こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第7主日(マルコ2:1-12)イエスとはっきり出会う場面に気づいていますか

2009-02-22 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/02/22(No.402)
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年間第7主日
(マルコ2:1-12)
イエスとはっきり出会う場面に気づいていますか
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わたしたちが自分の信仰に期待していることは何でしょうか。おそらく、「あー、カトリック信者でよかったなぁ」という瞬間をいちばん期待しているのだと思います。そして「カトリック信者でよかったなぁ」という体験は、おのずと「イエスと出会えてよかった」という喜びに目を開かせてくれます。では、「カトリック信者でよかったなぁ」という瞬間はどんな時にやって来るのでしょう。

すぐ分かるたとえは、よその教会のミサに参加したり、聖地巡礼に行って、あーこの信仰でよかったなぁと思います。あなたは日曜日に、旅行に出かけました。心がけがあるなら、「近くの教会はどこかなぁ。日曜日のミサは何時かなぁ」と考えることでしょう。

そして実際に教会に行くと、いつも自分が故郷の教会でミサに参加している時のように同じミサにあずかり、ちゃんと日曜日の務めを果たすことができます。そんな時、「あーカトリック信者でよかったなぁ」と感じるかも知れません。

皆さんがもしも聖地巡礼に行くなら、もっとカトリック信者でよかったなぁと感じることでしょう。聖ペトロ大聖堂とか、聖墳墓教会とか、ルルドなど、世界各地の有名な大聖堂で、日本にいる時と同じようにミサにあずかって聖体拝領をすることができるわけです。サンキューすら言えなくても、ローマで、エルサレムで、ちゃんとミサにあずかれるというのは、カトリック信者であることの恩典だと思います。

福音朗読に入りましょう。イエスは中風で苦しんでいる人に、「子よ、あなたの罪は赦される」(2・5)と声を掛けました。もちろん別の言い方で声を掛けることもできました。例えば、「子よ、あなたの病気は今取り除かれる」そんな声掛けです。ところがイエスが最初に掛けた声は、「子よ、あなたの罪は赦される」というものでした。

ちょっとしたことのようですが、違いがあると思います。当時は、「わたしが病気を治してあげましょう」と声を掛ける医者はたくさんいたのだと思います。例を挙げると、マルコ5章で登場する12年間出血が止まらずにいた女性は、「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」(5・26)とされています。お金目当てで、病気を治せない医者はたくさんいたわけです。

イエスが最初に、「子よ、あなたの病気は今取り除かれる」と声を掛けていたら、中風を患っている人はどう思ったでしょうか。またこの人も、金目当ての医者なのだろうか。そんな疑いを持ったかも知れません。病気を治すことだけであれば、イエスと中風の人とは単なる医者と患者の関わりしか生じないからです。

イエスはまず、「子よ、あなたの罪は赦される」と声を掛けました。律法学者たちがみごとに言い当てています。「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」(2・7)ここでイエスは中風の人と、まず神と人との関わりを築き上げたいと願っていたのです。

人々の前に引っ張り出され、恥ずかしい思いをして横たえられている病人に、イエスはご自分が罪に痛めつけられ、苦しんでいる人を癒す神なのだということを、何よりもまず示そうとされたのです。あなたは今、神の子・救い主と出会っているのですよということを、中風の人に伝えたかったのです。

大勢の人が集まる前で、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と声を掛けることにはもう一つの狙いがあるかも知れません。それは、そこにいる人すべてに、「あなたも今、神の子・救い主と出会っているのです」ということを伝える狙いです。

「イエスと出会えてよかった」その喜びは、神おひとりにしかにしかできないわざに触れることから生まれるものです。病気を治してもらうことは、きっかけにはなるかも知れません。けれども本質的には、イエスにしかできないわざ、罪の赦しや死と復活の出来事を通して、「イエスに出会えてよかった」と感じるようになるのです。

説教の始めに戻りましょう。日曜日のミサにあずかる時、「わたしたちはカトリック信者でよかった」と感じます。その時、「わたしは今、イエスに出会っている」または「イエスに出会えてよかった」という気持ちになっているでしょうか。それとも、ミサにあずかりながら、「カトリック信者でよかった」とは思っても、「いったいいつ、ミサのどの場面でイエスに出会っているのだろう」と考えているのでしょうか。

「ミサにあずかって、『カトリック信者でよかった』とは思うけれども、イエスに会っている実感は少しもない。それどころか、これまで何十年とミサにあずかってきたけれども、イエスに出会ったことはない」とここまできっぱり言い切る人がいるかも知れません。そう感じている人がいるなら、もしかしたらその人は、自分で言う通り、一度もイエスに出会ったことがないのかも知れません。

念のため、わたしが考えるイエスとの出会いのチャンスを示しておきたいと思います。「あなたの罪は赦された」という言葉を実感できるなら、その時わたしたちはイエスと出会っているはずです。罪の赦しは、神おひとりにしかできないことだからです。

ところで、ミサの中で司祭は、「全能の神がわたしたちをあわれみ、罪を赦し、永遠の命に導いてくださいますように」と言っています。そしてその通りに罪が赦されるとわたしたちは信じ、「アーメン」と答えているはずです。そうであれば、わたしたちはその瞬間に、イエスと出会っているのです。

また、ミサの中で「主よ、あわれみたまえ」「キリスト、あわれみたまえ」と繰り返しますが、この場面でもイエスはわたしたちにあわれみを示すためにそこにおられるはずです。ほかにも、「神の小羊、世の罪を除きたもう主よ、われらをあわれみたまえ」と唱えます。これは単なる気休めでしょうか。たしかにあわれみをかけてくださると信じて唱えているはずです。ここにも、イエスとのたしかな出会いを感じるチャンスがあります。神の子、イエス・キリストにしかできないことに立ち会っているからです。

そして何よりも、パンとぶどう酒のうちにイエスがとどまって、わたしたちの食べ物となってくださる聖体祭儀の場面には、これ以上ない形でイエスが現存してくださっています。死んで、復活し、わたしたちを救ってくださるのは、神の子、イエス・キリストしかなし得ないわざだからです。

これらを重ね合わせると、十分わたしたちは、「イエスと出会っているんだ」「イエスと出会えて幸せだ」この喜びに導かれることができるはずです。ミサにあずかる中で「カトリック信者でよかった」と思っている。それはもっと深く掘り下げると、「イエスに出会えてよかった」と実感できるまたとないチャンスなのです。

わたしたちは、ミサという大きな恵みの場をカトリック信者として与えられています。カトリック信者でよかったと、素直に思える場だと思います。ぜひそこから、「自分はここでイエスと出会えているんだ」この実感にも導かれてほしいものだと思います。「カトリック信者でよかった」その喜びは、「イエスと出会えてよかった」という体験につながってこそ本物になるのです。


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ちょっとひとやすみ
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▼誕生日が近くなり(3月12日。早すぎ~)、考えることは「自分でゆるしがたい行動を取っているのがゆるせない」ということだ。歯磨きをし始めて、すすぎをしに行こうと思って向かった先がトイレだった。トイレの便器に「ペッペッ」と吐き、そこで気がついた。「歯磨きのうがいなのに、どうしてトイレに来たの?ゆるせない。」
▼テレビのニュースで、佐世保市でのこの時期の行事「愛宕市(あたごいち)」について報道を見た。その時わたしは「愛宕市」を、「あたごし」と読んでしまった。食事に同席している賄いさんに、「『あたごし』と読んじゃったよ」と話すと、「ほーら、人に読み違えたとか、探し物は置いた場所にあるはずとか、言えなくなってきましたよ」と言われてしまった。佐世保市のニュースなのに「あたごし」と読むことが自分としては「ゆるせない。」
▼ほかにも、朝からレンジで温めた牛乳を飲まずに、次の日の朝に牛乳を温めようとレンジを開けたら、そこに昨日の牛乳が置いたままにしてあるとか、昨日たしかに風呂に入ろうとしてお湯をためたのにためたのを忘れて入らなかったとか、メガネを外したほうがよく見えるとか、だんだん自分で自分がゆるせないことが増えてきた。
▼自分が自分でなくなるような感じと言えば、まだまだそんな症状とは言えないのかも知れない。けれどもこれまで自分に課してきた要求に自分自身が答えられなくなってきているのは本当に情けなく、悲しい。ほかの人はこんな時期をどう自分と付き合っていくのだろうか。そんな時期が幸いにやってこない人もいるのだろうか。
▼水曜日には四旬節が始まる。その開始の日である灰の水曜日には、習慣として昨年の受難の主日に皆が受け取ったしゅろの枝を灰にして、灰を頭に受ける式が行われる。「ちりから取られた人間は、ちりにもどる」神との絆がなければ、無に帰してしまうはかない存在であることをここで思い巡らすためである。
▼この日は断食の務めの日。成人信徒は、一日のうち一食を半分に減らす。だいたい三食とも減らすことが多いが、伊王島は高齢者の島。断食の務めは満18歳以上満59歳までとなっている。ほとんどの人が当てはまらない。そんな中でわたしが断食しなければならないということに腹が立つ。半分冗談で、半分本気。
▼そうそう。先週脚立から落下しましたが、ちゃんとこの通り(?)ピンピンしています。それから、高校を受験するカトリック中学生が1人いて、工業高校を受験するそうです。「合格できたら、目の前で逆立ちしてあげる」とつい言ってしまいました。どうしよう。

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新企画今週の1枚
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第9回目。土曜日午前10時、長崎本土に向かう船。今日は特ににぎやかです。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第1主日
(マルコ1:12-15)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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年間第6主日(マルコ1:40-45)イエスに刻まれた深い憐れみを生きる

2009-02-15 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/02/15(No.401)
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年間第6主日
(マルコ1:40-45)
イエスに刻まれた深い憐れみを生きる
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土曜日の「聖パウロの手紙を学ぶ会」は、順調に人数が集まっています。昨日の2月14日は、馬込教会も、大明寺教会も、30人くらい来ていました。みんなチョコレートを持っているかなと思ったら、チョコレートを持っていたのは1人だけでした。

わたしはその日、まず馬込教会の部に参加して、後半は車で移動して大明寺教会に参加しました。途中で、古い司祭館の写真と比較した新しい司祭館の写真が撮影したくなって、「聖パウロの手紙を学ぶ会」の途中で司祭館裏の壁に脚立を掛けて司祭館のテレビのアンテナのある場所によじ登ろうとしたのです。

すると、わたしの体重を支えきれなかったのでしょう。脚立が地面と接している根本から滑りまして、大きな音を立てて倒れました。わたしは脚立に乗ったまま2メートルちょっとのところから滑り落ちまして、軽い打撲の被害を受けました。根本から滑るとは予想してなかったものですから、滑り落ちる間何もできず、死ぬ思いをしました。

昨日の恐ろしい体験をして思ったのですが、人間何が恐ろしいかと言ったら、心の中に刻まれた恐怖がいちばん恐ろしいのではないかなぁ、ということです。怖い映画を観ても、その瞬間は怖いと思いますが、明日になれば忘れてしまいます。

たいていの恐怖は表面的なものですが、幼い頃水が怖くなったり高い場所が怖くなったりした経験は一生消えないものです。内面、つまり心の中に刻まれた恐怖は、いつまでたってもぬぐい去ることはできないのではないでしょうか。

九州のとある県は、転んでもただでは起きないのだそうですが、わたしもせっかくあんな怖い思いをしたので、何か説教に生かせないかなぁと思いました。そして、もしかしたらつながるかもなぁと思う部分を見つけました。

今週の福音朗読でイエスは重い皮膚病を患っている人をいやしてくださいます。この病を得ている人はイエスに、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(1・40)と願い出ました。イエスへの信仰を持って、自分を救ってくれるように願ったのだと言えます。

それに対してイエスは、その病人を深く憐れみ、病をいやしてくださいました。わたしはこの時、イエスは重い皮膚病の人に、2つの面でその人の内面に深く入り込み、イエスの存在を刻み込んだのではないかと思ったのです。1つは、病をすっかり取り除くということ、もう1つは、深い憐れみを掛けてくださるということです。

2つのイエスの姿が、重い皮膚病の人の心に刻まれたのですが、いやされた後、この人は意外な反応を取りました。イエスは確かに、「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」(1・44)と念を押したはずなのですが、「彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。」(1・45)となっています。

口外しないように、人に言いふらさないように念を押したはずですが、このいやされた人には伝わりませんでした。ということは、イエスがこの人の心に深く刻み込んだはずの2つの側面のうち、どちらかは心の奥底まで届いてなかったのかも知れません。

2つ示しましたが、自分をいやしてくれたのはイエスなのだ、イエスだけが、自分をいやしてくださるのだということは確かに届いたのだと思います。ただ、もう一方のイエスが示した深い憐れみ、この部分はもしかしたらこの人の心の奥底まで届いてなかったのかも知れません。

こんなに深い憐れみを示してくださったのに、だれにも話さないように口止めされた。きっとイエスは何かをお考えに違いない。そのことを理解できるように、イエスの命令を守って、だれにも、何も話さないようにしよう。わたしの心の中で、イエスの深い憐れみを思い巡らそう。こんな気持ちを保ってほしいとイエスは願っていたはずですが、残念ながらその思いはいやされた人の内面に深く刻まれることなく終わったのだと思います。

イエスの奇跡が、表面的にしか伝わってなかったかというと、そこまでは言えないだろうと思います。重い皮膚病の人は、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(1・40)と確かに申し述べたのですから。それでも、イエスの深い憐れみと一緒には、刻まれることはなかったようです。

どうしてこんな結果になったのか。わたし自身の昨日の体験から振り返ってみると、もし2メートルちょっとのところからずり落ちたことを、「あーあ、落ちちゃった」と受け止めていたら、恐怖はわたしの中に刻まれなかったと思うのです。つまり、出来事が確かに起こったとしても、それをどう受け止めるか、本人の心の持ち方次第ではがらっと変わってくるのではないでしょうか。

そうすると、いやされた人の心の中は動だったのか、もう一度考え直してみる必要があります。そう思って登場人物の気持ちになってみると、この人は奇跡を期待する堅い信仰は持っていたと思いますが、奇跡はイエスの深い憐れみの一つの現れなのだと、そこまでの理解にたどり着く信仰は持ち合わせてなかったのかも知れません。

仮に、奇跡の体験を絶対に口外しなかったとしましょう。口外せずに思い巡らしていたなら、イエスがいちばん伝えたかったのは、神の深い憐れみだったのだと気づいたかも知れません。奇跡はその1つだ。神の深い憐れみが、わたしにも、あなたにも、この世界のすべての人に今注がれているのだ。やっと分かった!と、そこでようやく飛び上がって喜ぶことになったに違いありません。

イエスの同じ呼びかけが、わたしたちにも向けられていると思います。今日の奇跡物語を通して、わたしたちにもイエスは何かを心に深く刻みつけようとしているのではないでしょうか。それは、奇跡の面でしょうか。わたしたちがこれまで考えてきたことからすると、むしろ神の深いあわれみをこそ、イエスは私たちの内面に刻みつけようとしているのではないでしょうか。

イエスは、どんな人にも、深い憐れみを示してくださる。示す方法は奇跡の形であったり力を奮い起こす励ましの言葉だったりいろいろですが、絶望しかけている時に、希望の持てない場面に、イエスは深い憐れみを示すことのできるお方なのだと、今日の出来事を通して教えようとしておられるのです。

もしも、わたしたちの心にイエスの深い憐れみが刻みつけられたなら、わたしたちはある意味でだれにも、何も話す必要はありません。ただイエスの深い憐れみに自分自身が洗い清められたことを、人々に証明すべきだと思います。

何かの方法で、イエスに深く刻まれた憐れみの心を、感謝すべきです。感謝の仕方は、あなたに任せられています。たとえばそれは、だれかを深く憐れむということかもしれません。イエスに刻まれたものをわたしはどのように感謝して生きていくか。この点が今週わたしたちに課せられた軛だと思います。


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ちょっとひとやすみ
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▼叙階式での出来事。叙階を受ける人は、呼び出し係の呼び出しを受けて大司教さまの前に出てくる。呼び出し係は、養成にたずさわる神学院の院長と決まっているのだが、もちろんその院長が叙階を受ける人を育てたとは限らない。だから面識がないかも知れない。
▼それでも、養成にたずさわる院長はこう言う。「この人が助祭(司祭)にふさわしい者であると判断されたことを証言いたします。」それは荘厳な場面である。ある意味、わたしに言わせればいちばん荘厳な場面かも知れない。いちばん大切な部分は別だとしても。
▼その呼び出しの時に事件が起きた。「助祭に叙階される人は前に進み出てください。○○○○さん。」ここで、名前を言い間違えたのだ。助祭に叙階される当人は困った顔をしていたが、「はい」と気持ちよく答えて大司教さまの前に立った。大司教さまは名前を間違わなかったので、助祭叙階の効力には何ら問題はないのだとそのとき思った。
▼どうやら間違って呼び出した院長はあとで大勢の同僚司祭から指摘を受けたようで、かなりしょげていた。けれども人柄なのか、ゆるされ、愛される姿はさすが司祭同士だなぁとしばし感激。わたしも微笑ましい間違いをゆるされてスタートラインに立ったことを思いだした。
▼わたしも、偶然だが司祭叙階式直後の祝賀会でハプニングが起こった。祝賀会会場、宴もたけなわの場面で当時の大司教さまが「皆さん、いちばん知りたがっていることをここで発表します。A神父さまは福江教会の助任司祭として働いてもらいます。B神父さまは三浦町教会の助任司祭として働いてもらいます。中田神父さまは、浦上教会の主任神父さまとして働いてもらいます。」
▼あとで聞いた話、会場がどっと沸いたらしい。わたしは緊張でそんなことが起こっていたとは知らず、浦上教会の主任神父さまにあいさつに行ったら迷惑そうな顔をされた。その理由を知ったのは、あとで祝賀会のビデオテープを親戚から受け取った時である。なるほど、これでは本物の主任神父さまは迷惑に違いない。
▼それでも愛され、受け入れられてスタートラインに着くことができた。長崎教区とはそこまで懐の深い、おおらかな教区なのである。

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新企画今週の1枚
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第8回目。司祭・助祭叙階式のワンシーンです。。

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‥次の説教は‥‥
年間第7主日
(マルコ2:1-12)
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年間第5主日(マルコ1:29-39)「隠れた祈り」をたやさないように

2009-02-08 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/02/08(No.400)
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年間第5主日
(マルコ1:29-39)
「隠れた祈り」をたやさないように
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昨日土曜日は高島教会の信者さんの葬儀ミサ、また大明寺教会の信者さんの通夜が入りました。高島教会の信者さんの通夜と葬儀は高島教会出身の神父さまが引き受けて下さり、わたしとしては本当に助かりました。

土曜日にこうした務めを果たすことになると、説教の準備は困難を極めます。何を話そうか、少しは考えがあるとしても実際に原稿を準備するのはほとんどが土曜日です。その土曜日に何かが重なると、当然時間が少なくなるわけです。

どうしても書き始めることができずに1時間2時間と時計が進むものですから、気持ちを切り替えようと思ってお風呂のお湯をため、ゆっくり浸かってみました。すると不思議なことに、昔五右衛門風呂に入っていた30年くらい前のことを思い出しました。

わたしにとっての五右衛門風呂の経験は2通りあります。1つは、実家での体験で、これは親子で入ったり兄弟で入ったりといった楽しい思い出なのですが、わたしにはもう1つの思い出があって、母方の祖父母の家に泊まった時の五右衛門風呂の経験です。ここでは、一定の時間入るための工夫として、祈りをさせられたのでした。わたしが当時唱えた祈りは、「天使祝詞」つまり「めでたしの祈り」です。

実際に「めでたしの祈り」を何遍唱えながら風呂に入らされたのかは思い出せないのですが、外では祖母が薪をくべながら、「聞こえるようにお祈りしなさい」と言っていたような気がします。幼い頃の記憶なので詳しいことは思い出せませんが、風呂に入りながらの祈りは相当堪えました。昨日はその当時の様子を懐かしく思い出しながら、「主の祈り」「聖母マリアへの祈り」などを唱えつつ風呂に浸かっておりました。

何でもない日常の出来事なのですが、昔の人はどんなことにも生活と信仰を結び付ける工夫があったなぁと感心します。特に母方の祖母は、わたしのいちばんの祈りの教師でした。

山を1つ越えて祖父母の家に行ったり、また実家に帰っていく時に、1歩1歩踏みしめながら「めでたし、せいちょう」と唱えて歩けば歩きながら祈りができると何度も聞かされました。

暗い夜道を、祈りながら歩くと、暗闇の怖さもなくなると信じて、真剣に祈って歩いたことがあります。また「めでたし」を3回とか5回とか唱え終わるまで五右衛門風呂に浸かっていなさいと言われれば、どんなに熱くてもがまんして「めでたし」を唱えていたものでした。

大学3年生になるまで祖母は生きていましたが、小学校しか行っていない祖母に、生活の中に祈りを練り込んで生きる知恵をさまざまもらったことを感謝しています。今でも祖母はわたしの心に、忙しい生活の中でどうやって貴重な時間を祈りに当てるか、話し掛けてくれている気がします。

さて朗読された福音書は、イエスがとても忙しく活動し、その中でも祈りを忘れない姿が描かれていました。昼間、イエスの一行はシモンとアンデレの家に行き、シモンのしゅうとめの熱を取り除いてあげました。その後も、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、多くの悪霊を追い出しています。それも、夕方、日が沈む頃までです。イエスの時代に伝記はなかったわけですから、そう考えるとイエスの活動は働ける時間のすべてを働き通した、フルタイム勤務の連続だったわけです。

それでも、どんなに時間を取られても、イエスは祈りの時間を犠牲にしなかったことが分かります。「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(1・35)

日が沈む時間まで、人々は病気にかかっている大勢の人を連れてきたのですから、あまりの忙しさに祈りの時間は見つけられないほどでした。弱いわたしたち人間は、そこまで忙しくなるとつい祈りの時間を犠牲にしてしまいがちです。ところがイエスは、祈りの時間を別に取り分けて、朝早くまだ暗いうちに、人里離れた所へ出て行き、そこで御父に祈っていたのです。

これは何を意味しているのでしょうか。いろいろ考えられると思いますが、まずは1人きりになって祈る時間の大切さを教えていると思います。だれにも気兼ねせず、1人になって、御父に今の自分のすべてを打ち明ける。そういった祈りを、イエスは朝早くまだ暗いうちに、捧げていたのではないでしょうか。

またイエスの祈りは、人里離れた場所で行われていたのですから、隠れたわざと言ってもよいでしょう。それはイエスが繰り返し言われた「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」(マタイ6・4)ということの実践です。

隠れたわざを考えるのにわたしがもっとも適していると思うのは、「氷山」の様子です。皆さんよくご存じのことですが、「氷山」はその塊のほとんどが海中にあって見えません。表に見えているのはたったの10分の1だけです。ゆっくり動く氷山を見て、だれも目に見える部分だけ考える人はいないわけです。残り10分の9が海中にあって、ゆっくり動いている。だから、氷山の動きはゆっくりであっても力強さを感じさせます。

このように、祈りはある意味で人間生活の「隠れたわざ」なのだと思います。人前で見せる祈りの時間を、多くの人はそれほど持っていないはずです。朝起きてから寝るまで、ほとんど仕事や人付き合いに忙殺され、振り回されている。そんな中で、人里離れた場所で祈るイエスの姿は、わたしたちに隠れた場所で祈ることを強く勧めているのではないでしょうか。

わたしは昨日、お風呂に入って祖母のことを懐かしく思い出しながら、わたしにとって隠れた場所、隠れた時間というのはこういう時間なのかなぁと思ったのでした。

皆さんにとっても、家族の生活、団体生活、近所づきあいをしている中で、それでもなお、「隠れた時間」「隠れた場所」がどこにあるのかを考えておくとよいと思います。どうしても祈れない時、わたしにとっての隠れた場所、隠れた時間があるなら、そこに行くことで少しは祈ることができるかも知れません。

隠れた場所、隠れた時間は、何も消極的な意味ではありません。人々には隠れていますが、神の前にはいちばん開かれた場所なのです。だれも入り込まない場所と時間だからこそ、神とだけ親しく話すまたとない機会となります。そんな場を確保しておくこと、確保する努力を惜しまないことが、今週わたしたちに問いかけられているのだと思います。

祈りが終わる頃、シモンとその仲間がイエスの後を追い、見つけると「みんなが捜しています」と声をかけました。また1日フルタイムの激務が始まります。それでも、イエスは1人きりで祈ったことが雄大に移動する氷山の「隠れた部分」となって、激務を支えます。わたしたちも、わたしを支えているのはわたしの力ではなくて、日常のちょっとした祈り、隠れた祈りが見えない神の支えとなっていることを忘れないようにしたいものです。

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ちょっとひとやすみ
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▼400号にふさわしい写真がないかと探していて、これがベストショットだと言えるものかどうかは分からないけれども、消防訓練の時のバケツリレーを選んでみた。消防訓練当日までに、長崎市南消防署の課長などと3回にわたって打ち合わせをしたわけだが、その中でバケツリレーの説明を聞いた時に何か照らしの光をもらった感じがした。
▼というのは、「バケツには3分の1程度、水を入れてリレーします。バケツにいっぱい水を入れたからといって、必ずしも効率が上がるわけではありません。皆が手際よく、次々にバケツの水を火元にかけ続けることが大事なのです。」そんなことを言っていたと思う。水の量は、参加しただれもがすばやく受け渡しができる量でなければならないわけだ。
▼わたしはこの説明を聞きながら、何か教えたり指導したり、あずけたり仕事を依頼したりする時に、だれにでも受け取りが可能で、皆が受け渡しができる量を考えていたのだろうかとふと考えさせられた。つい性急になり、負担になるほどの分量を背負わせてきたのではないだろうか。
▼「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11・30)わたしはこのみことばを聞きながらも、イエスがなぜ負いやすい軛を心がけたのか、軽い荷にとどめておられるのか、考えてなかったかも知れない。もちろんイエスが担ってくださる分があるので、負いやすく、軽いのだが、そうしたイエスの配慮は、わたしに任せられた任地での活動に、これまで活かされてきたのだろうか。
▼宣教活動も、協力して果たしていくことが重要になっている。バケツリレーのように、皆が効率よくてわたしできる単位をもっとよく研究すべきかも知れない。その工夫が、すべての人をイエスの働き人にする近道だと思えてきた。

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新企画今週の1枚
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第7回目。1月25日、馬込教会の消防訓練でのバケツリレーの様子。

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‥次の説教は‥‥
年間第6主日
(マルコ1:40-45)
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年間第4主日(マルコ1:21-28)わたしたちはいつ、毅然とした態度を取るのでしょうか

2009-02-01 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/02/01(No.399)
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年間第4主日
(マルコ1:21-28)
わたしたちはいつ、毅然とした態度を取るのでしょうか
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昨日始まった「聖パウロの手紙を学ぶ会」は、予想を大きく上回る参加者で、ひとまず安心しました。25人以上の参加は、正直、驚いています。大明寺教会も馬込教会も25人以上来ていました。大きい声では言えませんが、皆勤賞の人には大型聖書にサインをしてプレゼントしますって言いましたよね。この調子でずっと参加して、みんなが皆勤賞だったらわたしの財布は・・・と思ったりもしました。まあ、その日が来てないので、今からそんな心配はしないでおこうと思います。

また、直接「聖パウロの手紙を学ぶ会」に参加できなくても、聖パウロ年のこの機会に、家庭で新約聖書を読んでみるということも大変すばらしい取り組みです。ざっと数えると480頁のようですので、1日3頁ずつ読むと、6月29日の聖ペトロ聖パウロの祭日までには確実に読み終えることができると思います。それぞれ、目標を持って聖パウロ年を過ごしていきましょう。

さて今週の福音朗読は、イエスが会堂で汚れた霊に取りつかれた人に命令して、汚れた霊を追放するという場面でした。まず、イエスが「黙れ。この人から出て行け」と厳しい口調で命令する様子が目を引きます。イエスが「黙れ」というようなきつい言葉を使うのは、汚れた霊を追い出す今日の場面と、湖で嵐を沈める時に言う「黙れ、静まれ」(マルコ4・39)という場面だけです。

このイエスの態度には、汚れた霊が人間を支配することを決してゆるさないという毅然とした態度を読み取ることができます。わたしたちもある場面では厳しい態度、毅然とした態度を取ることがあるでしょう。

例えば子どもが自分のわがままを通そうとして親を困らせる時、それが決してゆるしてはいけない身勝手な態度だと感じたら、親は毅然とした態度で臨むと思います。それを見た子どもは、これは絶対にゆるされないことなのだなと感じるわけです。わたしも、信念を曲げたくない場面では毅然とした態度を取ります。それは相手にはっきり自分の意志を伝えるためです。

イエスによって追い出される汚れた霊は、人間の中に入り込んでこの世を支配しようと企んでいます。人間がこの世の支配者であれば、人間を支配すればこの世を支配できるからです。けれどもイエスは、その企みを決してゆるしませんでした。

人間は、神に心を開き、神の教えに耳を傾ける時、初めて人間らしく生きることができます。汚れた霊はそれを邪魔しようとしていたのです。ただ単に人間に入り込んだだけではなく、神に従うべき人間の本来の姿を混乱させようとしていたのです。

イエスはそれを決してゆるしません。だからこそ、「黙れ。この人から出て行け」と厳しい態度に出るのです。そうしなければ、悪霊はこの世界の支配をあきらめないからです。イエスの毅然とした態度は、悪霊の望みを完全に打ち砕き、あきらめさせるものでした。最後のあがきで取りついていた人にけいれんを起こさせますが、まったく無駄なことでした。

今日の出来事でわたしたちが学べることは何でしょうか。それは、「わたしたちも、イエスを信じる者として、毅然とした態度を取らなければならない」ということです。ではそれはいつしなければならないのでしょうか。

3つの場面を考えてみました。1つめは、公の場所です。2つめは、個人的な場所です。3つめは、自分の内面においてです。それぞれ、考えてみましょう。

イエスが汚れた霊に取りつかれた人と出会って、霊を追い払ったのはカファルナウムの会堂においてでした。会堂、それは大人のユダヤ人だれもが集う公の場所です。わたしたちにとってそれは、信徒会館であったり、日曜日に集まっている教会と考えてよいでしょう。または仕事先や、外出先でも構いません。

こんな場所で、毅然と、イエスを信じる者として振る舞います。イエスに反対する力に負けてはいけません。ここで毅然とした態度を取ることで、イエスの力を行き渡らせます。汚れた霊の支配に流されるのではなく、イエスの支配を行き渡らせるのです。

また、わたしたちの生活には個人的な場所があります。家庭であったり、自分一人になれる時間や場所です。個人的な時間は特に、自分の思い通りにしたいと思っているはずです。けれどもその思いが隙を生じさせ、イエスに反対する考えや思いを招き入れる危険につながります。

わたしたちはこうした誘惑に対して、毅然とした態度を取らなければなりません。個人的な時間、プライベートな場所で、自分が自分の支配者だと思ってしまうこと。それこそが、イエスに反対する勢力の思うつぼなのです。むしろ、個人的な時間にイエスの支配を行き渡らせるほうが、平和と自由を味わえると知りましょう。

最後に、わたしの心の中、内面を考えてみましょう。わたしの心の中での戦いは、公の場でも、個人的な場所でも生じることがあります。だれにも見られることのない場所ですが、自分だけは、わたしの心の中を何が支配しているかを知っています。そしてその状態を、他人に対して偽ることもできます。

例えば、心の中に争いや怒り、ねたみや傲慢を抱えているとしましょう。それはまさに、汚れた霊に支配されている状態です。それなのに、人に対しては親切にしたり、忍耐強くいることもできます。心の中はイエスに反対する思いでいっぱいなのに、まるで落ち着きを保ち、平和であるかのように振る舞うこともあります。

そんな時、わたしは自分の心と向き合って、はっきり言わなければなりません。「黙れ。出て行け」。わたしの中に不満や怒り、いらだちが満ちているなら、そのような感情に自分を支配させてはなりません。本当の平和を保ち、柔和で落ち着いた心でいられるために、わたしはイエスの支配を待ち望む必要があるのです。

まとめると、わたしは今日イエスが汚れた霊を追い出したように、自分の生活のあらゆる場面でイエスに反対する力を追い出す必要があるということです。どこかで、「これくらいはいいだろう」とか「これはイエスに逆らっているとまでは言えないから」と妥協すると、いつの間にかわたしの生活にイエスの支配でないものが入り込み、問題を起こすことになります。

そうではなく、いつでも「黙れ、出て行け」と、毅然とした態度でいたいものです。この毅然とした態度が、周りの人と社会にイエスの支配を、神の国の完成を広げていきます。イエスが発した「黙れ。この人から出て行け」を、わたしたちも今の時代に受け継いで生きていきましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼パソコンに文章を取り込み、それを大量に読みこなす時、スキャナーと文字認識ソフトは強力な武器である。文字認識ソフトとして私は「読んde!!ココ」というソフトを使っている。かつてはもっと高額なソフトを使っていたが、高いくせに認識精度が恐ろしく悪くて、使い物にならなかった。現在使っているソフトは、満足できるレベルである。
▼満足できるとは言ったが、当然完璧ではない。誤って認識して、文字変換していることがある。例を挙げると、「活」を「括」としたり、「間」を「問」と誤変換するなどはしょっちゅう起こっている。その中で、機械にそこまで要求するのは酷なのだが、こちらとしてはものすごくストレスになる誤変換がある。それは、「カ」と「力」あるいは、「つ」と「っ」である。
▼「カ」と「力」。もしかしたら、まったく同じかも知れない。けれども、先の文字はカタカナの「カ」であり、後の文字は漢字の「力」である。もし、パソコンが同じ文字を使用していて、違わないというのであればハゲ頭をここで下げてお詫びする。だが、実際に文章をパソコン画面で読んでいると、どうも違うような気がして、その度に読む速度が落ちてしまう。非常に腹立たしい。
▼「活」を「括」と誤変換しているのは、私に言わせればかわいいなぁというレベルである。だが、「カ」と「力」をいちいち確認するのはものすごくストレスになる。間違っているのではないか、いや、間違ってないような気もする、いったいどっちだ?そうやって読むスピードがどんどん落ちていく。
▼皆さんにはどう見えているだろうか。「カナリヤ」「力ナリヤ」。同じに見えているだろうか。意識して書き換えた私には明らかに違って見えるが、それを横に置いたとしても、違っているように見えるのだが。「同じですよぉ」とおっしゃる方は、私にご一報ください。
▼いよいよ、小教区の2つの教会で「聖パウロの手紙を学ぶ会」が始まった。細かいことは、ここでは省略するが、毎週土曜日、10時から「聖書CD」を流しながら聖パウロの手紙の通読に参加する。参加者は大型の新約聖書を手元で開き、聖書CDの朗読に合わせて聖パウロの手紙を読み進めていく。これから半年間、雨の日も風の日も、ずっとずっと続けていく。
▼ちなみに、皆勤賞の人には、大型聖書にサインを入れて、記念にプレゼントしようと考えている。果たして参加者はどれくらいか。もし、予想をはるかに超える参加者が皆勤賞を達成したら、記念品を用意する資金はどうやって工面したらよいだろうか?いやいや、取らぬ狸の皮算用。最初から余計な心配はしないことにしよう。

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新企画今週の1枚
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第6回目。いよいよ、「聖パウロの手紙を学ぶ会」がはじまります。1人でもできます。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第5主日
(マルコ1:29-39)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
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