こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

四旬節第5主日(ヨハネ12:20-33)一粒の麦の実り、あなたはどう向き合う

2012-03-25 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/03/25(No.581)
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四旬節第5主日
(ヨハネ12:20-33)
一粒の麦の実り、あなたはどう向き合う
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明日と明後日、小学生と中学生1日ずつ春の黙想会です。先週火曜日に、今年の黙想会の説明会があって、参加してきました。鯛ノ浦教会の敷地をいっぱいに使って、聖書の箇所を拾ってプリントに書き込み、イエスさまの全生涯を学ぶようになっています。

まず、鯛ノ浦教会の敷地を7つに区切ります。その7つの場所に、6個ずつ聖書の箇所を貼り付けたヤクルトの入れ物が隠してあります。6個ずつ、7つの場所だから、全部で42個です。

浜串小教区は、浜串教会の小学生が1つのグループ、福見・高井旅教会の小学生がもう1つのグループとして行動します。中学生は全体で1グループです。このグループで7つの場所を移動しながら、42個すべての聖書の箇所が記されているヤクルトを見つけ出して、イエスさまのすべての出来事を拾っていく。これが、今年の黙想会の仕組みです。

鯛ノ浦教会の7つに区切られた敷地の中の、どこかに聖書の箇所を貼り付けたヤクルトが隠されています。どこに隠されているか、グループで力を合わせて探さなければなりません。42個すべて見つけて、その時間も競うそうです。タイムが良かった3位までは、すばらしい商品が用意されています。3位までにぜひ入って欲しいですが、とにかく知恵と力を尽くしてください。

先週の火曜日、定置網を引き上げに行く船に乗せてもらい、見学に行きました。今年に入って、定置網の船に乗ってみたいなぁと思っていたのですが、ようやく願いが叶いました。手早く作業する船員の皆さんに目を丸くして、仕事もろくにしませんでした。カラスを追い払うくらいしかお手伝いできませんでしたが、アジを袋に詰めてもらって帰りました。また機会があったら乗りたいです。

次の火曜日は中学生の合同黙想会に早くから子どもを連れて行きますし、その次は聖週間の火曜日で長崎での聖香油ミサに出席しますので、次に乗ることができるのは御復活明け、4月10日になりそうです。

さて福音朗読は、ギリシア人がイエスに会いに来る場面から始まって、人の子は上げられる、つまり十字架の上で命をささげるという最期の場面の予告をしている箇所でした。ギリシア人がイエスにお目にかかりたいと願っている。そのことをきっかけにして、「人の子が栄光を受ける時が来た」(12・23)と打ち明けました。

ギリシア人はユダヤ人からすれば外国人です。外国人、すなわち救いに招かれているユダヤ人だけでなく、すべての国の人がイエスにお目にかかるその時が来た、イエスはそう仰ろうとしているのでしょう。今こそ、一粒の麦が地に落ちて死に、多くの実、すべての人の救いという実を結ぶ時が来たのです。

「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(12・24)今年、このイエスのみことばを繰り返し口ずさみ、思い巡らすうち、次のように考えました。「イエスはご自分のことをぶどうの木と言ったり一粒の麦と言ったりしている。これは、収穫に関係するたとえだから、実際の収穫についても考える必要があるのではないか。」

今週の朗読で、イエスは御自分がどのような死を遂げるかを、一粒の麦にたとえました。イエスの十字架上の死によって、多くの実を結んだとき、それは収穫される必要があるのではないでしょうか。

作物が実を結び、収穫の時期が来ると、当然収穫に取りかかります。なぜ収穫するか。それは、作物の実りが、自分にとっても、他の人々にとっても、大きな喜びをもたらすからです。

イエスが、一粒の麦となって、多くの実を結んでくださいます。罪のゆるし、神との和解、救いの約束です。このイエスがもたらした実りを刈り取る人は、当然これらの実りが、自分にとっても、他の人々にとっても、大きな喜びをもたらすと考えて収穫に取りかかるわけです。自分に何の役に立つのか、他の人々にどんな喜びをもたらすのか分からずに収穫する人はいないのです。

では本当に、イエスがもたらす実りが役に立つと信じているでしょうか。ミサに集い、聖体の恵みにあずかりながら、イエスがもたらしてくださった実りは、今もわたしに喜びをもたらし、多くの人を喜びで満たすと、そう信じているでしょうか。もしそうであるなら、教会に足を向けない人に、あなたもイエスの実りを収穫に行きましょう、そう声をかけてほしいと思います。

あるいは、教会と全く縁のない生活をしている人に、自分は主日に教会に行っていること、教会でイエスの実りを喜び合っていることを告げ知らせ、分かち合っていただきたいのです。告げ知らせる相手から、「教会に行って何になるのだ」と言われたときこそ、イエスによる罪のゆるし、神との和解、救いの約束は、あなたにとってもきっと喜びになるよと誘ってほしいと思います。

収穫は、次の種蒔きのことにも思いを向けさせます。イエスはわたしたちを次のように招きます。「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(12・26)

イエスが、一粒の麦となって命をどのように用いるべきかお手本を残されました。「わたしに従え」とイエスは招いているのですから、わたしたちも、一粒の麦となる必要があります。一粒の麦となって多くの実を結び、罪のゆるし、神との和解、救いの約束を告げ知らせる者となれるよう、ミサの中で恵みを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
受難の主日
(マルコ15:1-39)
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ちょっとひとやすみ
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▼長く放置していたが、ある女子修道会から、「希望の聖母」について、写真をお借りしたいという依頼(だったと思う)があり、どうぞと返事をした。その際、「希望の聖母に結びつく祈りがあれば、ぜひ寄せてください」ということだったので、「既存の祈りはありません」と答えた。
▼すると、シスターはあと一押ししてきて、「では、神父さまが何か祈りを作ってくださいませんか」と頼まれた。「うーん、考えてみます」そう返事して、放置したのが半年前ではなかっただろうか。もうきっと、依頼した先方は諦めているに違いない。わたしは、ときおり気にはしていたわけで、もう自分でも放置しているのが申し訳なく、祈ってみることにした。
▼希望の聖母に今日を託す祈り
(浜串教会の岬に立つ)希望の聖母よ、
わたしたちの一日の始まりに
そばにいて、見守ってください。
天候に左右され、危険と向き合う漁に出ます。
厳しい競争が待っている学校や職場に出ます。
肩を落としそうになるとき、励ましてください。
わたしたちの願いを、いつも取り次いでください。
あなたがわたしたちの願いをイエスに取り次ぎ、
イエスが必ず願いに応えてくださいます。
いつも、わたしたちの希望でいてください。
道に迷うとき、確かな道イエスを指し示してください。
そしてすべての務めを終え、眠りに就くとき、
明日も見守ってくださる母でいてください。アーメン。

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今週の1枚
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第188回目。強風と、高波で、子ども釣り大会は中止。新司祭の初ミサの様子。
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四旬節第4主日(ヨハネ3:14-21)光に近づく人に闇は打ち勝てない

2012-03-18 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/03/18(No.580)
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四旬節第4主日
(ヨハネ3:14-21)
光に近づく人に闇は打ち勝てない
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3月12日に、46歳の誕生日を迎えましたが、今度は長崎の信徒発見の記念日でもある17日に、叙階記念日を迎えました。20年前、1992年の3月17日、島本大司教さまによって司祭に叙階させていただきました。たぶん、わたしの司祭生活は折り返しが来たと思います。つまり、40年は司祭生活を期待できるだろうと考えています。50年はちょっと期待しすぎでしょう。

折り返しは何事においても大事なことです。漁船が漁に出て、仮に大漁したとしても、折り返して無事に港に帰ってこなければなりません。世界の屋根と言われるような山に登っても、折り返して無事に下山しなければ成功とは言えません。わたしも、折り返して40年は務めを果たさなければ、わたしの司祭生活は未完成ではないかと思っています。引き続き皆さまのお祈りと、ご協力をお願いいたします。

この記念の日のすぐあとに、小教区で釣り大会が計画されたことは思い出に残る出来事です。みなさんと親しく交わる行事をもって、新たな折り返しの司祭生活を始めることができたのですから、それはとても喜ばしいことだと思います。天気は思わしくないようですが、今日1日、大いに楽しみたいと思います。

福音朗読に入りましょう。6年前も考えた箇所を取り上げてみました。どこまで行っても出会うことのないものがあります。たとえば右と左。どこまで右に行っても左と出会うことはありません。または東と西、北と南。東へ東へどこまで行っても西と出会うことはありません。

このたとえを頭に置いて今日の朗読をたどっていくと、決して出会うことのないものが取り上げられていることに気付きます。それは、「光」と「闇」です。次の箇所です。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ」(3・19)。

光を求めれば求めるほど、闇は遠くなり、闇を追い続ける人間にとっては光は遠のいていくのです。物には表と裏のあるものがありますが、光の裏は決して闇ではありません。正反対ではありますが、光と闇に接点はないのです。

今日の朗読で示されている「光」、この光とはいったい誰のことでしょうか。「光が世に来た」とあります。「光」の意味を間違いなく理解するために、今日の朗読は直前で次のように言っています。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(3・17)。するとこの「光」とは、御子イエス・キリストであることは明らかです。

この光であるイエス・キリストに対して、人間はどちらかの態度を取り始めます。「光の方に来る」のか「光の方に来ない」かです。当然、選ぶべき態度は「光の方に来る」態度、朗読の中から取り上げると「真理を行う」ことがわたしたちの取るべき態度になります。

繰り返しになりますが、「光の方に来ない」態度と「光の方に来る」態度とは決して出会うことはありません。イエスから遠ざかる態度を繰り返しているうちにいつの間にかイエスに近づいていたなどということはないのです。わたしたちがイエスに向かう態度をとり続けない限り、イエスのもとに集うことはできないのです。

そこまでは、わたしたちみなが頭で分かっていることです。けれども、分かっていたとしても切り替えることができない弱さもあります。周りの人も働きかけた、本人もいくら何でもそろそろ教会との関係を取り戻さなければと考えるようになった。でもそれでも、動けない、足が向かない、出かけようとしたけれども途中で帰ってしまった。人間はそれほど強くありませんから、いろんなことがあり得ると思います。

わたしたちを照らし導く光であるイエスは、何度も立ち直りそうになって挫折する姿を見て諦めてしまう方でしょうか。わたしはそうは思いません。神はある意味で諦めの悪いお方だと思います。人間であればさじを投げるような状況であっても、神は決して諦めない。そのことを表す明らかなしるしが、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という部分に示されています。

その場を逃げ出したり、どうなっても構わないとまでなげやりになったりする人間を神は決して諦めず、独り子をお与えになるほど愛されたのです。神に残された最後の手段までも、わたしたち人間を「光の方に来る」ためにお使いになったのです。

イエスは、ご自分が父である神から遣わされた者であることをはっきり意識していました。この世界の人間をどこまでも愛して救いに導くためにご自身が遣わされたということを自覚していました。イエスはご自分の使命をある程度実行して終わったりはしません。ご自分を世に与えるのですが、ある程度与えるのではなくて、十字架の上で、いのちもすべてお与えになったのです。

光の方に来るのが正しい道だと分かっていても逃げてしまう弱い人間を光であるご自分と出会わせるために、イエスはみずからいのちを投げ出すのです。そのままでは光を憎み、避けてしまう人間をもご自分と向き合うことができるように、みずから、いのちを与え尽くすのです。

今週は四旬節の第4週目です。2週間後には受難の主日を迎え、十字架の場面の朗読を読み、ここまで出会いの場を準備してくださった神の深い愛に触れます。放っておくと闇を好んでいく弱い人間との出会いの場を、いのちをかけて準備してくださるその時が近づいています。わたしたちも、神との出会いの場に足を運んでくれない人たちに、何とかその機会を用意してあげましょう。

例を挙げておきます。聖木曜日、イエスが最後の晩さんの席で弟子たちの足を洗ったように、わたしたちもミサの途中で男性12人の足を洗います。せっかくの機会ですから、洗足式に新しい人を誘って、もう一度出直す機会を作ってあげましょう。

また、聖金曜日には、十字架の道行きをします。ここでもなかなか教会に足が向かない人を誘って、今まで背負ってきたものの代わりに、キリストのしるしである十字架を背負ってもらい、新しい出発を作ってあげましょう。

イエスが出会いの場をご自身を与え尽くして用意してくださったように、わたしたちもイエスとの出会いの場を、より多くの人に示してあげる努力が必要だと思います。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第5主日
(ヨハネ12:20-33)
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ちょっとひとやすみ
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▼ここ1~2ヶ月、新上五島町の動きについていけてない。3月に入ってスーパーに2度立ち寄ったが、レジ袋が有料になっていることをすっかり忘れていた。2月にさんざんお知らせをしており、あー、これはマイバッグが必要だなぁと何度も記憶するきっかけはあったのに、いざ有料になってから買い物をしてみると、「レジ袋はどうなさいますか」と聞かれてしまった。
▼「すみません。買います」。3月に入ってからの最初の買い物は、黙想会で説教指導をする神父さまのために休憩時間のおやつを買いに行ったとき。あれこれ買ったので抱えて車に積み込むには無理があり、しかたなくレジ袋を買った。ちなみに、このおやつは、説教師の神父さまはまったく手を付けず、わたしが全部食べ尽くしてしまった。
▼2回目の買い物は、大きなペットボトルで飲み物を買った。レジを通るときにしまったと思ったが、これは手に抱えて車に運んだ。2度あることは3度ある。そのまま罠にはまっては悔しいので、次回はよく注意したい。
▼釣り大会が18日に予定されていて、現時点では天気が心配だ。深い海では天気なんて関係ないだろうが、カサゴ釣り大会は浅い海での勝負。釣果に大きく影響しそうだ。去年はボートに相乗りしてくれる人がいたが、今年はだれか相乗りしてくれるだろうか。それとも、だれかの指示を受けて、相乗りに指名された人が送り込まれてくるのだろうか。
▼甥っ子が久しぶりに実家に来た。妹が半年ぶりに連れてきてくれていた。生まれたときに渡しそびれたプレゼントをもって、顔を見に行くと、わたしだけがメガネを掛けていたせいか、驚いて大泣きされた。写真を撮ってもらったが、顔を公開する許可はもらっていないので、いつか大きくなってから、こんな時もあったよという形で紹介できる日が来るかもしれない。

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新企画今週の1枚
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第187回目。予定では、釣り大会の様子。検量の様子を紹介したい。
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四旬節第3主日(ヨハネ2:13-25)決して壊されない、真実の礼拝

2012-03-11 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/03/11(No.579)
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四旬節第3主日
(ヨハネ2:13-25)
決して壊されない、真実の礼拝
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黙想会が終了しました。さすがに説教師の神父さまも、4日間すべて終わった翌日、金曜日の朝はお疲れのようでした。それからすると中田神父はぜんぜん疲れていませんで、本当に楽させてもらいました。

ただ、別の部分では、ふだん気を回さないことに気を回したので、その点では疲れたと言えるかもしれません。「昨日はゆっくり眠れましたか」とか、ふだん絶対言わないですからね。ほかにも、食事が始まって、食事中どんな話題に触れようかとか、いろいろ考えていると初日はおかずの味がまったくしませんでした。

でもそんなことって、皆さんはふだんからしていることで、別に大げさに取り上げるようなことでもないのだろうと思います。そう考えると、主任司祭1人で暮らしている場合は、わたしも含め、自分勝手、独りよがりな暮らしをしているのだなぁということかがよく分かりました。

今年の説教師の評判はとても良くて、来年も来てくださいという声をそれぞれの教会から聞いています。いちおうわたしの頭の中には来年依頼したい説教師の予定はあるのですが、皆さまの希望が多ければ、また来年もお呼びしてもよいと思います。

さて今週四旬節第3主日に選ばれた福音朗読は、イエスが神殿から商人を追い出す話です。「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』」(2・15-16)

この様子は、言葉や態度で注意を促すというものではなくて、イエスさまによる神殿の破壊行為だと思います。当時のユダヤ教の礼拝は、神殿でいけにえを伴って行われるのがふつうのしきたりでした。

いけにえは、汚れのないものであれば、自分で持ち込んだものでも通用したわけですが、遠い場所からやって来る人々が、汚れのない状態を保ったまま、いけにえの動物を連れてやって来るのは手間も暇も掛かって非常に困難なことでした。

そこで、神殿のいちばん外の境内で、いけにえの動物がそこそこの値段で売られていたわけです。さらに、神殿の中で使用できるお金は、神殿内だけで通用する古い貨幣である必要がありました。

当時一般に流通していた貨幣、例えばデナリオン銀貨は、「皇帝の肖像と銘」が刻まれていて、皇帝は自分を神としてあがめることを要求していたので、神殿でデナリオン銀貨は使えなかったのです。そこで神殿専用の硬貨と両替する人々が重宝するのでした。

神殿で商売が広がりすぎるのは、祭司やファリサイ派の人々も手放しでは喜べない状況でしたが、しかたがないとして黙認していたわけです。けれども商売を野放しにしておけば、皆が皆無欲ではいられないわけです。そんな複雑な事情が絡んだ中で、イエスはわたしが破壊行為だと言った行動に出ます。

あえてわたしが破壊行為だと言ったのにはわけがあります。すでに話した通り、当時の礼拝の行いには、お金が絡んでいましたし、動物のいけにえが不可欠でした。イエスが神殿に奉献されたときでさえも、ヨセフとマリアは鳩をいけにえにささげたのです。

お金絡みの礼拝、いけにえに頼った礼拝を、やさしく注意するのではなく、まったく新しい礼拝に生まれ変わらせるため、イエスはこれら従来の礼拝を破壊しようとなさった。わたしはそう考えました。何よりも、当時のしがらみから抜け出せない礼拝と、礼拝にまとわりついている商売こそが、本来のあるべき礼拝を破壊していたのです。本来の礼拝を破壊していた行為を、イエスが破壊しようとした。わたしはそう受け取りました。

イエスの乱暴な態度に、神殿で商売をしていた人々、その商売を黙認していた人々はかんかんに怒りました。「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」(2・18)

それでも、イエスの毅然とした態度は変わりません。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」(2・19)礼拝の名を借りて金儲けをしていた人と、それを黙認する人たちがどれだけ礼拝を汚し、破壊させても、わたしは三日で建て直してみせる。イエスの強い決意が伺えます。

ところで、なぜイエスは「わたしは三日で建て直してみせる」と、断言できるのでしょうか。未来のことを、どうやって断言できるのでしょうか。「わたしは三日で、成し遂げてみせる」と、ほかの誰が断言できるでしょうか。

イエスは、ご自身の十字架上のいけにえによって、破壊された礼拝を建て直そうとしていました。「この神殿を壊してみよ」とは、「もし壊すなら」という意味よりも、もっと強い意味があると考えます。つまり、「あなたたちは神殿での本来あるべき礼拝を破壊している。気の済むまで破壊するがよい。わたしはみずからをいけにえとしてささげることで、本来あるべき礼拝を取り戻す。」イエスはこのように仰りたいのです。

イエスご自身が決めて、いのちをささげる。だから、未来のことであっても断言することができます。できるかできないか分からない未来のことではなく、誰にも強いられず、みずから望んでいのちをおささげになる。だから、確かな未来となります。イエスは、確実にご自身をおささげになることがおできになるお方なのです。

イエスがささげられる礼拝は、決して滅びない礼拝です。わたしたちは、今ここで、イエスをおささげする礼拝、ミサをささげています。この礼拝は、父なる神に届く真実の礼拝です。ですから、この真実の礼拝、決して滅びない、どんなに時代が進んでも破壊されない礼拝に近づくために、わたしたちはできる限りの努力をしましょう。

日曜日に、ミサに集う人々はたくさんいます。もし、もう一つこの真実の礼拝を積み上げるために、平日のミサに参加してみようと努力してくれたら、どんなにすばらしいことでしょう。決して滅びない価値ある礼拝を、週にあと一度、積みまして人生を歩むなら、どんなに豊かな人生でしょう。

ぜひ、イエスが建て直したこの最高の礼拝を、人生の中に、一週間の中に、あと一日積み上げる。今週はそのようなことを考えてみてください。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第4主日
(ヨハネ3:14-21)
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ちょっとひとやすみ
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▼保育園の卒園式に出席した。関わりの深い3人の年長さんを含め、5人が卒園式に臨んだ。最近の卒園式はかなり親しみやすい形になっていて、幼い頃こんな卒園式があったらすてきだっただろうなぁと思った。
▼保育証書を渡され、1年生になってからの夢を語り、証書を保護者に感謝を込めて渡す。ほかにもいろいろあったが、あー、お父さんお母さんには胸にぐっとくる場面だなぁと今回は特に思った。
▼園長先生が、お祝いを述べているときに胸が詰まり、言葉を継ぐのにしばらく時間が掛かった。あれは何を意味していたのだろうか。これまでの保育の思い出を振り返っていたのだろうか。それとも、何か園長を務める上での思う所があったのだろうか。
▼保育園にいる間はそれほどなついてこないのだが、小学生になると不思議となついてくる。面白い現象だ。恐がらなくなってくるからなのだろうか。とくに侍者をしてくれる子どもは、侍者としての務めが一人前になってくると、口は二人前言うようになる。
▼いつだったかも、ミサ前のゆるしの秘跡が少し長引いて、香部屋に戻ってみると侍者の小学2年生女の子2人が口を揃えて「神父さま遅いよ~。もっと早く来なきゃ。着替えているうちにミサが始まっちゃうよ」と言う。
▼「なに~生意気な」と思うけれども、あー、ここまで立派に育てたんだなぁと自画自賛する。放任主任司祭のもとで、よくぞここまで育ってくれた。感謝感謝。これから、子分が侍者に入ってくるからよろしくねと、今は心の中で思っている。その子どもたちから、保育園年長と、小学6年生、両方の卒業お祝いに招待された。

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新企画今週の1枚
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第186回目。わたし宛に郵便受けに投函された福見教会小学生からの招待状。
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四旬節第2主日(マルコ9:2-10)まずはそう言ってみよう

2012-03-04 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/03/04(No.578)
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四旬節第2主日
(マルコ9:2-10)
まずはそう言ってみよう
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「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。」(9・5)今週の福音朗読の中で、このペトロの言葉が目に留まりました。「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。」(9・6)とありますから、実際には舞い上がっていて、よく考えずにこう言っていたのかもしれません。

それでも、ペトロの言葉は非常に意味深いと思います。イエスと、そこに同時にエリヤとモーセが現れて、そこへ3人の弟子たちが居合わせました。ペトロは、イエスの光り輝く姿を見て、その神々しさに「すばらしいことです」と言ったのかも知れません。たとえそうでなくても、イエスと一緒にそこにいることは、すばらしいことなのです。

イエスと一緒にいることを、言葉は違いますが「すばらしい」と理解していた人々を紹介しましょう。シメオンがその一人です。彼は、幼子イエスを神殿で奉献するためにやって来たヨセフとマリアの前で幼子を抱き、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」(ルカ2・29-30)と声を上げました。

まだ何もイエスのみわざを見ていないのに、シメオンは十分満足ですと言ったのです。それは、「イエスと一緒にいること、そのことがすでにすばらしい」ということを表しているのだと思います。

また、イエスの十字架上での場面、イエスの右と左には犯罪人が十字架に磔にされていました。犯罪人の一人が「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ23・42)と言いました。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(同23・43)と言われます。犯罪人はイエスのみじめな姿しか見ていないのに、イエスの隣りにいることを「すばらしいこと」と理解していたのです。

シメオンも、犯罪人の一人も、イエスの華々しさを見たわけではありません。あっとおどろく奇跡を見たわけでもありません。むしろ、無力なイエスしか見ていませんが、彼らはそのイエスの側にいることを「すばらしいこと」と捉えることができたのです。

もちろん、イエスの華々しい場面も、示すことができます。イエスは親戚のラザロが死んだとき、もう埋葬されて四日も経っているラザロをよみがえらせました。「ラザロ、出て来なさい」(ヨハネ11・43)と大声でラザロを呼び、墓から出てくる場面は、今週のイエスが変容する場面と変わらないくらい、神々しい場面、華やかな場面だと思います。

華々しい場面、神々しい場面で「わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」と声を出すのは何も難しいことではありません。けれども、イエスと一緒にいるどんな場面でも、「わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」と声を上げることが、イエスの期待していることではないでしょうか。

今週の福音朗読の結びで、「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない』と弟子たちに命じられた。」(9・9)とあります。今日はイエスの神々しい場面を見たかもしれません。けれども明日は、イエスのみじめな場面、避けて通りたいような場面を見せられるかもしれません。それでも、「わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」と声を上げる。弟子たちの信仰がそこまでたどり着くのを、イエスは待っているわけです。

わたしたちにも、イエスは同じ期待を持っているのだと思います。今日3人のお子さんが福見教会で初聖体を受け、そのご家族、そしてここに集まった福見教会信徒の皆さんが、喜びで一杯になっていると思います。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」と、素直に喜びを表現できるはずです。

この喜びを知ったのでしたら、さらに一歩踏み込んで、どんなときでも、イエスと一緒にいることはすばらしいことですと、信仰を表明していただきたいのです。華々しい場面だけでなく、信仰に疑問を持ったり、カトリックの信仰のために冷たい視線を浴びたりする、そんな時でも、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」と言える。そんなイエス理解を、もって欲しいと思います。

誰にとっても喜ばしい場面があります。今年2月26日の司祭助祭叙階式がそうでした。今日の初聖体式がそうです。また堅信式、結婚式なども、イエスと一緒にいることを素直に喜べることでしょう。

その喜びを、生活全体に結び付けて欲しいのです。イエスと一緒にいることは、いつも、どんなときも、すばらしいこと。その理解を、長い時間かかってもよいから、体に覚えさせて欲しいのです。

生活の中では、簡単に喜べない場面も多いかもしれません。その一つひとつに、イエスはそばにいてくださいます。簡単に喜べない場面を、「わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」とひとまず言ってみること。イエスがそばにいてくれるのだから、どんな場面でも本当はすばらしいのだ。心からそう言える人に、育っていきたいのです。

今日、初聖体を受けるお子さんたちは、イエスさまをお迎えする家のようです。「仮小屋を三つ建てましょう」とペトロが言った、イエスを一緒にお泊めする住まいです。どうかこれからも、イエスが一緒にいてくださることはとてもすばらしいことだと、保護者の皆さん言い聞かせてあげてください。これからの生活のいろんな場面、朝起きたとき、ご飯を食べるとき、何かを願うとき、何かをがまんするとき、お祈りを通して神さまと一緒にいることはとてもすばらしいと、教え続けて欲しいと思います。

この教会に集まることを出発にして、「わたしたちが神さまと一緒にいることは、いつもすばらしい」そんな言葉を、子どもたちが覚えてくれるように、導いてあげてください。わたしも一緒に、お手伝いしたいと思います。

それでは、説教を終わって、初聖体の準備がふさわしくできているか、子どもたちに尋ねたいと思います。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第3主日
(ヨハネ2:13-25)
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ちょっとひとやすみ
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▼いつも使っているわたしのパソコンは、電源スイッチを押すとOSが立ち上がり、通常の仕事が始まる。パソコンを終了するときは電源スイッチではなく、OSの「シャットダウン」という操作で作業を終わる。
▼電源スイッチで始まったのだから、電源スイッチを押して終わってもよさそうなものだが、そういう「不統一」が、ご年配の人にパソコンを難しくしている小さな原因の1つなのかもしれない。小さな原因も、積もり積もれば膨大なものになる。
▼「シャットダウン」は、OSの作業だけではない。あるパソコンソフトは、作業を終了するときに同時に何をするか、選べるものもある。つまり、そのパソコンソフトにさせている作業を終わったら、「シャットダウンするか、スリープするか、何もしないか」が選べるものもある。
▼映像の変換という、ちょっとややこしい作業を深夜におこなっていた。作業が完了するまで時間30分と表示されて、「これが終わるまで待たないといけないの?もう眠くてしかたがない」そう思ったときに、「あー、作業終了時に、シャットダウンするようにセットしておけばよいのか。その手があったな」と思い、シャットダウンすることを選択した。とんでもなく眠い中、這うようにしてベッドに潜り込んだ。
▼朝、3時間しか眠っていない中で目覚ましが鳴る。つらいのをこらえて起き、執務室に行ってみると、何とパソコンの電源は切れていないではないか。「シャットダウン中です」というメッセージのまま、フリーズしてしまったらしい。こんなに信用できないものなのかとガッカリしたが、しかたなく電源スイッチを長押しして、強制的に電源を切った。やはり人間のほうが、コンピューターより賢いらしい。
▼シャットダウンと言えば、パソコンには1日何回もシャットダウンさせているくせに、自分に対してシャットダウンを命じられたら、相当頭にくるだろうと思った。あともう少しで作業が終わるのに、来客がある。食事だから降りてこいと言われる。電話が鳴る。どれも決して相手に責任はないのだけれども、シャットダウンさせられたことは相当つらいと感じてしまう。頭ではパソコンから離れるべきだと思っても、体が理解していない。
▼転勤にしてもそうだろう。ちなみに転勤の時期だからこの話題を取り上げているだけで、ほかに意味は無い。これまで継続していた司牧上の展望を手放し、シャットダウンさせられる。新しい任地での新しい出会いはあるが、やはりいったん手がけたことから離れるのはかなりエネルギーが必要だろう。
▼シャットダウンできずにフリーズしているパソコンの電源スイッチを長押しするとき、パソコンが少し傷つくのかもしれないなぁ、そう思いながら電源スイッチを押した。人間であればなおさらである。簡単に電源のオンオフみたいな割り切りはできないから、本当にその人の立場をよく汲み取ってあげて、と遠くから申し上げたい。

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新企画今週の1枚
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第185回目。初聖体の様子を、動画から切り取った写真で掲載。動画はHPで。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/120304.jpg

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
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