こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第22主日(マルコ7:1-8,14-15,21-23)人の中から出てくるものが人を汚す

2015-08-30 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
15/08/30(No.785)
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年間第22主日
(マルコ7:1-8,14-15,21-23)
人の中から出てくるものが人を汚す
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年間第22主日B年はユダヤ人の「昔の人の言い伝え」に関する議論を取り上げています。ユダヤ人は宗教上の清さに関してとても気を配っていましたが、ファリサイ派の人々と律法学者たちが大切にしていた実践はイエスにとって偽善と映っていました。今週は清さに関するイエスの考えに耳を傾けることにしましょう。

先週、浜串教会の聖櫃を新調する予定ですとお知らせしましたが、嬉しいことが起こりました。わたしは説教を毎週ホームページとブログで公開し、メールマガジンの形で利用者に配信していますが、読者の1人から聖櫃のために寄付をしたいという申し出がありました。

メールマガジンの読者からの寄付の申し出だったのでビックリしましたが、寄付を受けることにしました。いろいろな方が、わたしの説教を通して浜串教会に関心を持ってくれているのだなと思い、感謝の気持ちでいっぱいになりました。どこにいても、全国の人々の心に触れる働きはできるのだと、ちょっと自信を持ちました。

さてファリサイ派の人々をはじめ当時のユダヤ人は、律法を実生活の中で守るためと教えられて昔の人の言い伝えを受け継いで守っていました。律法はモーセを通して神から与えられたもので、それから何百年も後のイエスの時代には実生活とずれが生じていました。そこでイエスの時代の人々にあてはめるための細かい規則が編み出され、当時の人々はモーセの律法をさらに細かく規定した昔の人の言い伝えも守るよう強要されていたのです。

イエスは、モーセの律法を実生活にあてはめようとした数多くの言い伝えはモーセの律法とは別物であり、ファリサイ派の人々が強要する昔の人の言い伝えの実践がかえって人々を神のおきてから遠ざけていると厳しく非難しました。神のおきてに耳を傾けることなく、人間が付け加えた細かい規則に目を奪われて、人々の心は神の心から遠く離れてしまったのです。

宗教上の清さに関するイエスの考えはこうです。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」(7・15)外出したから念入りに手を洗うとか、外国人も立ち寄る市場に買い物に行って帰って来たから全身を洗い清める必要があるとか、そのようなことで宗教上の清さが保たれるわけではないと、きっぱり言い切るのです。

むしろ、人が宗教上の清さを保つには、人間の心から出てくる悪い思いに警戒する必要があるのです。宗教上の清さを保つことも含め、モーセを通して神から与えられた律法をふさわしく守るためには、律法から派生した細則にとらわれるのではなく、律法の本来の精神は何か、律法に耳を傾ける必要があるのです。

ここで一つ問題が生じます。律法に耳を傾けるためにはどうすればよいのでしょうか。それはイエスの言葉に耳を傾けることです。これまではファリサイ派の人々や律法学者の律法解釈が幅を利かせていましたが、イエスがおいでになったことで、神のおきてが何を求めているのか、耳を傾けることができるようになったのです。

「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。」(7・14)イエスは「皆」と呼びかけました。神のおきてに耳を傾けるためには、すべての人がイエスに耳を傾ける必要があるのです。「わたしは律法学者だ。わたしは律法の実践にだれよりも熱心なファリサイ派だ」と権威を振り回している人々は特に、イエスに耳を傾ける必要があります。

「自分たちは無知な人々とは違って、この分野に明るい者、知っている者だ。」こうした人々が自分の立場を横に置いてだれかに耳を傾けることは本当に難しいと思います。たとえば、生まれて初めて釣りをするという人を連れて行って、その人がいちばん魚を釣り上げたとします。

こういう場合いちばん釣れている人の釣り方が正しいはずですが、では生まれて初めて釣りをしている人にベテランの人が釣り方を教えてほしいと言えるかというと、なかなか難しいのではないでしょうか。自分は釣り方を知っていると思えば思うほど、目の前でたくさん釣っている初心者に教えを請うのは難しいと思います。

似たような経験は他にもたくさんあるでしょう。経験やメンツが邪魔をして誰かに耳を傾けることができなかった苦い体験をした人もいるかもしれません。イエスの言葉はこんな場面でも生きてきます。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」

メンツを捨てて、教えを請うことは、外から人の体に入る動きですから、どれだけ教えを請い求めても傷つくことではないのです。もしその人の中から「あんな奴に教えてもらう理由などない」という思いがわき出たなら、そのねたみの思いこそがその人を汚すのです。

人の中から出てくるものが人を汚します。その人の中から、イエスの声に耳を傾けることを邪魔する「ねたみ、悪口、傲慢、無分別」などが生じていないでしょうか。だれかに謙虚に耳を傾けることを難しく感じているなら、あなたの心の中にあなたを汚す思いがあるのです。

生活を振り返って、神の心に適う生活を保つために、自分はためらわずにイエスに耳を傾けているだろうか、考えてみましょう。イエスに耳を傾けるのに何らかの妨げが置かれていないか、点検しましょう。

「こんな相手に耳を傾けられようか。」あなたを汚すこんな思いが心の中にあるなら、すぐに心の中から追い出しましょう。外面的にどんなみじめな思い、傷つく思いをしても、イエスに耳を傾けることを何よりも大切にする。これが神の思いにわたしたちが触れる近道なのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第23主日
(マルコ7:31-37)
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ちょっとひとやすみ
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▼メールマガジンを毎週発行する際、「まぐまぐ」「めろんぱん」「メルモ」「メルマ!」の4社を発行スタンドに利用している。ところが今月17日、そのうちの1社「めろんぱん」から「9月30日をもってサービスを終了します」という案内が届いた。
▼「めろんぱん」からわたしのメルマガの配信を受けている人は55人。全体の8分の1くらいだと思う。大変申し訳ないが、該当する方々は残る3社の発行スタンドから配信を受けることができるように、各自で手配をしてほしい。当メルマガの最後にある、他社の申し込み先のリンクを使うのが手っ取り早い。
▼厳密には「めろんぱん」からの配信停止と新しい発行スタンドからの配信の手配が必要だが、面倒な人は「めろんぱん」からの配信停止手続きはしなくてよいと思う。該当する発行スタンドはいずれにしても9月30日でサービスを停止するからである。
▼発行スタンド「めろんぱん」は、メルマガの発行者を募集した2001年から利用していたが、本当に残念なことだ。無料のメルマガで会社が成り立つためには広告収入が必要だと思うが、広告収入が思うように入らなくなったのだろうか。
▼廃止される発行スタンド「めろんぱん」には1つ素晴らしい特徴があった。利用しているメルマガを気に入ってくれた人が推薦文を書いてくれるというものだ。わたしのメルマガにも推薦文が2つ付いていた。せっかくなのでここで紹介したい。
▼(その1)「他スタンドで発行されていたものを1年以上前から拝読していましたが、最近めろんぱんに鞍替えしました。他作者の同様マガジンも数誌購読していましたが、個性の強さに戸惑い結局今でも読み続けているのはこの1誌だけとなりました。明るくユーモラスで思いやりにあふれ、言葉は不適切ですが毒気のないところがとてもありがたく救いを感じます。」
▼(その2)「日曜礼拝での神父様のお説教、というと、とてもとても難しいのでは。。と思ってしまいますが、読んでみると聖書の中のことばは、自らの日常にも重なり合うことがあり、雲が晴れる思いで胸にじーんと響きました。きっと心の栄養となる。そんなメルマガです。」
▼推薦文を寄せてくださった読者の了解を得ずに掲載することになり、読者の方には迷惑をかけてしまったが、推薦文にはこれまで何度も心を奮い立たせられた。新しい発行スタンドからも、これまで同様「こうじ神父今週の説教」を利用していただければ幸いである。

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今週の1枚
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第392回目。小教区の子供たち夏の最後の思い出。単純なスライダーとプール。

ホームページもご覧ください。
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年間第21主日(ヨハネ6:60-69)命を与える霊の働きを見つけ出す

2015-08-23 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
15/08/23(No.784)
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年間第21主日
(ヨハネ6:60-69)
命を与える霊の働きを見つけ出す
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年間第21主日B年はヨハネ福音書第6章の最後の部分で、イエスと群衆の一連の対話の結びとなっています。イエスとの対話の中で、多くの人々は離れ去っていくことになります。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」(6・60)しかしイエスが選んだ十二人はイエスのもとに留まります。離れ去っていく人々とイエスのもとに留まる人々にはどのような違いがあるのでしょうか。

浜串教会の聖櫃が鍵がかからなくなり、取り換える必要が出てきました。鍵の仕組みが特殊なので、鍵を修理するのは難しそうです。現在の浜串教会が建てられたときからの聖櫃なのですが、ご苦労さまでしたとねぎらって、新しい聖櫃に取り換えることにしました。

浦上教会の近くに典礼用品を取り扱っている修道会の店があるので相談に行きました。すぐ手に入る聖櫃は、少人数の聖堂には使えるでしょうが、浜串教会には向いていません。大きな聖堂には、見栄えのする大きさの聖櫃が必要です。

カタログを見ていて、「これがいいかなぁ」と思った聖櫃を見つけたので、取り寄せることができるか尋ねました。「イタリアからの取り寄せです。値段も確認して返事します」ということでした。先週値段を教えてもらいましたが、80万円するそうです。けっこうな値段です。

けれども、問題は値段に見合う価値があるかどうかだと思います。今まで使い続けた聖櫃は約50年働いてくれました。新しい聖櫃も、50年とは言わなくても、40年働いてくれれば、聖櫃を維持する費用は1年に2万円ということになります。十分理解できる金額だと思います。

福音朗読に戻りましょう。イエスの語る言葉は弟子たちにも十分には理解できていないようです。弟子たちの多くが「実にひどい話だ」と拒絶反応を示しました。どんな人も聞く人の言葉に自分の期待する言葉を探そうとすれば失望することが起こりえます。弟子たちも人間です。名誉を欲しがったり利益を欲しがったりする弟子もいたのでしょう。イエスの言葉からは自分たちの欲しいものが手に入らないと見るや、イエスに完全に背を向けてしまいます。

一方で十二人の弟子たちはイエスに踏みとどまります。十二人が踏みとどまるだけの力を備えていたのでしょうか。わたしは十二人の力がそうさせたと言うよりも、いったん自分たちの考えを横に置いたので、イエスの招きに従うことができたのだと考えます。

「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(6・68-69)イエスの言葉に希望を置くためには、ついつい物差しにしてしまう自分の考えを寛大に横に置くことが第一条件になってきます。

さらに、ついつい取りがちな自分の判断に照らしてイエスを見る態度を横に置くとき、はじめてイエスの中に「命を与える霊」があると理解できるようになります。イエスは神からの命を与えている。この方のあとに付いて行く価値がある。そのことが理解できると、イエスだけに希望を置くことも可能になります。

わたしたちはみな、イエスに招かれている生き方を続けています。なぜこの生き方を続けているか。イエスが命を与えるお方だとどこかで理解したからです。きちんと説明はできなくても、戸惑いながらもついて行けるだけの何かを、どこかでイエスに見つけて、イエスに呼ばれた生き方に自分を留まらせているのです。

何がきっかけで、イエスについて行くだけの理由を見つけるかは分かりません。司祭の中に、これから教区の屋台骨を支えてくれるだろうという方が、余命1年の宣告を受けて、イエスにすべてを委ねて生きる姿を完全に生きて旅立った先輩もいました。余命宣告を受けた後にその先輩司祭とたまたま回転寿司の店でご一緒しましたが、もはや何も恐れていない様子でした。命を与える方がだれであるかを完全に理解すると、いっさいの恐れから自由になります。

わたしたちは、イエスについて行こうと心に決めた何かをつかんでいる者同士です。具体的にこれと気付いている人は、ぜひ分かち合ってください。また、はっきりこれだと分からない人は、それが何だったのか教えていただけるように照らしを願いましょう。あなたがイエスについて行く決心をした理由を知ることで、新しくイエスに従うように導かれる人が現れるかもしれません。

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‥次の説教は‥‥
年間第22主日
(マルコ7:1-8,14-15,21-23)
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ちょっとひとやすみ
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▼暑さと寒さ。若い時とそうでないときと、年老いてからと三度変化するのだろうか。わたしは寒さが苦手で冬はどこにも行きたくない、こたつに入って何もしたくないという生活だったが、今は寒くても釣りに行くようになった。手はガチガチ震えているのに、なぜここにいるのだろうと自分に問いかけながら釣りができるようになった。
▼暑さはいくらでもがまんできた。だが暑さが耐えられなくなってきた。思考力は鈍り、暑くて動きたくない、外に出たくない。着る者も少なくて済むから夏が好きだったのに、今はすっかり夏が苦手となってしまった。
▼歳をさらに重ねるとどうなるのだろうか。わたしは病人見舞いに行って、夏でも冬でも、戸が少し開いていることを気にするお年寄りを見て考え込んでしまう。少し風が通るだけで気になるようなのだが、それは敏感になっているのだろうか。
▼敏感になっている割には、部屋の電気が消されていても平気なようである。わたしが部屋に入った時、悪いとは思いながら勝手に部屋の電気をつける。そうでもしないと暗くて儀式書が読めないのである。
▼横道にそれたが、暑さと寒さの入れ替わりは長い人生の中での不思議な体験の一つなのだと思う。長い人生、不思議なことの一つくらいないと楽しみがないか。

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今週の1枚
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第391回目。ゴーヤチップスとカボチャスープ。料理も板についてきた?

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年間第20主日(ヨハネ6:51-58)わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む

2015-08-16 | Weblog
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こうじ神父
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15/08/16(No.783)
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年間第20主日
(ヨハネ6:51-58)
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む
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「ユダヤ人たちは、『どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか』と、互いに激しく議論し始めた。」(6・52)イエスがご自分の肉を食べさせ、血を飲ませるのは聖体拝領によってですが、ユダヤ人たちには理解できません。ユダヤ人たちの陥った過ちを避けてイエスの肉と血に養われる生き方を追い求めることにしましょう。

わたしたちがある出来事に疑問を持つとき、「答えを知りたい」と思っている時と、「答えが出るはずがない」と疑ってかかっている時と両方あると思います。イエスが、「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(6・51)と宣言した時、ユダヤ人たちは「自分の肉を我々に食べさせるなど、できるはずがない」と疑ってかかっていたと思います。

「ユダヤ人たち」とはイエスに敵対している人々のことですから、初めからイエスに教えてもらおうとか導いてもらおうという気がありません。ですから彼らが激しく議論したといっても、答を探し求めてのことではなくて、敵意を増し加える議論に過ぎなかったのです。

わたしたちは、ユダヤ人が陥った過ちに足を踏み入れてはいけません。ユダヤ人は「イエスが我々に自分の肉を食べさせ、血を飲ませることなどできるはずがない」と考えています。わたしたちは心を開き、「イエスが食べさせる、飲ませると仰ったのだから、きっと叶えてくださるに違いない」そういう考えに立って出来事と向き合うことが必要です。

わたしたちは幸いに、祭壇上でイエスがささげられ、ご聖体となってわたしたちの食べ物、飲み物となってくださることを知っています。ですからイエスがご自分を食べ物として飲み物として与えることは当時の人々のように疑いを持つことはありません。ですが今のわたしたちには、ほかの形でイエスを食べることについて試されていると思います。

たとえばイエスはわたしたちに次のような招きを与えました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(マタイ16・24-25)

わたしたちはイエスについて行くために、ときには自分の都合を横に置いてイエスに都合を合わせる必要があります。人によってはそれが一時的なことで終わらず、一生涯をイエスの都合に合わせて生きている人もいます。こうした生き方は、本当に報われるのでしょうか。

このような疑問は、イエスの招きを食べ物のように食べるか食べないか、問われているようなものです。イエスの招きがイエスの肉と血であって、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」(6・54)あなたはどうしますかとイエスは問いかけているわけです。

「自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエスに従う」この道を選ぶ、食べ物として食べるとは、いろいろある食べ物の中からこの道を選び、食べるという意味ではありません。事の大小はあるかもしれませんが、自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエスに従うのは、この選択肢しかないと信じて選ぶ、食べる必要があるのです。

わたしたちがイエスを食べ物としていただくとき、それは「いろいろ選択肢がある中で、イエスを食べ物として食べます」ではなく、「あなたをおいて、ほかにないと思ったので選びました」このような気持ちでイエスに近づく必要があります。

あらためて、わたしたちはご聖体に、どのように近づいているのでしょうか。イエスがわたしたちの食べ物となってくださったのは、少し削って与えているのではありません。いのちを投げ出して食べ物になってくださったのです。そのご聖体を、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」(6・68)そんな思いで受けているでしょうか。

わたしたちの生きる時代は、「イエスがご自分を食べ物として与えることができるかどうか」という疑問は過ぎ去りました。新たに、「イエスは他に代わりのない食べ物か」が問われていると思います。ミサに参加し、ご聖体を拝領して、わたしたちは世に対して「イエスは他に代わりのない食べ物です」と証を立てましょう。

聖体を拝領できない場面もあるかもしれません。それでもミサに参加しているのは、「イエスは他に代わりのない食べ物です」と証を立てているのですから、胸を張ってほしいと思います。

わたしたちカトリック教会には「他に代わることのできない命のパン」があります。ミサに参加する人は、このパンを証しします。イエスというパンを食べることを知らない人に、わたしたちは証しを立て続けましょう。いつかわたしたちを通して、「他に代わることのできない命のパン」に飢え渇く人を見つけるかもしれません。わたしたちの働きは、まことの命のパンに飢え渇く人がいなくなるまで続きます。

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‥次の説教は‥‥
年間第21主日
(ヨハネ6:60-69)
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ちょっとひとやすみ
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▼葬儀ミサの侍者に雇った小学生に払うバイト代500円が454円しか手元にない話の続き。これを葬儀ミサの説教に使えないかと考えた。笑い話のようだが、本気で使えないか考え始めた。ミサが始まるまであと10分。前もって用意した材料ではないので一発勝負。それでもこのネタが使えるチャンスはもう二度と廻って来ない。賭けてみようと思った。
▼説教の中心部分は、「わたしたちは自分にも他人にも、完全なものを与えることができない。だが神は違う。神が、『疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう』(マタイ11・28)と約束されたのなら、完全な休みを、憩いを与えてくださる」という内容だ。
▼説教の掴みとして、「葬儀ミサの参列者の中に地元の小学生が見えたので、侍者に来なさい、バイト代500円上げるからと約束したのですが、わたしの財布には454円しかありませんでした。それでその454円を封筒に包んで渡しました。今日は約束より少ない額で侍者を務めております」と前置きした。
▼「人は約束しても、約束通りのものを与えられないことがしばしばあるものです。わたしがそうでした。また参列者の皆さんも、旅立って行く故人に『これだけのことをしてあげたい』と思い描いていたこともあるでしょう。ですがその結果は、完全には果たせなかったのではないでしょうか。」
▼「人間は約束を完全に果たせませんが、神は完全に約束を果たします。そしてその神を、故人は信じて生き、旅立ったのです。わたしたちも、この世を旅立つ故人に倣って、信じてきた神が、いま約束を完全に果たしてくださるとの信頼を寄せましょう。」だいたいこのような内容の説教をした。
▼説教と葬儀ミサは故人や遺族にとって体を持っている時の最後の祈りの場となる。その葬儀ミサの説教なのだから、何か遺族の心に響く話をしてあげたいし、参列者にも思い出すきっかけとなる説教をしたいと思っている。そういう中での今回の説教なのだが、ご批判があれば甘んじて受けるつもりである。

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今週の1枚
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第390回目。長崎では15日は精霊流し。さまざまな精霊船が町を練り歩くだろう。

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聖母の被昇天(ルカ1:39-56)飢えた人を良い物で満たしてくださる

2015-08-15 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
15/08/15(No.782)
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聖母の被昇天
(ルカ1:39-56)
飢えた人を良い物で満たしてくださる
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聖母の被昇天の祭日、福音朗読個所からマリアの賛歌の次の言葉に注目したいと思います。それは「身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし」(1・52-53)という言葉です。

今年は特別に暑い夏だと感じます。去年まではどんなに暑くても釣りに行っていたのですが、今年はさあ行くぞと決めた後に「やっぱりやめようかな」と思うくらいです。

ボートに乗っていて帰って来ることができるか心配したことなどかつて一度もありませんでしたが、今年はそんな不安がふと頭をよぎります。暑い中もし熱中症になり、連絡も取れずに漂流したら、多大な迷惑をかけることになるなぁと、怖くなることがあります。

早く、今年の異常に暑い夏が過ぎてほしいものです。今年は聖母被昇天の祭日が「これで確実に8月も半ばまで来た。あと半分だ」と感じさせ、ありがたい気持ちになりました。

さて全世界の教会が祝っている通り、マリアは体も魂も、天の栄光に上げられたお方です。マリアはその振る舞いも言葉も、天の栄光に上げられるにふさわしいお方でした。わたしはさらに、神の注がれる目を捉える力も、天の栄光に上げられるにふさわしいお方だったと思います。主なる神を「身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たすお方」と捉えたのは、画期的だったと思うのです。

世の中の多くの人は、権力ある者や富める者に目が行きがちです。小さく貧しい人、しいたげられている人を見ようとしないのです。ところが神である主は、身分の低い者、飢えた者に目を留め、憐れみを忘れない方なのです。マリアは、人々が見ようとしない部分に主なる神が目を注ぐことをいち早く見抜いた方だったのです。

マリアが見抜いた主のまなざしから、2つのことを考えました。1つは、身分の低い者、飢えた人を神は決して放ってはおかないということ、もう1つは、わたしたちもマリアが見抜いた神のまなざしを人々に知らせるべきであるということです。

弱い立場に置かれている人を神が決して忘れないのであれば、マリアの言葉は多くの人の希望の言葉となります。マリアが体験したことでありながら、希望のないまま生きてきた多くの人を代表する神への賛美にもなっています。だれも見抜けなかった神のまなざしをマリアが見抜いたことで、身分の低い者、飢えた人が救われることになりました。

マリアが鋭く見抜いた神のまなざしは、人々に知らせるべき「喜びの知らせ」でもあります。身分の低い者、飢えた人に神が憐れみを注がれる。このメッセージはどんな知識や能力でも知りえなかったのです。そしてわたしたちの神がどのような方であるかを、どんな弱い立場の人でも正しく知らせることのできるメッセージです。このメッセージを知らせる人には必ず報いがあるでしょう。マリアはこのように賛美して最後には体も魂も天に上げられました。わたしたちもマリアの賛歌を告げ知らせるなら、神に招かれるはずです。

天に上げられたマリアは、だれも見抜くことのできなかった神のまなざしをわたしたちに示してくださいました。神のまなざしを、わたしたちもよく黙想し、自分のものとしましょう。人々に告げ知らせ、神のまなざしに心を開く人がこの世界にもっと現れるように、マリアの取り次ぎを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第20主日
(ヨハネ6:51-58)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼10日ほど前に病者の塗油を授けた福見の老婦人が火曜日に亡くなり、水曜日通夜、木曜日葬儀ミサを済ませた。ここ数年特養の「福見の園」に入所していた方だった。もともとの出身は高井旅の人で、旧姓は高井旅に多い姓だった。
▼葬儀ミサに参列する中に、小学生のいる福見の家族が出席していた。「これは幸い。侍者をお願いしよう」と思い立ち、会衆席に座っているその小学生にミサの30分くらい前に声をかけに行った。
▼小学生は自分に声がかかるのを予感していたのか、手を振って自分はここにいると合図をしている。「今日の葬式のミサで、侍者をしてくれる?バイト代を・・・」わたしは葬式と結婚式の侍者をしてくれた時はバイト代を出すことにしている。それで侍者のお願いと合わせてバイト代を払うと言おうとしたのだが、その声は意外なことでさえぎられた。
▼「神父さま、バイト代もらえるんですよね。」わたしが言いかけたことを、小学生に先に言われてしまった。「う、うん。もちろんだよ。バイト代は500円ね。」先に言われて動揺したが、いずれにしても払うのだから、どちらが先に確認しても問題はない。「10分前になったら侍者服に着替えなさい。」そう伝えてわたしも香部屋に向かった。
▼侍者の小学生には確実にバイト代をあげたい。そこで念のため財布を確認した。財布を開いて驚いた。ぱっと見たところ500円硬貨がない。念のため硬貨を全部取り出して数えたが、454円しかないではないか。
▼これは困った。お札もこの日に限って5千円札しか入っていない。だれかに100円借りれば500円になりはするが、それも恥ずかしい。常設している献金箱を開けばお金があるかもしれないが、葬儀ミサの前にふさわしくない。ミサの開始が迫っている。どうすればよいか。そこで妙案を思い付いた。次回に続く。

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今週の1枚
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第389回目。聖母被昇天の日の花飾り。見事な飾りである。

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年間第19主日(ヨハネ6:41-51)信仰を成長させてもらう態度が備わっているか

2015-08-09 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
15/08/09(No.781)
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年間第19主日
(ヨハネ6:41-51)
信仰を成長させてもらう態度が備わっているか
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「ユダヤ人たちは、イエスが『わたしは天から降って来たパンである』と言われたので、イエスのことでつぶやき始め(た)」(6・41)。年間第19主日B年の朗読から学びを得るために、群衆の「つぶやく」態度に注目したいと思います。

今年は8月9日長崎原爆の日が日曜日と重なりました。聞いた話では浦上教会の信徒は投下された原爆によって12000人のうち8000人が一瞬にして命を落としたと言われています。

大きさに圧倒される浦上天主堂ですが、犠牲となった命が積み重なってあの壮麗な聖堂を成り立たせていると考えると、聖堂内に入った時祈る気持ちになるのは当然だといつも思います。報道各社も一日「祈る長崎」を報道すると思いますが、わたしたちも信仰を同じくする人々のため、またすべての犠牲者のため、一日祈りをささげたいと思います。

福音朗読に戻りましょう。あえてわたしは「群衆がつぶやく態度について」と前置きしました。皆さんの中には「ユダヤ人たちのつぶやく態度についてではないのか」と思われた方もいるでしょう。選ばれたヨハネ福音書第6章の前後関係から考える必要がありますが、第6章の舞台はガリラヤです。

ヨハネ福音書に登場するユダヤ人は、単に人種を表しているのではありません。ヨハネの言うユダヤ人は、エルサレムに住んでいて、しかもイエスに敵対する人々のことです。すると、ガリラヤでイエスを取り囲む群衆はユダヤ人と同一ではないはずですが、この表現で群衆がイエスに敵対する人々に変わってしまったことが暗示されています。

たとえば家族を扱ったドラマで「親でもなければ子でもない。出て行け」とか言って親子喧嘩する場面を見たりします。実の親子であっても度を過ぎた親不幸などで敵対的な行動を取れば、親が態度を豹変することも起こりえます。ガリラヤでイエスを取り巻く群衆は、ある時点でイエスに見切りを付け、敵対する人々、すなわちヨハネ福音記者の言う「ユダヤ人」に豹変したのです。

ではガリラヤの群衆は、いつ「ユダヤ人」に豹変したのでしょうか。彼らがイエスに対してつぶやき始めた時点で、イエスに敵対する人々に変わったのです。ただし、聖書の「つぶやく」は日本語の「つぶやく」と少し意味合いが違うことを知っておきましょう。

日本語の「つぶやく」は「小さな声でひとりごとを言う」の意味で、最初から自分の要求が受け入れてもらえずにぶつぶつ言う態度を含むわけではありません。

これに対して聖書の「つぶやく」には、最初から「要求や主張が満たされていない」ということが含まれているそうです。ですから聖書における「つぶやく」は要求が満たされないから離れて行ってしまう、要求が満たされない相手に敵意を持つ、そういうことが含まれるのです。

イエスに対して「つぶやく」のは、イエスについて行くかどうかをこれから考える人ではなく、もはやイエスにはついて行かない、イエスを敵とみなす、そういう人々だということになります。当然の帰結として、イエスについて行かない人、イエスを敵とみなす人々にイエスへの信仰は育たず、自分で救いの扉を閉ざすことになります。

わたしは、信仰を成長させてもらえる人というのはそれにふさわしいタイプがあると思います。イエスへの信仰を持ち始めるきっかけはわたしたちの中にあるわけですが、イエスへの信仰を育ててくれるのはあくまでもイエスです。イエスはすべての人にご自身への信仰が成長するように導いてくださいますが、わたしたちが、イエスの導きについて行ける状態になければ、いくらイエスからの導きがあっても信仰が成長することはないと思うのです。

イエスと出会った人が取る態度は3つに分けられると思います。一つはイエスの導きに全く耳を貸そうとしない人です。自分の要求がかなえてもらえるかどうかだけに興味があり、要求がかなわなければイエスの導きに聞き従おうとする気持ちなどない人です。

次に、イエスの導きを実現不可能なことと思い、イエスから去っていく人々です。イエスの導きを魅力的だと思い、いったんは聞こうとしますが、自分にはとても実行できないと決めつけてしまい、心を閉ざし、去っていく人々です。

最後に残るのは、「主よ、ごもっともです」と答えることのできる人です。わたしたちはイエスの導きに戸惑うことが多く、「なぜ?」とか「でも・・・」とかつい口にしてしまいます。

けれども、そうした思いに自分自身がんじがらめになることなく、ひとりよがりの考えを横に置き、「主よ、ごもっともです」と答える人は、イエスへの信仰が育って行くのだと思います。信仰は、人間の思いを超えたところにある導きを受け入れていく歩みです。なぜあの人ではなくわたしが責任を問われているのか、なぜ今大切な人を失わなければならないのか。人生の中で分からないことは数え切れないでしょう。

そんな中でもイエスは、わたしの信仰を育てようと常に導いておられるのです。「主よ、ごもっともです」と、自分の判断を取り下げてイエスの導きに全面的に心を開く。そうしてわたしたちはより高い信仰の高みにたどり着けるのです。

イエスはわたしたちに問いを投げかけます。信仰の道を歩きたいのですか?では一切耳を貸さない人にならず、わたしの声に失望せず、心を開き、耳を傾ける人になりなさい。そうすれば、わたしがあなたの信仰を増し加え、育てます。イエスはそう呼びかけているのです。

福見教会で、大人の方が洗礼をお受けになります。大きな希望を持って、洗礼式に臨まれます。どうか皆さん、これから洗礼を受けるこの人が水と霊によって新しく生まれ、イエスの招きに「主よ、ごもっともです」と答えていけるように、共に祈りで支えてください。これから洗礼式に移ります。

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‥次の説教は‥‥
聖母の被昇天
(ルカ1:39-56)
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ちょっとひとやすみ
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▼8月6日は広島原爆の日、続く9日は長崎原爆の日。教区広報の関係で長崎原爆の日には長崎に滞在することが多かったが、今年は日曜日と重なり、長崎行きを断念した。地上でこれ以上ない苦しみを味わったに違いない多くの犠牲者のために、この日は一日祈りをささげた。
▼20年近く愛用した釣り用クーラーボックスが壊れてしまい、買い替えることとなった。辛抱して使ったのだなぁと感心するかもしれないが、話のオチを聞けば感心できないかもしれない。ボート釣りでベンチ代りにクーラーボックスに座っているうちに、蓋が割れ、ベンチとして使用できなくなったのである。
▼最近ときおり見るCMに、カップラーメンに載せられたティッシュボックスが嘆くというのがある。「わたしは本来こんな使い方をされるために生まれてないの。あースキルを生かして働きたい!」というものだ。まさにそういう状況である。
▼クーラーボックスをベンチ代りにするそれなりの事情もある。小さなボートにはパイプ椅子くらいの高さに作られた部分がない。すべてが船べりよりも低く設計されていて、座って釣りをするのには少々窮屈なのである。
▼そこで大きめのクーラーボックスを椅子の代わりにすると具合がよく、大漁した釣果を持ち帰るためと、釣りの時のベンチ代りとに長年貢献してきたのである。最大の原因は何か。クーラーボックスの経年劣化という部分もあるだろうが、自分自身の体重増加が致命的だったと言わざるを得ない。司祭になった時の体重は68kgだったが、いまや79kgあるのだから。そりゃあクーラーも重いわな。
▼新調したクーラーボックスもすでに使い始めているがここで問題発生。これまで通りベンチとして使用してみたところ「バキッ!」という悲鳴にも似た音が聞こえた。持ち帰って慎重に検査したが今回は割れてはいないようだった。
▼購入早々クーラーボックスを破壊しかけてしまい、これでは先が思いやられるということで、ホームセンターでプラスチックの椅子を購入することを考えている。いや椅子でなくても、厚手のまな板のようなもので間に合うかもしれない。どちらか考えて、新調したクーラーボックスをまた20年使えるようにしよう。

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今週の1枚
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第388回目。クーラーボックス。つい座りたくなる。そう思わない?

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【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
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2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
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年間第18主日(ヨハネ6:24-35)神がお遣わしになった者をぶれずに信じる

2015-08-02 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
15/08/02(No.780)
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年間第18主日
(ヨハネ6:24-35)
神がお遣わしになった者をぶれずに信じる
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年間第18主日B年はイエスと群衆の対話が繰り返される場面が描かれていますが、この対話は実りのない不毛な対話に終わってしまいます。問いかける群衆にイエスは的確な答えを示すのに、群衆がイエスの示す答えを受け入れようとしないからです。イエスの示す答えに群衆は近づこうとしないので、むしろイエスと群衆の溝は深まっています。

先週水曜日から金曜日まで、神言修道会の神学生を預かっていました。中学3年生です。本来は曽根教会に所属しているのですが、親が神奈川に引っ越したので夏の数日間この神学生はおばあちゃんを曽根に訪ねて、そのあとわたしが2泊3日で預かりました。

神学生の母親からは、長崎にあるルドヴィコ神学院が置かれている厳しい現状を聞かされていました。具体的には、ルドヴィコ神学院に在籍している神学生は夏休みの時点で2人しかおらず、わたしが預かろうとしている神学生も心は揺れている、続けていく気持ちが折れかけているということでした。

わたしは話を聞いていて、誰だって心が折れるだろうなぁと思ったのです。少ないと言っても、10人くらいはいなければ、神学生同士で励まし合うのも限度があると思ったのです。神学生の母親からは、本人を何とか励ましてもらえたらということでした。

わたしが神学生を預かった日は、水曜日から木曜日にかけてで、子供たちのミサの期間でした。わたしは何かヒントをあげて、考えるきっかけになればと思い、子供のミサのときにこう話したのです。

「ドッヂボールの試合にもう一度参加できるようになりましたね。ドッヂボールは内野にいる人が相手からボールを当てられたら外野に出なければなりません。内野に残っている人数が多いほうが試合に勝ちますが、内野の人数が減っていくと生き残るのも大変です。もし内野に残っているのが3人になったら、諦めますか?」

「諦めません」「2人になったら諦めますか?」「諦めません」「さすがに1人になったら諦めてすぐに当てられて終わりますか?」「最後まで頑張ります」「だよなぁ」

もちろん話しかけているのは目の前の小学生にですが、気持ちとしては中学3年生の神学生に届けと、そんな思いで訴えかけました。水曜日の浜串ミサと木曜日の福見ミサ、2度にわたって子供たちに話しかけながら、神学生にわたしの思いを伝えました。

現実的には、1人になっても頑張れというのは酷かもしれません。けれども、わたしは1人になっても生き残ろうとする姿は、周囲の人に何かを感じさせ、行き詰まりを打ち破る突破口が与えられるのではないかと思っています。わたし個人としては、長崎教区の神学院で共同生活をさせてもらいながら、神言会の神学生として続けるのも1つの方法かなと思いますが、実際問題はそう簡単ではないかもしれません。

さて説教の冒頭イエスと群衆の対話がかみ合わないと言いましたが、例を一つ挙げると、群衆が「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」(6・28)と問いかけ、イエスは「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」(6・29)と答えを示しますが、群衆はイエスの答えに近づこうとしないのです。

「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。」(6・30)さきほどの神学生の話に戻ると、ルドヴィコ神学院の生徒がどんどん去っていく中で、残っている神学生は誰を信じればよいのか、誰についていけばよいのか不安になっていると思うのです。校長を務める神父さまにさえも、「あなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか」と言いたくなるかもしれません。

もしかしたら、2人しかいない神学生に都合よいような答えは示されないかもしれません。しかし、迷いを捨て、「神がお遣わしになった者を信じる」つまり現在のルドヴィコ神学院の校長神父さまの勧めを信じて、精一杯努力するならば、きっと道は開けると思っています。

神学生が2人しかいなくなって、2人で険しい道を歩くのは至難の業かもしれません。もしかしたら2人のうちの1人が召命の道を去ってしまい、1人きりになるかもしれません。想像を絶する険しい道ですが、困難なのは人数の問題よりも、神に身を委ね、独りよがりな結論を取り下げることだと思うのです。こんな場所にいられようかという思いを取り下げることは、どんなに困難なことでしょう。ぜひその試練を乗り越えてくれるように、わたしは毎日祈りたいと思います。

考えるとわたしたちも、イエスを信じない人から根本的な問いを突き付けられたときに、答えを準備しておかなければなりません。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。この問いの答えは、次の通りです。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」

まだイエス・キリストを信じていない人に、「あー、あなたがイエス・キリストを信じていることが、よく分かりました」という生き方を示して、わたしたちは神の業を行うのです。

誰かと一緒にご飯を食べるときに「いただきます」だけでは、イエス・キリストを信じていることは伝わらないのです。家族ぐるみで親しくしている家族が一晩わが家に泊まった時に「おやすみなさい」のあいさつだけで寝るならば、イエス・キリストを信じていることは伝わらないのです。親しい家族が土曜日にわが家に泊まりに来た場合、翌朝「おはよう」のあいさつだけでは、イエス・キリストを信じていることは伝わらないのです。

ぜひ、わたしたちは周りの人々に対して、「わたしたちは、神がお遣わしになった者を信じています」という証を立てましょう。わたしたちがこうして神の業を行う時、「決して飢えることがなく、決して渇くことがない」体験を自分にも他人にも味わわせることになるのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第19主日
(ヨハネ6:41-51)
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ちょっとひとやすみ
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▼久しぶりにY・Kさんが大阪から五島の親戚を訪ねてきた。Y・Kさんは母親がわたしの母と姉妹になる。まずはわたしの母親を訪ねに来たわけだが、わたしもたまたま上五島に赴任しているということで浜串教会まで訪ねに来てくれた。
▼ところが、母親とわたしの弟には会うことができたようだが、わたしはあいにく留守していて、ここまで訪ねて来たということにあとで気付くこととなった。梅雨が明け、久しぶりにバイクでも動かそうかと様子を見たら、バイクのシートにメモがはさんであった。
▼「御元気ですか?多忙の様ですね。今後の御健闘を祈ります。」確かに訪ねてきたことは分かるが、これだけでは返事のしようがない。急いで実家に問い合わせ、住所を聞き出したかったが、実家に訪ねたときにも住所などのメモは残さなかったらしい。
▼このY・Kさんには小さいころから憧れがあった。苦労して学業を終え、初めは英語に力を注ぎ、英検一級を取得。しかし日本には英検一級の有資格者は五万といて、それでは一芸に秀でた仕事ができないと判断。当時新興勢力だったロシアに注目し、ロシア語をマスター。
▼ロシアで仕事を手掛ける大手建設会社は通訳の確保に苦労していたので、Y・Kさんは引っ張りだことなり、億単位の事業契約が成立するたびに成功報酬を得ることとなった。身内の中では飛びぬけて成功をおさめた一人と言える。
▼こんなことがあった。まだわたしが司祭になりたての頃、休暇で実家に帰省していたらY・Kさんから電話がかかって来た。わたしが電話に出ていると分かると、すぐに会話を英語に切り替えてきた。"How are you?"
▼わたしも応戦する。"Fine. Thank you."しかし、次の質問に一言も答えられず、悔しい思いをした。"What is your occupation?"occupationさえ分かれば、"What is your name?"と何ら変わらない質問だったのだが、答えられなかったのである。occupationは「職業」とか「身分」を問うているわけだから、"I'm a priest of Nagasaki diocese."と答えればよかったのである。
▼これくらいのことも分からないのかといった雰囲気が電話の向こうから伝わった。悔しくて歯ぎしりした。学生時代真剣に勉強したはずなのにちょっとしたことに躓き、答えられない。それ以来、英語で尋ねられたら英語で返事できるくらいには英語力を身につけておくべきだと痛感した。

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今週の1枚
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第387回目。なんとなくワニが魚に襲いかかっているように見える。見えない?

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