こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

三位一体の主日(マタイ28:16-20)疑いを乗り越えて全面的な信仰へ

2018-05-26 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/5/27(No.946)
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三位一体の主日(マタイ28:16-20)疑いを乗り越えて全面的な信仰へ
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三位一体の主日を迎えました。三年かけて、三位一体の主日を学ぼうと昨年話しました。今年はその二年目です。今年は「子なる神」について考えてみたいと思います。

先週からナイターソフトが始まりました。開幕試合で、誰もがなしえないであろう記録を打ち立てました。四打席連続、空振り三振です。山投げのソフトボールの試合で、全打席空振り三振です。これはどんな選手にもなしえないことだと思います。

その日の夜、腰をさすりながら風呂に入って、山投げのボールにかすりもしなかった自分の打席を振り返っていました。自分では「今がスイングするタイミングだ」と思ってバットを振ったのですが、全て空を切りました。四打席で10回スイングしましたが、1回もボールにバットが当たりませんでした。

私は運動神経はないので、なぜ当たらなかったのかの説明が、理解できません。チームメイトからは「ボールを見てないからだ、目線を早く見切りすぎだ」と言われました。言葉の意味は分かりますが、理解できないのです。

魚釣りでも同じ体験をしました。説明を受けたのですが、理解できず、丸一日棒に振った日がありました。ただ、ある日魚が釣れて、「あー、なるほどね」と理解できたのです。ですから、ナイターソフトでも、だれに説明されても理解できないのですから、私が自分でボールをバットに当てて、「あー、なるほどね」と理解するまで待ってほしいと思います。早速次の試合で「あー、なるほど」となるかもしれないので、どうか使ってください。

三位一体の神秘を考えるのに、光の三原色がふさわしいのではないかと考えました。光の三原色とは、赤と緑と青の三色です。この三色の交ぜ具合で、たとえばテレビはすべての色を表現できるのです。ちなみに三色が一体となって、「白」が表現されています。

この光の三原色になぞらえると、赤は「聖霊」、緑は「御子」、青は「御父」となるかもしれません。炎のような形で表わされる聖霊、緑の大地に人となっておいでくださった御子、蒼天におられる私たちの御父。うまく当てはまるような気がします。

光の三原色は、重なると「白」になるのが特徴です。イエスは山上で、「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」(マルコ9・3)となっています。ここには、御父・御子・聖霊の三位一体の働きがあって、真っ白に輝いたのではないでしょうか。この世の職人ではできないほどの白さなのですから、そこに三位一体の神の働きを見ることで、出来事は可能になったのだと思います。

福音記者はいつも、御子イエスの働きに三位一体の神の姿を見ようとしていました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」(28・18)天は御父です。地は御子です。天と地を結ぶ絆は聖霊です。マタイ福音記者は、復活したイエスの言葉の中に、見ようとしていたのでしょう。イエスは洗礼を授けなさいと弟子たちに言い渡すにあたって、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」(28・19)るようにと言われました。私たちが復活したイエスを知ろうと努力すれば、三位一体の神についてよりよく知るようになるのです。

一つ、引っかかることがあります。弟子たちがイエスの指示しておられた山で復活したイエスと出会っている場面です。「イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」(28・16)もし私が福音記者でその場面を書き残すとしたら、「疑う者もいた」という書き加えはしないと思います。

なぜわざわざ、弟子たちの中に疑う者がいたと書くのでしょうか。仮にいたとしても、彼ら弟子たちの名誉を守るために、書かないほうが良かったのではないでしょうか。ここだけ一つ解決して終わりたいと思います。

「疑う者もいた」とありますが、誰が疑っているのか、何を疑っているのか、いっさい書かれていません。そこで考えました。マタイ福音記者は、誰かを非難したり責めようというのではなく、「疑いを乗り越えて信仰が成長することもある」そのことを教えるための書き加えなのではないでしょうか。

最近私はよく忘れ物をしますが、どうしても見つからないとき、すべての思い込みを疑ってみます。「ここには置いていないだろう」すべてを疑ってみて、思いがけない所、考えられない場所に忘れ物があったりするからです。

疑ってみて、乗り越えることのできるものもあります。信仰も、なぜ自分がその教えを受け入れられないのか、なぜ教会が教える信仰箇条に抵抗があるのか、自分自身の思い込みを疑ってみて、ようやく信じることができるようになるのではないでしょうか。

三位一体の神は私たちに疑いを乗り越えるように招いています。私たちは三位一体の神秘を理解できるから信じているのではありません。疑ってみて、疑いを乗り越えて、その先に信じることができる人もいるはずです。父と子と聖霊の唯一の神に、全面的に信頼を置き、手放しで称える人になれるように、恵みを願いましょう。


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‥次の説教は‥‥
キリストの聖体
(マルコ4:12-16,22-26)
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ちょっとひとやすみ
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▼献堂百周年記念事業には、たくさんの方から寄付をいただいた。感謝したい。事業全体でも大きなお金が動いたが、多くの善意ある方々の寄付は、私たちの計画を力強く後押ししてくれた。私たちを信頼して、支援してくれたことを、私たちは忘れてはならない。
▼教会信徒の一人から、「百周年が終わるまで、近寄りがたい雰囲気でしたが、百周年が終わって、いつもの柔和な顔になりましたね」と言われた。たしかに、事業を終えて肩の荷が下りたのか、鏡を見るたびに表情が和らいだと思う。見ている人が必ずいる。ありがたいことだ。
▼記念誌は、百周年当日の写真を含めて作成することが決まった。この記念誌が完成すれば、百周年事業は完了となる。そのタイミングで、慰労会・懇親会を持ちたい。いろんな感想を聞きたいし、上に立つ者にはなかなか届かない声も、役員各位が拾ってくれたらと思う。
▼大きなことを成し遂げた。これは自分にご褒美をあげてよいだろう。最近はバレンタインチョコレートさえ自分にあげるらしい。私のご褒美は決まり切っている。試合観戦で心も体も解放させたい。

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今週の1枚
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第553回目。献堂百周年ミサの後、聖堂内で集合写真を撮影。後日。

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聖霊降臨の主日(ヨハネ15:26-27;16:12-15)聖霊は受けた恵みをより深く悟らせる

2018-05-19 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/5/20(No.945)
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聖霊降臨の主日
(ヨハネ15:26-27;16:12-15)
聖霊は受けた恵みをより深く悟らせる
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聖霊降臨を迎えました。聖霊である神さまがわたしたちにどのように関わってくださるのかを考え、学びを得ることにしましょう。

献堂百周年記念は、皆様一人ひとりが力を貸してくださったおかげで、立派な記念の一日となりました。皆さんご苦労様でした。そして本当にありがとうございました。

百周年記念行事の直後に私は司祭の黙想会に参加してきましたが、何人もの先輩方から「ご苦労だったね。立派な式典だったね」とねぎらっていただきました。ふだんねぎらってもらったりいたわってもらったりということは、司祭の間ではあまりないのですが、今回ばかりはあまり言葉を交わさないような大先輩からも「よくやったね」とお褒めの言葉をいただきました。とてもうれしかったです。

私は、百周年は通過点だと思います。これから積み重なっていく日々の歩みが、通過点となった百周年を価値あるものにすると思っています。百周年を通過した後、私たちが信仰のありがたさをもう一度見直し、より積極的にカトリックの信仰を知らせるようにしたいものです。百年を祝った田平教会と、私たちの信仰を、百年たっても自信をもって紹介できないのであれば、何のための百周年であったか?ということになりかねません。

福音朗読でイエスは、「父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをする」(15・26-27)とおっしゃっています。

16章の「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(16・13)を踏まえて考えると、真理の霊が弟子たちに遣わされて、弟子たちはイエスの教えを十分理解し、証しをする人に変えられていくのです。

私たちはミサの中で信仰宣言を唱えますが、12人の弟子たちの時代にはそのようなだれもが共通に持っている信仰のまとめはなかったことでしょう。私たちは信仰宣言を皆で声をそろえて宣言することができますが、弟子たちは私たちが唱えている内容を、ことごとく理解しておく必要があったわけです。

今後たとえば二人一組になって宣教に出かけるとき、同じだけの信仰をことごとく理解して宣べ伝えます。イエスが言われたとおりに、真理の霊が真理をことごとく悟らせるのでなければ、宣教は成り立たなかったでしょう。

同じことは、私たちにも呼びかけられています。私たちも献堂百周年を祝ったものとして、ますます、私たちの信仰が広まるように働きかけをしていきます。私たちも信仰宣言で語られている内容をことごとく悟らせていただかなければ、宣教は無理なのではないでしょうか。

「瀬戸山の風」四月号で、私はこの聖堂が宣教の拠点となるためのヒントを示しました。私たちの中には、カトリック信者とそうでない方との間で結婚の誓いを交わした夫婦がいらっしゃると思います。結婚当初は、カトリックの洗礼を受けるには様々な事情が引っかかる人がいたことでしょう。

ですがもし今、「私たちはもはや結婚当初に抱えていた事情は取り除かれました」そういう夫婦がいらっしゃるなら、私は喜んで洗礼を授けてあげたいと思いますので、どうか申し出ていただきたいと思います。

結婚当初は、自分の親の世話を考えると、宗教を変えるのは抵抗があると感じていた。けれども今は、両親のためには両親の宗教を尊重しながら、カトリック信者になってもよいと考える夫婦もおられるのではないでしょうか。

カトリックの洗礼を受けることについて、両親がいる手前、ためらいがあると思っていた人も、長い時間がたってみると、カトリックになっても両親の信仰を軽んじるわけではないと理解できたなら、それは聖霊の働きだと思います。「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」真理の霊が、その人の心を照らして、洗礼の恵みをより深く理解させてくれたということだと思うのです。

真理をことごとく悟らせてくださる聖霊は、今も私たちに働きかけます。私たちは真理の霊に心を開き、導きを願うべきです。百周年を迎えたこの聖堂が、祈りと賛美がこだまし、宣教の拠点となるために、一人ひとりが聖霊に動かされる必要があります。

聖霊は、ただ黙って隣に立っているようなお方ではなく、私たちを変えてくださる力ある神なのです。隣に立っているというよりは、私たちの中から、私たちを造りかえるお方なのです。私たちはもっと聖霊に心を開くべきです。

私たちが聖霊に心を開くなら、田平教会聖堂でまだまだ洗礼を受ける人を得ることは可能だと思います。私たちが聖霊の働きに心を開かないと、百年たっても田平教会の現状は変わりません。田平教会を形作る神の家族、その家族構成がより中身の濃い家族構成になるために、ぜひ力を貸してください。

この聖堂が宣教の拠点となるために、ぜひ皆さんの力が必要です。聖霊が、一人ひとりの心を照らし、必要なことに目覚めさせてくださるよう、取り次ぎを願いたいと思います。

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‥次の説教は‥‥
三位一体の主日
(マタイ28:16-20)
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ちょっとひとやすみ
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▼黙想会を受けてきた。札幌教区の司教様が黙想指導をしてくださった。教区の広さに対して、司祭の数が圧倒的に少ないことに驚いた。全く考えたこともなかったが、北海道には今の3倍くらいの司祭が必要なのではないだろうか。
▼説教を聞いていて思ったのは、司教様に対する接し方が長崎教区とはずいぶん違うな、ということだった。長崎では、司教様が投げかけをすれば、全員ではなくてもすぐに応えようと動き出す司祭たちがいる。札幌教区ではどうもそうではないらしい。
▼「北海道」と聞いて私が思い浮かべるのは「トラピスト修道院」なのだが、トラピスト修道院しか知らない私は、札幌教区のことを何も知らないのだと思う。司教様の話を聞きながら、置かれた状況で使命を果たす困難の大きさに、ご苦労様ですと頭を下げるのみだった。
▼司教様の指名を受けるまで、「まさか」とと思っていたと仰っていた。「選ばれるに違いない」と思っていた司教様のことを思い出し、きっと「まさか」と思っていた人のほうが良い働きをするに違いないと思った。「なるべくしてなった」と思っている人に、神さまは力を貸すのだろうか。
▼献堂百周年が無事に終わった。私も「田平教会の献堂百周年に携わる」とは夢にも思わなかった。私の中には設計図はなかったが、霧が晴れると設計図が見えたような気がした、その体験は味わわせてもらった。

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今週の1枚
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第552回目。まだ献堂百周年の写真などが届いていないので、クリアファイルを。

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主の昇天(マルコ16:15-20)私たちは聖堂を宣教の拠点にする

2018-05-12 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/5/13(No.944)
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主の昇天
(マルコ16:15-20)
私たちは聖堂を宣教の拠点にする
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主の昇天の祝日です。弟子たちの行動を取り上げながら、私たちも何かを学び取ることにいたしましょう。

イエス様が天に昇られたときの様子を、私たちは二つの朗読から聞きました。第一朗読の「使徒たちの宣教」と、「マルコ福音書」です。これら二つの朗読では、弟子たちの様子は明らかに違っています。

第一朗読では、白い服を着た二人の人が、弟子たちに次のように言っています。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使1・11)。福音朗読では、「弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した」(マルコ16・20)となっています。かたや、天を見上げてぼんやりと立っている弟子たち、かたや早速宣教に出かけて行った弟子たち。いったいこの違いはどこから出てくるのでしょうか。

私は、それぞれの書物を書いた著者の気持ちが、このような違いになっていると考えます。「使徒言行録」を書き残したルカも、福音記者マルコも、12人の弟子のメンバーではありませんでした。彼らは直接の弟子ではなくて、使徒たちのそのまた弟子だったのです。

そうすると、イエス様が天に昇られたときの様子は、どのように話を聞かされたかでずいぶん違ってくることでしょう。おそらく、二人とも忠実に聞いたのでしょうが、ルカはそれをじかに書き記し、マルコは聞いたことを踏まえて、手を加えたのだと思います。事実は、使徒言行録にあるように、ぼんやりと天を見上げていただろうということです。

ではなぜ、マルコ福音記者は、弟子たちがさっそうと宣教に出かけたかのように書いたのでしょうか。それは、この福音書が、新しく信仰の道に入った人を教育するために書かれていたからです。マルコは、新しく信者になった人たちに、あなたたちも同じようにしなさいと勧めるために、「早速宣教に出かけて行った」という形にまとめたのです。

もちろん、使徒言行録にあるように、ぼんやりと眺めていたことは推測できます。たとえば、愛する配偶者を失ったときや、両親を失った子供たちが、「さあ亡くなった人を惜しんでも帰ってこないから、私たちは次にどうしたらよいか考えましょう」と、すぐに次の行動に移れないのと同じです。最終的にはそうするのですが、それにはある程度の時間が必要なのです。マルコは、そのことを踏まえて、出かけて宣教したと書いたと思われます。

このような事情を考えて、弟子たちの姿から何かを学ぶことにしましょう。イエス様はご計画の通り、ご自分が元いたところへ帰って行かれました。それは弟子たちと別れるためではなくて、弟子たちが自分の足で歩いて行って、イエス様のみわざを続けていくためです。三年間見守ってきたのだから、あとは私に信頼をおいて宣教に行きなさいと、堂々と弟子たちを送り出してくださったのです。

もし弟子たちが、三年間の教育と、あとでお遣わしになる聖霊の働きで十分に満たされないとしたら、イエスはまだしばらく残ってくださったことでしょう。もう弟子たちは、自分で出かけて行くことができると、イエスが判断してくださったので、天の父のもとへ戻られたのです。

私たちはどうでしょうか。学校教育を終え、社会に飛び込み、結婚生活の一歩を踏み出し、教会でもそれぞれの役を持ったりします。「さあ、あなたの出番だよ」と言われているのに、ぽかんとしていることはないでしょうか。役職をいただいたのはいいけれど、ただぼんやりとして時を過ごしていることはないでしょうか。そんな姿では「なぜ天を見上げて立っているのか」と、注意されはしないでしょうか。

献堂百周年のその日が来ました。もちろんこの日がゴールではなく、百年の価値ある聖堂をこれから守り続けていきます。「百年も守ってきました。私の責任はもう終わりです。」「私ではなくて、ほかの人にお願いしてください」と、現実から目を背けないで欲しいと思います。私たちは先祖が見ることのできなかった歴史の瞬間の目撃者なのです。私たちだけが、百周年という歴史的瞬間を語ることができるのです。

「田平の人たち、なぜ上を見上げて立っているのか」と、指をさされることがないように、一致して当日の行事とこれからの歩みに加わっていきましょう。そのための恵みを、ミサの中でお祈りいたしましょう。

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‥次の説教は‥‥
聖霊降臨の主日
(ヨハネ15:26-27;16:12-15)
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ちょっとひとやすみ
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▼土曜日の時点で、雨の匂いがする風が吹いている。金曜日はカラッと晴れた風だったが、土曜日はもう雨を予感させる風である。どうしても日曜日の献堂百周年は雨の中で実施することになるのか。
▼雨が降れば、雨対策を打った行事となる。その場合の打ち合わせも行っている。一つありがたいのは、雨が降れば小学校の運動会は延期になり、子供たちが百周年記念行事の最初に行う記念ミサから参加できるわけだ。
▼今回の説教案は20年くらい前のものだ。滑石教会の時のものに手を加えて配信した。直前の土曜日は百周年行事に忙殺されて、どうしても時間が取れそうにないからだ。そうは言っても、「これ、読んだことがある、聞いたことがある」という人はまずいないと思う。
▼この田平教会の献堂百周年を成し遂げたら、もはや何も恐れることはない。この「何も恐れることはない」ということが、私にとっての献堂百周年記念行事の収穫かもしれない。私たちはめったにないことを取り組むと大きな自信を身につける。私はそれをこの15年ほどで3回経験したことになる。
▼これまでたくさんの方の応援を受けてきた。一人ひとりに心から感謝したい。直接会ってお礼を言うことはできないが、こうした行事の中心にいることができたので、多くの人の心に触れた。自分一人で成し遂げたわけではないが、特に私は、多くの人が献堂百周年に寄せる思いを知ることになった。

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今週の1枚
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第551回目。いつ掲載できるか分からないが、百周年記念行事の様子。

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復活節第6主日(ヨハネ15:9-17)僕は主人が何をしているか知らない

2018-05-05 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/5/6(No.943)
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復活節第6主日
(ヨハネ15:9-17)
僕は主人が何をしているか知らない
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復活節第6主日B年に選ばれた福音朗読は、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(15・13)が際立っています。私たちが大きな愛を感じる方について考えてみましょう。

献堂百周年一週間前となりました。私は記念ミサの終わりに予定されている感謝式の挨拶を原稿にまとめようとしています。大司教様への感謝の言葉は、ずいぶん前から温めてきました。挨拶を文字に起こそうとする段になって、「主任司祭は大司教様の思いにあまり応えられていないのではないか」そういう気持ちになってきたのです。

私たちは一般的には、「大司教様の考えを私たちが察してあげることなどできるはずがない」と考えていると思います。「親の心子知らず」それが当たり前だというわけです。ですが、私はもっと大司教様の田平教会にかける思いを、知るべきだと思うのです。

たとえば、「田平教会献堂百周年の祈り」は、私が試しに作ったものを大司教様に届けて目を通してもらい、手直しを受けて出来上がった祈りです。この祈りを唱えているのは田平教会の皆さんですが、ここに込められた思いは、最終的には大司教様の思いです。

その証拠に、祈りの終わりごろに出てくる「宣教の拠点となるよう努力します」この一行は私が用意したもとの祈りには全く触れられていませんでした。皆さんが「宣教の拠点となるよう努力します」と唱えるということは、それはすなわち「私たちは大司教様の思いに応えるよう努力します」と公言しているのと同じなのです。

大司教様は来週の献堂百周年のために、すべての予定をキャンセルして、田平教会のためだけに時間を取ってくださいました。百周年を記念するミサ、記念碑の除幕式、祝賀会、すべてに大きな期待をもっておいでになるはずです。ただ単に記念ミサの司式をなさるのではなく、この日までどんな準備をしてきたかを、この日のミサで確かめたいわけです。先ほどの祈りの一節「宣教の拠点となるよう努力します」を唱える私たちを眺めながら、どのようにしてこの聖堂を宣教の拠点としようとしているのか、計りたいわけです。

本日の福音に、「僕は主人が何をしているか知らない」(15・15)とあります。もし私たちが、大司教様にとって僕にすぎないならば、大司教様がこの日をどれだけ楽しみにしておいでになるのか知らなくても構わないでしょう。「宣教の拠点となるよう努力します」と唱えながら上の空、他人事のように思っていても何も責任を問われないでしょう。

ですが、私たちは大司教様にとって「僕」なのでしょうか。「友」なのではないでしょうか。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。(中略)わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」(15・15)この教会を、祈りと賛美がこだまする家、宣教の拠点となるよう努力してほしい。大司教様の思いを私たちは知っているのです。ですからすでに私たちは、「友」と呼べる身分にしていただいたのです。

ここで時々取り上げている聖書ギリシャ語の日本語訳の問題ですが、「友のために自分の命を捨てる」この部分は、「友のために自分の命を置く」と日本語にするのが元の言葉により近い翻訳です。大司教様は、私たち田平教会神の民を友と認めてくださって、百周年記念行事の一切を任せてくださったのです。

ご自身の思い通りの記念行事を行いたいならば、わざわざ主任司祭に任せなくとも、ご自身がすべて取り仕切って、当日おいでになれば済むことです。しかし大司教様は、私たちを友とお考えになり、すべてを私たちにゆだねたのです。大司教様がすべてを委ねたのですから、命を委ねたのと同じではないでしょうか。

ですから私たちは、大司教様の思いを知らない人であってはいけないのです。大司教様はどんな思いで、ミサの聖歌を聞いておられるだろうか。どんな思いで、献堂百周年の祈りを聞いてくださっただろうか。私たちは仮に「どんな思いで聖歌を歌いましたか?」「どんな思いで献堂百周年の祈りを唱えましたか?」と聞かれたら、「私たちは大司教様の思いを知らない僕です」と答えてはいけないのです。

私も、主任司祭挨拶を書き始めて、「私は何と親不孝であっただろうか」と思い始めています。大司教様の思いを汲もうともせず、これまで25年過ごしてきたのではないだろうか。いくつかの教会の主任司祭を歴任してきて、それぞれの教会に大司教様がどんな思いを込めておられたか、爪の先ほどでも考えたことがあっただろうか。自問自答して、暗澹(あんたん)たる思いなのです。

もちろん大司教様の心の中は誰にも推し量れません。大司教様の耳には、私たちでは知ることもできないいろんな情報が届いていることでしょう。社会的な言い方をすれば、公表できない事情もある中で、常に全ての決断を下しているのだと思います。そこは知る由もありません。

それでも、大司教様の期待にいくらかでも応えるために、一つの選択をしなければなりません。それは、今週の福音朗読に繰り返されている「互いに愛し合いなさい」この生き方を選ぶということです。互いに愛し合う方向にかじを切るなら、友としてお認めくださった大司教様の恩に報いることができるのではないでしょうか。

行事の一切を委ねてくださった大司教様から、「僕ではなく友として」迎えていただく日はもう目の前です。「大司教様は私たちに何を願っておられるだろうか」そんな問いを一つ自分に持って、この一週間を過ごしましょう。大司教様が皆さん一人ひとりにかけた期待に答えを出すのは、皆さん一人ひとりです。


‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
主の昇天
(マルコ16:15-20)
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‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼司祭となって25年が過ぎ、初めて(かも知れない)大司教様のご苦労に思い至った。田平教会献堂百周年のすべてをいちばん期待し、心配しているのは、大司教様に違いないとようやく思えるようになった。
▼これまで25年、少なくとも二つの大きな行事で陣頭指揮を取った。伊王島・馬込教会の司祭館建設、浜串小教区福見教会の献堂百周年。たしかに計画は無事に終了したが、私は大司教様がこれらの行事をどのように評価したか、あとで考えることはなかったかも知れない。
▼それはつまり、「主任司祭が主任司祭に巡ってきた責任を果たしたのだから、それで十分だろう」という考えだったと思う。だが今回は、それでは済まないという思いでいっぱいなのである。もともと、カトリック長崎大司教区のすべての財産は大司教様の責任のもとにある財産だ。そこまで考えが至っていたかと問われたら、返す言葉がない。
▼「御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。」(マタイ25・22)こんな挨拶を考えているが、本当にそうなったかをよく考えて挨拶を練る必要がある。ほかに二タラントンどころか、預かった金さえも地中に埋めて、非難されるのを恐れて実りがあったかのような報告をしてはいけないのだから。

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今週の1枚
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第550回目。マリア像を設置。大司教様には報告してないが、気づくだろうか?

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