こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

聖家族(マタイ2:13-15,19-23)聖家族に倣い、神の望みに忠実に応える

2010-12-26 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/12/26(No.510)
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聖家族
(マタイ2:13-15,19-23)
聖家族に倣い、神の望みに忠実に応える
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ご降誕直後の日曜日は、聖家族を祝う日です。聖家族の姿からわたしたち家族の模範を見つけ出し、生活に結び付けていきましょう。まず、聖家族に与えられた難問を、ヨセフを中心にしてどのように乗り越えていったか見てみましょう。

ヨセフは、自分たち家族に迫っている危険を知ります。主の天使が夢でヨセフに現れて言いました。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」(2・13)

主の天使が夢でヨセフに現れたというのですが、夢に何かが現れるというのは珍しいことではありません。わたしも夢で、マリアさまが現れたことがありましたし、泊まるために出かけていた母方の祖母の家で最後の晩餐の動いている場面を見て、「額縁の絵が動いている。確かに動いたのを見た」とその場にいる家族を起こして、驚かせたこともありました。

ヨセフは、主の天使が夢に現れ、危険が迫っていることを知らされると、起きて、夜のうちにエジプトに避難しました。妻マリアに相談するわけでもなく、すぐに行動を起こしたのです。その決断は間違っていませんでした。

ヨセフの行動が正しかったことは、その後ヘロデが「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。」(2・16)という事実でわかります。主の天使が夢に現れたことを疑ってかかることも可能ですが、それよりも大事なことは、危険を感じた時、すぐに行動を起こしたということです。

同じような場面がもう一度巡ってきます。主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れました。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」(2・20)この時も、「ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。」(2・21)となっています。主の天使を通じて与えられた神の呼びかけに、すぐに応えたのです。

聖家族がエジプトに避難し、エジプトからイスラエルの地へ帰って来たことで、幼子は命の危険から守られました。実際には聖家族がイスラエルの地に帰った時、もう一度夢でお告げがあって、ガリラヤのナザレに住み、難を逃れました。

ヨセフの取った行動からわかることは、さまざまな危険や環境の変化に、神の導きに従って応答することで、家族が守られるということです。

ここまで来ると、わたしが皆さんに求めたいこともはっきりわかります。わたしたち家族は、神の望みに応えることで、さまざまな危険から守られるということです。ヨセフが聖家族を守るために、すぐに行動を起こしたように、わたしたちも神が望んでいることに、すぐに耳を傾ける必要があります。

先ほどから、神の望みとか、神の呼びかけと言っていますが、それは一体どんなものなのでしょうか。果たして今の時代に、神の望み、呼びかけはわたしたちの耳に聞こえるものなのでしょうか。

例を挙げたいと思います。真手ノ浦教会は、古くなった司祭館と教会を取り壊し、まったく新しい建物を建てました。12月23日に献堂式をしたことも、みなさん御存知のことでしょう。建て替えか、修理か。真手ノ浦教会の信徒はずいぶん悩んだのではないでしょうか。

おそらく、建て替えるにしても修理するにしても、どちらにも良い点と問題点があるはずです。最終的に建て替えて、新しい歩みを始めることにしました。ここに、神の望みが働いていたのではないでしょうか。神の望みに真剣に耳を傾けた結果、立派な教会と司祭館が与えられたのではないかと思います。

また、青砂ヶ浦教会は現在の教会が建てられて100年を迎え、10月17日に100周年を祝いました。1910年10月17日に献堂された教会を、2010年10月17日に祝ったと聞いています。ここでも、どのように100周年を祝うか、いろんな考えがあって、意見をまとめるのは大変だっただろうと思うのです。

それでも、最終的に素晴らしい献堂100周年の記念行事を実行することができました。これも、神の望みに全員が耳を傾け、全員が同じ意見ではないとしても、全員が耳を傾けた結果として、神の望みに応えることができたのではないでしょうか。

このように、上五島のすぐ近くの教会でも、神の望みに忠実に応えるかどうかを試される場面がやって来ています。わたしたちにも、遠からず同じような場面がやってきます。さまざまな考え方が噴出して、意見がぶつかることもあるかもしれません。それでも、神の望みに忠実に応えようと全員が望むならば、必ず良い方向に向かっていくのではないでしょうか。

聖家族に忍び寄っていた危険は、家長であるヨセフが神の望みに迅速に、そして忠実に従ったことで避けることができました。ヨセフが神の望みに忠実に応えたので、聖家族は危険な場所から、神の望む場所に移り住みました。

わたしたちも同じことです。重大な局面がやって来た時、信仰生活の危機から平和に満ちた状態に移るためには、速やかに神の望みに応えることが必要です。それはまず、身近な家族から始まり、神の家族である教会共同体もまた、同じ態度が求められています。

聖家族が、どのようにして幼子の命を守り、神の望みに応えていったかを今週の福音朗読から学び、わたしたちも、神の望みに速やかに応えようとの思いを新たにしましょう。もうすぐやって来る2011年を、聖家族の模範に倣って迎えることができるように、このミサの中で祈ることにいたしましょう。


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‥次の説教は‥‥
神の母聖マリア
(ルカ2:16-21)
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ちょっとひとやすみ
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▼説教の中でちょっと触れたが、青砂ヶ浦教会は1910年10月17日に3度目の聖堂を建設し、献堂している。そして今年2010年10月17日に、献堂100周年を迎えた。実は福見教会も、間近に100周年を迎えているのだが、最初に考えていた計画に再考を求められている。
▼現在の福見教会が献堂されたのは1913年の4月29日とされている。わたしが赴任して、「100周年を祝う実行委員会を立ち上げましょう」ということになり、それは必要なことだと計画を中心になって話し合うメンバーが招集された。そこで提案されたのは、「2012年の4月29日に、100周年を祝いましょう」ということだった。
▼誰も、特に異を唱える人はなかったので、そのつもりで準備を始めてみましょうということになった。ところが、青砂ヶ浦教会の例に倣って計算すると、2013年が100周年ということになり、2012年では1年早くはないか?という問題が発生した。ちょうど真手ノ浦教会の献堂式で祝賀会の折に司教秘書からもその点を指摘され、協議が必要になった。
▼協議の結果、前例もあることだし、2013年に100周年を祝いましょうということになり、あと1年、慎重に準備する時間が与えられた。ただ、主任司祭も慌てていて、12月19日の小教区ミサ訪問に応募して福見教会の主日ミサにおいでくださった子供たちと引率者に、2012年に100周年を祝う準備をしていますと印刷したカードを配ってしまい、ちょっと困ったと思っている。訂正してお詫びしたい。
▼おそらく今年のうちにあと1回メルマガを発行するので、今年1年の振り返りは次号に回したいと思うが、小教区の信徒のために本当にしなければならないことを、十分に果たしてあげることができなかったという反省が残る。1年間ひと通りのことを経験してから、柔軟に活かすべきは活かし、変えるべきは変える、そういうつもりではいる。ただ、もっと大胆に、踏み込んでもよかったのではないかと後悔が残った。フットワークが問われた1年だったかもしれない。

‥‥‥†‥‥‥
新企画今週の1枚
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第117回目。浜串教会のご降誕夜半のミサで小学生のコーラス。
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主の降誕(日中)(ヨハネ1:1-18)言は肉となって、わたしたちの間に宿られた

2010-12-25 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/12/25(No.509)
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主の降誕(日中)
(ヨハネ1:1-18)
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた
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あらためて、ご降誕おめでとうございます。今日、25日の主の降誕(日中)のミサは、高井旅教会が24日に回ったために、浜串教会だけの特別なミサとなりました。今日は土曜日なので、高井旅教会は避けてほしいということでした。

さて、今日の福音はヨハネ福音書の書き出しの部分なのですが、この部分から、お生まれになった神の子、救い主イエスについて黙想したいと思います。特に、「言(ことば)」について思いめぐらしながら、与えられた個所から、お生まれになった救い主に近づくことにしましょう。

降誕の出来事と、今日の朗読箇所がいちばん結びつくのは、「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」(1・14)という箇所でしょう。少しずつ見ていくと、「言(ことば)は肉となった」「言(ことば)はわたしたちの間に宿られた」に分けることができます。

「言(ことば)は肉となった」これをわかりやすく言うと、「言(ことば)はわたしたちと同じ姿になられた」ということです。目で見、触れることができるようになりました。旧約聖書の時代から、神がおられることは疑いのないことでしたが、その神が、信じる人にとっては「今ここにおられる」と言えるようになったわけです。

また、わたしたちと同じ肉となったとすれば、働きすぎれば疲れるし、眠くもなるし、弱ったりする、限界のある姿になられたということです。人間の、限界ある姿も、十分に理解してくださる方となりました。

言(ことば)は、わたしたちの間に宿られます。人間社会の真ん中に、とどまってくださいます。喜びがあり、悲しみがあり、さまざまな思いが混じり合っている人間社会の中に宿りました。

だれもが清くありたいと願っていますが、中には悪に手を染めた人もいます。人間は神がつくられた被造物の中で最高の存在ですが、それでも神にそむく生き方を選ぶ人もいます。そんな、不完全な人間の間に、宿られたのです。こうして、言(ことば)は肉となることで、人間のすべてをその身で感じることになります。

そして、言(ことば)の内に命があります。肉の命だけでなく、滅びることのない、永遠の命があります。言(ことば)が肉となってくださったことで、人間はこの永遠の命を知り、触れることができるようになりました。それはまるで、暗闇を照らす光のようで、世界のすべてを照らしだします。

このような、言(ことば)によってあらわされた素晴らしさが、馬小屋に眠る幼子の中におさめられているのです。たくさんの言い表し方をしましたが、すべてを思い出すことができなくても、何か一つでも思い起こして、馬小屋に眠る幼子を見つめてほしいと思います。「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」ヨハネ福音書のメッセージが、この馬小屋の中にすべて実現しているのです。

さらにわたしたちは、この幼子の向こうにあるものにも思いを巡らします。幼子はこれから成長し、わたしたちに神の愛を示していきます。神の愛深さ、憐み深さ、ゆるしの深さを、人間があっと驚く形で示してくださいます。それは命を与えるほどの、人間のために死んで復活するほどの愛です。ヨハネ福音記者が大胆に描いた「肉となった言(ことば)」を、馬小屋の幼子を通して今日一日味わいましょう。

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‥次の説教は‥‥
聖家族
(マタイ2:13-15,19-23)
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ちょっとひとやすみ
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▼お腹が空いた。変な話だけど、日中に主の降誕(夜半)の説教を書き、夜は小学生高学年と中学生の要理をこなし、その後、主の降誕(日中)の説教を書きあげた。書き上げたのは夜11時半。最近はすぐに眠くなって長く集中できないことが多いのだが、この日に書き上げなければならない事情があり、書いてはみたがこんな遅くにお腹が空いている。
▼翌日23日(木)は本来なら祭日なのだが、この日は日中に、新築落成した「真手ノ浦教会」の献堂式が行われ、取材かたがた出席することになっている。木曜日となれば、朝は浜串のミサ、10時半から献堂式ミサ、昼は祝賀会、夕方5時半からは福見教会のミサと、非常に厳しいスケジュールとなっている。
▼これでは、クリスマスの説教を考えるのは無理であろう。そういうわけで、クリスマスミサの説教は、夜半と日中を含め、22日のうちにまとめる必要があったということだ。あまり出来栄えはよくないが、背に腹は代えられない。そういう年もあると、自分に言い聞かせるしかない。
▼話は前後するが、今もお腹が空いている。今食べると、不健康な状態をさらに悪化させることになる。悩ましいところだが、申し訳ないが空腹感をごまかすために、夕食の野菜鍋の汁を温めて、少しご飯を入れて食べることにしたい。本当は、食べてはいけない時間帯だが、読者の皆さん、目をつぶってほしい。

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新企画今週の1枚
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第116回目。予定では、完成した真手ノ浦教会の遠景をお届けしたいです。
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主の降誕(夜半)(ルカ2:1-14)あなたがたは乳飲み子を見つけるであろう

2010-12-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/12/24(No.508)
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主の降誕(夜半)
(ルカ2:1-14)
あなたがたは乳飲み子を見つけるであろう
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主の降誕、おめでとうございます。司祭になって初めて、生まれ故郷の上五島でクリスマスを迎えました。想像もしなかったことです。幼いころ、眠い目をこすりながら、この日の夜半のミサに連れて行かれたことを思い出しました。

今年のクリスマスを祝うに当たって、次の箇所を取り上げたいと思います。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。」(2・12)何も、驚くような箇所ではないのですが、あらためて考える材料を見つけましたので、今年、みなさんと分かち合いたいのです。

「あなたがたは…見つけるであろう。」これは、あらためて考えると、簡単なようで、そう簡単ではないと思いました。多くの羊を、牧草を探しながら転々としている羊飼いが、飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つけ出すというのです。

浜串小教区の小学生、ざっと20人ほどですが、この小学生をわたしが例えば桐とか、奈良尾とかまで連れて行って、生まれたばかりの赤ちゃんを確実に見つけることができるかと考えるとき、そう簡単ではないぞとすぐに感じます。

20人を連れて、指示された乳飲み子を見つけようとしても、一緒に連れまわっている20人の心配もあります。乳飲み子がその土地でたった1人であれば見つけやすいでしょうが、何人かいたなら、その中のどの乳飲み子が、目当ての子なのでしょうか。

のちに占星術の学者たちが訪ねに行きますが、その時は星の導きがあったとされています。けれども、羊飼いたちには星の導きがあったとは書かれていません。わたしたちが昔そうであったように、牛を1頭飼っているとか、山羊を1頭飼っているとかいう家はざらにあったわけですから、家畜小屋を探すといってもそうたやすいことではなかったでしょう。

どのようにして、救い主に出会うことができたのでしょうか。もし、羊飼いの方から幼子を見つけるのが難しいのであれば、人となられた神が、羊飼いを招いたのではないでしょうか。神が、羊飼いを導き、布にくるまって飼い葉桶に寝かされている乳飲み子を見つけたのではないでしょうか。

そう考えて、もう一度天使の言葉を思い出してみましょう。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。」まるで、必ず見つけることになっていると、言っているようです。本来は、人間の側から必ず見つけるとは言えないはずです。だとすれば、羊飼いたちが必ず見つける理由があるはずです。

わたしは、それは出来事への深い信頼と、素直に受け入れる謙虚さだと思います。天使が告げた出来事はきっとどこかで起こったのだから、そこに行こう。わたしたちが見つけることができなくても、きっとわたしたちを導いてくれるはずだ。そこまでの信頼があったので、導かれて、その目で出来事を見ることができたのではないでしょうか。のちに訪ねてくる占星術の学者たちも、深い信頼と、謙虚さがあったので、導かれて救い主を見出したのです。

この考え方を、わたしたちにも当てはめてみましょう。わたしたちは、救い主を自分の力で見つけ出すことができるかと言うと、実はそうでもないということになります。クリスマスがやってきました。それでも、全員が救い主にたどりつくわけではないのです。自分で探しだすのではなく、導かれた人たちが、たどり着くということです。救い主はおいでになり、わたしを導いて出会わせてくれる。深い信頼と、謙虚な心を準備して来た人たちが、導かれていくのです。

今日、みなさんの多くが、馬小屋の前で祈りをささげていくでしょう。できればそのお祈りの中に、自分が導かれてここに来たことを、感謝する気持ちを付けくわえてほしいと思います。自分の力で、馬小屋を見つけて幼子にあいさつをしているのではありません。もし、そんな気持ちだったら、救い主の前に来ても、「やあこんにちは」くらいのあいさつしかできないでしょう。

「おいでになった救い主に、感謝します」とあいさつできるためには、自分が導かれてここに来たという気持ちが必要です。馬小屋の前に跪くのが当り前ではなく、導かれてひざまずくことができたという感謝につながってほしいものです。

最後に、この馬小屋の中で、布にくるまれて飼い葉桶に寝かされている幼子に導かれる人が、もっとたくさん増えることを考えましょう。きっと、まだ導かれて、この馬小屋の前までたどり着いていない人がいるはずです。そんな人たちのために、あなたは何ができるでしょうか。直接、この馬小屋の前に、誘ってあげることもできます。あるいは、家庭に招待して、家庭で飾っている馬小屋に誘ってあげることもできるでしょう。

来年のクリスマスに向けて、わたしは誰を、新しく導いて救い主の前に紹介できるでしょうか。もし1人でも、幼子の前に新しい人を導くことができるなら、それこそが、わたしたちにとってのイエスさまへの最高の贈り物だと思います。

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‥次の説教は‥‥
主の降誕(日中)
(ヨハネ1:1-18)
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ちょっとひとやすみ
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▼街頭募金に参加した。大きな声で、協力を呼び掛けた。わたしの声出しの原則は、例えばスーパーで募金に立ったなら、買い物に立ち寄る人だけでなく、スーパーの道向かいの歩道を歩く人が振り向くくらいの大声である。買い物に来ない人が、「あれだけ声を出しているから、募金してくるか」という気持ちになる。それくらいの声を出す必要があるとわたし自身は信じている。
▼年の瀬。毎年の悩みは、年賀状。いつもいつも、年賀状が届いてから、返事を出している。いつもだから、先方も了解済みかもしれないが、本当に申し訳ないなぁと思う。年賀状を実家に持ち帰り、仕分けをして準備を整え、休みを終えてから出す。この繰り返し。繰り返しから抜け出す方法を、だれか教えて。
▼今年、クリスマスはいつもに増して忙しくなった。24日、夕方5時・高井旅教会。夜7時・福見教会。夜9時、浜串教会。どこで夕食を食べるのだろうか。点滴のような食事になるのだろうか?今年、言われるがままに実行してみるが、無理だと思ったら来年はこんなスケジュールは組まない。お願いされても正直に無理だと断ろうと思う。
▼ちなみに来年は、12月24日が土曜日で、25日が日曜日となっている。これは自動的に、24日夜7時浜串教会、夜9時福見教会、25日朝7時浜串教会、朝9時高井旅教会だ。ということはつまり、2012年1月1日神の母聖マリアは、日曜日ということだ。おー、来年はすばらしいクリスマスと正月だ。だってミサが1つ省略できるから。レベル低いけど、嬉しい!
▼年が明けてからのことも、少し考えておく必要がある。この教会の、どこを刺激すれば、反応があるのか、この9カ月で何となく見えて来た。感じたことが本当かどうかは、実際に確かめてみなければ何とも言えないが、うまく活性化の材料になればいいと思う。闘志は静かに燃え上がっている。

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第115回目。街頭募金。募金してくれる親切な人が、この時代にもまだまだいます。
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待降節第4主日(マタイ1:18-24)神はわたしたちを救う

2010-12-19 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/12/19(No.507)
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待降節第4主日
(マタイ1:18-24)
神はわたしたちを救う
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先週のクリスマス会は、楽しかったですね。どの出演者もすばらしかったので、審査委員を務めたわたしもずいぶん頭を悩ましました。特にすばらしかったのは、高校生です。できれば高校生は、眠そうな顔でもいいから日曜日のミサに来て、こうやって褒めちぎっているのを生で聞いて欲しいものです。やるときはやるというのは十分伝わったから、あとは、ミサに来てやったぞでもいいから、来て欲しい。

出演者の皆さんご苦労さまでした。わたしも出演したので、出演者の気持ちはよく分かります。緊張する人は、出番が近づいてくると、わたしだけ拍手をもらえなかったらどうしようと、舞台の袖ではそれはもう張り詰めた気持ちになったことでしょう。わたしも、失敗はいやだなぁとすごくプレッシャーを感じていました。

それでも出番は回ってきます。準備が整っていなくても、舞台に上がらなければなりません。逃げ出したいくらい高ぶった人もいるかもしれません。出演者がどうやって恐怖を乗り越えたんだろうと想像します。それはたぶん、今週の福音朗読箇所で登場したヨセフの気持ちに近かったかもしれません。ヨセフは目の前の婚約者が身ごもっていて、起こっていることが飲み込めず、身を引こうとしていたのです。

ヨセフは、マリアのことを表ざたにせず、ひそかに縁を切ろうと決心までしていました。けれども、主の天使が夢に現れ、勇気づけたのです。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(1・20-21)それは、舞台から逃げ出したい気分だったヨセフを、表舞台に立たせるのに十分な言葉でした。

「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」天使が最初に告げた言葉です。わたしは、この言葉ではまだ、ヨセフは表舞台に立てなかったと思います。なぜなら今まさに、ヨセフは恐ろしくなっているからです。恐れている人に恐れるなと言ったって、無理な話です。

何かこれとは違う言葉が、ヨセフに踏ん切りをつけさせたのではないでしょうか。わたしは、「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」この言葉こそ、ヨセフに「これなら大丈夫!」と言い聞かせ、舞台に上がらせる力となったのではないかと思っています。

「イエス」という名前は、もとの言葉では「神は救う」という意味があります。生まれてくる子に、「神は救う」という名前を付けるには、2つの覚悟が必要でしょう。1つは、「神は救う」ということを、心の底から信じるということです。

出来事は、信じられないようなことだらけです。婚約者はすでに身ごもっているし、夢の中には主の天使が現れました。それでも、これらの出来事を通して、きっと神はわたしたちを救ってくださるのだ。だから、わたしが舞台を去ってはいけない。そう考えたのでしょう。

もう1つは、「神は救う」を意味する名前を、生まれようとしている子に付ける、その決断力です。確かに「神は救う」でしょう。けれども、この子がまさに「神は救う」そのしるしであると、人々の前にはっきり態度表明をするのは、勇気のいることです。

神が救ってくださるのは結構。でもヨセフは表舞台から立ち去りたい気持ちだったのです。そのヨセフを、「あなたが表舞台に立たないと、『神は救う』という神の計画が前に進まない。」そう促されて、ようやく妻マリアを迎え入れ、ヨセフは表舞台に立ったのでした。

クリスマス会のとき、実は中田神父は怯んでいました。まさかと思うかもしれませんが、直前に、高校生が派手なダンスを披露してくれていたので、その直後に自分が出たら、きっとしらけてしまうに違いないと、その場を逃げ出したい気分だったのです。

幸いに、飛び入りで演歌を歌ってくれる人が現れて、ひとまず会場が落ち着きました。あー、これだったらと安心して休憩時間の余興をしたのです。もし逃げ出していたら、クリスマス会としては成立したでしょうが、二度と出演依頼は来なくなっていたことでしょう。

あの場面で神がわたしに教えたかったことは、立ち去ることではなく、舞台に立つことでした。舞台に立ち、「神は救う」ということを証しなさいと、わたしの背中を押してくれたのです。全ての出演者に、「神は救う」ということを信じる。そうすれば、神は確かに救ってくださるのだと、教えてくれたのではないでしょうか。

今週の福音朗読から見えてくるヨセフの姿は、マリアと、マリアが聖霊によって身ごもった子を受け入れる姿ですが、それは言い換えると、「イエス」「神は救う」ということと、「インマヌエル」「神は我々と共におられる」という神が示された人間への招きを、全面的に受け入れる姿でもあります。

同じことは、ご降誕を前にしてわたしたちにも求められています。クリスマスの飾り付けを見て、「イエス」「神は救う」ということと、「インマヌエル」「神は我々と共におられる」という招きに、「そうです。その通りです」と、高らかに賛美の声を上げて欲しいのです。わたしたちはあなたを待ち望んでいますと、声にして欲しいのです。

もっと言えば、生活の中でも、同じ呼びかけに応えることが求められているのです。怖気づいて、人々の前で信仰を表わすことにためらいを感じるとき、「神は我々と共におられる」と、自分に言い聞かせて欲しいのです。幼子イエスが、あなたのそばにいてくれるのは、何も教会の中だけではないはずです。

幸い、今日は青方で、街頭募金が繰り広げられます。大きな声で、人々にカトリック教会の活動の一端を、知らせるまたとないチャンスです。声をかける相手に尻込みしそうになるかもしれません。そんなときはぜひ自分の心に、「イエス」「神は救う」「インマヌエル」「神は我々と共におられる」と言い聞かせて欲しいと思います。

今日主の天使によって示された招きが、ヨセフに勇気を与えたように、わたしたちも信仰を大胆に証するための勇気として与えられるように、ミサの中で願っていきましょう。

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‥次の説教は‥‥
主の降誕(夜半)
(ルカ2:1-14)
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ちょっとひとやすみ
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▼意を決して寒い冬に磯で釣りをしようと思い、生まれて初めて「ルアー釣り」の道具を買い求めた。安い道具だったが、寒がりのわたしが、海に出る決心をしたのはそう安いものではない。今の予定では、福見の磯と浜で、ルアーを投げて巻いて、遊ぶつもりである。
▼「遊ぶつもり」と言ったが、実は最初の釣行には過ぎた木曜日に行って来た。最初からこんなことを言ってはいけないのだろうが、わたしは基本的にルアーを疑ってかかっている。なぜ食べられないものを投げて巻いて、魚を釣ることができるのか、理解できない。それに、釣り上げられる魚は最後に餌を食べずにその一生を終わるのだから、こんなにむごいことはない。しかも、ルアーはわたしの感覚ではとんでもなく高い。
▼初めてのルアー釣りの釣果はというと、30回くらい投げて巻いて、岩場にルアーが引っかかり、あの手この手で外そうとしたがどうしても外れず、ラインを仕方なく強く引いたらラインがちぎれてルアーを失ってしまった。釣れなかったことも、ルアーを引っ掛けて失ったことも、ほぼ「織り込み済み。」この冬、何個ルアーを失い、結果、魚は釣れるのだろうか。
▼小教区のクリスマス会を12日に開いたが、それはもうすばらしい出演者が勢ぞろいして、盛り上げてくれた。もちろんわたしも一役買った。喜んでくれたと思う。興味があったら、ホームページ「話の森」を閲覧して欲しい。ブロードバンド回線(ADSLもしくは光)であれば、映像を楽しむことができると思う。それにしても残念なのは、動画を撮影するために机にデジカメを置いたのだが、そこに座った高齢者の方々が、机をたたいて喜んだために、いくつかの演目はひどく映像がブレてしまったことだ。よほど面白かったのだろうか。
▼福見教会の子供のミサで、ミサの手伝いをする侍者を、ついみんなの前で叱ってしまった。奉献文の間じゅう、しきりにおしゃべりをしていたので、しびれを切らしてしまった。叱られた2人の女の子はそのときはケロッとしていたが、わたしよりこわい母親から再度叱られたのだろう。もう一度ミサ後に謝りに来たときは涙をためて謝っていた。ここ4~5年叱ったことがなかったから、わたしもミサの間、気まずい思いをした。

‥‥‥†‥‥‥
新企画今週の1枚
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第114回目。デジカメが棚から飛び降りて、亡くなりました。代替機による1枚。
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待降節第3主日(マタイ11:2-11)その方がそれ以上のものを見せてくださる

2010-12-12 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
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こうじ神父
「今週の説教」
10/12/12(No.506)
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待降節第3主日
(マタイ11:2-11)
その方がそれ以上のものを見せてくださる
‥‥‥†‥‥‥‥

言うなと口止めされていますけど、やっぱり今日は昼ご飯の話から入りたいと思います。木曜日に電話がかかりまして(木曜日って、しばしば何かが起こる日ですね)「○○です。昼ご飯を有川に食べに来ませんか」と声がかかりました。

わたしは心の中では、「なんぼなんでも、昼ご飯を食べるのに有川まで走らんばいかんとやろか(有川までどうして行かなければならないのだろうか)」と思っていました。それでも、ここで断ったりすれば、後々の付き合いが悪くなるかもしれないと思い、「じゃあ行きます」と返事をしたのです。

返事をしたのはいいのですが、わたしは朝から賄いのシスターがお出かけすると言うので、「じゃあわたしでも準備できるうどんをたいて、魚を焼いて食べるから」と伝えていました。台所に行くと、やはりうどんが1人分置いてありまして、書き置きにも「お魚は冷蔵庫にあるのを焼いてください」と指示されていました。

せっかく準備してもらっているのに、悪いことしたなぁと思いつつ、筆ペンで「事情が変わり、有川でご飯を食べることになりました」と書き置きをして有川に出発しました。帰ってきたら、シスターはどう思うだろうか、それにしても有川では、何人くらい集まって昼ご飯を待っているのだろうか。そんなことを思いながら、有川のエレナの道向かいの食堂に入ったのです。

畳の部屋に通されました。メンバーを見て、わたしは腰を抜かしました。事情があって外で食べることになりましたとお詫びを書いたその当人が、テーブルに座っているではありませんか。電話をかけて誘ってくれた人を含め、テーブルには4人いましたが、「なんでわっどみがおっとな」と、正直思いました。出発前にお詫びのメモを書いて損したとも思いました。

まあひとしきりおしゃべりしながら昼ご飯をごちそうになりまして、また有川から浜串に戻ります。戻りながら、わたしは今日の福音朗読箇所を重ねて考えることにしました。イエスは群衆に3度、次のように問いかけています。「何を見に行ったのか。」

わたしは確かに、何かを見て、帰って来ているわけですが、何を見て来たのだろうかと、帰り道に問い直してみたのです。ご婦人と、賄いシスターを見に行ったのだろうか。有川まで行ったのですから、それでは元が取れません。食事中の楽しい会話でしょうか。楽しい会話も、有川でなくても可能でしょう。

「では何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。」(11・9)福音朗読箇所では、イエスさまがヨハネのことを、「預言者以上の者である」と仰いました。預言者は、来るべきお方について預言をするところまでです。

けれども洗礼者ヨハネは、来るべきお方を「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」(ヨハネ1・29)と指し示すことまでした人です。洗礼者ヨハネの呼びかけを心の底から受け入れた人は悔い改めの洗礼を受けました。

一方、信じようとしなかった人は、洗礼者ヨハネを信じないばかりか、彼が預言し、指し示したイエスをも信じませんでした。遠く離れた荒れ野に出かけて、預言者以上の者を見たと気づいた人は、生活を大胆に神に向け直すことができたわけです。

そこで、振り返ってわたしは有川までご婦人がたに引っ張り出されて何を見たのかと考え直したときに、婦人会の「あっどみ」以上の者を見た、そういう答えにたどりつきました。では、「あっどみ」に、「あっどみ以上」の何を見たのでしょうか。

洗礼者ヨハネのもとに集まり、悔い改めの洗礼を受けた人々は、洗礼者ヨハネの向こうにおられる救い主、まだ見ぬ「来るべきお方」を見たのでした。わたしも、お昼をごちそうしてくれた婦人会の人たちの向こうに、来るべきお方を見たと感じました。

なぜかと言うと、もし洗礼者ヨハネの呼びかけに応じなかったなら、人々は来るべきお方に導いてもらえなかったわけです。同じようにわたしも、あの時面倒くさがって昼ご飯にお呼ばれしなかったら、婦人会の人たちの向こうにおられる「仕えられるためではなく、仕えるために来た」お方に、出会うことができなかったと思うのです。

わたしたちの救い主は、誰も考えられないような場所にやってきて、お生まれになりました。預言者イザヤは、「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ7・14)とは言いましたが、それが、家畜小屋で、飼い葉桶に寝かされている乳飲み子であるとは、想像できなかったことでしょう。

もしイエスが今ここに現れて、「どこそこに行きなさい」と言われた時、それがどんな場所であれ、「嫌です」とは言えないはずです。どこにでも行きなさい。どこででも、あなたは仕えなさい。そのことを教えるために、有川で婦人会の「あっどみ」のところまで行き、婦人会以上の者を、見せてくださったのだと思います。

神は今週、わたしたちに出来事以上のものを読み取るよう、目の前にいる人物を通して、その向こうの存在をはっきりとらえるようにと、呼びかけているのではないでしょうか。目の前に繰り広げられている出来事や、目の前に立っている人物だけに気を取られていたら、神がもっと大きなことを教えようとしていても見落としてしまいます。

先週きちんと整えられた馬小屋を見てください。この馬小屋の飼い葉桶に、まだおいでにはなっていませんが、必ずおいでになるお方が見えているでしょうか。もうすぐおいでになると、期待に胸が膨らんでいるでしょうか。

洗礼者ヨハネは、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」(11・3)と尋ねさせました。わたしたちに、「何を見に行ったのか」と問いかけ、「預言者以上の者である」との深い意味を教えてくださるのはイエス・キリストだけです。大きな期待を胸に、ご降誕までの日々を過ごすことにいたしましょう。

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‥次の説教は‥‥
待降節第4主日
(マタイ1:18-24)
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ちょっとひとやすみ
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▼チャーチウィークin上五島と銘打って、12月7日から12日にかけて、上五島の6つの教会で木管楽器のコンサートが開かれた。その2番目の教会として、福見教会が選ばれ、12月8日午後7時から、2時間にわたって演奏を満喫した。
▼あいさつを主任司祭がすることになっていたので、次のような内容に触れた。1つは、教会は招かれる場所で、ここに来た参加者の方々はだれかに招かれ、それは間接的には尊い方が招いたのだということ。
▼2つめは、ここに招かれた人は皆、何かをたたえるために招かれていること。演奏家は、音楽の素晴らしさをたたえるために、特別出演の子供たちは、素朴な歌で神をたたえるために、鑑賞に来た人は、人間のわざの素晴らしさを、演奏家と子供たちを通してたたえるため。
▼たたえるために来た3者は一致する。神をたたえる子供に、収束していく。たたえることを知る人は、神に心が向かうからだ。コンサートに集まったすべての人が、神をたたえる素晴らしさ、12月8日の「無原罪の聖母」をたたえることの素晴らしさ、いろいろなたたえる素晴らしさを持ち帰ってくれたのではないだろうか。
▼12月12日、小教区のクリスマス会を迎える。すでに保育園のクリスマス会を見て、ほほえましい気持ちになった。どんなクリスマス会になるのやら。こうじ神父は、休憩時間に1度、プログラムの最後に1度、出番が入っている。

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新企画今週の1枚
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第113回目。浜串教会の外部の教会飾り。点灯していない電飾もあるみたい。

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待降節第2主日(マタイ3:1-12)預言者の声を生活に響かせよ

2010-12-05 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/12/05(No.505)
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待降節第2主日(マタイ3:1-12)預言者の声を生活に響かせよ
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待降節第2主日に教会の典礼は、洗礼者ヨハネを登場させます。もし覚えてくださるなら、来年の待降節にも思い出してください。第2主日には洗礼者ヨハネが登場するのです。そして、今日の福音朗読にあるような声を、人々に響き渡らせるのです。

「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。」(マルコ3・1-2)わたしはこの言葉を繰り返し自分に言い聞かせて、次のように考えてみました。「洗礼者ヨハネの声は、今の時代に本当に聞こえているだろうか。」もちろんわたしは、「洗礼者ヨハネの声は、今の時代にも響いている」と思いたいです。

今日は「宣教地司祭育成の日」でもあります。1週間前、修道会の神父さまで久保神父さまという方が浜串に滞在していましたね。神父さまは、アフリカで宣教をしておられるということでした。3年に1度、休暇を取って日本に戻ってくるそうですが、見方を変えると、3年間は、日本に帰ってこないわけです。

わたしは、この久保神父さまとしばらくお話をして、ミサを一緒にささげて、この神父さまの声が、アフリカで響いているのだなぁと思いめぐらしました。日本人の神父さまが、アフリカの地で、「悔い改めよ」という声を響かせているのだと感じました。

もちろん、わたしがアフリカに行って、久保神父さまが宣教している様子を確かめて来たわけではありません。けれども、「悔い改めなさい」という言葉そのものを言うことが、洗礼者ヨハネの使命だったのではないと思います。

むしろ、洗礼者ヨハネの使命を預言するイザヤ書の引用「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」この思いが届いていれば、それは洗礼者ヨハネの使命が果たされていると言えるのではないでしょうか。

では、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」とは、どんな態度を表しているのでしょうか。わたしは、神に従う生き方を曲げないで生きるということだと思います。神にまっすぐに従う。それが、「主の道を整える」態度です。

そこからすると、わたしたちも生活を見渡して、洗礼者ヨハネの「悔い改めよ」と言う言葉が響いているか、よく吟味する必要があります。神さまの前に、今日しなければならないことを、「今日は疲れているから、明日しよう」と考えるのは、主の道を曲げる生き方だと思います。

まずは、わたしの身の回りで、神にまっすぐに従うように、道を整えたいものです。わたしはよく小学生のゆるしの秘跡で、3つの場面を考えなさいと言います。1つ目は、家庭での過ごし方です。道をそれなかっただろうか、考えさせます。2つ目は、学校での過ごし方です。学校が、ある意味で一番長く過ごしている場所ですから、神さまの望みにそれなかっただろうか、考えてもらいます。3つ目は、出かけた先でのことです。

この3つは、2つ目を仕事場でと置き換えると、大人の信者にもあてはまると思います。この3つを振り返って、「道を曲げていたら、道を整えよう」と考えると参考になると思います。そして今日は、中学生高校生にも、「道を曲げていたら、道を整えてほしい」と呼びかけたいと思います。

学校で、本心ではない態度を取ることはないでしょうか。クラスの中で、だれかが仲間はずれになっているとしましょう。そのクラスの中で、仲間はずしにする流れに同調せずに、「わたしは、神さまへの道を曲げません」と、きっぱり態度で表しているでしょうか。

とても勇気のいることですが、ここで譲ってしまったら、「悔い改めよ」という声に耳をふさいでしまうことになります。そうなることのないように、学校生活を神さまにまっすぐに従うつもりで過ごしてほしいのです。中学生高校生にとって、「わたしは道を曲げません」という毅然とした態度を取ることが、洗礼者ヨハネの「悔い改めよ」という声を響かせることになると思います。

洗礼者ヨハネの「悔い改めよ」という声は、主の降誕を準備するこの時期、すべての人に響き渡らせるべき声です。わたしの身の回りで、わたし自身の心の中で、そしてまだ神さまを知らないでいる身近な人々の中で、響き渡らせましょう。わたしたちはそのために、先に洗礼者ヨハネの言葉を聞いたのです。より多くの人の中で、神にまっすぐに生きることが喜びとなるように、今日のミサの中で願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
待降節第3主日
(マタイ11:2-11)
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ちょっとひとやすみ
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▼クリスマスの飾り付けが忙しくなってきた。杉の葉を上手に巻いて、飾っていく。五島の教会の、伝統的な飾り付けを、今もこの教会は受け継いでいる。久しぶりに、昔の教会飾りを見ることができそうだ。
▼年末、当然のことながら忙しい。おそらく年賀状は、届いたのを横目に見ながら、返事を出すことになるだろう。いつもながら、申し訳ないと思っている。ずいぶん前から頼まれていたことなど、今になって慌てて準備をして、発送した。首を長くして待っていた人は、ろくろ首になっているかもしれない。
▼こちら新上五島町では、行政がクリスマスイベントを企画してくれている。教会を会場に、コンサートを開いてくれるのだ。これに合わせて、子供たちも返礼の歌の練習をしている。歌の練習を通して、クリスマスの心の準備も進んでいくことを願っている。
▼実家に、なかなか帰っていない。1度などは、テニスをした後にシャワーを浴びようと出かけてみたら、すべてに鍵がかかっていた。うーん。連絡をしないでフラッと行ったのが悪かったか。どこも入る隙がなくて、機会を逃してしまった。
▼馬小屋が、浜串教会は豪華に出来上がるそうだ。写真も、楽しみにしておいてほしい。
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新企画今週の1枚
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第112回目。浜串教会の馬小屋。日曜日に撮影します。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/101205.jpg

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