こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第21主日(ルカ13:22-30)常々その戸口を出入りすれば狭くない(2004年を参照)

2013-08-25 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
13/08/25(No.666)
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年間第21主日
(ルカ13:22-30)
常々その戸口を出入りすれば狭くない(2004年を参照)
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わたしたちは、いつも時間と場所の中に置かれて暮らしています。このわたしたちから切っても切り離せない時間と場所の問題ですが、もう少し考えると、「過ぎた時間」「今」「将来の時間」の三つに分けられます。その中で、いちばん考えなければならいのは、「今の時間」です。これは誰が考えてもそうなるのではないかと思います。

「過ぎた時間」「過ぎたこと」は、変えることができません。また、「将来起こること」を前もって用意することもできません。せいぜいできることと言ったら、今の時間をより良く生きるということです。この基本中の基本について、今日の福音朗読は考えさせてくれると思います。

ある人がイエスに尋ねました。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」。この人が尋ねたのは「将来のこと」「将来起こること」です。イエスは神の子として、この質問に直接答えることもできたでしょうが、未来のことはわたしたちにはどうにもできないことです。

わたしたち人間にとっていちばん大切なことは「今の時間」なのですから、イエスは「救われる者」について、「今の時間の中で考えるべきこと」を答えとして示してくださいました。「狭い戸口から入るように努めなさい。」つまり、今の時間にできること、今考えておくべきことこそ、あなたにとって必要ですと言いたいのです。

「過ぎた時間」あるいは「将来のこと」よりも「今の時間」が大切なのはすでに考えましたが、「今の時間にできること」はどんなことでしょうか。大きく二つに分かれると思います。一つは、「目の前にあることを今おこなってみる」ということ、もう一つは、「今は取りかからず、後回しにする」ということです。

わたしたちの経験で十分に分かっていることですが、後回しにしたことは、結局どうなるのでしょうか。当然のことですが、後回しにしたことは消えてなくなるはずもなく、どのみち後でしなければなりません。そしてしばしば、「あの時しておけばよかった」と言うのです。

後回しにした経験をお持ちの方は、イエスの言葉がよく分かるのではないでしょうか。「狭い戸口から入るように努めなさい」。ある時わたしたちは、すべき事を後回しにしました。後回しにしたことは消えてなくなるどころか、更に問題が大きくなってのしかかってきます。時には取り返しがつかないことさえあります。

人間の救いは「将来起こること」に違いありませんが、そのために何かができるとすれば、それは今しかないのです。だから、「どちらかを選ばなければならないのであれば、狭いほうを選びなさい」と強く勧めているわけです。

主人に締め出しを食った人が食い下がります。「御一緒に食べたり飲んだりしましたし、わたしたちの広場でお教えを受けたのです。」(13・26)ですがこの人は食べたり飲んだりしている時に話してくれた「勧め」を気にも留めていなかったのかも知れません。教えを受けた時に、「そんな面倒な教えは今のわたしには関係ない。後で考えよう」と言って後回しにしたのでしょう。「今できること」と、「今できるけれども後回しにしよう」という気持ちの中で、狭いほうを選ばなかったのです。

わたしたちの生活はどうでしょうか。今積み上げないといけない努力を、後回しにしてはいないでしょうか。今積み上げることができるのに、そこから目を背けてはいないでしょうか。

わたしは皆さんの勉強のことや仕事のことに口を挟むつもりはありません。ですが、任せられた信徒の牧者として、「こんな態度は『今できること』を『後回し』にしていることですよ、その責任は、ほかでもないあなたが引き受けるのですよ」と言い続けなければなりません。また、中田神父みずからが生活による証しを立てなければなりません。

たとえば、わたしたちは一日に三回食事をします。どのみち、食べるのですが、食前の祈りをするかしないかは、できることを今するのか、後回しにするのかの境目なのではないでしょうか。どうせ食べるのです。ですがしばしば、わたしたちは狭い戸口を避けようとするのです。

一日の終わり、目を閉じない人は誰もいません。どのみち目を閉じて、眠りに就くのですが、わたしは狭い戸口から入るように努めているでしょうか。疲れてヘトヘト、今日は何もできない。そういう日もたまにはあるでしょう。イエスはそんな疲れた人、重荷を負う人を責める方ではありません。イエスの言葉をよくよく考えれば、「狭い戸口から入るように努めなさい」「入るように努めなさい」です。「狭い戸口を通れない人はその時点で救われません」とは仰っていないと思います。

日曜日のミサ。どんなに忙しい人でも、二週に一回とか、月に一回は休みを日曜日に振り替えることはできると思います。できたのにしませんでした。このようなことが多々あるのではないでしょうか。

今何をするか考える時、後回しにしようと考えるか狭い戸口から入るように努めるか。いつもわたしたちはどちらかを選んで生きています。何かを後回しにした時、それがそのまま過ぎた時間の出来事となります。今しなかったことで、取り返しがつかなくなることもあるのです。

子供からお年寄りまで、今できることがあると思います。ありがとうという言葉を口に出して言うこと、お世話する人が愛情あるひと声をかけることなど、今できることは何か見つかると思います。

狭い戸口から入るように常々心がけている人は、今できることを一つずつ引き受けて、それを積み重ねていく人です。神はその人をご自分の懐に入れてくださいます。狭い戸口から入る人は、今の生活の中で、神に守られて生きる幸せを感じることができるのではないでしょうか。

教会を通して示される神のすすめを、わたしたちの選ぶべき戸口として受け取りましょう。ひとりで引き受けるのではありません。そばにいてくださるキリストと引き受けていくのです。そのことをしっかり感じ取るためにも、ミサの中で照らしをいただくことにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第22主日
(ルカ14:1,7-14)
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ちょっとひとやすみ
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▼何か別の話題を取り上げようと考えていたのかもしれないが、どうも「今、この時点で」思い出せないので頭を切り換える。2004年の説教案は、かつて「取って食べなさい--主日の福音説教C年」として自費出版しているが、今週たまたま説教案を練る時間が工面できず、当時のものを拝借することにした。
▼物理的に不可能だったわけではない。しなければならないことを後回しにして、したいことをした当然の報いである。ついでになるが、自分で書いた過去の説教案を流用するのでさえ気が引けるのであるから、他人の説教案を無断で借りて説教をしている人がいるとすれば、相当良心の呵責があるに違いない。
▼過去のものを借りるにしても、そのままは使えないからいったん全部に目を通してみる。すると、すぐに「タイプミス」に気がついた。わりと早い段階で「いちばん考えなければならないのは・・・」という部分があるが、「いちばん考えなければ『ら』ならないのは・・・」(二重括弧『』は強調のため追加)となっていた。
▼当時は気付かずに放置されていたのだが、時間を置いて読み返したことで見つけることができた。ちなみに自費出版した文庫本はどうなっているかというと、やはりここでもタイプミスのまま印刷されている。協力者を仰いで校正をしたつもりだが、見抜けなかったらしい。
▼文庫本にした2004年(C年)の原稿量は、本文だけでおよそ18万文字、それを僅かな人員で校正したのだから無理もないが、今読み返しても悔しい。後にこうして原稿を拝借しようと読み返した1回分でさえミスタイプが見つかるのだから、全部読み返せばまだ穴は見つかるだろう。
▼より良いものを残そうという努力は、やはりどんなに歳を重ねても怠ってはいけない。今回のことを通して痛感した。ということは、たまには自費出版した年度の説教案を拝借して、流用することも無駄ではないかも知れない。いや、単なる言い訳に過ぎないか。

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今週の1枚
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第273回目。予定では、召命フェスティバルと市民プール両方の様子。

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年間第20主日(ルカ12:49-53)火によって変えられ火を熱源として持つ

2013-08-18 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
13/08/18(No.665)
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年間第20主日
(ルカ12:49-53)
火によって変えられ火を熱源として持つ
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「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」(12・49)今週は、イエスがこの地上に投げる「火」について、考えてみたいと思います。

イエスがもたらす「火」を考えるために、「火」についてすでに知っていることをつなぎ合わせたいと思います。まず、「火」は燃えている状態を指しているので、何か触れようとするものを燃やす力を持っています。海外では、山林で自然に発火し、火災が発生することがあります。

また、火を使って、物の形を変えることができます。鉄は、火によって熱せられ、ものすごい熱さの溶けた状態から、いろんな形に変わっていきます。刀を作る鍛冶職人は、火を使って思い通りの刀を作り上げます。

また火は、熱も持っていますので、近くにいる人から遠くにいる人まで、熱を伝えます。適切な距離にいれば、熱の恩恵を受けますが、近すぎるとやけどをしたりします。その他にもあるかも知れませんが、おおまか、こうした特徴を火は持っているわけです。

今挙げたような特徴を当てはめて、イエスがもたらす「火」を考えてみましょう。イエスが投ずる火に、触れようとするものを燃やす意味合いはあるでしょうか。聖書の出来事を探ってみましょう。

まず思い出されるのは、聖霊降臨の出来事です。使徒言行録第1章で、聖霊が弟子たちに注がれた時、炎のような舌の形をして、弟子たちに聖霊が降ったとされています。

ここでは、ものを燃やす火ではありませんが、弟子たちの心を燃やして、宣教へと駆り立てる火として働いています。イエスの投ずる火は、人の心を燃やす働きがあります。

また、物の形を変える火の働きはどうでしょうか。ここでは、いくつかの秘跡を考えてみましょう。洗礼の秘跡は、人を神の子とする働きがあります。また堅信の秘跡は、洗礼の恵みを強め、聖霊の七つの賜物で大人のカトリック信者に強めます。さらに叙階の秘跡は、もう一人のキリストと言われるほど、イエスの生き方、働き、恵みを人々に分け与える者に変えてもらいます。

ここまで考えると、イエスの投ずる火は、秘跡の恵みとなって人を今までとは違った存在に変える力を持っていることが分かります。他のどんな力も、人を神の子に変えることはできません。イエスが、「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」と仰ったことは、秘跡の中でとくに当てはまるかもしれません。

火は、同時に熱も伝えることを考えました。イエスが投じる火に、同じ特徴は見られるでしょうか。イエスによって火が投じられ、その火によって変えられた人が、だれかにその熱を伝えることができます。近くにいる人はより大きな熱意を伝えますし、遠くにいる人にも、何が起こっているのか知りたいと感じるような熱意を伝えることができます。イエスの投ずる火は、熱を伝えることも当てはめてよいと思うのです。

ところで、イエスが投ずる火は、「分裂」をもたらすことにもなると仰います。この「分裂」は、熱を伝えるたとえを考えると少し分かりやすくなるかもしれません。もし、家族の中でイエスの火によって熱意を与えられ、イエスに変えてもらった生活に喜んで身を置く人と、そうでない人がいるとしたらどうでしょうか。

イエスの火を受け入れた人は、熱心にイエスの生き方を取り入れていきますが、同じ家族の人がイエスの火を耐えられない熱さだと嫌うなら、そこにはどうしても分裂が生じるのではないでしょうか。

分裂は、イエスの火を喜んで受け入れるか嫌うかで生じます。イエスは、分裂が生じることを予見しています。イエスの火を嫌って、分裂した人々はどうなるのでしょうか。とくに家族の中で、分裂してしまった場合はどうなるのでしょうか。

わたしは、イエスの火を受け入れるために、長く時間を必要とする人もいると考えました。家族の中でさえ、今はイエスの火を受け入れられない人が現れて、分裂してしまいます。けれども、イエスの火はどんな人にも必要な火です。その人の中で熱源となって、その人を動かすからです。

今は受け入れられない家族がいても、時間をかけて、イエスの投ずる火によって、変えられ、動かされることを願いたいと思います。「父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」(12・53)とあります。分裂は辛い現実ですが、距離ができたことが、イエスの火を理解できるきっかけになるかもしれません。

わたしたちの心と体は、イエスの投ずる火によって神の望む形に変えられ、イエスの火が自分を動かす熱源となります。イエスの投ずる火によって生かされていることに感謝できる人でありたいと思います。そして、周りの人にイエスを感じさせる熱源となれるように、このミサの中で祈り求めましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第21主日
(ルカ13:22-30)
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ちょっとひとやすみ
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▼メールマガジンで日曜日の説教案を配信し、ホームページやブログでもアップしている。パソコン・ケータイ・スマートフォン・タブレットで見る分には、これで構わないのだが、もう一つ気になる読者を思い出した。毎週のこの説教案を、プリントアウトする人たちのことだ。
▼わたしも経験して感じることだが、ホームページやブログはそれを閲覧する分にはそのままの状態で十分だが、いざ印刷して紙に落とすとなると、制約のないホームページなどは規定の用紙(A4とかB5とか)にうまく収まらないことが多い。
▼印刷できないことはないが、それでも印刷に適した物が用意されていれば、本当に助かるのではないかと思う。わたしは最近あまり印刷しないが、ホームページによっては、印刷に適したレイアウトに整えてくれるサービスを初めから用意しているサイトもある。
▼そこで、一手間省くことができるように、PDFにしたものをアップしていくようにしたい。これで、印刷して利用する人はすぐに利用できるようになるだろう。印刷して手に持つ人たちがだれであるかはここでは明らかにしないが、そこまでして利用してくれるのだから、その人たちが喜ぶことをしてあげたい。
▼インターネットが急速に普及して、紙媒体はみるみる勢いを失いつつあるが、印刷したいという要望は時代が変わっても残ると思っている。ますます便利になるように、できる一手間はこちらで用意してあげたいものだ。

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今週の1枚
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第272回目。PDFに変換した説教案の画像。説教台に持っていく実物と同じ。

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聖母の被昇天(ルカ1:39-56)主の目に留まる尊い生き方

2013-08-15 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
13/08/15(No.664)
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聖母の被昇天
(ルカ1:39-56)
主の目に留まる尊い生き方
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この前、とある教会の中学生をボートで釣りに連れて行きました。今年の4月から神言会の神学生として頑張っている子どもです。釣りをする場所は前もってボートで出かけ、舟竿が海中に突っ込むくらいのアタリがあった場所です。その際登山用の携帯用GPSを持って行っていたので、周りに船がいないことを確認して、緯度経度をGPSに記録しました。ここなら、神学生を喜ばせることができると思っておりました。

当日神学生を迎えに行き、前回GPSに記憶させた場所にまっすぐボートで向かいました。ところが、わたしが記憶させておいた場所に、何と漁師のウキが置いてあったのです。あれだけ周りを気にしてこっそり持ち帰ったA級ポイントだったのに、どこで見ていたのでしょうか。

それでも、イトヨリはわたしたちを待ってくれていました。到着してすぐに、パタパタと2人とも連続でイトヨリを釣ることができて、船頭の役割を果たすことができ、ホッとしております。

聖母の被昇天の祭日を迎えました。8月15日が聖母マリアの祝日であることについて、歴史的に次のように言われています。5世紀のエルサレムでこの日に祝われていた神の母マリアの記念は、6世紀には、マリアの死去の日として東方教会で祝われるようになりました。

マリアの死去は、彼女が天に召されたことと永遠のいのちのうちに誕生したこととして記念されていたようです。やがて7世紀半ばに西方教会にも受け継がれ、教皇セルジオ一世(在位687~701)は、徹夜祭やハドリアヌス教会からサンタ・マリア・マジョーレ教会までの行列などで盛大に祝っています。

マリアの被昇天の名で知られるようになったのは、8世紀末になってからです。後に1950年のピオ十二世の教義宣言に至るまで、マリア信心の深まりと同時に次第にこの日を特別な日として祝うようになりました。

ピオ十二世は自身の教皇令Munificentissimus Deusの中で次のように宣言します、「われわれの主イエズス・キリストの権威と、使徒聖ペトロと聖パウロの権威、およびわたしの権威により、無原罪の神の母、終生処女であるマリアがその地上の生活を終わった後、肉身と霊魂とともに天の栄光にあげられたことは、神によって啓示された真理であると宣言し、布告し、定義する」(『カトリック教会文書資料集』3903)。

わたしも、教会が聖母の被昇天を祝うことに大賛成です。マリアが、地上の生活を終わった後、体も魂も天に上げられたと考えるのは、マリアにふさわしいことだと思うからです。2つの理由を考えました。

1つは、マリアが主である神の御心を知って生きていたからです。朗読箇所で、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、エリサベトに挨拶に行きました。マリア自身もこれから大切な時期を迎えるのに、自分のことをいちばんに考えるのではなく、エリサベトのことを心配しました。

エリサベトは不妊の女と言われていましたが、今や身ごもって6ヶ月になっていました。エリサベトは子を宿せなかった時期が長かったので、人々から低く見られ、自分のことを恥ずかしく思っていた女性でした。

マリアは、いち早くこのエリサベトを訪ねていきます。それは、主である神の御心を自分の行動で示すためでした。つまりマリアは、神がエリサベトを見捨ててはおられない、彼女のように身分の低い者に神は目を留めてくださる。そういうことを知らせに行くためでした。マリアは主の御心をよく知って生活していたのですから、いち早く体も魂も天の栄光に挙げられることは、神の望みにかなうことだと思います。

2つ目に、マリアは御子イエスの最大の理解者でした。幼子イエスがヘロデに命を狙われ、エジプトに避難した時から、イエスの十字架の苦しみをそのそばで受け止めた最期の場面まで、人類の中でイエスの思いをもっともよく理解し、受け止めることのできた人物でした。いつもマリアは、イエスの近くにいて、離れることなく生涯を過ごしました。

このような方ですから、主である神がマリアをいち早くイエスの側にいることができるようにされた、しかも体も魂もイエスの側にいられるようにしてくださったのは、イエスの最大の理解者であったマリアにもっともふさわしいことだったと思うのです。

マリアに与えられた栄誉は、わたしたちの目標でもあります。マリアが生涯追い求めた2つの姿をわたしたちが見倣うなら、わたしたちにも神は目を留めてくださるはずです。すなわち、主の御心を知って生きること、イエスの理解者になろうとすることです。

もちろんマリアのように最上の形で2つの姿を生きることはできないにしても、これら2つを生き方の基本にすることは十分可能です。わたしたちには、神が語りかけたことを知るために聖書が与えられています。聖書に親しみ、日常生活のさまざまな出来事を見て、関連する神のことばがわたしたちの中からわき出てくる。そのような生活は可能です。

また、聖書に親しむ結果として、わたしたちが何かを判断し、決断する時に、「イエスだったらどう判断し、決断するだろうか」と、思いを重ねることもできるようになるでしょう。これはまさに、イエスの理解者となる生活です。わたしたちは聖母の被昇天をたたえながら、わたしたちにも目を留めてくださる神をたたえて生きることが可能になるのです。

最後に、朗読された福音の箇所でだれも気づかないかもしれない結びのことばを取り上げて終わりたいと思います。「マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。」(1・56)これはつまり、三か月留まることが大事だということです。

わたしたちは何に三か月留まるのでしょうか。聖書のことばが体からわき出すくらいに聖書に親しみ、イエスだったらどう考えるだろうかと判断できるようになる。そのために、同じ努力を三か月続けてみてほしいのです。三か月は、何かを見える形にする一つの期間だと思います。

マリアの生き方は、神によって天に引き上げられました。わたしたちも、自分の生き方を神の目に留めていただけるよう、マリアに見倣って生きていきましょう。そのための恵みをミサの中で願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第20主日
(ルカ12:49-53)
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ちょっとひとやすみ
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▼夏真っ盛り。読者の皆さん、どのように過ごしているだろうか。まず、異常気象で記録したことのないような雨に見舞われている方々、被害まで被っているかもしれない方々には、心からお見舞い申し上げます。
▼メルマガを発行している長崎県南松浦郡新上五島町では、危険を感じるような雨を今年は経験していない。十分に雨の被害を思いやることはできないかもしれないが、祈りの中で思い出している。
▼今年の夏休みも折り返しを過ぎ、思い出に残る夏にしたいとできることを精一杯果たしている。説教でも触れたが、親しくしている神学生は、違う教会でさらに修道会の神学生ではあるけれども、ずっと応援していきたいと思っている。
▼本心は、同級生のわが小教区の男子も神学院に行ってもらって競い合って欲しかったが、本人をその気にさせることができなかった。わたしの力不足である。せめて、入学したその神学生を温かく見守ってあげたい。
▼それにしても、神学生を連れて行ったポイントに前もって出かけた時、竿を海中に絞り込んだ大物は何だったのだろうか?10mくらいは引き上げていたのだが、また海底に潜ろうとした時に、慌ててリールのドラグを手で押さえてしまったのである。
▼あの場面は、ドラグからラインが出ていくのに任せて、しばらく魚に暴れさせておけばよかったのだが、慌てているものだからそれを実行できなかった。細いラインがあっさり切られ、「何ものだったのだろうか」という謎だけが残ってしまった。
▼毎年夏に夢見る別の話。いつかどこかで、応援しているプロ野球のチームを現地で試合観戦して応援したいものだ。チーム名はあちこちでちらほら出したかもしれないが、わたしは広島カープファンである。だから、赤いものにはとても親しみを覚えている。ぜひマツダスタジアムで、いつか声援を送りたい。できればマエケン先発の日に。

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今週の1枚
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第271回目。うまく撮影できず。ドライブレコーダーの記録から。

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年間第19主日(ルカ12:32-48)わたしたちは神のいのちを託された僕

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こうじ神父
「今週の説教」
13/08/11(No.663)
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年間第19主日
(ルカ12:32-48)
わたしたちは神のいのちを託された僕
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8月9日、68回目の長崎原爆の日に、長崎大司教区主催で行われる平和祈願祭の取材のために式典に出席してきました。今年はたくさんの司教様がおいでになっておられました。

教皇庁の正義と平和評議会議長のタークソン枢機卿、駐日バチカン大使のジョセフ・チェノットゥ大司教、広島、福岡、大分の司教、平山名誉司教もミサに出席していました。これだけの教会指導者が集まるということは、長崎から平和のメッセージを発信することが、とても大きな意味があることを証明しているのだと思います。参加できてよかったです。

毎度お恥ずかしい話ですが、先週の月曜日、ケータイを水に濡らしてしまいました。わたしが車を洗うと、決まって雨が降るのですが、月曜日はまさかと思っていました。午前中福江に船で渡って後輩司祭たちとソフトボールの練習をして帰ってきていましたし、雨の気配は全くなかったので、給油をしてもらってから自分で車を洗い、直後にウォーキングに出発しました。

歩数を数えるためと、緊急連絡のために、わたしはケータイをポケットに入れて歩くのですが、10分も経たないうちにしとしと雨が降り出しました。それでもまぁ、何とか持ちこたえてくれるだろうと思っていたのですが、実際には雨が入り込んで濡れてしまい、臨終を迎えました。

しかたなく浦桑のドコモショップに相談に行ったのですが、浦桑に向かう間も、店で説明を受けている時も、「どうしてすぐに歩くのをやめて、ケータイを司祭館に置きに行かなかったのだろう」と、そのことが悔やまれて、店員の説明はまったくうわの空でした。

わたしはこれまで少なくとも3回、ケータイを水に濡らしてダメにしています。その苦い経験から学んで、今回はすぐにケータイを持ち帰るべきだったのです。めったに自分で洗わない車を、なぜあの時だけ洗ったのでしょうか。しかも玄関近くにある鉢植えにもたっぷり水をあげたりして、天気もビックリしたのかもしれません。本当に痛い目に遭いました。

わたしの苦い経験、今週の福音朗読にも繋がってくるのですが、「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(12・40)とあるように、わたしたちのいつもの心がけを、わたしたちの主は突然確かめに来るのです。その人の心構えが不十分であれば、厳しい結果が待っています。今回わたしは、用意が足りなかったために、ケータイを失う結果になったのでした。

わたしたちの主である神は、時と場所を問わずに、わたしたちの用意が万全であるか、確かめに来ます。それは、わたしたちが主である神の僕だからです。わたしたちは、主である神に信頼され、留守を預かっている僕のような存在なので、時と場所を問わずに、わたしたちの心がけをご覧になるのです。

もしわたしたちが、主である神と何の関わりもなかったら、わたしたちに用意ができているか確かめたりはしないでしょう。わたしたちの用意が足りなくても、咎められることはないでしょう。厳しい言い方ですが、信頼もされていないから、要求されることもないということです。

わたしたちが主である神から託されているものは何でしょうか。それは神のいのちです。わたしたちは洗礼によって神のいのちを与えられ、この神のいのちの豊かさを失わないように、たえず用意しておくことを期待されている者です。わたしたちが預けられた神のいのちにいつどんなときでも備えができていれば、主である神はそれを確かめ、わたしたちをもてなしてくださいます。しかも、僕と主人の立場をすっかり入れ替えて、あたかもわたしたちに仕える僕であるかのように振る舞って、もてなしてくださるのです。

一つ、考えておくことがあります。「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」(12・48)ということばです。これは、だれのことを指しているのでしょうか。

わたしたちは皆、「神のいのち」を託された僕ですが、ある人々は多くの神のいのちに関わっています。たとえば、洗礼の時に神のいのちがもたらされますので、洗礼に立ち会う司祭・代父母・両親などは自分に託された神のいのちのほかにも、多くを託されている人です。

ですから、司祭はもちろんのことですが、代父母の経験を何度か果たしている人、洗礼だけでなく堅信の秘跡も、神のいのちに関わる役目です。こうした役割を任された人は、「多く任された人」ではないでしょうか。

このような役割を与えられた人は、多くの神のいのちに配慮することを期待されるでしょう。「わたしは何人もの代父母を引き受けた。彼らが神のいのちをどのように扱うか、彼ら自身と一緒に責任がある。」こんな心構えで、毎日を生きて欲しいと思います。

ここからはついでの話ですが、今日夕方に、消防避難訓練をします。神がお住まいになる見える建物である教会堂が、火事や災難から免れるよう信徒皆が配慮すること。これも、「あなたがたも用意していなさい」に通じる行動です。今日の夕方5時から消防避難訓練をしますので、できるだけ多くの人が訓練に立ち会って欲しいと思います。

わたしたちは主である神の僕です。主がいつやって来ても、信頼されている僕として振る舞えるように、託された神のいのちにつねに配慮して日々過ごしましょう。そのための知恵を、ミサの中で願いましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
聖母の被昇天
(ルカ1:39-56)
‥‥‥†‥‥‥‥

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ちょっとひとやすみ
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▼またもケータイを水に濡らしてしまった。たくさんのデータがそれこそ水泡に帰した。その上に、いろんな面倒くさい作業をもう一度施さなければならず、余計な時間を使った。いくつか、その面倒くさい作業を並べてみる。
▼その1、お財布ケータイ。電子マネーとして楽天Edyを使っていたが、水に濡れると残っていた残高を引き継ぐ作業が必要になる。これが面倒。書類を整え、申請をして新しいEdyに引き継ぐことになっているが、手続きを見ただけで気力が失せてしまった。1600円ほど残っていたが、結局放棄した。
▼その2、メールの設定。わたしはメールの相手によって何通りもフォルダを分け、振り分けをしていた。たとえば広報関係のメールは広報フォルダに振り分けられて受信できるようにしていた。この設定も最初から設定してあげなければならない。しかも受信フォルダと、送信フォルダの両方にである。
▼その3、画面デザインも、出来合いのものからいろいろいじって自分好みのデザインに変更している。さらに、電話の着信音、メールの受信音、好みにしていたものを維持しようとすれば、切り替えてから元に戻るまでは相当なエネルギーを使う。
▼その他。カレンダーも最初から作り直しになる。マナーモードも自分の好みに合うように微調整が必要。さまざまなことをもう一度覚えこませ、チューニングしてと、新しいものをいつもどおりに使えるようになるまでけっこう手間がかかった。
▼もともと水に濡らした自分が悪いとはわかっているが、それでも全部を救い出すような画期的なアイディアは用意してほしいものだ。たくさんの「普通に使えるまでにする作業」を省略することができれば、万一のときでも安心だと思うが。それとも、さまざまな権益や思惑が働いていて、利用者目線からの希望は届かないのだろうか。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
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第270回目。平和祈願祭に出席。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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富栄海運(昭徳水産)が、20年ぶりに新古船を導入。

2013-08-08 | Weblog
写真をfacebookにアップしましたが、閲覧できない方のために。





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年間第18主日(ルカ12:13-21)神を喜ばせる考え方に目を留める

2013-08-04 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/130804.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。)
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こうじ神父
「今週の説教」
13/08/04(No.662)
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年間第18主日
(ルカ12:13-21)
神を喜ばせる考え方に目を留める
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6月の下旬から、浜串の集落をてくてく歩いています。だいたい歩数計で1万歩です。初めは平地を歩いていたのですが、7月の下旬からは坂道を歩こうと、教会前のバス停から後浜串バス停までを利用しています。まだ始めたばかりなので、見た目の体型はまったく変わりません。

6月24日から8月3日まで約40日間、1万歩に達しなかったのは3日間だけでした。坂道は平地を歩くときよりきついです。このきつさを乗り越えたら、11月くらいから走り出して、来年1月のマラソン大会には怖いものなしの練習を積んで出場する予定になっています。全部、頭の中だけの計算ですけど。

平地を歩くには問題ないのですが、坂道で1万歩稼ぐのは一苦労です。歩き始める時に「後浜串までの坂を5往復すれば簡単に1万歩だ」と頭では考えますが、2往復したころには最初の決心は吹っ飛んでいます。「今回はやめとこう。平地を歩いて辻褄を合わせよう」となるのです。せいぜい3往復が関の山で、まだまだ心の鍛錬ができていないです。

今週、愚かな金持ちのたとえ話が語られています。たとえ話に出てくる人物は、この世を渡る人としてはとても賢い人物でした。金持ちになったわけですし、畑の作物は豊作に恵まれています。やりくりの上手な人でなければ、これほどの成功は望めないでしょう。

この人はとても良い考えを思い付いたつもりでした。「こうしよう」と言った時、「いいことを思い付いた」と考えたはずです。ところが、彼には残酷な運命が待っているのです。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」(12・20)

彼の取った行動は、なぜ神に「愚かな者よ」と切り捨てられたのでしょうか。一言で表すと、「神を喜ばせなかったから」です。彼の「いいことを思い付いた」というのは、「自分を喜ばせる思い付き」であって、「神を喜ばせる」ことには少しもつながらなかったのです。

「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。」今夜命が取り上げられるというのは極端だとしても、わたしたちもまた、神に命を与えられ、神にいのちを取り上げられる者です。その最終告知の時までに、「自分を喜ばせること」ばかり思い付いたのか、「神を喜ばせること」を思い付いたのかは大きな運命の分かれ目になるのです。いつか命は取り上げられるのに、その神の前で「自分を喜ばせる思い付き」しか報告できないとしたら、どんなに愚かな人生でしょうか。

わたしは、「神を喜ばせる思い付き」が浮かんだことがあるでしょうか。中田神父は坂道で足腰を鍛えようと決めてから、日曜日の説教を考えてみることにしました。「自分を喜ばせること」を考えながら3往復目に入ろうとしても、ぜんぜんうまくいかないからです。むしろ、3往復目以降日曜日の福音朗読をどう話すかを考えれば、目の前のきつい坂のことを少し忘れることができます。しかも、そのことで「神を喜ばせる」ことができます。一挙両得です。

ただ単に坂道の訓練をしても、たとえ5往復できたとしても、神は喜んでくれないかもしれません。けれども、訓練の途中で日曜日の説教のことを考えているなら、神を喜ばせるのではないでしょうか。引退したある先輩の神父さまが、「わたしは説教を考えるのに行き詰まったら、走りに行って考える」と言っておられました。わたしは「できるはずがない」と思っていましたが、今はその考えが少し分かる気がします。

さて、皆さんは今週の「愚かな金持ちのたとえ」をどう受け止めるでしょうか。両親、また祖父母が、子どもたちを眺める時、「子どもたちを喜ばせる」ことを考えるでしょうか。それとも、「子どもたちを神が喜ぶ道に向かわせる」ようにするでしょうか。単に「子どもたちを喜ばせる」だけでは、自分を喜ばせるのと同じです。それは、神の前に賢い思い付きではないわけです。

むしろ、子どもに「神さまを喜ばせる何か」を思い付かせ、そのために協力するようにすれば、神の前に豊かになります。イエスの答えはこうです。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」(12・21)

福音書をひもとくと、あちこちに「神を喜ばせる人」が登場します。しかも、その人たちは難しいことを言っているのではなく、ふだんの生活の中に神を喜ばせる方法を見つけています。

たとえば、「シリア・フェニキアの女」は、娘から悪霊を追い出してもらいたいと願う時に、「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」(マルコ7・28)と答えました。

また、百人隊長が僕をいやしてもらいたいと願う時に「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」とふだんのありのままの姿を述べました。

どちらの場合も、イエスはその立派な答えを聞いて、願いを聞き届けてくださいました。難しい言葉を並べたのでも、どこからか借りてきた言葉を並べたのでもありません。ありのままの生活から、彼らは神を喜ばせたのです。

わたしたちも、自分を喜ばせることばかりにとらわれないで、神を喜ばせる毎日でありたいと思います。命をいただいたかたに報告できるのは、どれだけ神を喜ばせるために工夫したか、それだけです。それは、どこか遠くにあるチャンスではなく、生活のただ中にあるのです。自分を喜ばせる見方からは、神さまを喜ばせることは生まれません。

神を喜ばせるような捉え方に目を留め、神の前に豊かに生きることができるよう、ミサの中で恵みを願いましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第19主日
(ルカ12:32-48)
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ちょっとひとやすみ
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▼今年の夏休みは、まだ一度も子どもたちが司祭館のチャイムを鳴らさない。「子どもたちの鳴らすチャイム」とは、「海水浴の見張りをしてください」という合図である。面倒くさいが、チャイムを鳴らしてくれば行ってやってもいいのだが、と思っているけれど、一向にそのチャンスは巡ってこない。
▼先日、その理由が飲み込めた。子どもたちが水浴びをしている輪の中に、わたしはボートでの船釣りを終え、戻ってきた。すると、高校を卒業して大学進学した女の子が、子どもたちの面倒を見ているではないか。
▼なるほど。これでは自分に依頼が回ってくるはずがない。しかも、その大学生が見ている子どもの中には、自分の弟・妹がいるのである。これでは、わざわざわたしを呼びにチャイムを鳴らしに行くはずがない。おそらく、今年は一度も招集はかからないだろう。
▼そうなると、わたしが泳ぎに行くのはいつになるのか。あえて泳ぎに行く必要もないが、何だか構ってもらえないのでアピールしようかなという気持ちになっている。アピールしても、構ってもらえないかもしれないが。
▼「自分を喜ばせる見方」「神を喜ばせる見方」これはその人の目の付け所でずいぶん違ってくる。自分の不幸を嘆くのは、客観性があるかも知れないが、それは「自分を喜ばせる材料がないこと」を嘆いていることでもある。
▼「これは、神に信頼を寄せるまたとない機会だ」そう考えるなら、「神を喜ばせる見方」に立って一歩を踏み出せる。「自分を喜ばせる見方」に囚われてはいけない。囚人には自由がない。囚われず、神の招きに心を開こう。

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今週の1枚
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第269回目。なぜ?日中でもよく目立つ夜光反射リストバンド。

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