こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

王であるキリスト(ヨハネ18:33b-37)神の国の国民であることを意識しましょう

2006-11-26 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/11/26(No.268)
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王であるキリスト
(ヨハネ18:33b-37)
神の国の国民であることを意識しましょう
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今日は、年間の最後の日曜日、「王であるキリスト」をお祝いしています。朗読された箇所の中心点は、「イエスはわたしたちの王です。わたしたちはどうやって王であるキリストを意識しますか」ということになります。過ぎた一年を振り返りながら、私たちが態度でもイエスを王として認めてきたか、この点も考えていくことにいたしましょう。

イエスは、ピラトに尋問されています。ピラトは、政治的な王であれば、イエスを容赦なく裁こうと考えていますが、イエスの答えからは、政治的な臭いは伝わってきません。いわゆる権力者という格好をしているわけでもないので、なぜこの人が裁かれているのか、不思議に思っています。

イエスのほうは、最初から立場は一貫しています。イエスはこの世の国の王ではなく、神の国の王なのです。「わたしの国は、この世には属していない。」イエスが治め、導かれる国があります。そこにはイエスに導かれる国民が集います。ですが、それらはすべて、この世で興ったり滅んだりする国とは違うのです。この世の国々を越えたところに、イエスが治める「神の国」はあるのです。

イエスは、この神の国を知らせるために、この世においでになりました。「わたしは真理について証をするために生まれ、そのためにこの世に来た。」すでに来週からは、教会の暦は新しい一年に入ります。教会の典礼暦は、神がご自分の国の到来を伝えるためにおいでになるできごと、イエスの降誕から始まるのです。この典礼暦の中では、イエスの宣教活動、受難と死、復活の出来事が織り込まれながら、今日の王であるキリストの日曜日で締めくくられるというサイクルになっています。

こうしてみると、一年の始まりの待降節・降誕節は、「神の国を知らせる決定的な出来事の始まり」であり、一年の終わりの今日、「王であるキリスト」の日曜日は、その、神の国がこの世にも充満し、すべての人が神の国の国民となることを願うことで終わるという、実にすっきりした形になっていることが分かります。あとは、私たちが、その一年の暦の中で、神の国を示してくださったイエスに、心から「はい」と答えてきたか、私たちの生活を、神の国に住む者としてふさわしく調えてきたかという問題が残ります。

皆さんは見知らぬ土地で、思いがけずカトリック信者の方と出会って、親しみを覚えるというようなことはないでしょうか。旅行先とか、あるいは病院、学校、そういったところで、「へぇー、あなたも信者?あー、嬉しい」とホッとする体験はないでしょうか。わたしは、そういう話をときどき聞きます。私たちは、見ず知らずの人でありながら、同じ信仰、同じ神を信じているということで、言葉では説明できないけれども、信者というだけでホッとするものなのです。

さらに、そうした不思議な縁を機会に、お互いが住んでいるところの教会の話とか、家族の話をすると、もっと親近感を持つことができると思います。あなたが持っているその感覚、そのセンスが、実は神の国の市民、神の民であることの確かな証なのです。そこには、北と南、先進国と途上国、政治信条、すべてのものを越えてつながる力があります。これが、神を王としていただいている私たちに与えられたすばらしさなのです。イエスを王としていただいて、導きをいただいている恩典なのです。

私たちは、神に導かれて日々を過ごすというこの中心線を、きちんと据えてこの一年を過ごしてきたでしょうか。家族で助け合う、兄弟仲良くする、親戚や、近所同士で協力する、教会の一員として、教会運営に参加する。これらはすべて、「わたしもあなたも、神の民だから」この基本線に沿って続けられるものです。

心にゆとりがあるからできるとか、経済的にある程度ゆとりがあり、仕事も楽になったので、愛に満ちた生活が営めるのではないと思います。イエスが、愛をもって私たちを治め、導いてくださっている。その喜びを形にしていこう。幼子となって現れ、多くのたとえで解き明かし、最後は命をかけて救ってくださった王が、今私たちに、神の国の国民として歩きなさい、イエスの愛を受けた人として生きなさいと招いているのです。

神を王としていただいています。イエスの言葉、行いにもっと関心を持ちましょう。イエスが最後までゆるし続けたのなら、私たち国民も人を最後までゆるしましょう。イエスが虐げられている人を守られたのですから、私たちも弱い立場の人々に目を向けましょう。こうして、一人ひとりがイエスの望みを生きるなら、王であるキリストは誉れを受けるのです。

私たちはこの一年間、王の喜びとなる国民だったでしょうか。この一年を振り返りながら、続けてミサにあずかってまいりましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼初めて大型自動二輪の免許を受けるために大村に行った。最近は手続きも簡単になっているようで、心配していたが書類も簡単に作成できた。視力検査では、「視力が回復していて、普通免許のときにはメガネが必要なくなっています。大型自動車のときにはメガネを使ってください。条件を書き換えておきます」なんて言われてビックリ。そのあと予備審査のために試験場の車庫に連れて行かれ、倒した750ccのバイクを引き起こし、8の字をその場で周回して、最後にスタンドを立てるところまで審査を受けた。こんな予備審査で不合格になってはたまらない。思ったより簡単だったのでホッとした。
▼そのあとが面白かった。技能試験の会場に行く前に「コースはどうやって覚えるのですか」と書類審査の係員に尋ねたら、「え?覚えてきてないんですか?」と言われて、そうかあ、ちゃんと下調べしないとダメだなあと不安になった。待合所にさっきの係員が試験官としてやってきて、諸注意をしたあと一人ひとりの受験の順番を通知した。自分は大型の1番目で、これは絶対やばいと思って、泣き顔で「申し訳ありませんが、昼に変更してください」と言ったら、「できません」と試験官に拒否された。
▼けれどもたまたま、「午前中に受けたいんですけど」という若者がいて、これはチャンスだと思い、「この人と変わってもらいたいです」と申し出たら、しぶしぶ試験官が「今回だけですよ」と言ってくれた。これで何とかまともな受験ができる。午前中の時間を使ってコースを覚えないといけない。試験の待合所にコースが貼り付けてあるけれども、それを見ただけではとても暗記できそうにないし、困ったと思っていたら受験生の中にコース表を見ている若者がいて、「ねぇ。そのコース表、貸してくれない?コンビニでコピーしてくるからさ」と言ったら、「ぼくは覚えているからよかったらあげますよ」と親切に答えてくれた。
▼この様子を、受験順番を変わってくれた若者が隣で聞いていて、「このコース表のことも知らなかったし、もしも知らないままだったらコースはどうやって覚えるんですか」と自分に尋ねるから、「いちおう、コース表は待合所に掲げてあったよ」と指さしたら、初めて知ったというような顔をしていた。ダッシュでコンビニに行き、2人分コピーを取ってきて、昼の受験に備えた。午前中の受験に変わってもらった若者は落ちてしまった。コース表をただでくれた若者は、余裕たっぷりで合格して帰った。自分は・・・、減点超過で、あえなく撃墜(笑)。でも手応えはあったので、試験場で免許を取ろうと思う。

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こうじ神父絵手紙
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第53回目。大学の授業中に試したところ、1分18秒で完成し、面目を保ちました。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
待降節第1主日
(ルカ21:25-28,34-36)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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年間第33主日(マルコ13:24-32)人の子が戸口に近づいています

2006-11-19 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/11/19(No.267)
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年間第33主日
(マルコ13:24-32)
人の子が戸口に近づいています
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説教に入る前に、一つお知らせをしておきたいと思います。説教と信仰宣言、共同祈願を終えてから進んでいく「感謝の祭儀」の中で聖体拝領が行われますが、今日聖体拝領をなさった方は、「おや、今日のは違うぞ」と思うことでしょう。じつは、今日の祭儀に使用しているパンは、10月に東京の研修会に出かけた折に東京の信徒の方のつてで送ってもらったものです。

色も、感触も、全く違うと思いますが、ご聖体に変わるもとのパンも、提供してくださっている修道会によってこんなに違うものなんだなぁというのが実感できると思います。ただし、今日使用したパンはそれほど数がないので、もしチャンスがあるとすれば今週と来週の二回だけだろうと思います。今回このような機会を提供してくださった信徒の方との出会いに感謝したいと思います。

ここのところ、だいぶ寒くなってきました。季節は冬に向かっております。再来週には、教会の典礼暦も「待降節」、つまり教会のカレンダーとしては年が改まるわけです。そこで、キリストと共に歩んできた今年一年を振り返りながら、今日の福音を味わっていくことにいたしましょう。

本日の朗読箇所の最初と最後に、「その日、その時」ということについて語られています。ここで言う「その日、その時」とは、「世の終わり」とか、「キリストの再臨」と言ったことを考えるとよいと思いますが、それがいつになるのかは、だれにも分からない、とイエスは言います。ただ分からないという事実を伝えているのではなく、ここでは「分からないのだから、いつ来てもいいように準備をしなさい」と呼びかけていると考えるべきです。

「いちじくの木のたとえ」が、だれにも分からない「その日、その時」と向き合う心構えを教えてくれます。「いちじくの木から教えを学びなさい」。いちじくにとって「夏がやってくる」ということは、収穫の時を迎えたということのようです。私たちの身近な場所に生えている果物に例えると、夏みかんを思い浮かべたらよいかも知れません。夏みかんの木にとって、夏がやってきたということは、つまりミカンが採れるということであり、収穫に備えなさいという促しにもつながっていきます。

イエスもまた、パレスチナ地方で身近に見られる植物を引き合いに出して、「その日、その時」は、何か他人事のような縁遠い話ではなくて、確実に時を刻みながら、すべての人に起こるということを教えようとしています。具体的には、いちじくにとって夏が収穫の時であるように、「その日、その時」は私たちにとっての収穫の時であり、実っているはずのものを集める時なのです。

さてここで教会の暦との兼ね合いが出てくるのですが、教会は暦の終わり頃になると、毎年このような「終末」にかかわる箇所を朗読します。「人の子が戸口に近づいている」(13・29)この場面を思い浮かべて、私はこの世の終わりに再びやってくるイエスに、報告すべき収穫が準備できているだろうか、考える必要があります。

はたしてこの一年間で、私の中にどんな収穫があったのだろうか、改めて考えてみてはいかがでしょうか。結果だけがすべてではないとしても、何か、神様にご報告できる一つ二つのことが思い浮かぶでしょうか。

考えるヒントを、一つ示しておきたいと思います。今月は死者の月でもあります。平戸の上神崎教会の葬儀ミサに参加して説教した時のことです。私たちは神に命を含めすべてを与えていただいたのだから、お返ししなければならないということから話を始めました。私たちの中には社会に大きな貢献をした人もいるかも知れない、あるいは社会的に名前を残したり何かを残した人もいるかも知れない。仮にそれらを神に向かって「これがわたしの人生で積み上げたものです。お受け取り下さい」と言ったとして、神はどう答えるだろうかと問いかけました。

私は神の立場をこのように考えます。人間が何かを積み上げて、それを神にお返ししますと言っても、神は「それらはわたしがチャンスを与えて、わたしの祝福のおかげで積み上げたものではないか。それらはすべてわたしが与えたものなのに、与え主に返して何になるのか」そう答えるのではないかと思います。

つまり、神はどれほどこの世で積み上げた結果や努力を報告しても、神が与えた者を神に戻すだけでは喜ぶべきものがないと思うのです。ただ一つ、神にお返しできるもの、神が受け取って喜んでくれるものがあるとすれば、それは私たちが神を全身全霊をあげて愛したということ、神を固く信じてきましたという信仰ではないだろうかと話しました。

「世の終わり」はいつ来るか分からないとしても、私の人生が終わればこの世がどれだけ続いてもある意味で「世の終わり」は来ているわけです。「その日、その時」に、私は何かしらこの世のものを神に報告するのではなくて、私たちの神に対する愛を、神への固い信仰を、お返しすべき唯一のものとして準備しておくべきではないでしょうか。

信仰も、目に見えないとは言っても形の中に見て取ることはできます。こうして共にミサに参加している。これは神を確かに信じている証しになります。今日さまざまな事情で教会に来ることができない人でも、日曜日を神のために使う工夫はいくらでもできます。教会に行くことができない人でも、今週一週間を神に感謝し、新しい一週間の恵みを願うことはどの場所にいてもできます。そうして日曜日を心に留めて祈る人は、見える形で神への信仰を表しているのです。

来週の日曜日、教会の暦では最後の日曜日に当たっていて、「王であるキリスト」をお祝いします。これから残る二週間、「その日、その時」をいつかは迎える、そんな思いで、歩んできた道をゆっくり思い返しましょう。お返しすべきものが何もないと感じる人でも、神への信頼はお返しできるはずです。ミサを通して、家庭での祈りを通して、隣人への愛を通して神への信仰をいくらかでもお返しできたことに感謝し、二週間後、また新たな待降節を迎えることができるよう、ミサの中で祈ってまいりましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼長崎で開催されていた「さるく博覧会」も終了した。どの程度の盛り上がりだったか、評価は専門家に任せるとして、この博覧会のタイアップイベント「長崎市民セミナリオ」について少し話しておきたい。
▼あまり聞き慣れない言葉だと思うが、「セミナリオ」というのは「神学校」を意味する言葉で、もとをたどると「苗床」という言葉から来ている。学問や教養を身につけさせる「まなびや」のことだが、「長崎の宗教と文化」についてのセミナーが開かれた。
▼月に1度のペースでキリスト教、仏教、神道それぞれの代表者が国宝の大浦天主堂を舞台に、長崎における宗教と文化に及ぼした影響を発表し合った。参加者は延べで3000人ほどだったと聞いているが、異なった宗教指導者が国宝の大浦天主堂に集い、それぞれの宗教がもたらしたものを率直に語り合う場を持ったというのは、過去に例がない。
▼ここですべてを語れないが、長崎に根付いた宗教がどのように影響し合い、どのような時代を歩んだのか、たくさんの収穫を得たすばらしい企画だったと思う。最後にこの企画にたずさわった人で懇親会を開き、招待していただいた。講演をした先生方に声をかけていただき、感激して帰ってきた。

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こうじ神父絵手紙
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第52回目。これ、皆さん完成できますか?ちなみに私は3分で完成できます。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
王であるキリスト
(ヨハネ18:33b-37)
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年間第32主日(マルコ12:38-44)やもめの姿に殉教者の生きざま

2006-11-12 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/11/12(No.266)
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年間第32主日
(マルコ12:38-44)
やもめの姿に殉教者の生きざま
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今日の福音朗読で「やもめ」が登場します。マルコによれば「一人の貧しいやもめ」です。「やもめ」と書かれている時点で、「夫を亡くした人、社会的にも弱い立場の人」を表す象徴的存在です。それに加えて「貧しい」とあえて書かれていますから、いかに弱い立場にあったかが分かります。

その、一人の貧しいやもめがイエスの目に留まりました。イエスがずばり指摘したように、「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っているものをすべて、生活費を全部入れた」のです。

彼女は、持っているものをすべて入れることで、自分が神に全幅の信頼を置いて生きていることを示しました。それは、ある意味で死をも恐れない態度です。生活費を全部入れてしまった。今で言うならガスも電気も水道も止められて、明日どうやって食べていけばよいのか、そういう状態です。

当時、普通の労働者の賃金が1デナリオンでした。彼女が持っていたとされるレプトン銅貨2枚、または1クァドランスは、割り算すると64分の1にしかならない額でした。それを手放せば、本当ならあとは死しか道はないはずなのです。それでも、彼女は絶望するどころか、ますます神への信頼を深めたのでした。この時すでに彼女は、死さえも恐れていなかったのです。

この女性は、私たちに本当の生きる道を示してくれます。最後の1クァドランスまで神殿に投げ入れることのできた彼女は、この世のものを失うことに恐れを感じていませんでした。この世のものを、それが何であれ、失うことを恐れて生きるなら、神に自分を委ねる気持ちが揺らいでしまいます。何か失いたくないものがあるために、神への信頼ではなく、物への執着を優先してしまうからです。

むしろ、どんなにこの世のものを失っても、神を見つめて生きる。それが、骨のあるキリスト信者、筋金入りの信者ということではないでしょうか。この世にすがって生きるのではなく、神にすがって生きる。やもめに見られるすばらしさを、イエスは私たちに示してくださったのです。

最近、いくつかのニュースやちょっとした用事を済ませる中で、神にすべてを任せて生きている人が今この時代にもちゃんといるんだなと確かめる機会に恵まれました。二人紹介しておきます。一人は、天草出身の神父さまを育てたお父さんです。昨日土曜日の11時頃、たまたまテレビで天草の様子が映り、懐かしいなあと思っていたら、私の知っている天草出身の神父さまが映っていたんです。もしかしたら皆さんもテレビを見たかも知れません。

確信はありませんが、現在天草の三つの教会の主任司祭をしておられるのかも知れません。天草には崎津教会というのがあって、この神父さまは崎津教会の出身で、お父さんも私が天草に巡礼に行った頃健在でした。昨年亡くなられたとテレビの中では言っていましたが、崎津でお会いしたときのことは今でも思い出すことができます。

このお父さんは、ずっと崎津教会に奉仕して人生を全うした方でした。25年ほど前にもこのお父さんは紹介されたみたいですが、その時からすでに、教会ではなくてはならない人、どんなときでも教会のために時間を作ってくれる人だと感じました。このお父さんには、神にすべてを委ねて生きる姿が身に付いていたと思います。

次に、ある教会に「よきおとずれ」の原稿依頼で電話をかけたところ、賄いさんが電話口に出て応対してくれました。すぐに知っている賄いさんだと分かりました。賄いさんのほうから、「覚えていますか、神父さま」と言われて、「もちろん、覚えてます。五島で賄いさんをしていた方ですよね」と言って用件を伝えたのです。

この賄いさんは90歳を過ぎて亡くなったある神父さまの賄いをしていましたが、その神父さまが育ててくれた神父様がある教会の主任司祭になってからは、跡継ぎのようなその神父さまの賄いをしてくださっているのです。亡くなった神父さまの賄いをした後にも、さらに次の神父さまの賄いをしているということは、ずっと教会のためにすべてを捧げてきたということだと思います。

別の生き方もあったでしょう。教会の奉仕や司祭館での奉仕は、かなり大変な奉仕だと思います。それだけのことができる人は、別の場所でも立派に仕事を勤めることができるに違いありません。そう考えると、まったく違った未来もあっただろうと思います。けれども今紹介してきた人たちは、この世に執着せず、神にすべてをお任せして生きることを選んだわけです。

やもめを通してイエスが教えた生き方は、神にすべてを委ねて生きる人の生きざまでした。このすぐれた模範は、私たちの信仰の先輩の時代にもたくさん現れます。どういう形で現れたのでしょうか。殉教者という形です。今年から来年にかけて、日本の殉教者たちに大きな動きが見られます。188人の殉教者が列福されるからです。

つい最近は、このことに関連して、外海の次兵衛岩巡礼のニュースが流れていました。その場所は188殉教者の一人に数えられている金鍔次兵衛神父が迫害の時代に潜伏していたと言われています。日本でキリストの教えを広めるために、次兵衛神父は命をかけて宣教活動を続けました。最後は捕らえられ、長崎の西坂で殉教します。

殉教者こそ、この世に決してすがりつかず、神により頼んで人生を駆け抜けた人たちです。来年11月と言われる188殉教者の列福式は、私たちも神にすべてを委ねて生きることを学ぶ格好の機会になると思います。生きるために神さまにちょっとすがるのではなく、神さまのために生きるという人生が成り立つということ、そのような徹底した生き方であれば、どんな人の心にも響く、語りかける力があると思います。

たいしたこともできませんが、私もまた、すべてを神に委ねて生きた殉教者の生きざまを、自分の人生に写し取って生きていきたいと思います。社会にも、教会のすべての人にも、影響を与えられるような徹底した生き方を、今日のやもめの姿から、また殉教者たちから学びたいと思いました。


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ちょっとひとやすみ
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▼「短気は損気」と言うが、短気で得をするのは釣りの時だけ。あとは良いことなど一つもない。だから私は損ばかりしていると思う。幼い頃は腹を立てる機会もそうなかったのかも知れないが、短気で何かしくじったとか、そういう覚えがなくて、自分はのんびりしているのだと思っていた。
▼ところがその考えは間違いだったことが今になるとよく分かる。ある時間にそうなっているはずのことが実際には期待通りになっていないと言って腹を立てる。それが朝一番から始まって夜までその繰り返しである。どうかすると朝に腹を立てたことで胃が痛くなり、半日不快な思いを引きずることになる。
▼何が不快かと言うと、腹を立てた自分に腹が立つのである。どうして独り相撲を取るのか。相手は怒ってもしょうがない相手じゃないか。物に当たっても物は反省もしないし学習もしない。何が気に入らないのか、などなど、すでに精神的に不健康なのである。こんなことばかり繰り返していると、食べ物で血圧が上がる前に、脳が指令を出して動悸や息切れが起こることになるかも知れない。
▼話を変えておこう。説教集最後の三巻目、A年説教集の表紙ができあがってきた。さすがデザインの専門職、良くできているなあと感心する。あとは説教の中身だ。11月20日までにすべてが完了して印刷に回され、クリスマスには仕上がってくることになっている。クリスマスプレゼントとして、小教区のみんなには無料で配布する。私は神にすがって生きるので、赤字か黒字かはまったく気にしないのである。

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こうじ神父絵手紙
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第51回目。毎日毎日、お世話になってます。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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年間第33主日
(マルコ13:24-32)
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年間第31主日(マルコ12:28b-34)第一の掟は、共同墓地においても変わりません

2006-11-05 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/11/05(No.265)
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年間第31主日
(マルコ12:28b-34)
第一の掟は、共同墓地においても変わりません
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11月、死者の月に入りました。馬込教会では、教会の共同墓地で、追悼ミサの形で今日のミサをささげています。私たちが今いるこの墓地という場所は、死者が復活の時までの時間を過ごす場所です。もちろん魂はこの墓地にいるわけではありませんが、骨はここに眠っています。

死者の骨が納められているこの場所で、今週朗読された箇所を考えるというのは、意味深いと思いました。律法学者が進み出てイエスにこう尋ねます。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」(12・28)。二つのことを考えましょう。一つは、福音朗読そのものが教えようとしていること、もう一つは、今日の追悼ミサに特に当てはめて考えられることについてです。

福音朗読そのものが教えようとしている点は二つです。律法学者はなぜあのような質問をしたのかということと、イエスの答えが意味しているのは何かということです。当時、イスラエルの人々に示されていた掟は、大小合わせて613あったと言われています。重要さの度合いに差はあったものの、煩雑な細則は多くの人々を悩ませていました。そして、人々は律法を恐れ、律法の精神を考えることをやめてしまいました。考えることをやめ、律法に縛られて不自由な生活していたのです。

こうした人々のモヤモヤを、晴らしてくださる方はいないのか?もし、明快な答えをくださる方がいらっしゃるなら、その方こそ私たちに解放を告げる神からの使者、救い主ではなかろうか。そう考えるのは当然の流れです。イエスは律法学者に、単純明快な答えを示しました。イエスこそ、人が歩むべき生き方を示してくださる神、救い主なのです。

イエスの答えには、もう一つの大切な呼びかけが含まれていると思います。私たちは、掟が与えられているとしてもそれに怯えることなく、神様を心から愛するしるしとして、喜んで掟を受け取るということです。

イエスは、律法学者の問いかけに、具体的に律法の第何条が最も重要であるとは言いません。それよりも、あなたに、すべてにこえて神を愛する気持ちがあって、そこから、人を自分と同じように愛する生き方を守るならば、神はあなたを愛してくださっている。安心しなさい。そう仰っているのではないでしょうか。

それは、言い換えると、あの掟、この掟に触れたかどうかにいつも神経をすり減らす生き方はいわば旧約時代の生き方だから、もう横に置きましょうということです。イエスが示された新約時代の新しい生き方、信じた人、信じた教えに心を開いて、私は神と人を愛してますと胸を張って生きることこそ実行すべき生き方ですと仰っているのではないでしょうか。

ともすると、私たちも掟を細大漏らさず守ることで、自分の身を守ろうとします。私は守っている。だから私は正しいと、自分で自分を正しい人にしがちです。ですが、私たちを正しい人としてくださるのは神です。掟に閉じこもって身を守ることよりも、自分にできる形で、神と人に尽くす。そんな、新約時代の生き方を、今日私たちに期待しているのではないでしょうか。

次に、亡くなったすべての方々のためにミサをささげている今この時に、「あらゆる掟のうちで、どれが第一ですか」と考えてみましょう。この共同墓地に集まって、第一の掟は何でしょうか。私は、イエスの答えがそのまま当てはまると思います。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』」(12・30)。この墓地ですべてをあげて神を愛すること。これが第一の掟です。

少しずつ考えてみましょう。「イスラエルよ聞け」とイエスは言います。これは、「すべての人は、よく耳を傾けなさい」ということです。今ここに集まってくださっている人は、ほとんどがこの伊王島に住所を置いている人でしょう。ところが、この墓地にはすでに住所が伊王島にない人々もたくさんいます。ですから、ここで今語る言葉は、この共同墓地に関わるすべての人に伝えるべき言葉です。何かの形で、今日の追悼ミサのことと話された内容を、届けてあげて欲しいのです。

次に、墓地でどのようにして神を愛するのでしょうか。それは、復活を待って眠りについた死者が神の計らいによって必ず復活の栄光にあずかると固く信じることです。神が、ここに眠るすべての人を復活させてくださると、心の中で念じたり、思いを込めて何かの祈りを唱えることです。死者を復活させてくださる神が今ここにおられると固く信じることが、すべてをあげて神を愛することになります。

同時にイエスは第二の掟も示しました。「隣人を、自分のように愛しなさい」(12・31)墓地で、どのようにして隣人を自分のように愛するのでしょうか。納骨されてここに眠る死者は、ひたすら神を信じ、神によりすがってここに留まっています。神を信じていなければ、ここにいても報われないのです。

私たちがここに眠る隣人のためにできること、それは隣人をいつも心に記憶しておくことです。亡くなった人は時間と共に忘れ去られていく危険があります。私たちでさえも、人から忘れられてしまうことがありますが、人から忘れ去られてしまうことはどんなにつらく寂しいことでしょうか。私たちがそのことをよく分かっているなら、ここに眠る人々のことを、自分のことのように覚えておいて欲しいのです。

特に今週は、亡くなった方々のことを心に留めて、ますます「神を全力で愛します」と心に誓い、ここに眠る人々を生活の中で機会あるごとに思い出したいと思います。今日の追悼ミサは、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」という疑問に、イエスの答えが最もふさわしい答えですと、あらためて教えてくれたのではないでしょうか。


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ちょっとひとやすみ
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▼11月3日、福岡の大神学院に「召命の集い」で出かけた。「簡単に」行ける予定だった。ところがある場所で右に行くか左に行くかで間違えた。何となく、「間違ったかな」という感じはあったのだが、とりあえず先に進めば何とかなるだろうと思っていた。
▼けれども実際には40分のロスタイムを作ってしまい、子供たちに文句を言われることになる。子供たちはまったく自分のことしか考えないので、「まだ着かないの?あと何キロ?腹減って死にそう。吉野家の牛丼食べたい」と、言いたい放題のことを言われた。
▼原因はあとで追求することにしたいが、最終的には原因が分かっても今後の役には立たないかも知れない。というのは、大神学院から車で10分くらいの場所まで、福岡都市高速が延びていたからだ。帰りはこの都市高速を使ってノンストップで走ったが、実に快適だった。
▼ちょっとご無沙汰しているうちに福岡の街並みは変わっていた。とんでもないところまで都市高速が延びていただけでなく、全体の景色も、こんな場所合ったかなあと思いながら大汗をかいてウロウロ回った。私にとっての「召命の集い」は、大神学院に行けるかどうかの「証明の集い」となった。

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こうじ神父絵手紙
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第50回目。夏にお世話になったもの。今もまだ使っています。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第32主日
(マルコ12:38-44)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
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