こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第3主日(マルコ1:14-20)わたしについて来なさい

2015-01-25 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
15/01/25(No.750)
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年間第3主日
(マルコ1:14-20)
わたしについて来なさい
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年間第3主日を迎えました。福音朗読はガリラヤで伝道を始め、四人の漁師を弟子にする場面です。イエスの宣教活動の始まりです。ガリラヤ湖のほとりで声を響かせるイエスに心躍らせ、イエスに従っていく今週一週間が始まります。

先週わたしはとある食事の席に顔を出しまして、くだらない話と言うか、くだる話と言うか、そういうレベルの話をしました。最初は招待していただいている席なので話を聞く側に回っていたのですが、なんとなくお魚の話とか、釣りの話とかになったので、ここは話してよい場面かなと思い、最近のとっておきの話をしました。

わたしは腸が弱いため、冷たい牛乳を飲むとすぐにお腹をこわしてしまう傾向があります。張り切って釣りに行ったその日、朝ご飯と一緒に牛乳をコップ一杯ひっかけて出発したのです。

そしてその30分後、お腹がゴロゴロしだしました。司祭館に戻る余裕もない緊急事態です。後のことはご想像にお任せしますが、緊急事態の結論の部分まで、会食の席で洗いざらい話をしたのです。

もはや司祭と信徒という関係ではない話を打ち明けたわけですから、話を聞いた人が気を悪くするかもしれないと思いました。ですが意外にも笑い飛ばしてくれたのです。牛乳を飲んで30分後の話を受け止めてくれる人もいるのだなぁと思い、ホッとしました。

皆さんの多くは「そんな話は聞きたくない」と思っているでしょう。ただ、生身の人間の上に中田神父は成り立っておりますので、くだらない部分も含めての中田神父を評価してほしいと思っています。「こんなくだらない部分もあるけれども、浜串小教区のために働けるうちは働いてもらいましょう。」こういう評価をわたしは期待しております。

今週の福音朗読でわたしの心に響いたのは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(1・17)というイエスの言葉です。イエスが声をかけた人々は、最終的にイエスの十字架上の死と、復活の出来事まで目撃することになります。

イエスが「わたしについて来なさい」と声をかけたとき、どこまで心の中に考えがあったのでしょうか。病気をいやし、死者を生き返らせ、五千人の人々にパンを食べさせ、会堂で権威ある言葉を話す。それらをイメージして「わたしについて来なさい」と呼びかけたのでしょうか。

それだけではない、と思います。イエスはご自分の生涯のすべてをすでに思い描いた上で、最初の弟子となる四人の漁師に声をかけたと思っています。つまり「あなたたちはすべてを見ることになるが、それでもついて来てくれるか?」そういう呼びかけだったと思うのです。

イエスは十字架の上で最期を迎えます。それは逃げ出したくなるようなみじめな場面です。実際に弟子の多くはその場にとどまることができませんでした。最後までそばにいたのは愛する弟子ヨハネだけでした。

ある時は嵐の中を弟子たちが舟を漕ぎ悩み、眠っているイエスを起こして「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」(マルコ4・38)となかばイエスに呆れています。また別の場面でイエスは怒って人々を見回し、ファリサイ派の人々や群衆のかたくなな心を悲しみながら(同3・5参照)手の萎えた人をいやします。

イエスのご生涯は、御父にひたすら心を合わせて祈り、権威ある言葉を語り、奇跡を行うだけではありません。怒ったり、弟子たちにとって肝心な時に眠っていたり、惨めだったりしたのです。それらすべてを見ることになると分かっていた上でイエスは、「わたしについて来なさい」と呼びかけた。わたしはそう考えたいのです。

同様に、イエスが最初に声をかけたのは一介の漁師でした。ですから、イエスの呼びかけは「あなたたちが漁師であることは百も承知だ」この前提に立っていたはずです。イエスはご自分のすべてをさらけ出すことになるのを前提に、そして呼びかける人々にはその素性を百も承知で、「わたしについて来なさい」と呼びかけたわけです。

さらに踏み込んで考えてみましょう。イエスが、「わたしについて来なさい」と呼びかけ、その呼びかけを自分に向けられたものだと感じ、すべてを捨ててついて行く生き方があります。たとえばそれは司祭召命とか修道者の召命ですが、イエスに徹底的について行くことで、いつかは自分に出番が回ってくるかもしれません。

つまり、イエスに従いたいと希望する子供たちや青年男女が現れ、ついにわたしにも、「わたしについて来なさい」と声をかける順番が回ってくることがあり得るわけです。もちろん「わたしについて来なさい」と呼びかけるのは、あくまでもイエスに徹底的に従う姿をわたしが示しながらということです。

もしもわたしに順番が回って来たとき、どんなことを思うでしょうか。「いやいやわたしはイエスさまではないし、奇跡も行わない。だから声をかけるなんてとんでもない」と考えるのでしょうか。わたしは、自分が不完全なものであることは百も承知で、もし大役が回ってきたと感じるなら、臆することなく「わたしについて来なさい」「わたしの弟子になりなさい」と声をかけるべきではないかと考えます。

その人にはくだらない部分があるかもしれません。けれども、そんなつまらない人間の上に、徹底的にイエスに従う日々を積み重ねてきたのであれば、その生き方を求めている人にいつかは問いかけるべきではないでしょうか。その役割はもっと立派な人がすればよいと言っていたら、とうとうチャンスを逸してしまうかもしれないのです。

「わたしについて来なさい。」イエスの言葉はわたしに向けられたものであると同時に、いつかはわたしの口からイエスの弟子になろうと望む人に語られるべき言葉だと思います。その時に備えて、「わたしについて来なさい」このみ言葉に深く分け入りましょう。わたしを通してイエスに出会える弟子が、1人でも2人でも与えられますように。

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‥次の説教は‥‥
年間第4主日
(マルコ1:21-28)
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ちょっとひとやすみ
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▼このメルマガも750号まで来た。「ナナハン」である。ちょっとアクセルを回すと、すっ飛んで行って、乗っている運転者を振り落とす勢いがあるのが「ナナハン」だが、このメルマガはどうだ。相変わらずのグダグダではないか。
▼騙されてもそれを認めようとしない話について。特殊詐欺が厄介なのは、騙されているのに騙されている自覚がないということだと思う。自分の息子を助けなければならないという一心で、お金を指定口座に振り込み、何とかパックにお金を入れる。
▼直接騙しに来た人に大金を預ける。それもこれも自分の子供を助けるためと思っている。「騙されてますよ~」いくら大声で言っても心を閉ざして耳を貸さない。本当に可哀そうである。だがよく考えてみよ。自分は騙されないと言っているが、すでに騙されていないか。
▼気心の知れた人との貸し借りとか、信用できる人との貸し借り。貸し借りと言いながら、ほとんどが返ってはこない。それでも手を変え品を変え、信頼できる人が近寄ってくる。信頼できる人だから、騙されている感覚がない。そうやって騙されているのではないか。
▼もはや、騙されない人は誰もいないのかもしれない。そうなると残された道はますます少なくなる。その信頼できる人も切ってしまうか、騙され続けるか、騙されたものはもともと手元になかったものと思って自分自身は別の金策を考えるか。
▼イエスは信じ続けたが、人間に騙され続けたこの地上の生涯だったかもしれない。それでも騙され続けて、騙す人を赦し続けて、救いの計画を全うされた。一度も騙されない人生を目指すのではなく、騙されても騙されても、自分の人生は自分で決める。騙す人に振り回されない人生でありたい。

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今週の1枚
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第357回目。ネタが思い付かない。1月から2月にかけての予定表。

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年間第2主日(ヨハネ1:35-42)キリストにとどまる、その生き方を伝える

2015-01-18 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
15/01/18(No.749)
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年間第2主日
(ヨハネ1:35-42)
キリストにとどまる、その生き方を伝える
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説教に入る前に、昨日1月17日は阪神大震災20年目の日でした。今も震災の影響を受け続けている人がいます。災害を経験した人にもイエスがそばにいてくださり、今ここに踏みとどまって生きる理由と勇気が与えられるように、合わせて祈ることにしましょう。

典礼暦は降誕節を終えて灰の水曜日から始まる四旬節までの約1ヵ月間、短い年間の季節が挟まれています。年間第2主日から年間第6主日です。年間の典礼で着用する祭服は緑です。

祭服と言えば、叙階当時に仕立てたわたしの祭服4着は、すでに22年の時が経過し、傷みが目立つようになってきました。以前白の祭服を補修してもらうために長崎の愛宕にある女子修道院にお願いしましたが、今回緑の祭服を同じように補修してもらうために送りました。

今日わたしは略式の祭服に緑のストラをかけてミサに臨んでいますが、ふだんカズラと呼ばれる盛装でミサをささげている時と比べると、どこか落ち着きません。早く補修から帰って来て、いつものカズラを着用してミサをささげたいものです。

年間第2主日の福音朗読として、最初の弟子たちが選ばれる様子が用いられました。あらためて読み返すと、最初の弟子の姿に弟子のあるべき姿が描かれていると思いました。この点を押さえながら、今週の学びを得ることにしましょう。

洗礼者ヨハネのもとで学んでいた二人の弟子が、「見よ、神の子羊だ」というヨハネの言葉を聞いて、イエスに従いました。この二人は、ヨハネの「声を聞いて」イエスに従ったのです。

出来事を「見て従った」と記録していたら、見ることのできる人は限られてしまいます。けれども「聞いて従った」のであれば、多くの人が弟子に招かれることができます。イエスの弟子になる人の姿にある一つの特徴は、「聞いて従う」ということでした。

次に、イエスに従おうと決めた二人は、「どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった」(1・39)とあります。さきほどの「聞いて従った」と同じ考え方に立てば、「泊まることのできた人は限られている。わたしたちは泊まれないではないか」と考えるかもしれません。

しかし、日本語で「泊まる」と訳された言葉は、「とどまる」ことをも表す言葉で、自分のとどまるべき場所を見いだした人がそこにとどまる様子を表すそうです。「わたしが居るべき場所はここだ」そう感じてそこから離れないという意味であれば、多くの人が実践できます。

最後に、イエスに従った二人のうちの一人アンデレは、自分の兄弟シモンに会ってイエスを紹介しました。「わたしは自分が居るべき場所を見つけた。あなたにもその人を知ってほしい。」そうやって自分が確信したことを自分だけでしまっておかずに、新しい人に知らせたのです。アンデレの言葉を聞いて、シモンもイエスに従う人になりました。

最初の弟子たちの3つの特徴を拾ってみました。聞いてイエスに従ったということ、自分がとどまるべき場所はここだと確信すること、自分の確信を他の人に告げ知らせることです。弟子のあるべき姿が、この3つにうまくまとめられていると思います。わたしたちがこの3つを生活の中に取り入れるなら、わたしたちも確かにイエスの弟子なのです。

ところで、弟子のあるべき姿で取り上げた3つの特徴は、初めて見聞きするでしょうか?そんなことはないと思います。知らないうちに、この3つの特徴はいろんな場面に取り入れられ、中には間違った行動をする人の中にも取り入れられているのです。

間違った行動の例を1つ挙げましょう。ネズミ講と言われる商売に組み入れられた人たちです。彼らは与えられた商品の素晴らしさをたたき込まれ、実際には価値のない商品かもしれないのに、それを友人知人にも次々に契約させます。

より多くの客を連れて来ると、自分にも報酬が回ってくるのですが、それは友人知人、見知らぬ人を勧誘して入ったお金を上層部が自転車操業で回しているだけなのです。最後には商品を契約させた自分も、誘われた友人知人も、不幸な目に遭うことになります。

この仕組みの商売にも、3つの特徴が織り込まれています。魅力的なことを聞かされて言われるままに従い、これは素晴らしい、この商品でバラ色の人生になると思い込んで人生までもつぎ込み、新しい人を連れて来るのです。ただしそこにはイエス・キリストがどこにもいないので、幸せな未来は訪れないのです。

最初の弟子に見られた3つの特徴が、実は社会のいろんな場面に巧妙に取り入れられています。けれどもその多くはわたしたちから利益をむしり取るものだったり、単にやる気を起こさせるものだったりするのです。イエス・キリストがそこにいなければ、わたしたちを本当の幸せに導くことはないということです。

ある意味、21世紀の現代にこそ、イエス・キリストの真の弟子の存在価値が増していると思います。わたしたちが毎日の生活でイエスの招きに聞き従い、自分に幸いをもたらしてくれる場所、自分がとどまるべき場所はイエス・キリストだと確信し、それを人々に告げ知らせる。このように生きる人が、今こそ必要になっているのではないでしょうか。

「幸せになれる、豊かになれる、生き生きと暮らせる。」そう誘われた人の状態が前よりも悪くなる。そんなことが今日常のように起こっています。そんな中で、わたしたちの生き方は価値ある生き方です。輝きを失わない生き方です。イエスの言葉に耳を傾け、イエスこそとどまるべき場所であると確信し、自信を持って告げ知らせましょう。今こそわたしたちの生き方は人々に発見されなければならないと思います。


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‥次の説教は‥‥
年間第3主日
(マルコ1:14-20)
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ちょっとひとやすみ
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▼五島で幼いころ気に登って食べた「こっぽ」という果物、本当の名前が知りたくなった。上五島の実家は意図的にそうしていたのか、果物の樹が家の周囲にずらりと植えてあった。玄関先には「ビワ(ヒワとも言う)」が植えてあったし、裏にはグミの木とキンカンの木があった。
▼家を囲んでいた崖を登ったすぐには栗の木、梨の木、ヤマモモの木があった。さらに夏ミカン、スモモの木もあったと思う。そして問題の「こっぽ」の木が、自宅の段々畑のいちばん高い畑の脇にあった。
▼もしかしたら、「こっぽ」の木は植樹したものではなく、単にそこに自生していたのかもしれない。それはともかく、簡単に木に登ることができたし、甘酸っぱい実は最高のおやつだった。
▼ただ、この果物の話をしても、話の合う人が見つからない。同じ上五島の人とは理解しあえるが、五島から遠い長崎市内、県内県外の人とは共通の話題にできないのである。「キウィによく似た・・・」と言えば、「それはキウィでしょ。キウィ」と最初から決めつけられてしまう。
▼たしかにキウィと味も形もそっくりなのだが、わたしが幼いころキウィなる輸入果実は存在しなかった(と思う)。キウィを店頭で見かけるようになったとき、「巨大で毛むくじゃらなこっぽだなぁ」とわたしは理解した。しかもほとんどが酸っぱくて食べられない。輸入品には悪いが、「輸入品だからこんなにまずいのだろう」と本気で考えたものだ。
▼最近はネット上で調べることができるわけだが、いろいろ検索してもわたしの疑問を解決できるサイトにはたどり着けない。思いがけない収穫だったのは、「こっぽ」を収穫に行ったという上五島のブロガーの記事にたどり着いたことだった。
▼大きさは、キウィのように巨大でなく、ぶどうの粒を2個くっつけたくらい。毛むくじゃらでなく、表面はすべすべしている。味はキウィフルーツと全く同じ。実を割った中の様子も同じ。「じゃぁキウィでしょ?」と言われそうだが、上五島の人たちはキウィでは決して納得できないのである。

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新企画今週の1枚
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第356回目。その問題の「こっぽ」がコレ。残念ながらカラスにつつかれている。

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主の洗礼(マルコ1:7-11)イエスの洗礼は十字架による救いの先取り

2015-01-11 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
15/01/11(No.748)
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主の洗礼
(マルコ1:7-11)
イエスの洗礼は十字架による救いの先取り
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主の洗礼の祝日を迎えました。イエスが受ける洗礼は、よくよく考えるとイエスの十字架上の死とつながっていると思います。そのことを踏まえて、選ばれた朗読個所から今週の学びを得ることにしましょう。

皆さんの中で長崎新聞を購読している方もおられると思います。1月7日の長崎新聞11面に、教師生活41年の経験を一冊の本にまとめた方の記事が載っていました。この方がだれか、写真ですぐに分かりました。わたしが小学6年の時の担任の先生でした。当時からすると36年の歳月がお顔に刻まれていましたが、先生だとすぐに分かりました。

掲載された記事の内容はわたしにはどうでもよいことですが、先生と当時のわたしのことを話しておきたくて、紹介することにしました。わたしは小学6年生の時に警察に補導されたことがあるのですが、先生のおかげで立ち直ることができました。どんな事件を起こしたかはいろんな関係者に迷惑がかかるので話せませんが、この先生が担任でなかったら、わたしの未来は閉ざされていたかもしれません。

わたしは小学校を卒業して長崎南山中学を受験し、同時に神学校に入学しました。当然、南山中学校にはわたしについての内申書が届いていたはずです。内申書に不利な内容が書かれていれば、いくら試験に合格しても入学を許されるはずがありません。

今思うと、入試に不利にならないように、担任の先生は手を尽くしてくれたのではないかと思うのです。すべてをありのまま内申書に書いたとしても、この子は本当はどんな子で、必ず立ち直る生徒だと、言い添えてくれていたのかもしれません。

しかし当時のわたしは世間知らずで、試験を受け、全体の5番目の成績だったのだから合格するのは当たり前と、先生にあとでお礼を言うこともなかったし、卒業しても一度も先生に連絡をすることもありませんでした。自分が助けられたという実感を持ったのも、今回の新聞記事を何度も読み返して初めて感じたことでした。

今になって先生に助けてもらっていなかったらと思うとぞっとします。わたしは居ても立ってもいられず、先生の住所を調べ、当時のことを振り返りながら生まれて初めて手紙を書きました。先生の返事をまだいただいておりませんが、もしわたしが何も行動を起こさなかったとしても、もっと言うと先生が死ぬまで何も行動を起こさなかったとしても、先生はすべてを背負ってこの世を旅立っていったかもしれません。

わたしはこの先生の潔さと言いますか、懐の深さを今になってようやく理解しました。未来ある子どものために、すべての責任を担って庇ってくれて、もしそのことに本人が気づかなくても、黙って一人でそれを背負って人生を全うする。こんな先生に当時教えていただいていたのだと、あらためて感謝の気持ちがわいてきたのです。

本当に個人的なことで、長々と話してしまいましたが、イエスが洗礼を受けた場面をあらためて読み返して、イエスがどれだけの決意を持って洗礼を受けたのかを、この先生との思い出が教えてくれたのです。

ヨハネが授けていた洗礼は、悔い改めの洗礼でした。イエスに悔い改める理由はどこにもなかったのですが、全人類の悔い改め、全人類の救いを担う決意の表れとして、イエスはヨハネから洗礼を受けたのです。

ヨハネは洗礼を望む人をヨルダン川の水に沈めて洗礼を授けていました。「水に沈める」とは「死」を意味します。イエスは自分がいったん死んで、すべての人の罪を背負うことを表そうとしていたのでしょう。イエスが「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来る」(1・10)そのありさまは、イエスのなさろうとする救いの計画が完全に御父と聖霊の心に適っている証拠だったわけです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(1・11)

わたしは初めに、イエスの洗礼と十字架上の死とはつながっていると話しました。イエスはヨハネの洗礼によって受けた霊を、十字架の上で御父にお返しになっています。ルカ福音書によると「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23・46)とあって、すべての人の罪を担うイエスの洗礼は、十字架上の死によって完成したのです。

わたしたちの洗礼は、イエスによって始まった「聖霊による洗礼」(マルコ1・8参照)です。そうであれば、わたしたちが受けた洗礼は、罪に死に、イエスに生きる生活の始まりのはずです。そしてそれは、わたしたちが霊を父なる神に返す時に完成される長い旅の始まりなのです。

わたしたちも人生を終えるとき、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と声を上げて人生を終わります。このときわたしたちが受けた洗礼は完成されます。

もしも、罪に死に、イエスに生きたわたしたちのキリスト者としての人生がだれにも評価されずだれにも知られず、もしかして嘲笑の的となったとしても、わたしたちは言い訳を用意したり弁解する必要はありません。わたしたちのキリスト者としての生き方が人生のどの時点でも理解されなかったとしても、それでもあなたはキリスト者としての人生を黙って担って全うする。それだけの価値が十分あります。わたしに今回そのことを気づかせてくれたのは小学校時代の恩師です。

皆さんが洗礼の時に罪に死に、キリストに生きると決めたその人生、何十年生きてもそれでもキリストを知らない人に理解されないかもしれません。ただしそれでも生きる価値があるのです。なぜなら、キリスト者として人生を全うした時、洗礼を受けて新しくされた人生は必ず完成するからです。

イエスは洗礼を受ける姿を示しながら、わたしたちを同じ生き方に招いています。罪に死に、御父の御旨に生きるわたしの姿に倣いなさい。わたしが必ずあなたの人生を完成させます。イエスはそう招いています。イエスの洗礼の姿を見つめながら、わたしのキリスト者としての人生を全うする。そのための恵みを、ミサの中で願い求めましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第2主日
(ヨハネ1:35-42)
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ちょっとひとやすみ
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▼もう絶対に買わない物。まず三菱のテレビ。わたしに言わせればポンコツだ。理由を2つ挙げておく。まず1つ、予約録画。あれこれ予約録画をして、いろんな番組をつまみ食いするわけだが、ある時予約番組を途中まで観てそのままにしておいたら、次に観ようとした時またも最初から再生し始めた。
▼普通に考えれば、途中から再生するはずである。だが何かの条件でレジュームが効かなくなり、最初から観る羽目になる。ポンコツの最たる例だ。これと似たようなことが、メニューを進めていった時にも起こる。
▼「再生」を選択して、その先の選択肢には「初めから再生」と「途中から再生」の二通りが見えているが、実際に選択できるのは「初めから再生」しかない。これをポンコツと言わずに何をポンコツと言うか。
▼わたしが三下り半を突き付けるもう1つの理由。NHK-BSを観ていた時、気が変わってNHKの地上デジタルにチャンネルを切り替えた。その際、副音声が同時に流れることが時々起こる。副音声は英語だ。
▼だれがNHKのニュースを観ようとしている時に二カ国語放送になるのを求めるだろうか。そのたびにボタン操作で副音声をミュートする。二カ国語放送が必要な場面はわたしにはほとんどない。英語放送を英語のまま聞く必要を感じることはある。だが、二カ国語放送は邪魔なだけだ。こんな時にわたしから「このポンコツめ」と罵倒されている。
▼「まず三菱のテレビ」と語り始めたらこんなに長くなってしまった。他にももう買わないという物があるのだが、長くなりすぎるのでこれで終わり。

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新企画今週の1枚
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第355回目。この器具は二度と使わないと思っていたのに、今年も使うことに。

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主の公現(マタイ2:1-12)学者たちはひれ伏して幼子を拝んだ

2015-01-04 | Weblog
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15/01/04(No.747)
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主の公現
(マタイ2:1-12)
学者たちはひれ伏して幼子を拝んだ
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主の公現の祝日を迎えました。幼子イエスを拝む占星術の学者たちから、わたしたちの日々の生活を振り返り、証しを立てるヒントを得ることにいたしましょう。

初夢についていろいろネット上で調べると、諸説ありました。大晦日から正月一日にかけて見る夢、正月一日の夜に見る夢、正月二日の夜に見る夢の三つの説があるようです。その中で支持されているのは正月一日の夜に見る夢だそうです。わたしが見た夢は大晦日の夜に見た夢でしたが、びっくりして起きたのですから確実に大晦日を過ぎていました。

主の公現は、東の国からやってきた占星術の学者たちの礼拝によって、主の降誕が広く諸国に知られることになった出来事です。学者たちの訪問は、ユダヤ人の王がお生まれになったことを内外に知らせるきっかけとなりました。

彼らはまずヘロデ王に会いに行って、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(2・2)と自分たちの訪問の理由を明らかにします。これで、ユダヤ中に出来事が知られることとなりました。

また幼子イエスを礼拝した学者たちは、当然自分たちの国に帰国してから幼子のことを人々に告げ知らせるでしょうから、自分たちのいる国でも話題になります。占星術の学者たちの登場は、ひっそりとお生まれになった救い主を一変させたわけです。

占星術の学者たちは母マリアと共におられた幼子イエスをひれ伏して拝み、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。学者たちは突き詰めると、何をしに幼子イエスのもとに来たのでしょうか。わたしは、「ひれ伏して拝むために」来たのだと思います。

贈り物を献げるだけでしたら、遣いの者に持たせて運ばせることができたでしょう。けれども、ひれ伏して礼拝をささげるのは本人たちが出向くのでなければ意味がありません。代理の人間ではなく、本人たちが礼拝をささげることで、ひれ伏して拝む価値は最上のものになります。

曲がりなりにも学者と呼ばれる人が幼子の前にひれ伏すのですから、このしぐさは特別のことと言わなければなりません。権威を振りかざすヘロデ王の前でもきっとひれ伏してあいさつしたでしょうが、同じ学者が、何も持たない、幼子にすぎないイエス・キリストの前にひれ伏す姿はいっそう荘厳に見えます。ひれ伏しても何も与えてもらうことはないと分かっていて、彼らは幼子の前にひれ伏したのです。

幼子イエスの前に進んで身をかがめる占星術の学者たちと、幼子のことを嗅ぎまわるけれども決して身をかがめないヘロデ王とその一味は、明らかに比較されています。

この対比は、わたしたちに決断を迫っているのです。あなたは、幼子イエスの前に進み出て、喜んで身をかがめますか。それとも、幼子のことを詳しく聞いたのに、それでもイエスの前に身をかがめないのですか。わたしたちが取るべき態度は明らかです。

ではわたしたちはどのように、占星術の学者たちの態度に見習えばよいのでしょうか。学者たちは2つの態度を取りました。1つは、公の人の前で、自分の信じている方、礼拝をささげるべき方がこの世におられると表明したのです。もう1つは、いよいよその方の前に来た時に、進んで身をかがめたのです。

わたしたちも、占星術の学者の取った態度に見習う必要があります。公の人、公の場で、自分が信じている方、礼拝をささげるべき方がこの世におられると、立派に表明してほしいと思います。いつその場面が巡ってくるか、それをこちらから選ぶことはできませんが、その機会が巡って来たとき、それがどんな場所であっても、信じている方、礼拝をささげるべき方を覆い隠したり言葉を濁したりしてはならないのです。

もう1つ、いよいよその方の前に来た時に、わたしたちは進んで身をかがめます。その具体的な場所はわたしたちの教会です。ここではただお一人の方、イエス・キリストにすべての人が身をかがめます。ここにいるわたしたちは皆、だれも身分の上下を問われず、ただイエスの前に身をかがめる人かそうでないかだけが問われるのです。羊飼いも、東方から来た学者も、だれも身分を気にすることなく、幼子イエスの前に自分を明け渡したのです。

その際、贈り物を献げた学者たちのように、自分を表す何かをイエスの前に献げることはたいへん賢い生き方です。感謝・賛美・礼拝・嘆願などを表そうとここに集まっているのですから、わたしの思いを表す何かをお献げしましょう。

最後に、学者たちに示された夢のお告げに目を留めましょう。「ヘロデのところへ帰るな」(2・12)というお告げでした。もしも学者たちがヘロデのもとに帰ると、信じる方にではなく、権力者にひれ伏すことになります。彼らにはもはやひれ伏す方はただお一人しかいないのです。

わたしたちもそうです。わたしたちがひれ伏す方はただ一人です。その生き方を決して曲げてはいけません。権力を振りかざす人の前でひれ伏しません。富や悪に流されてひれ伏したりしません。ただイエス・キリストにだけひれ伏してこの人生を全うします。

占星術の学者たちは、星の導きによって真の礼拝をささげる相手を見いだし、生涯その生き方に留まりました。わたしたちを照らす星は聖霊だと思います。聖霊に導かれて、イエス・キリストお一人を礼拝し、イエス・キリストお一人に身をかがめて生きることができますように。このミサの中で恵みを願うことにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
主の洗礼
(マルコ1:7-11)
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ちょっとひとやすみ
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▼初夢を見たが、意味不明だ。自転車で映画を観に向かっているという設定で始まった。途中で横断歩道を横切ろうとすると、横断歩道の両端に大人の男性が10人くらいずつずらっと並び、全員がたばこの煙をふかしていた。
▼わたしはその大人たちを怒鳴りつけ、「あなたたちがそうやって横断歩道を塞いだら、小学生が横断歩道を通れないじゃないか。」怒鳴った時に大人たちが驚いたような顔をしたところで場面が変わり、映画館らしき建物に入る。窓口で「大人一枚」と告げると女性職員が「1300円です」と答えた。
▼ところが手元に財布がない。この時点でようやく夢だと理解した。わたしは疲れていたり緊張したまま寝ると同じパターンの夢をさまざまなシチュエーションで見る傾向がある。そのパターンとは、「たどり着けない・間に合わない・達成できない」などのパターンだ。そのパターンに沿って、さまざまなシチュエーションの夢が展開する。
▼今回は映画館に行ったのに財布が見つからずに映画を鑑賞できないという夢。ある時は急いで目的地に行こうとするのに家の鍵が見つからず、とうとう家を出られずに目的地に行けない夢。ある時は探し物をしていて、どれだけ探しても見つからない夢。パターンは同じで、さまざまなシチュエーションで展開されていく。だれか夢を解き明かしてくれる人がいたら聞かせてほしい。
▼1月3日(土)は今年初めての穏やかな天気だった。釣りに行きたくてたまらなかったが、説教案づくりを優先する日なので、どうしてもこの日は出ることができない。元日に返事を出した後に2日に届いた年賀状に返事を出すために郵便ポストに向かっていたら「あれ?いい天気ですよ。釣りに行かないのですか?」と言われ、行きたかったのでとても辛かった。
▼そう言えば、年賀状は昨年11月に購入したのに、なぜ元日になって投函しているのだろうか。

‥‥‥†‥‥‥
新企画今週の1枚
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第354回目。釣りは潮を狙え。潮汐と爆釣タイムを参考にできる便利なサイト。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

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神の母聖マリア(ルカ2:16-21)神をあがめ、賛美しながらこの一年過ごそう

2015-01-01 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/150101.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
15/01/01(No.746)
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神の母聖マリア
(ルカ2:16-21)
神をあがめ、賛美しながらこの一年過ごそう
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新年明けましておめでとうございます。新しい年を、どのような形で始めるかはとても大切です。

いろんな新年の迎え方があるでしょう。ある人々は太陽を拝んで新しい年を始めます。ある人々はお祓いを受けます。ですがわたしたちカトリック信者は、神の母聖マリアをたたえるミサに参加して新しい年の始まりを迎えます。

新成人を迎える方々もおられるでしょう。人生の節目や、記念日を今年迎える人もいるでしょう。そうしたすべての人が拝むべきもの、受けることのできる恵みが、ミサに集まったこの場所にあります。そしてわたしたちはそのことを知っているので、こうして集まっています。

福音朗読は、羊飼いたちが天使に告げられた幼子を探し当てる場面が選ばれました。羊飼いたちが見たのは、単に飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子ではありませんでした。天使が話してくれたことが出来事になっているという、人間では成しえない神の業を見たのです。

ですから羊飼いたちは、人々にこのことを知らせました。み使いの話したことが出来事になっているということは、救い主が生まれた、人間の救いが目の前に現れたということです。すべての人が待ち望んでいたことが実現した。こんなに喜ばしいことはありません。

ところが聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思うだけでした。話を聞いた人々は、マリアという女性から生まれた幼子は理解できましたが、幼子誕生という表面的なことしか受け入れることができなかったのです。

神の救いの約束が、貧しい夫婦を通して実現したとか、救い主が家畜小屋で飼い葉おけに寝かされた状態でおられるとか、それを知らせているのが羊飼いであるとか、さまざまな事情が聞く人の心を曇らせ、理解を妨げたのかもしれません。

しかしマリアは、「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(2・19)とあります。羊飼いたちが見たものを、マリアも見ました。すなわち、天使が話したことが、出来事となって実現したということ、そして羊飼いたちが、自分たちが見たことをためらうことなく人々に知らせたことです。神の救いは驚くべき形で始まり、必ず人々に知られていくのです。

羊飼いたちの最後の行動にもう一度目を留めましょう。「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(2・20)とあります。「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」とは、生活の中でこれからも神をあがめ、賛美するということです。

羊飼いたちの行動を見て、マリアの賛美の歌を思い出しました。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」(ルカ1・47)マリアも、神の驚くべき御業を理解した時に神をあがめました。洗礼者ヨハネの父ザカリアも、生まれた子にヨハネと名を付け、話すことができるようになったときに真っ先に神をたたえました。

羊飼いもマリアも、この一年をどのように過ごすのかお手本を示していると思います。わたしたちは教会に集まってミサにあずかり、神がわたしたちの救いのために独り子を与えてくださったことを見ています。

神の言葉が出来事となり、神が与えることのできる最上の恵みが人類に与えられました。わたしたちは出来事となったこの神の言葉を持ち帰り、自分たちが帰っていく生活の真ん中で神をあがめるよう期待されているのです。

わたしたちの日常生活はさまざまな形を取っています。ある人はいちばん長くいる生活の場所が危険と隣り合わせの場所かもしれません。ある人はいちばん長くいる場所は愛する家族かもしれません。ある人は常に結果を求められる場所で長く時間を過ごしているかもしれません。

それぞれの生活の真ん中で、羊飼いがしたように今日確認したものを告げ知らせてほしいと思います。すなわち神の言葉は出来事となったということ、この人となった神の言葉は恵みを与えてくれるということ。そして聞いた人々が信じるなら、同じ恵みにあずかることができるということです。

今日は一月一日、神の母聖マリアの守るべき大祝日です。わたしたちは教会に来て、ミサにあずかって一年を始めました。ここで見て確かめたことを、生活に持ち帰り、証ししていく一年としましょう。「見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(2・20)この生き方を取り入れましょう。

証しをするにあたって、わたしの生活にあてはめると、どのような方法が可能なのか、神の母聖マリアに倣い、思い巡らすことにしましょう。出来事をすべて思い巡らそうとするとき、必要な助けはきっとマリアが一年を通して神に取り次いでくださいます。

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‥次の説教は‥‥
主の公現
(マタイ2:1-12)
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ちょっとひとやすみ
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▼新年明けましておめでとうございます。「一年の計は元旦にあり」で、今日何を思い巡らし、思ったことを果たそうとどれだけ熱意を持つかが、この一年を決めると思う。今年は特に信徒発見150周年でもある。
▼説教にも書いたが、カトリック信者はミサに集い、ミサの中で見たこと、受けた恵みを社会の中で証しし、自分たちがミサの中で受けたものはもっと多くの人々に知られるべきだし、その中の何人かは告げ知らせたことをきっと必要としていると思っている。
▼証しをし続ければ、「あなたが話していることは、わたしが本当に必要とし、求めていたものだ。それはどこへ行けば受けることができるのか」と尋ねる人がいると信じている。証しする人はいろんな人がいていい。証しするものが唯一のもの、普遍なものであれば、誰かの証しがある人に響くことがあるだろう。
▼社会の中で証しをするのだから、社会の真ん中にいて証しをするほうが効果が上がる。それは、置かれた社会の中に適応し、その社会の中で受け入れられる人になるということだ。「溶け込む」という言い方をしてもよいかもしれない。
▼ただ、今年はそれだけでない道を歩く人が必要だと思う。信徒発見150周年だから、ある意味わたしたちが社会の中で発見される年になるべきだ。これまでは迫害が始まると、カトリック信者は社会に溶け込まず、容易に発見されて命を落としていたかもしれない。
▼迫害が進むと、今度は決して発見されないように社会に溶け込み、信仰をひた隠しに伝えていった。迫害の終わりになって勇気を振り絞って大浦の司祭のもとに信仰を打ち明け、信徒が発見された。
▼その子孫たちであるわたしたちは、社会の中でカトリック信者であると知られ、発見されるべきときが来ていると思っている。信徒発見150周年記念だと言って大げさな行事や事業を立ち上げるよりも、まずはわたしたちが社会の中でカトリック信者であることを発見してもらう。それが今年必要なのではないだろうか。

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新企画今週の1枚
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第353回目。ミサで侍者をする子供たちは信徒発見よりもお年玉発見。

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ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
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