こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第26主日(マタイ21:28-32)ぶどう園で働く素晴らしさをもう一度考えよう

2011-09-25 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/110925.mp3

http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/110925.mp3

‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
11/09/25(No.554)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第26主日
(マタイ21:28-32)
ぶどう園で働く素晴らしさをもう一度考えよう
‥‥‥†‥‥‥‥

わたしたちは目上の人に対して、3つの態度を取ることができます。1つは、「はい」と答えて、目上の人の願いを受け入れること、2つ目は、「いいえ」と答えて、目上の人に反対する立場を取ること、そして最後に、「はい」と答えていながら、願いを聞いたふりをすることです。

この3つの態度のうち、わたしたちは2つの態度を多く取っているのではないでしょうか。「はい」と答えて、願いを受け入れる形と、「はい」と答えていながら、聞いたふりをすることです。「いいえ」と答えることは少ないのではないかと思います。

今週の福音朗読箇所は、ある人が息子二人にぶどう園へ行って働いてくれるように言った時の応答からたとえ話が始まっています。そして、いちばん大事な箇所は、父の言いつけに対して兄が「いやです」と答えたのですが、後で考え直して出かけた、この部分だと思います。

わたしは先に、自分たちはなかなか「いやです」とは答えないということを話しました。父の言いつけですから、なかなか「いやです」とは言いにくいと思います。さらに、日本人は「いいえ」とはっきり言うのが苦手な国民で、「いやです」と言うくらいなら、しぶしぶ「はい」と答えるため、兄の「後で考え直して出かけた」という姿を理解するのは難しいかもしれません。

兄が「いやです」と答えた事情を推理しました。兄が「いやです」と答えたのは何か理由があったのでしょう。以前にぶどう園で働いたことがあるのかもしれません。あんな辛い仕事はいやだ。そう考え、「いやです」と答えたとしても無理はありません。

または、自分に予定があって、重なってしまったのでしょうか。友人と宴会を開く予定があったのでしょうか。自分にとって楽しい予定が先に入っていたら、たとえ父の願いでも断りたくなるのは理解できます。

兄が「いやです」と答えた時、父親はどう思ったでしょうか。父親の反応は記されていませんが、兄の事情を十分理解していた可能性があります。父親ですから、息子がどんなことを考えているのか、ある程度は理解しているでしょう。「いやです」と、生れてはじめて口答えしたのかもしれません。すると、息子に「いやです」と言わせた事情くらいは思い至るのではないでしょうか。

父親は兄の決断に任せます。兄がいったん決めたことだから、それを尊重します。自由を尊重して、息子であっても一人の人間として、尊重してくれたのだと思います。

いったん「いやです」と答えた兄は、後で考え直して出かけました。父親は「いやです」と言った自分を責めたりしませんでした。自分で決めたことを、尊重してくれました。

「いやです」と言ったことを責められなかったことで、却って兄はよく考えることができたのではないでしょうか。父は、どんな思いでわたしにぶどう園で働くように声をかけたのだろうか。わたしが今抱えている事情も知った上で、頼みに来たのではないだろうか。父の穏やかな態度が、後で考え直すきっかけを作ってくれたのかもしれません。

このたとえは、当時洗礼者ヨハネの証しを受け入れなかった祭司長・長老たちと、ヨハネの証しを受け入れ、悔い改めた徴税人や娼婦にあてて話したものでした。

たとえ話の弟は、一見言うことを聞いているかのような態度を取りましたが、聞いているふりをしていただけでした。聞いているふりだけするのは、「いやです」と答えることよりも罪深いような気がします。

一方徴税人や娼婦たちは、自分たちが洗礼者ヨハネの証しに背を向けて生きてきたことを知っていました。けれども洗礼者ヨハネがだれも差別することなく義の道を呼びかけてくれたので、後で考え直して悔い改めたのです。

ぶどう園である神の国は、招かれなければ入ることはできませんが、招かれても、「いいえ」と断れば入れません。洗礼者ヨハネの証しを聞き入れた人々は、それまでの生き方は「いやです」という生き方だったのですが、考え直して悔い改めました。彼らはぶどう園である神の国に、後で考え直したことで先に入ることができたのです。

宗教指導者たちは、2度のチャンスがあったのに無駄にしてしまいました。洗礼者ヨハネの証しを聞いたふりをしてやり過ごし、徴税人や娼婦が悔い改めたのを見ても、自分たちには関係がないと無視したのです。

ではわたしたちはどうでしょうか。わたしたちは、素直に「はい」と聞き入れることができず、「はいはい」と言って聞いたふりをすることが多いのではないでしょうか。もしそのままで終わってしまったら、わたしたちはかつての宗教指導者と同じ過ちを犯すことになります。わたしたちにも、後で考え直すチャンスが残されているのです。

親子の間で、夫婦の間で、職場で、日常の様々な場所で、「はいはい」と聞いたふりをしている場面がないでしょうか。相手のお願いが誠実なものだと知っているなら、後で考え直してみましょう。「ぶどう園へ行って働きなさい」とお願いしている人は、あなたのことを見込んでお願いしているかもしれません。

後で考え直すチャンスは、無限にあるわけではないと思います。もしも相手の願いが洗礼者ヨハネの証しのように真剣なものであったなら、たとえ「いやです」と答えても、後で考え直すことはぜひおこなってほしいと思います。

ぶどう園に行って働く、ぶどう園のために働くことのすばらしさを、あらためて考える機会を与えてくださいと、このミサの中で願うことにしましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第27主日
(マタイ21:33-43)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼お産で里帰りしていた妹に男の子が生まれた。体重は何と3950g。これでもちょっぴり割り引きしている。予定日を一週間も遅れていないのにこんなに大きいというのは、予定日の立て方がまずかったのではないか。
▼出産が金曜日の夕刻だったので、翌日土曜日の午後に妹に会いに行った。あいにく男の子は処置が必要とかで妹とは別に見守られている。3日くらいは処置を受けるそうだ。母体の中でうんちやおしっこをした羊水を飲んでいたらしく、経過観察。
▼病院の3階に上がり、胸躍らせて「家族です。妹の○○○○に面会に来ました」と受付に伝えたら、「お父様ですか」と尋ねられ、「兄です」と答えたら、「ご主人さまとご両親さましかお会いできません」とつれない返事をされた。
▼「兄ではダメなのか・・・」としょげていたら、しばらく考えた挙句に看護師が、「今は・・・赤ちゃんが別室ですから、結構ですよ」と言う。最初から妹と旦那にだけ会えればよかったのだ。部屋に入ってみると、妹しかいなかった。ご主人は出産に立ち会い、お子さんを見届けてから土曜日の朝に出発したそうだ。
▼いやぁ、画像しかまだ見てないが、金太郎のように丸々太っているぞ。きっと実物を見れば、もっと目を丸くするに違いない。「太」という字が名前に入っているが、これはすでに丸々太っているのを見越していたかのようだ。大きいばかり言ってたら、妹に怒られそうだ。
▼あ~。これでおじちゃんになってしまった。歳はおじちゃんと言われても仕方のない歳だが、「神父さま」と呼んでくれないかなぁ。そう呼ぶように妹にお願いしておこう。それにしても、母になると何だか貫禄が付くものだなぁ。

‥‥‥†‥‥‥
新企画今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第161回目。初の甥っ子と言いたいところだが、許可が下りないので最近の料理。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/110925.jpg

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

9月24日午後からのとある講話

2011-09-24 | Weblog

●わたしは自動車を運転します。どちらかというと気の短いわたしは、急いで運転をすることが多いような気がします。五島では、たぶん急いでも5分か、せいぜい10分くらいしか早く着きません。それなのに、急いでしまうのは、まず出発時間が遅いからです。
●目的地まで30分かかる場所に向かおうとします。たとえば、朝8時の五島産業汽船に乗るとしましょう。少し余裕を持って出発すればよいのに、最終的に出発する時間は7時25分になってしまいます。これでは、よほど急がないと、船の切符を買って乗船するためにはほんの少しの余裕もありません。
●7時25分に浜串を出発しました。初めは順調に車も進んでいますが、10分走ったころに自分の前にダンプカーが現れまして、目の前が真っ暗になりました。このダンプカーが前を塞いで、スイスイ走ることができないからです。
●イライラしながら走り続け、本当に30分かかって鯛ノ浦のターミナルに到着しました。気分はマイナスです。ダンプカーのことをいつまでも引きずっていました。あのダンプさえいなければ、あんなに冷や汗をかかないで到着したのに。
●でも考えてみると、30分で間違いなく到着したのですから、本当は感謝すべきなのです。船に間に合わなくなるという最悪の時代を避けることができたのですから、本当は運が良かったと、感謝すべきでした。もっと言うと、ダンプカーのおかげで、わたしは安全運転できたはずです。もしダンプカーがいなくて、わたしがスピードを上げて鯛ノ浦に向かっていたら、わたしが事故を起こしていたかもしれません。
●いろいろ考えると、わたしは十分に、感謝できる条件がそろっていました。けれどもそのほとんどを、当たり前のように思っていたので、感謝の気持ちが湧いてこなかったのです。車を持っていること、信号が一か所もなくて、警察の取り締まりも決してないような裏道が備えられていること、ダンプカーが前を先導してくれて、わたしは後をついて行くだけで鯛ノ浦までたどり着けたこと。当たり前のように思っていたこれらのことは、当たり前のことではなくて、感謝できることだったわけです。
●どうして感謝の気持ちが湧いてこないのか。それは、自分が受けている恩恵を当たり前だと思っているからです。この車社会の生活を当たり前と思って生きて、時間から時間に忙しく動いて回る生活を、当たり前のことだと思っているから、感謝できないのではないでしょうか。このような状態は、自分に原因がある状態です。さまざまな恩恵を受けていながら、自分に妨げがあるために、恩恵に感謝できなくなっているわけです。

●自分に妨げがあると、受けている恩恵を「これは当たり前ではない」と気付くことができません。わたしたちは三日間、練成会に参加しています。この三日間は、神さまのためだけにおささげする三日間です。皆さんの人生の中で、神さまのためだけに、三日間も時間を使うことは、前にも後にもこの練成会一回きりかもしれません。
●この三日間は、あなたの人生にとってかけがえのない恩恵になります。さらに、あなたが戻っていく小教区にとっても、かけがえのない恩恵になります。それなのに、もしわたしの心の中に、「どうしてわたしは練成会なんかに参加しなければならないのだろうか」「わたしは無理やり練成会に参加させられた」というような思いをぬぐい切れなかったとしたら、せっかくの恩恵が働かなくなるのではないでしょうか。

●わたしたちにいろいろな方法で、いつでも与えられる恩恵は、わたしの中に妨げがあると、どうしても十分に力を発揮することができないのです。恩恵が十分に働かなくなる原因は、わたしの中に妨げがある場合と、自分以外に妨げがある場合と、両方あると思いますが、多くの場合は、自分の中にある妨げが原因なのです。
●それは「自我」と言ったり、「自己愛」と言ったりしますが、わたしは言葉にとらわれずに、自分自身の体験をそのまま話してみたいと思います。

●家族の中で自分だけがカトリックだという人も、中にはいるかもしれません。あるいは、そういう環境の人を知っているかもしれません。自分以外の人はカトリックではないので、環境としてはとても厳しい環境でしょう。けれども、恵みはただ一人カトリックであるあなたを通して働きます。その人がカトリックであることを神は大切に思って、家族の分も恵みを注いでくださるのかもしれません。
●「わたしは周りにだれもカトリックの人がいないから、力を発揮できない」「わたしだけがカトリックだから、わたしは恵まれていない」わたしはそうは思いません。あなただけがカトリック、だったらあなたを頼みとして、神さまの恵みが働き始めます。その人を頼みの綱として、神は恩恵を注ごうと考えておられると思います。

●自分以外の妨げが主な原因なのではなく、わたし自身に、わたしの中に妨げがあって、恩恵が十分に働かないのだと考えるべきです。今日目が覚めて生きていること、これだけでも恩恵ですが、わたしがそう思っていなければ、恵みとして働かないのです。(詳細に)

●証しを立てるためにも、恩恵は働きます。この時も、自分の中に妨げがあると、恩恵は十分に働いてくれないのです。9月21日、聖マタイ使徒福音記者の祝日の聖書朗読を例に考えてみましょう。

◆キリストの体は一つ(エフェソ4・1-7,11-13)
4:1 そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、
4:2 一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、
4:3 平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。
4:4 体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。
4:5 主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、
4:6 すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。
4:7 しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。
4:11 そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。
4:12 こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、
4:13 ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。


◆マタイを弟子にする(マタイ9・9-13)
9:9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
9:10 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。
9:11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
9:13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

9月21日(年間第25水曜日・聖マタイ使徒福音記者)神の招きがすべての人に


霊による一致を保って生きる

●ある日、教会での結婚を希望する青年たちが訪ねてきました。結婚講座の約束をして、若いカップルは講座に参加し始めました。「結婚生活を続けていくのに大切な心がけは何だと思いますか」と尋ねると、「相手を大切にすることです」と答えてくれました。
●互いに愛し合い、相手を大切に思うことはもちろんですが、わたしはもう一つ、本人たちが気づいていないことについて触れました。「わたしは、『自分たちの力だけでは足りない』ということをわきまえておくことだと思うよ。どんなに努力しても、理解できない行動や考え方があったり、折り合えなかったりしたとき、それでもなお夫婦であり続けるためには、神の支えが欠かせない。そう思いませんか?」本人たちは、はっとさせられていたようです。
●「自分たちの力だけでは足りない」「神の助けが必要だ」と自覚するとき、結婚生活をする人に十分に恩恵が働きます。自分たちが愛しあえば足りると思っている間は、恩恵が十分に働かないわけです。夫婦自身に、恩恵が働くのを妨げる原因があるからです。
●確かに、愛による一致は、夫婦の根幹を成すものですが、人間の努力だけで夫婦の絆は保てないのではないでしょうか。どうしても継続できなくなってしまう結婚生活の中には、自分たちの努力だけでは足りないのであり、神に頼ることが何にもまして大切なのだと気づいたなら、もっと違う結果になったケースもあるはずです。
●配偶者は互いに、愛による一致と、霊による一致を保って生きる。そうして初めて、深い絆で結ばれると思うのです。結婚する人たちだけでなく、位階的交わりにある人、奉献生活にある人、あらゆる信徒が、互いを愛する気持ちと、個人の力だけでは真の一致を保つことはできません。
●第一朗読は教えます。神に心を開き、霊による一致を求めるとき、「わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」(エフェソ四13)ここまでたどり着いた時、すべての人が、生活の中で証しを立てる人になります。


神の招きに全力で応える

●マタイの召命は、ほかの弟子たちとは一線を画したものと感じます。徴税人は、徴収した税を、自分たちを支配しているローマに納める人々で、おまけに自分たちの取り分も裁量が認められていました。「不正な人、罪人」と考えられていたのに、あえてイエスは声をかけます。その特殊な事情を書き残すことは、特別な意味があると福音記者は考えたのでしょう。
●マタイの召命を通してイエスは、今や神の支配が、「徴税人や罪人」にまで及んでいることを示そうとしました。ファリサイ派の人々にとって神の支配にあずかることは律法の遵守と切っても切れない関係にありますが、イエスが示そうとする神の支配は、律法遵守にとらわれず、どこまでも誰にも及んでいます。
●マタイを含め徴税人や罪人が神に招かれて一つの食事の席に着き、一つの教えに導かれ、イエスの招きに答えていく。こうした姿は本来あるべき神の憐れみの現れですが、ファリサイ派の人々にとっては耐えられないことでした。マタイ福音記者はあえて、ユダヤ教からの改宗者である読者に書き残すに値すると、考えたのではないでしょうか。
●ファリサイ派の人々は、神の恵みは律法を完全に守る人に与えられるのであって、罪人には与えられないという考えでした。神さまにこんなことができるはずがないと、神さまの力を小さく制限していたのは、自分たちの思い込みでした。ファリサイ派の人々に神の恵みが十分働かなかったのは、彼らの中に妨げがあったからです。彼らが心を開き、神の恵みの奥深さを受け入れたなら、彼らの中でも恩恵が十分働いたに違いありません。
●神の憐れみ深さは、律法を守ることができずに排除されている人々にも浸透していきます。深く染み込み、弱さを覆います。神がここまでして人を招いている。その愛に、全力で応えようとする徴税人のマタイの姿は、すべての人を招く神の姿を誰よりも感じ取っているし、誰よりも力強く語っています。
●イエスの「行って学びなさい。」という言葉は、今も響いています。わたしたちが社会にあって証し人となるために、神に全面的に心を開くための場所、神の憐れみによる支配を確実に学ぶ場所を、わたしたちは持っている必要があります。わたしはそれはそれぞれが所属している教会だと思います。
●それぞれの教会であずかるミサ、小教区評議会、ロザリオなどの信心の集いです。これらの場所に心を開いて参加するとき、わたしたちの中の妨げは取り除かれ、立派な証し人として、歩いていけるようになります。練成会を通して、皆さまのさらなる成長をお祈り申し上げます。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年間第25主日(マタイ20:1-16)どんな人も神のぶどう園にかかわらせたい

2011-09-18 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/110918.mp3

http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/110918.mp3

お知らせとお願い☆彡
■■アンケートを実施します■■

メルマガも500号を超え、ちょっとした長寿メルマガに育ってきました。
ここでアンケートを実施し、みなさんの声を少しでもメルマガに反映
させたいと思いました。実施は、10月1日から年内いっぱいを考えて
います。アンケートの集計結果はこうじ神父だけに届きます。性別を
お尋ねする項目はありますが、匿名で実施します。

アンケートの内容は以下の通りです。また、10月1日からはパソコン
からアンケートが実施できるようになりますので、その日になったら
アンケートのサイトに入るためのURLを埋め込みます。10月1日以降、
どうぞアンケートにご協力ください。

Q.1 メルマガ「こうじ神父今週の説教」は、何曜日にお読みになっていますか。
(土・日・その他)
Q.2 どんな目的でこのメルマガをお読みになっていますか。全角50文字以内でお書きください。
Q.3 このメルマガで役に立っている部分はどんなことですか。全角50文字以内でお書きください。
Q.4 このメルマガに足りないことは何ですか。全角50文字以内でお書きください。
Q.5 性別だけお聞かせください。
(男性・女性)


‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
11/09/18(No.553)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第25主日
(マタイ20:1-16)
どんな人も神のぶどう園にかかわらせたい
‥‥‥†‥‥‥‥

今週の福音朗読から、おそらく、気付かずに読み飛ばしてしまうであろう一言を取り上げて、説教に充てたいと思います。それは、ぶどう園の主人が発した「友よ」(20・13)という言葉です。

ぶどう園の主人は、誤解している相手に対して、「友よ」と呼び掛けています。まる一日、暑い中を辛抱して働いた労働者の一人は、主人の思いを理解せず、不平を漏らしていました。その相手に、ぶどう園の主人は「友よ」と呼び掛けています。

福音書を調べてみると、「友よ」と呼び掛けている場面が4か所ありました。そのうちの3か所はマタイ福音書の中に出てきます。あと1か所はルカ福音書で、「友よ、パンを三つ貸してください」(11・5)という言い方で、これだけがほかの3か所と違う使い方なので外します。

残るマタイ福音書の中の3か所ですが、1か所は今週の朗読部分です。2か所目は、「天の国をたとえる婚宴の物語」で、「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか」(22・12)と王が婚礼の客に問いかける場面です。王の思いを誤解している相手に語りかけています。

3か所目は、イスカリオテのユダに対してイエスが語り掛けた言葉です。「友よ、しようとしていることをするがよい」(26・50)と言う場面で、ユダが兵士たちを従えてやってきて、イエスを捕えます。誤解しているユダに、イエスが語り掛けています。

つまり、マタイ福音書に限って言えば、「友よ」と呼び掛ける場面はどれも、誤解している相手に呼びかけていることになります。では、今週のぶどう園で雇ってもらった労働者は、何をどう誤解したのでしょうか。

物語で不平を述べる労働者は、長時間働いた自分たちと、1時間しか働かなかった労働者とを同じ扱いにしたと言って不平を述べました。ぶどう園の主人が支払う賃金を、労働時間の報酬と見ていたのです。労働時間の報酬であれば、1時間しか働かなかった労働者が1デナリオンもらえるのであれば、自分たちはもっと多くもらえるだろうと考えるのは当然のことです。

ところがぶどう園の主人は、皆に分け隔てなく1デナリオンの賃金を支払っています。主人が賃金を支払う理由に考えたのは、どんな人も、ぶどう園の収穫にあずからせたい。すべての人を、ぶどう園で雇いたい。その証しとして、賃金を支払ってあげたのだと思います。

自分の考えに縛られると、人はしばしば違う人の考えを理解しなくなります。不平を言う労働者たちは、自分たちの考えに縛られて、ぶどう園の主人の考えが見えなくなっていました。わたしたちも、自分の考えに縛られると、わたしたちの唯一の主人である父なる神の考えが見えなくなる危険があります。

なぜイエスは、悪人も救おうとして十字架に磔になったのでしょう。善人だけ救おうと思えば、十字架など必要なかったでしょう。でもこうした考えは、人間が自分たちの考えに縛られて、父なる神の考えが見えなくなっているのです。イエスは、すべての人を天の国に招きたくて、十字架に磔にされました。だれも、天の国と無関係なものにしたくなくて、十字架に磔にされたのです。

なぜイエスは、「迷い出た羊」を探しに行くのでしょうか。「迷い出た羊」を探しに行く間、残りの九十九匹は多少危険にさらされてしまいます。それでも探しに行くのは、一匹でも自分の懐から、神とのかかわりから漏れる羊が出るのを望んでいないからです。

今週のたとえがわたしたちに求めているのは、自分の考えに縛られると父なる神の望みが見えなくなるから、十分注意しなさいということです。朝早くにぶどう園の主人に雇われていれば、後でいろんな時間に人が雇われて追加されているのが手に取るようにわかったはずです。

その時点で、ぶどう園の主人はどんな思いでおられるのかなと考える必要がありました。最後は1時間しか働かない人もぶどう園に送り込んだ。ぶどう園の主人の気持ちを考えるなら、ほんの少しの時間でも、ぶどう園にかかわらせたかったのだなぁと気づいたことでしょう。

現代には、ぶどう園の主人の思いを知ろうとする人は必要でしょうか。変わらず必要だと思います。何もしないで立っている人を、ほんのわずかの時間でもぶどう園に関わらせる、そんな働きをしてくれる人が現代にも必要です。

「この連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」(20・12)そう不平を鳴らす人に、「友よ、あなたに不当なことはしていない」とていねいに諭す人が必要です。

それは分かりやすく言えば、司祭や修道者たちです。ほんのわずかでも、何もしないで立っている人がぶどう園である教会に関わる人になるように働きかける。同じ扱いを不平に思う人に「友よ」と呼び掛ける。

これらは、ぶどう園の主人の思いのためだけに働く人でなければなかなかできない働きです。それができるのは、司祭や修道者たちです。今日のぶどう園の主人のように、みんなをぶどう園である教会に近づけてあげる人になりたいと願う子供たち・青年が手を挙げることを心から期待します。

またぶどう園の主人の思いを受け継ぐために子供の背中を押してくださる家庭に、心から期待します。今日は敬老者のためのミサですが、すべての人をぶどう園である教会に導こうと働くことは偉大な仕事だよと、子供や孫と一緒に語り合ってほしいと思います。

今、敬老者は年寄り扱いすべき人たちではありません。語り掛け、人を動かす十分な影響力を持っている人たちです。どうぞ、自分の身の回りで、偉大なことに目を向ける子供たちを応援してください。よろしくお願いいたします。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第26主日
(マタイ21:28-32)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼ショック~。ショック!現在の普通車に乗り始めたのが2002年10月15日、10年は乗るぞ~って決心して乗り続けていた。現在の任地に来てから9万5千キロを超えたので、「これは、10万キロの記念のメーター表示が見れるぞ」とひそかな楽しみを持っていた。ところが、気が付いたら10万9キロを差しているではないか!
▼小生はちょっと変わった趣味があって、トイレットペーパーの最後の芯になる瞬間が好きだったり、バターを使い切った瞬間が好きだったりする。司祭館のお手伝いがシスターだったりすると、使い切る前に取り換えられていたりしてささやかな楽しみを奪われることがある。車のメーターに関しては、だれにも邪魔されないと思っていた。
▼ところが、メーターはどうやらガソリンを給油する直前あたりで10万キロに達したらしい。最近は給油もギリギリまで走ってから給油なので、給油直前の状態には注意を払っていない。そこが落とし穴だったのだろう。浜串まで帰って何気なく見たら、キリ番を見落としていたのである。
▼何という失態。悔しいの何のって、この悔しさのやり場がない。10万キロ走ったので、まぁこの車もご苦労さまってところか。もちろん、もっと20万キロ乗る人もいるだろうが、わたしは次のことを考え始めている。すぐに実行というわけではないが。
▼とにかく、メーターを戻してでも10万キロの記念は見届けたかった。あと1万1111キロ110メートル走って、記念にするか。あるいは、12万3456キロ7890メートルの記念を記録するか。

‥‥‥†‥‥‥
新企画今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第160回目。キリ番をお見せできず、言葉に表せないほど本当に悔しい。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/110918.jpg

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年間第24主日(マタイ18:21-35)条件を付けずに人を赦そう

2011-09-11 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/110911.mp3

‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
11/09/11(No.552)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第24主日(マタイ18:21-35)条件を付けずに人を赦そう
‥‥‥†‥‥‥‥

どうしてわたしたちは、人を赦せないのでしょうか。たとえそれが、仲間であっても、人を赦せないときがあるのはなぜでしょうか。わたしはいまだに、心の底から赦せていない仲間がいます。彼は今、県外にいて、わたしはその人ともう一度会うことができるかどうか分からないのです。すると、わたしは一生彼を恨みに思ったまま、わたしが死ぬか、彼が死ぬか、いずれにしても心から兄弟を赦さないまま、この世を去ってしまうことになるかもしれません。

その彼はもと大神学生で、わたしが記憶している限り、不仲になったきっかけは些細なことでした。大神学院で夕食後の休憩時間、広間でみんなでテレビを観ていました。そのテレビの番組を、わたしがさんざんケチを付けながら観ていたのです。「そんなことが実際あるはずがない」とか、「そんなことができるのなら、だれだって実行しているはず」とか、番組を冷やかしながら観ていたのです。

すると彼は、相当がまんした挙げ句だったのでしょう。さまざまケチを付けていたわたしに彼が向き直って、「うるさい!黙れ!」と大声を上げたのです。大勢でテレビを観ているのですから、番組に対していろんな意見があるわけです。けれども、それをわざわざ口に出して、黙って観ている人たちの心を乱すようなことをすべきではなかったと思います。

なんと、それが原因で、わたしと、同級生のその彼とは、その後4年間も、一言も口をきかなくなりました。同じ大神学院に住んでいて、一言も口をきかずに、暮らす羽目になったのです。当然、一緒に行動することはなくなりました。仲間も別々、することも別々、一切口をきかずに済むような行動をそれぞれ取ったのです。

でもどこかでは、仲直りをしなきゃいけないなぁと反省していました。同じ大神学生ですから。同じ、司祭を目指す仲間ですから。いつまでも仲違いしたままで生きていけるはずがありません。それはお互い感じていたと思いますが、なかなかチャンスが巡ってきませんでした。

仲直りのチャンスは巡ってきました。テニスをしていたときです。たまたま、練習相手をジャンケンで決めるときに、彼もそこにいました。そして、ボールを打ち合う相手に、彼が決まったのです。ほとんど、口をきくことはありませんでしたが、ボールを打ち合う中で、4年ぶりに相手を気遣いながら時間を過ごしたのです。

なぜ、こんなに簡単なことが今までできなかったのだろうか。そんなことを思いながらわたしはボールを打ち返していました。あるいは、彼はもっとずっと早くから、わたしのことを赦してくれていたのではないだろうか。そんなことも考えました。わたしの独り相撲で、彼は今も腹を立てている、そう思って仲違いをしたまま、ここまで来たのかもしれない。いろんなことを思いながら、長い時間テニスコートを挟んでボールを打ち合ったのでした。

「人を失う」というのはとてつもなく大きな損失です。わたしは危うく、大神学院の同級生10人の中の1人を失うところでした。かろうじて、テニスボールを打ち合って、仲直りを果たしたのですが、本当のことを言うと、その時に仲違いの原因を詫びもしなかったし、これからまたよろしくねという簡単なあいさつさえも交わさなかったのです。

じつはそれが、一生の悔いになってしまいました。テニスをして長いわだかまりが解けたと思った矢先、彼は大神学院を退学し、家業を継ぐことにしたのです。夏休みが終わって大神学院に戻ってみると、彼の姿はありませんでした。わたしはとうとう、言葉で彼と仲直りをすることなく、卒業し、司祭になったのです。彼と会うことは、もう二度とないかもしれないと思うと、本当に申し訳なかったなぁと悔やみきれません。

きっと心の中では、お互いもう過去のことは赦していると思います。ですが、イエスの言葉は、わたしの心に突き刺さるのです。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」(18・35)ひとまずは、わたしと彼は赦された仲だと思っています。けれども、「心から」「心の底から」ということを考えると、そこまでではなかったかもしれない。そう思うのです。

たとえ話の中で、一万タラントン借金している家来が自分の仲間の百デナリオンの借金を赦さず、首を絞めた上に牢屋に投げ込んでいますが、その態度は、主人にとってははらわたの煮えくりかえるような思いだったことでしょう。日本のお金で数十億円の借金を赦されていながら、主人の恩を理解しなかったからです。

主人は、家来がこれからも自分の家来であることを大切にしたかったので借金を赦してあげたのです。主人が赦さなかったら、多額の借金をした家来は、もはや絆を失ってしまうからです。主人と無関係の者、それは言い換えると、天の国と無関係の者になってしまう。そのことを哀れに思って、主人は借金を赦してあげたのです。

わたしは、過去のわたしの苦い経験と重ねて考えました。わたしの同級生は、わたしを何とか赦してあげようと思っていたのかもしれません。大神学生として、仲間外れにしたくなかった。けれどもわたしは、その思いを無視して、テレビを観ている全員の和を平気で乱そうとしていました。わたしを無関係な者にしたくなかったので、懸命にこらえていたのかもしれません。

けれども、「かわいさ余って憎さ百倍」と言いましょうか、ついに限度を超えたので、仲間として、わたしを諫めようとしたのだと思います。「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」(18・33)わたしは今の今まで、自分を「仲間を赦さない家来」の立場に置いたことがなかったのですが、じつは今の今まで、わたしは「仲間を赦さない家来」だったのです。

何十億も借りのある人を赦してあげたのは、その人が天の国と無関係な者とならないためでした。わたしたちは、誰かを天の国と無関係な者にしてしまってはいないでしょうか。お金絡みで、問題のある人が周りにいるかもしれません。お金の問題がない立場の人々が、もしその人を断罪してしまうと、その人は天の国と無関係な者になってしまいます。「人を失う」ということはとてつもなく大きな損失なのです。

どうか、イエスがたとえ話で示された主人、父なる神の寛大さで、誰かを天の国と無関係な者にしないようにしていただきたいと思います。そのような態度は、いつまでも悔いの残る結果になってしまいます。天の父に倣って、わたしたちも心から兄弟を赦してあげることができるように、力を願うことにしましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第25主日
(マタイ20:1-16)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼9日(木)と10日(金)にかけて鹿児島に行ってきた。視覚障害者のためのボランティア団体「マリア文庫」のメンバーとして研修を受けるためだ。五島から船で前日に長崎入りし、翌木曜日8時半の特急に乗る。新鳥栖駅で新幹線に乗り換え、11時半頃に鹿児島中央駅に到着。会場はサンロイヤルホテル鹿児島。初日は13時から研修が始まり、夜の懇親会で終了。懇親会で知っている人と酷似している人に会い、間違って声を掛けた。
▼金曜日は午前中いっぱいの研修。研修は実践的な内容の講話を聞くことができて、本当に役に立った。マリア文庫のメンバーで参加したほかの人たちは、午後から鹿児島見物。わたしは見物はパスして、13時半の新幹線で博多に移動。別行動を取った理由は、レンタルバイクを利用してドライブをするためだ。
▼バイクの話はいつかもう一度詳しく話すが、最近まで乗っていた250ccカタナは廃車にして、400ccの中古のバイクを購入する予定にしている。乗りたいバイクが見つかったのだ。そして博多のレンタルバイクショップで借りるのも、購入予定のバイクで、言わば「試乗」というわけだ。
▼バイクの名前はお楽しみということにして、この日バイクを借りて博多駅周辺を走り回った。最初はおっかなびっくりで道路に乗りだしたが、乗り心地は想像以上に良くて、走りながら笑いが止まらなかった。気が変になったのかと思われるほど、笑いながら走った。約10キロの周回コースを自分で設定し、4時間のレンタル時間の内3時間ぶっ通しで走り続け、記憶では周回コースを6周走ったと思う。
▼「走ったこともない場所を、レンタルバイクでよくまぁ走れるものだ」そんな疑問もあるだろう。ご心配なく。便利な地図ソフトがあって、ある程度のイメージトレーニングを積み、左折のポイントを頭にたたき込んだので、まったく不安はなかった。ドライブシュミレーションで使用されていた景色は、実際の景色とほとんど違いがなかった。たいしたものだ。
▼周回コースのポイントは、4回やってくる左折それぞれの景色だ。ガソリンスタンドでの左折、新幹線線路をくぐっての左折、高速道路ををくぐっての左折、自動車メーカーの大きな看板を正面に見ての左折。乗車姿勢の全く違うバイクだったが、1周回ったときにはもう違和感はなくて、楽しいばかりだった。あとは、楽しかったとは言え疲労しているのは間違いないので、疲労があとでどれくらい出るかである。それでも、実感としてスポーツタイプのバイクほどではないと思っている。
▼バイクのレンタルを終えたあとは、持ち帰りのフライドチキンを食べて博多港へ。博多からの夜間フェリーに乗り、6時間半かけて上五島の青方港へ。五島に到着した土曜日は、朝9時から保育園の運動会を見学。子どもたちに力をもらって、また1週間を乗り切りたい。

‥‥‥†‥‥‥
新企画今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第159回目。研修を終えたマリア文庫のメンバーのうちの2人。やる気十分。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/110911.jpg

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年間第23主日(マタイ18:15-20)受けた信仰、今いる教会のすばらしさを再認識しよう

2011-09-04 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/110904.mp3

http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/110904.mp3

‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
11/09/04(No.551)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第23主日
(マタイ18:15-20)
受けた信仰、今いる教会のすばらしさを再認識しよう
‥‥‥†‥‥‥‥

最近ツキのないことがいっぱいですが、そんな中でも、嬉しいことが一つありました。木曜日は浜串教会と福見教会両方でミサをする日ですが、夕方の福見教会のミサで外国人がミサに参加していたのです。

わたしはてっきり、「あー、2学期に入ったから、新任の英語教師がミサに参加しているのだな」と思いました。とても敬虔な人のようで、日本語のミサは理解できてなかったようですが、皆と一緒に立ったり座ったり、お辞儀をしたりしていました。

ミサが終わったので、わたしは「新任の英語教師ですか?」とだけ話しかけようと思っいました。ところが、聖堂を出て来たその青年は、いかにも旅行者の格好をしていました。とっさに、「これは英語教師ではないな」と判断して「旅行者ですか?」と聞きますと、「自分は東京に住んでいて、日本のキリスト教の歴史を研究するために、長崎を回っている」という話でした。

もっと細かい話をしたのですが、この説教には直接関係ないので省略します。1つ嬉しかったことと言うのは、わたしの英語が通じて、しかもその外国人から「あなたの英語はファンタスティックだ」と言われたことです。

実はわたしは英検4級しか持っていません。本当は3級を取る自信があったのですが、高校生の時同級生が3級を確実に受験しているのを見て、かっこつけて2級を受験したのです。ところが、1次試験はパスしましたが、2次の1対1での面接試験で舞い上がってしまい、1点足りずに不合格になったのです。本当の力がないからです。

これでずいぶん凹んでしまい、以後英検を受けませんでした。そのため、資格としては4級止まりなのです。そんな4級しか持たないわたしでも、相手の質問を聞き取り、自分の言いたいことを何とか言うことができ、しかも通じたのですから、最近の不幸続きの中ではかなり嬉しい出来事でした。木に登りたいくらいの気分です。

この外国人の人との会話で、五島の教会の将来について、心配しているかという話が出ました。心配していると答えました。実例を挙げて、大変心配な状況であると話したかったのですが、わたしの言葉が足りず、うまく話せませんでした。そこは悔しかったです。その外国人とは、今後英語のメールでやり取りすることにしていますから、言い足りなかったことをきっちり伝えたいと、今は頭の中で言葉を探しています。

さて福音ですが、次のイエスの約束に注目してみました。「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」(18・19)わたしの今の願いは、五島に住んでいるカトリック信者皆が、五島でカトリックの信仰を守ることができて良かったと、心の底から言える信者になってほしいということです。

実は先の外国人との話の中で、五島の印象を尋ねたところ、彼は五島の教会にいたく感激したと言っていたのです。彼も、キリスト教の信仰をすばらしいと理解していて、研究するだけではなくてミサにも参加していたのですが、五島の教会の雰囲気、五島のカトリック信者の雰囲気には特別に感激したというのです。

信仰がすばらしいものだと理解することと、そのすばらしさからさらに感激するということとは違いがあります。信仰が立派なものだと理解していても、ちっともミサに来ない人はいくらでもいます。けれども、そのすばらしさに心を打たれた人であれば、たとえばミサに行かないで居続ける、祈りをなおざりにし続けることはできないのです。

そこで、なぜ五島に住んでいてカトリックの信仰を守ることがすばらしいことなのかを考えてほしいと思います。わたしたち五島のカトリック信者の祖先は、西彼杵半島の外海地方から来ている人がかなりいます。外海地方での迫害を逃れて、五島に移住してきたのです。

ではなぜ、五島に移住してきたのでしょうか。何か魅力があったから、何か惹きつけるものがあったから、五島に渡ったのではないでしょうか。五島では迫害がないと聞いたのでしょうか?

鯛ノ浦にはキリシタン6人斬りの記録があります。他にもたくさんの迫害の言い伝えがあります。皆さん自身も、迫害を受けたかもしれません。下五島でも同じです。迫害がなかったわけではないと思います。

わたしが1つ考えるのは、外海では、産児制限を厳しく命じられていましたが、五島ではそのようなことはありませんでした。生まれたすべての子の命を考えて、五島に渡ったのではないか。そう思います。

もちろん、これがすべてではないでしょう。けれども先祖たちは、五島ではだれの命も見捨てることなく、信仰を守ることができることを心の底から喜んだのです。わたしたちにも、その気持ちは大いに必要なのではないでしょうか。

五島にあって他にないものを、具体的に言葉にできる人になりましょう。わたしは五島で信仰を守ることができて本当に良かった。そう言える理由を、見つけましょう。わたしは40歳を過ぎてようやく、五島で信仰を養ってもらったので、司祭になれたのではないか。そう思えるようになりました。

五島にいる今の子供たちも、育ててもらった信仰は、五島だけのすばらしいものを持っているから、大事にしなさい、もしできるなら、偉大なことのために自分の信仰を用いなさいと言いたいと思います。

「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」道を探している子供たち、青年たちが、与えられた信仰のすばらしさを知り、偉大なことのために人生を用いるように、心を一つにして祈りましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第24主日
(マタイ18:21-35)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼久しぶりに英語を話した~って感じだった。「旅行者ですか?」「そうです。上智大学院の研究生として東京に住んでいます。」「あー、四ツ谷の上智大学ね。わたしは慶応大学の通信教育を卒業するために東京に行ったから、四ツ谷の麹町教会に日曜日ごとにミサに行ってました。」
▼「そうですか。いやぁ、あなたの英語はファンタスティックだ」「いやいや、そんなに上手ではありませんよ。あなたのこれからの予定は?」「高井旅で18時30分のバスに乗って次の予定地に行きます。」「じゃああの道を使うと近道です」「助かります。本当にありがとう」「ちょっと待って。この時間だと歩いたら間に合わないよ。車で送るから。」
▼「え?本当に?助かります。」「ところで子どもたちはミサの後なぜ帰らずにいるのですか?」「彼らはミサの後教会学校の時間なのです。」「なるほど。ではすぐに戻ってあげてください。」「ところであなたは五島の教会について心配していますか?」「心配していますとも。(本当は、高齢化、少子化、過疎化などの現象を説明したかった)」
▼「それはほかの司祭たちも同様ですか?」「同じです。どの司祭も、五島の教会の将来を心配しています。」「それは上五島だけですか?福江も同じですか?」「福江も心配です。同じ問題を抱えていますから。」
▼これだけの内容を、片言ではあるが英語でやり取りした。さらにメールアドレスを伝えたので、東京に戻ったらメールが来るだろう。何か、彼の研究の助けになれるかもしれないし、彼と交流を持ち続けたら、ある日役に立つかもしれない。

‥‥‥†‥‥‥
新企画今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第158回目。古い浜串集落の写真。教会が港からくっきり見えます。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/110904.jpg

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする