに乗り気だったので、当然園長シスターが作詞作曲するものだと思っていた。少しも疑っていなかった。
▼その作詞作曲するだろうと思っていたシスターが異動になったので、「シスター。大司教さまをお迎えする立場から、来賓で招いてもらう立場に変わったね」と冷やかし、「百周年の歌はどうするの?」と尋ねたら、「わたしは文章力がないので、神父さまが書いてください。わたしはそれに曲を付けます」と言う。
▼そんな無茶な。小中学校の時、音楽の先生に迷惑がられ、5段階評定で「2」だったわたしが、作詞などできるはずがない。しかし、もしわたしが作らないとなると、百周年の記念の歌の計画は水泡に帰してしまう。それは避けなければならない。後に引けなくなり、苦し紛れに詩を書いた次第である。
▼幸い、これに曲を付けてみましょうということになり、最初に戻ってきた楽譜には、わたしが歌詞の三番として考えたものが一番として上がってきていた。作曲するシスターにとって、三番として用意した歌詞が、一番にふさわしいという判断なのだろう。そこで一番として考えていた詩を二番に、二番として考えていた詩を三番に当てて空白部分に入れることになった。
▼ところが、いざ歌詞を曲に合わせようとすると、ピタリとはまらない。「わが子の手を引いていく」としていた所を「わが子の手 引いていく」と直したり、「いつか子供たちが この手を引いてくれるでしょう」としていた所を「いつか子供たちが この手引いてくれるでしょう」と直したり。ずいぶん苦労した。
▼そうして四苦八苦して詩を曲に収め、今回「福見教会とともに」というタイトルで送り出すことができた。「よっしゃ。わたしに任せなさい」というタイプの人間ではないが、何とか福見教会の信徒に、また未来の世代に、小さな贈り物を用意できたかもしれない。
▼ヨハネ福音書に「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(6・27)というみことばがある。百周年の歌を口ずさむ人々が、永遠の命に至る食べ物を得ることができれば、これ以上の喜びはない。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第254回目。浦上教会坂道の途中に据えられている聖母像。西田さん老けたなぁ。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

復活節第3主日(ヨハネ21:1-14)イエスはみことばで食べ物を与える

2013-04-14 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/130414.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
13/04/14(No.646)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活節第3主日
(ヨハネ21:1-14)
イエスはみことばで食べ物を与える
‥‥‥†‥‥‥‥
今週の福音朗読は、イエスが死者の中から復活した後、三度目になるご出現の様子が描かれています。選ばれた朗読で、20年も30年もこの朗読箇所を耳にしていて、まったく気付いてなかったなぁという点がいくつかありました。皆さんにとっても、新しい気づきかも知れませんので、そこから入りたいと思います。

まず、今回の三度目のご出現は、「シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた」(21・2)という設定になっています。数えると7人です。弟子たちは少なくとも11人いたはずですから、この人数は7という数字に意味をもたせているのでしょう。7は教会の7つの秘跡を思い出させますから、後の教会のことを暗示していると思われます。

次に、イエスが「子たちよ、何か食べるものがあるか」(21・5)と弟子たちに尋ねます。わたしはこの問いかけは、てっきり「魚は捕れたか」という意味なのだと思っていました。「魚は捕れたか」という解釈もあるようですが、厳密には漁があったかどうかを聞いているのではないようです。実際は、漁のあるなしにかかわらず、「食べ物をもっていないようだね」と尋ねていて、「わたしが食べるものを用意してあげよう」という思いがあるのです。

そして、わたしが見落としていた点でもっとも驚いたのは、次の箇所です。「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。」(21・9)弟子たちは食べ物がなくて、漁に行ったはずです。この陸にあったパンと魚はだれの食べ物なのでしょうか。復活したイエスの食べ物だったのでしょうか。

さて、わたしにとってほとんど見えていなかったこれらの部分をつなぎ合わせると、次のように言えると思います。復活したイエスの三度目となる今回の出現は、最初から食べ物を与えるためのものであった、ということです。すでに炭火がおこしてあり、魚もパンも用意してあったというのも、弟子たちに食べさせるためにイエスが先に用意していたのかも知れません。

もう少し話を進めましょう。最初から、イエスが弟子たちに食べ物を与えるために出現されたというのは分かりました。では今週の朗読箇所ヨハネ21章は、ただそのことを書き記すための物語なのでしょうか。もっと、広がりのある物語だと思います。

7人のグループにイエスは食べ物を与えてくださいました。これは、後の教会を表していますから、復活したイエスは、今を生きる教会共同体にも、食べ物を与えてくださることも含まれています。

この7人の弟子のグループは、漁に行くことで食べ物を手に入れようとしました。「漁に行く」ことはすなわち「外に出て行く」ことです。社会に出て、生活の糧を得ようとするのは、現代のわたしたちも同じです。すると、復活したイエスは社会に出て行くわたしたちにも、食べ物を与えてくれると教えておられるのです。

興味深いのは、復活したイエスの、食べ物の与えかたです。かつてイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、感謝の祈りを唱え、裂いてそれを弟子たちに与えてくださいました。今日イエスは、違う形で食べ物を与えてくださいます。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」(21・6)「さあ、来て、朝の食事をしなさい」(21・12)と言葉を掛けて食べ物を与えてくださいました。つまり復活したイエスは、みことばで、弟子たちに食べ物を与えてくださったのです。

同じことは、わたしたちにも当てはまるでしょう。復活したイエスは、今わたしたちの前に現れて、みことばで食べ物を与えようとしておられます。キリスト者であるわたしたちが、社会に出て生活の糧を得ようとするとき、みことばを通してわたしたちに食べ物を与えてくださいます。陸に上がってみると、すでに必要なみことばが用意され、食事ができるように整えられています。イエスはいつも、先回りをして、みことばで食べ物を与えてくださるのです。

福見教会・高井旅教会は4月29日に記念の日を迎えます。福見教会献堂100周年、高井旅教会(正確には52年目ですが)献堂50周年です。ここまでの歩みも立派なものでしたが、これからの歩みは違った意味で困難な道、険しい道を歩むことになるかも知れません。

信徒の高齢化、過疎化、また生活から信仰が薄れてきている危険もあります。そんな中で、これから生活の糧をどこに求めるかと考えたとき、教会に自分たちの食べ物があるだろうかと疑いをもつ人も出てくるかも知れません。

イエスはそんなわたしたちに、今も声を掛けてくださいます。わたしは、みことばであなたたち教会家族に食べ物を与える。教会の外に食べ物を求めに行っているその場所で、みことばを与え、網が破れそうなほどの食べ物を与える。教会に戻って集まっているその場所で、先回りしてみことばによって食べ物を与える。イエスは今も、わたしたちを奮い立たせようとしておられるのです。

4月29日の式典で、福見教会・高井旅教会ともに祭壇を新調します。祭壇は、イエスの食卓のしるしです。祭壇を新しくすることで、新たな心で、イエスのみことばと御聖体から食べ物をいただき、100周年50周年のその先へと歩みを続ける力をいただけるでしょう。

イエスは今も、みことばによってわたしたちに食べ物を用意してくださいます。外に食べ物を探しに行ったときも、祭壇を囲んでいるときも、復活したイエスのみことばがわたしたちを生き生きとさせ、主を思い出すことができますように、このミサの中で恵みを願いましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活節第4主日
(ヨハネ10:27-30)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼こんなこと滅多にないことだが、土曜日の午前中に大司教館にいて原稿をまとめている。この後11時半のジェットフォイルで長崎の大波止香から上五島の奈良尾港に帰るのだが、仮に土曜日に長崎にいたとしても、朝7時40分のジェットフォイルですっ飛んで帰るのが普通である。
▼いくつかの理由で、それをしなかった。1つは、4月からのジェットフォイルの運航時間を見ると、平日にも長崎発の11時半の便があるのだが、平日は下五島の福江直行で奈良尾には立ち寄らない。ところが土日には、この便が奈良尾を経由して福江に向かうルートに変わる。上五島に土日に観光客を呼び込む作戦なのだろう。
▼すると、早起きして7時40分に乗るよりも、早起きして説教の原稿を長崎でまとめ、配信の準備を済ませてから11時半の便に乗るほうが時間を効率的に使える。少なくともわたしはそう考えたので、今回の選択をした。
▼7時40分の便に乗り、福江経由奈良尾着で10時に到着して、それ以降浜串の司祭館に戻って原稿がまとまれば幸いだが、もしまとまらなかったら大変なことになる。それよりは、長崎で頑張っておけば、もしも完成しなくても、五島に帰ってからは続きをすればよいわけだ。
▼原稿を準備中に、特別養護老人ホームに入所している浜串の信徒が亡くなったと連絡が入った。14日と15日で通夜・葬儀ミサとなるが、16日はよきおとずれの編集会議、17日はマリア文庫の音訳奉仕者養成講座の開校式、重ならなくてほっとしている。亡くなられたかたは、わたしの予定を感じ取っておられたのかも知れない。
▼とか何とか言っていたら、緊急に病者の塗油を授けてほしいと連絡が来た。わたしは長崎にいるのだから、こういう場合は近くの教会の司祭に授けてほしいものだ。結果的にわたしを待って間に合わなかったとしたら、五島にとどまっている司祭にお願いしたほうがよほどよいと思う。小教区の垣根を越えて秘跡をお願いする、信徒のほうの理解もお願いしたい。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第253回目。聖母月が来月でもあるので、これからいろんな聖母像を紹介。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/130414.jpg

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神のいつくしみの主日(ヨハネ20:19-31)イエスが真ん中におられることを忘れない

2013-04-07 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/130407.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
13/04/07(No.645)
‥‥‥†‥‥‥‥
神のいつくしみの主日
(ヨハネ20:19-31)
イエスが真ん中におられることを忘れない
‥‥‥†‥‥‥‥

神のいつくしみの主日を迎えました。神がわたしたちに示してくださるいつくしみを、選ばれた朗読福音を通して学ぶことにいたしましょう。

復活したイエスが、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけている弟子たちに現れます。しかも、その現れ方を「そこへ、イエスが来て真ん中にたった」と書き残しています。

「イエスが弟子たちの真ん中にお立ちになる」この様子は、2度繰り返されています。最初は、トマスがいない場面です。2度目は、トマスもその場にいる場面です。2度とも、同じような現れ方をしたことに、わたしは何かのお考えがあるように思います。

こんなことを考えました。復活したイエスは、信じる人々の真ん中に立つようにして現れてくださるということです。恐れを抱き、人々から身を隠しているときにも、さらにその上に、最初の出現に立ち会えず、深く気落ちしているときにも、復活したイエスは人々の真ん中に、平和をもたらすためにおいでくださるということです。

この出来事は、わたしたちの信仰生活にもつながっています。わたしたちも、イエス・キリストを信じてその信仰を土台にして歩んでいる者です。けれども、実際の教会生活は、理想ばかりの生活ではありません。弱さを持った人間が、信仰生活をしているわけです。

教会のためにだれでも協力してくれてよさそうなものだけれども、わたしを当てにしないでくださいとあからさまに主張する人もいます。自分たちに有利になるように流れを誘導して、決して自分ばかり負担が増えないように動き回る人もいます。そんな嫌気のするような面を見て、何が信仰だ、何がカトリックだとガッカリする人もいるでしょう。

けれども、そんな嫌な思いをしている人の中にも、イエスは人々の真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」と声をかけてくださるのです。もしそこに、深く傷ついている人がいたとしても、イエスは何度でも現れて、「あなたがたに平和があるように」と呼びかけてくださいます。

もしわたしたちが、イエスはたしかに復活されたと信じ、希望しているなら、復活したイエスはわたしたち信じる人々の真ん中に立ってくださいます。イエスは初めから、常にそのようなお方だからです。真ん中に立ち、恐れを取り除き、平和をもたらしてくださるお方です。

もともと、なぜ弟子たちはユダヤ人を恐れていたのでしょうか。自分たちも捕まってはりつけにされるから、恐れていたのでしょうか。わたしは、それだけではないと思っています。少なくともペトロは、同じヨハネ福音書によると「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」(13・37)とさえ言った人物です。ペトロの言葉が口から出任せであったとは思えません。

もしかしたら、自分たちでは気づかない何かがあったかも知れません。弟子たちは心の支えを失っていました。心の支えがあるうちは、命を捨てる覚悟だったでしょうが、その支えがなくなって、恐くなったのかもしれません。

今は、復活したイエスが自分たちの真ん中に立っておられるのですから、恐れる必要が無くなりました。イエスの出現を目の当たりにし、恐れを取り除いていただき、平和を取り戻した弟子たちは、後に復活の証人となっていきます。

さて、今日わたしたちの教会は、幼子の洗礼式を行うこととなりました。今ご夫婦にとって、お兄ちゃんお姉ちゃんにとって、新しく迎えた幼子は家族の中心にいることでしょう。どうぞ、幼子の洗礼を通して、イエスが真ん中に立っているとき、家庭に平和が訪れることを学んで欲しいと思います。

そして、新しいお子さんを含め、家族が外に向かっていくとき、活動の源・土台になるのは真ん中におられる復活したイエスであることを忘れないでほしいと思います。わたしたち教会家族も、幼子の洗礼を通して、神の恵みが生活の真ん中にいつもあるなら、教会家族に平和が訪れることを学ぶひと時にしたいと思います。

それでは、引き続き洗礼式に移りましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活節第3主日
(ヨハネ12:1-19)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼生まれて始めて、ネット通販の詐欺に遭ったか?と思った。保存食品をとあるネットショップから注文していた。同じ商品は他にも取り扱っているショップがあったが、選んだショップが送料も含めていちばん安く、迷わず選択した。
▼ところが、1週間たっても「注文を受け付けました」という連絡が来ない。注文直後のメールは機械が自動的に出しているので届くわけだが、同じ注文が店舗にも届いて、それを見て客に「注文を確認しました」とか「ご利用ありがとうございます」とかのメールを出すわけである。
▼あまりに返事が遅いので、どうなっているのだろうと該当するショップのリンクをたどってみると、「棚卸しのため現在連絡できません」という案内になっていた。わたしはそのメッセージを素直に取ることができず、「しまった!注文だけさせておいて、店をたたむつもりだったのか」と勘違いしてしまった。
▼どうなることかと気を揉んでいたら、10日ほどしてからショップからの連絡が来た。もうしばらくしてから発送するという。とくに連絡が遅れたことについての言葉はなかったが、悪気はなかったようなので、ひとまず安心した。
▼あとになって考えてみたが、従業員がいなくて、一人で頑張っている店舗だったのかもしれない。すべてを一人でこなすというのは骨が折れるもので、ふだんの業務に、年に一度の仕事が重なったりすると、ふだんの業務が後回しになることはあるかも知れない。わたしも年度初めの4月などは、ついふだんのことが後回しになったりする。そういうことだったのだろうかと、一人で納得した。
▼注文した保存食品は、かなり昔から試してみたいと思っていたもので、いろんな条件がかみ合って、今回食べてみる機会を得た。まとめ買いをしたので、しばらくは食べ続けようと思う。食品名は書かないが、朝食のために買ってみた、とだけ書いておこう。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第252回目。調子に乗りすぎか(笑)「福見教会百周年」の歌を作詞しました。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/130407.pdf
ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする