こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

四旬節第5主日(ヨハネ11:1-45)人と人の絆を引き裂く死を神への絆に変える

2020-03-28 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2020/3/29(No.1053)
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四旬節第5主日(ヨハネ11:1-45)
人と人の絆を引き裂く死を神への絆に変える
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四旬節第5主日、この時期になっても新型コロナウィルスの終息の見通しは立たず、いよいよ来週には聖週間に入ることになりました。困難なときほど、教会堂に集まったときだけの信仰で終わらず、どこに行っても、どこにいてもカトリック信者。この精神で日々を過ごしたいと思います。

個人的な話ですが、立て続けに大腸検査、胃の内視鏡検査などおもな検査を受けました。胃と、小腸十二指腸には処置の必要な症状はありませんでしたが、大腸は4ヶ所ポリープができていて、そのうちの一つは「腺腫」(アデノーマ)という状態に変化していたそうです。まぁ、これから毎年検査を受けて、用心したいと思います。

今週の福音朗読箇所では、「ラザロの死」と、「ラザロの生き返り」に注目したいと思います。特にラザロの生き返りには、イエスがラザロを呼ぶこと、社会との絆を絶たれていたラザロがイエスによって絆を回復していく様子を取り上げたいと思います。

ラザロに関する記述からすると、彼は年齢や病気、特別な命の危険を感じさせる理由は見当たりませんでした。人は必ず死んでこの世に別れを告げますが、特に理由も無く死んだとなれば、家族の悲しみはふだんにも増して大きいわけです。

ラザロは墓に葬られ、墓の入口には石が置かれています。これは生きている人とラザロとが切り離されている、引き裂かれていることを示しています。マルタは気丈にイエスをもてなしますが、妹のマリアは引き裂かれた悲しみに、イエスを出迎える力も残っていなかったのでしょう。悲しみの大きさ深さがうかがえます。

人と人とが死によって引き裂かれる悲しみに、イエスは向き合ってくださいます。誰もが、何もしてあげられない。この悲しみの中でイエスは希望となってくださいました。墓で人々から離されていたラザロを、イエスは呼び出すのです。「ラザロ、出て来なさい」(11・43)。

この奇跡は、出来事だけを見れば「死者を生き返らせる奇跡」ですが、もっと深い場所では人と人との絆を断ち切る最大の不幸に、希望を与える奇跡でした。イエスだけが、この奇跡を起こすことのできる方です。ですからイエスは、ご自身が希望のないところに希望を与える方であることを、誰にでも分かる形で示してくださったのです。

私たちは今、まだ解明されていない病気と闘っています。新型コロナウィルスです。治療法がないために、検査で陽性と診断されれば人々から隔離されることになります。有名な芸能人も、重症化して人工呼吸器を付けて治療を受けています。重症者の中には家族との別れも叶わずに、隔離されたまま死に至る人もいるかも知れません。

しかし全世界の人々が、この病の終息を祈っています。祈りは、人々を分け隔てている新しい病に立ち向かう力になります。今の困難の中で、私たちが一つになる力は、この世の知恵ではなく、心からの祈りなのではないでしょうか。見えない敵に、何もすることができないと思っているかも知れません。

そうではありません。人と人とを切り離している最大の試練に遭っていますが、イエスに祈ることは繋がりを取り戻す力、絆を確かめるかけがえのない方法です。今こそ、遠く離れている人、ふだん会えることが当たり前と思っている家族のために、祈ってあげてください。

イエス・キリストが分断から私たちを救い出す方です。イエス・キリストに祈ることが、人を分断から救い出し、絆を取り戻す力の源です。この機会に改めて、祈りの力を思い出し、祈る手に力を込めましょう。

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‥次の説教は‥‥
受難の主日(マタイ27:11-54)
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ちょっとひとやすみ
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▼ICレコーダーが壊れた。スライドして、隠れているUSBコネクタを引き出し、充電するタイプなのだが、あらゆるUSBタイプの充電を試したがICレコーダーを認識しない。機器として認識しないので、パソコンでのデータの取り込みもできなくなってしまった。
▼しかもそれが、黙想会の直前にやって来た。黙想会の説教を録音すれば、CDに焼くことで、あるいは音声データをネットに上げることで、黙想会に参加できない人のお役に立てる。このままでは本当に周縁にいる信者たちの手に届かなくなる。
▼ひとまず古いICレコーダーを引っ張り出した。この手の危機は新しいものがどんどん出る。新しい物好きの自分としては「何か口実を見つけて」新しい物を買いたい。古いものがまだ使えるのに今回の物を買った理由は、「古いものがいちばん良い音質では3時間しか録音できないから」だった。これを口実に、容量が2倍のものを買った。
▼たとえば司祭の黙想会は、3泊4日にわたる。これが一台のICレコーダーに入りきれないとなると、「①パソコンに録音データを避難させて空にする必要がある②録音データを避難させるノートパソコンを持っていく必要がある③重たい荷物を抱えていきたくない」こういう思いが頭をもたげる。当然買い換える口実になる。しかも前より安いと来た。
▼田平小教区の黙想会は、ひとまず古いICレコーダーで乗り切ったが、不安は解消されない。これが今回さらにICレコーダーを買う「もっともらしい口実」となった。中古で買ったがどこにも中古を思わせる様子はない。技術の革新はめざましく。古かったICレコーダーからすると今回購入したものは容量が4倍になり、容量2倍だった壊れた物よりも安かった。

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今週の1枚
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第660回目。真ん中が壊れたICレコーダー。左が購入した中古。容量は8GBある。

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四旬節第4主日(ヨハネ9:1-41)主よ、その方を信じたいのです

2020-03-21 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2020/3/22(No.1052)
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四旬節第4主日(ヨハネ9:1-41)
主よ、その方を信じたいのです
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「あなたは人の子を信じるか」(9・35)イエスが生まれつき目の不自由な人をいやし、投げかけた言葉です。目の前におられる方が探し求めている方ですが、まだ気づいていません。私たちもこのいやしを受けた人に自分を重ねて、与えられた福音朗読から糧を得ることにしましょう。

今日は皆さんにオヤジギャグではなくて真剣にお祈りをお願いしたいです。田平修道院のシスター久松カヲが、生死の境にあります。このお知らせも刻一刻と変化する中なので、もしかしたら違う報告をしなければならないかも知れません。この説教を書き終えた時点では、シスターは生死の境にあります。田平修道院の礎となってくださった姉妹ですから、ぜひ皆さんの祈りをお願いします。

もう一つのお知らせは、黙想会です。何とか、黙想会を開催できる運びとなりました。同じ日程で浦上教会は黙想会を中止する判断をしたそうです。それぞれの教会が抱えている「事情」がありますから一概には言えませんが、田平教会は黙想会を実施します。実際は、日曜日のミサに参加するよりも長い時間集団で一つの場所にいるのですから、最大限警戒しながら、無事に終えたいなと思っています。説教師の都合で中止になることもあり得たわけですから、ある意味、説教師を外に依頼していなくて良かったです。

福音朗読に戻りましょう。登場する「生まれつき目の不自由な人」は、復活したイエスがトマスとのやりとりで言われた「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20・29)ここで言う「見ないのに信じる人は幸いである」まさにそのままの人と言えるでしょう。

「期待を膨らませる」というのは、見ないほうが効果的なのかも知れません。イエスのいやしのわざで目の不自由な人は見えるようになったわけですが、期待が膨らむ過程ではイエスを見ていないのです。むしろ見ないほうが、思いが募り、さらに憧れが増すのかも知れません。

「見ていない」ということが幸いするケースを私たちは少なからず知っています。富士山は登山した人なら分かりますが、世界遺産と言いながら、実際にはたくさんのゴミが目に留まるのだそうです。「ベツレヘム」と聞けば、「イエス様が誕生した町だから、キリスト教が盛んだろう」と思うでしょう。

ですが実際にはベツレヘムは「パレスチナ自治政府」の土地であり、聖地巡礼なのにパスポートがなければ入ることができず、まれに入国することすらできないときもあります。ついでに言えば、ベツレヘムではユダヤ教の食事はあまり見ません。私たちが日常食べるバーベキューのような料理が出てきます。イエス様が生まれた当時の、ユダヤ教の土地ではないのです。これからベツレヘムに巡礼する人がもしいるなら、がっかりさせたかも知れません。

結局、見ないで信じるほうが、余計なことを考えずに受け入れやすいこともあります。そしていざ事実を見たときに、見ないで信じていたことが試されてきます。富士山が美しくないのであれば、見て信じられるような美しさを取り戻すために清掃活動の登山をすればよい。ベツレヘムの領有権争いに幻滅せず、イエスが誕生してくれたことを現実の向こうに見て、感謝すればよい。私たちは見ないで信じることが多いですが、仮に現実を見たとしても、本当に信じる人には何も妨げにはならないのです。

生まれつき目の不自由な人もそうでした。いやしの恵みを受け、イエスという方がファリサイ派の人々から罪人と決めつけられているのを知ります。自分自身もイエスを預言者と認めれば、会堂から追放されることが目に見えています。困難があるにもかかわらず、さらにイエスに近づきたいと思うようになったのです。

「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」(9・36)視力を回復してもらった人は、恐れを乗り越え、試練がイエスへの信仰を固めてくれました。このいやされた人は、わたしたちがより信仰を増してもらうためのお手本です。私たちも、恐れや試練を経て、イエスから信仰を増してもらえるのです。

神学校で生活していたとき、神学生みなが同じ気持ちで生活しているわけではないと気づいた瞬間がありました。神学校を隠れ蓑に、勝手な生活をしている学生もいました。嫌気が差して、私自身もやる気を失ったことがありました。

現実はそうですが、現実の向こうにあるものを希望させる出来事にもときどき触れることがありました。その一つは、今は司教様となった白浜司教様です。先輩は大神学校に進んでから身体を壊し、確か休学したと思います。休学中、浦上教会でお世話になっていたと思いますが、小神学校にも立ち寄ってくれました。

あんなに真面目な、聖人とまで言われていた人が挫折して、また復帰に向けて準備している。それは私にとって大きな励みになりました。現実はドロドロしていましたが、それでも「召命の道をもう少し信じてみよう」という気になり、歩み続けることになったのだと思います。

信仰生活に嫌気が差すときが誰しもあるかも知れません。その時こそ問い直すのです。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」悲しい思いをしても信じる甲斐がある方でしょうか。裏切られても、信じ続ける価値のある方でしょうか。イエスの答えはこうです。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」(9・37)イエスは、私たちがどん底にいても、寄り添って声をかけてくださる方です。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第5主日(ヨハネ11:1-45)
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ちょっとひとやすみ
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▼「あごひげ」の威力か?交通ルール上は自分がルール違反だったのに相手が謝ってきた。カローラを運転していて、三叉路で右折をしようとした。反対車線に入るので優先である直進車に十分注意しなければならない。運転中は春の日差しを避けようとサングラスをかけ、紺色のキャップを被っていた。
▼あいにく、私の隣には清掃車が左折のタイミングを待っていた。清掃車が左折したとき、私も右折で対向車線に入ろうとした。そこへ軽自動車が清掃車の影から出てきた。「あっ!」と思ってブレーキを踏む。相手も止まってくれて、事故は避けることができた。当然私の不注意なので、「申し訳ない」と思い、運転席から少し右手をあげた。
▼ところが軽自動車の運転手は顔がこわばり、幽霊を見たかのような怯えかたをして「申し訳ありません。許してください」というような身振りを示した。完全にこちらが迷惑をかけている側なのだが、軽自動車は恐る恐る通過していった。
▼ひょっとしたら、あおり運転の罰則強化に繋がった事件を起こした人物と、ひげ面の私が重なり、「触らぬ神にたたりなし」と思ったのだろうか。一度だけ、ひげが相手を威圧した場面だった。相手には申し訳ないことをしたと思っている。

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今週の1枚
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第659回目。いい加減ひげを剃るか。人と会わなくなるというのは怖いものだ。

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四旬節第3主日(ヨハネ4:5-42)あなたから永遠の命に至る水がわき出る

2020-03-14 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2020/3/15(No.1051)
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四旬節第3主日(ヨハネ4:5-42)
あなたから永遠の命に至る水がわき出る
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四旬節第3主日を、田平教会の聖堂ではなく、田平修道院のチャペルで迎えることとなりました。誰がこんなことになっていると想像できたでしょうか。想像を超える試練、それは人間によって与えられた試練ではなく、神様からの試練に違いありません。

3月12日、運転免許証の更新のために平戸警察署に行きました。典礼委員長の長男さんもそこには居ました。2月29日から、教会聖堂でのミサもないし、珍しくひげを伸ばしてみようと思って伸ばしたのですが、免許証の写真のことは考えていませんでした。できあがった免許証はご想像の通りのひげ写真でした。次の運転免許更新のときにはきれいさっぱりの写真で写りたいと思います。

今週の福音朗読箇所は、井戸で、サマリアの女性とイエスが「生きた水」について対話する場面が選ばれました。今、マスク・消毒液・トイレットペーパーなどが手に入りません。新型コロナウイルスの影響で必要だと感じているから探し求めているのですが、きっと影響が収まればすべてが余り物になり、街中に溢れることになると思います。

本当に必要だと思って探し回ったのに、混乱が収まるとなぜ「余り物」になるのでしょうか。それは「その時だけ必要な物」だからではないでしょうか。しかし、ヤコブの井戸でイエスがサマリアの女性に与えようとしていた「生きた水」は、「その時だけ必要な物」ではなく、「その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(4・14)のでした。

長崎教区で公式のミサが中止になって2週間が過ぎました。私たちは十分に、「渇き」を感じています。イエス・キリストをいただくことのできない「渇き」です。聖体拝領が奪われて、どれだけイエス・キリストに養われることが大切なのか、心の底から感じていると思います。

まずは、できることを続けてください。ミサには、「みことばの食卓」と「聖体の食卓」があります。「聖体の食卓」が奪われても、自宅で、「みことばの食卓」を用意することができます。「聖書と典礼」を使ったり、実際の聖書を使ったりして、神のことばが洗礼を受けた人すべてを養ってくださることをより深く体験する機会にしましょう。

せっかくなので、今週の福音朗読箇所から自宅でもできる「みことばの分かち合い」を紹介したいと思います。まず、朗読箇所を目で読み、次に声に出して読みます。目で読むときも、きっと自分の声が心の中で聞こえながら読んでいると思います。心の声に耳を傾けながら目で読みましょう。二回目の声に出して読むときは、家族がいるなら、家族の集まりの中で代表者が読みましょう。そして、家族みんなが朗読者の声に耳を傾けます。朗読している本人も、声に耳を傾けて読みます。

二回目に声に出して読んだあと、少し静かな時間を作りましょう。心に残った箇所があると思います。もう一度、心に残った箇所を目で読み返します。目に留まった箇所は、何かを呼びかけていると思います。語りかけてくる声をそのまま、みんなの前で分け合いましょう。家族の中には、心に残った箇所がほかにあるかも知れません。

それぞれ、違う箇所を分け合いましょう。分け合ったことが、朗読した物語をもっと身近に感じるきっかけにしてくれるかも知れません。心に残ったことばを、その日の中で何回か思い出し、温めましょう。これできっと、「みことばの食卓」から糧を得て、一日を神様のために、神様と共に過ごせるようになると思います。仕事をしながら一日過ごしても、学校に通いながら一日を過ごしても、「みことばの食卓」から養われた人は、一日を神様のために、神様と共に過ごす人なのです。

今回、中田神父が目で読み、声に出して心に残った箇所は、サマリアの女性が最後にイエスに言った言葉です。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」(4・25)

この女性のことばが私に訴えかけているのは、まず「キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています」つまり、誰を探し求めるべきかを知っているということです。彼女は自信を持って、自分がより頼む相手は「メシア、キリスト」であると知っているのです。

私たちは流行に飛びついたり、周りの人の話に流されたりすることがあります。この女性も、周りに流される生活をしていたかも知れない。五人の男性と生活したのですから、その時自分が頼れる人に飛びついたのでしょう。けれども本当により頼む相手はこれまでの男性ではなく、「メシア、キリスト」であると知っていたのです。今は生活を神様に感謝できていないけれども、神様に心から感謝し、礼拝できる日を必要としている女性なのだろう。そういうふうに思い巡らしました。

サマリアの女性の最後の言葉に私が惹かれた理由がもう一つあります。「その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます」と言っています。これは、メシアが一切のことを知らせてくれる日を、ずっと待っていたということでしょう。知りたいこと、ずっとモヤモヤしていることを、すべて明らかにしてくれる。そのメシアと出会える日を、いつどんなときも待ち続けていたのです。

私は、金曜日と土曜日は、次の説教のきっかけが見つからないかなぁとずっと思いながら過ごしています。金曜日には金曜日のすることがあります。それでも、「日曜日の説教の中心線が見つからないかなぁ」とずっと考えながら一日過ごしているのです。ですからサマリアの女性の気持ちはよく分かるのです。その、寝ても覚めても待ち望んでいることが、今、彼女の目の前にあるのです。

「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」(4・26)本当に欲しかったもの、その時だけ必要なものではなく、「その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」神のことばが今、与えられました。聖体の食卓から遠くなっている今こそ、「神のことばは生きていて力がある」この体験を積みましょう。そして、今日聞いたことを持ち帰り、知らせることにしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼ここまで新型コロナウィルスの影響を受けるとは思わなかった。期間が長く、範囲も広い。まだ予防法や封じ込め政策が行き届いていない時代ならまだしも、この最先端技術が浸透している時代に、こんなに長引くのが驚きだ。
▼ミサに会衆が参加しない中で、自身の司祭生活に役に立っていることもある。長崎教区の信徒は祈祷書のミサの頁を開くと「奉献文」という部分があって、その中に「第二奉献文」「第三奉献文」というのが見えると思う。
▼ちょっと考えれば分かることだが、「第二奉献文」というのがあるのであれば、「第一奉献文」が当然あるはずである。その通り、祈祷書には印刷されていないが、第一奉献文が存在する。また、第四奉献文というものもある。
▼平日、誰もいない司祭館の応接間で、「第一奉献文」「第四奉献文」を遣ってミサをささげている。第一奉献文から第四奉献文まで、興味がある人はホームページ「話の森」(http://ss104313.stars.ne.jp/index.html)の「カノン(表)」と「カノン(裏)」を開いてほしい。
▼叙階されて28年目に入ろうとしているが、お恥ずかしい話、「第一奉献文」はこれまで一度も使用してミサをささげたことがなかった。第三奉献文はいくらか一般信徒ともささげたことがある(特に大祝日・司教様主司式のミサ)。かろうじて第四奉献文は、過去に赴任した「馬込小教区」の「大明寺教会」でだけ、ささげたことがあるに過ぎない。
▼2週間目に、ようやく気づいた。「ここで第一奉献文、第四奉献文を唱えなかったら、生涯唱えずに人生を終えるかも知れない!」公式のミサが中止となる中、どれだけの司祭が同じことに目が向くだろうか。

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今週の1枚
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第658回目。祈りの生活がすべての奉献生活者がミサを奪われるのはかわいそう。

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四旬節第2主日(マタイ17:1-9)「聖書と典礼」を紙ゴミにしてはいけない

2020-03-07 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
四旬節第2主日(マタイ17:1-9)
「聖書と典礼」を紙ゴミにしてはいけない
‥‥‥†‥‥‥‥

二回目の、公式のミサ中止の日曜日を迎えました。四旬節第二主日ですが、第二朗読を引用して説教を始めたいと思います。「神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。」(二テモテ1・8b)パウロが、テモテに宛てた手紙です。テモテに呼びかけられたこの言葉を、私たちはイエスから私たちに呼びかけられた言葉として受け取りたいのです。「神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。」

教会役員からこんな声をかけられました。「信者のいないミサ、寂しかですね。早く元に戻るといいですね。」本心からこう言ってくれたのだと思います。その役員自身もミサにあずかることができず、辛いのでしょう。けれどもこの世の中に意味の無い苦しみは無いはずです。苦しみはイエスも常に体験され、苦しみの先に復活の栄光があったのです。

福音朗読は、イエスの姿が変わる場面でした。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」(17・2)イエスの輝く姿を見て、息も止まりそうになったでしょう。人はどうしても、目のくらむような場面を近くにとどめておきたくなって、仮小屋を建てましょうと提案してしまいました。これはどんな人にも起こりうる誘惑だと思います。

自分の意見が皆を納得させた時、「私なら、これからもこの集まりをまとめていける」ついそんな考えを起こし、立場を越えてしまいたくなります。何かを進言した時それが方向を決めるほど影響を与えたのを見て、私は影響力があるのだとうぬぼれてしまうこともあります。ペトロもこの場を取り仕切っているのは自分だとつい考えてしまったのです。

イエスの姿が変わり、ペトロが場面を仕切っていると思いかけた時、雲の中から声が聞こえました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(17・5)厳しい叱責ではありませんが、この場面を取り仕切っているのはあくまでもイエスなのだから、イエスに耳を傾けなさい。そういう声だったのです。

私たち今の時代の人間も、出来事を取り仕切っているのは自分たちだと思い違いをする危険はいくらでもあります。2月29日から3月14日まで、長崎教区も公式のミサが中止になりました。大司教様が教区顧問の皆さんと話し合って通達を出したわけですが、このたびの試練、困難を与えたのは大司教様の通達ではなくて、神様だと思うのです。

人が用意した試練を乗り越えるのは人の努力ですが、神様が与えた試練を乗り越えるには、神の助けが必要なのです。第二朗読で読まれたとおりです。「神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。」病人訪問をする中で元教師であった方が「戦争中もミサが途絶えたことはありませんでしたのに、このようにミサが中止されるのは90年以上生きて、生まれて初めてのことです」と仰っていました。この試練を、「神の力に支えられて乗り越える」という体験を積む貴重な機会にしなければなりません。自分たちの力で乗り越えようとする誘惑を斥けなければなりません。

もう何十年も前から、日曜日のミサのために「聖書と典礼」という冊子が用いられています。私は役員にお願いして、先週と今週の「聖書と典礼」を各家庭に配って欲しいとお願いしました。もし何もしなければ、一部30円くらいする冊子が300枚無駄になることになります。それだけでも損失ですが、同じことが浦上教会、滑石教会、飽の浦教会、紐差教会、ひいては全国の教会で使われることなく廃棄されたらどれだけの損失になるでしょうか。決して「聖書と典礼」を紙ゴミにしてはならないと思うのです。

幸いにと言いましょうか、聖書と典礼を無駄にしてはいけないという思いは、誰から聞いたわけでもありませんでした。自分で思い付いたというわけでもありませんでした。これこそ、雲に覆われたように混乱した 私の頭の中で、「四旬節の第一と第二主日の聖書と典礼をどうにかして活用しなさい」という神様の呼びかける声があったのだと思います。

神様が用意した試練は、乗り越える力も神様から来ます。私たちはそのことを忘れて自分の力に頼ってはいけないのです。今回の試練が人間によるものでなく、神様からの試練であれば、試練を意味のある経験にするために、そばにいて助けてくださる神様の力を信じなければなりません。そうでないと人間の力や知恵で乗り切ったと勘違いし、得られるはずの経験や知恵を得られないで終わるかも知れません。

「聖書と典礼」を紙ゴミにしてはいけません。この二週間の試練を無駄にしてはいけません。与えられた試練を意味のあるものにするために、神の力と助けを願い、そこから与えられる取るべき態度を確実に実行して過ごしましょう。

四十日の誘惑を父なる神と共に乗り越えた神の子イエスは救いのわざを成し遂げて復活の栄光に入られました。今回の試練を共にいてくださる神様と乗り越えるなら、私たちも神からの誉を受けるに違いありません。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
四旬節第3主日(ヨハネ4:5-42)
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ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼公式のミサが中止になって、説教で述べたとおり人間の力に頼らず神の力に頼って乗り越え、糧にするのはもちろんだが、「ちょっとひとやすみ」ではこの機会にしか経験しないことを分かち合いたい。
▼平日のミサを、香部屋から略式祭服とホスチア、ぶどう酒を持ち込んで司祭館応接間でささげている。興味がある方は3月2日のミサを二分割でYouTubeにアップしたので「ひとりぼっちミサ(前半)https://youtu.be/2SGGHSJfDio」で視聴してみると良い。
▼誰一人返事のないミサ。本当にこれで良いのかと疑ってしまう。けれども公式のミサができない以上、一人で私的なミサをささげるしかない。引退したYY神父様はどんな思いで日々自宅でのミサをしておられるのだろうか。一緒にミサをしてみるまたとない機会とチラッと思ったが、私が何かを神父様に移して体調を崩させたりしても申し訳ないのでやめる。
▼来る日も来る日も、一人でミサ。意識は参加できるはずの人々を思い描いてささげている。それでも気分は晴れず、気分転換にと生向(いけむこ)漁港からボートで出船。気分が乗らないせいか、魚も針に乗らず。気分転換もうまくいかず落ち込んでいるところにいつの間にやって来たのか「平戸市海上保安署」の巡視艇が接近してきた!
▼私の4人乗りボートと比べると10倍くらい大きな船だが、音もなく近づいてきてスピーカーで「こんにちは。こちらは平戸市海上保安署です」と呼びかけてくる。生まれて初めてのことでギョギョッとした。特に不審な行動をしていたわけでもないのでこちらが動揺する必要も無い。聞かれたことに素直に返事をしよう。覚悟を決めた。
▼「釣れてますか?」はぁ?そんなことを聞くために接近してきたのか!「ここは通行船が多い海域ですから、見張りがおろそかにならないように注意をお願いします。」私が両腕で大きな○(まる)をして見せたら、巡視船は去って行った。おどかすのもいい加減にせえや。
▼朝、外が明るくなり始めて目覚ましもかけず自然に目が覚めてから顔を洗ってミサをしている。強制的に早起きをしないことだけが、公式のミサが中止になって感じる喜ばしい出来事だ。この前、初めて「鶏もも肉の照り焼き」を作った。火が通ってないのではと心配してもう一度皮を焼いたら皮が焦げてしまった。自炊生活、「焦げんこと」になるとは(笑)

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今週の1枚
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第657回目。ミサのセット。このくらいの量だから、持ち出して「出張ミサ」も。

ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
コメント
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