こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第13主日(ルカ9:51-62)あなたはいつ決意を固めますか

2013-06-30 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
13/06/30(No.657)
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年間第13主日
(ルカ9:51-62)
あなたはいつ決意を固めますか
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棒アイスで1000円当たりました。当たったのは、暑くなってきて賄いのシスターが気を利かせて買ってくれたアイスです。そのアイスで、1000円分のクオカードが当たったのです。

この話には前置きがあります。あるときシスターから「冷凍庫にアイスが入っているのでどうぞ食べてください」と勧められたので冷凍庫を空けましたら、なぜか袋の中でアイスがグニャグニャになっていたのです。

以前から気にはなっていたのですが、まれに冷凍庫引き出しのレールに氷が付くことがありまして、きちんと閉まらないのです。今回もそうだったのでしょう。アイスがちゃんと凍らず、中で溶けていたのだと思います。「これ、溶けてグニャグニャになってるよ。食べられないから処分してね」するとシスターは「もう一度凍らせましょう。そうすればきっと食べられます」と言います。

たとえ凍っても、一度溶けたものですからもとの形にはなりません。あまり乗り気ではありませんでしたが、それでも甘いものが欲しくなってあとで袋を空けてみたら、案の定グチャグチャのままもう一度固まっていました。

まぁそれでも、口に入れればアイスの味はします。そうして食べ終わってからビックリです。ハシに、「1000円当たり」と書いてあるではないですか。危うくゴミ箱行きになる運命だったのが、1000円儲けさせてくれたのです。ありがたいことです。何事も、よく人の話を聞くことが大事だなぁと、今回の件で学びました。

日本の教会に喜ばしいニュースが入ってきました。教皇さまは、札幌教区に新しい司教様を任命なさったのです。6月30日付のカトリック新聞の一面に新司教さまの記事が掲載されていました。実は同じ新聞に、中田神父も福音の解説をお願いされて、記事になりましたよとお知らせしたかったのですが、わたしのニュースは札幌の司教様のニュースで吹っ飛んでしまいました。

カトリック新聞編集部からの原稿依頼は、本音はお断りしたかったのです。いろいろ断りたい理由があったからです。わたしはここ10年ほどすべての日曜日の説教をブログに掲載しているので、わざわざカトリック新聞に載せる必要を感じていません。ほかにも、カトリック新聞はほとんどすべての長崎教区司祭に読んでおられます。わたしが福音解説をするよりも、もっとふさわしい人が何人もいます。こうした理由で、引き受けたくなかったのです。

すると、編集部の人はこう言いました。「神父さまのブログは承知しています。でもブログの読者は200人でしょう?カトリック新聞は、1万5千人です。神父さまの福音解説は、1万5千人の読者にも必要ではないでしょうか?」それで断りきれなくなって、引き受けたのでした。

せっかく書くので、「わたしはミサ中の説教をこう理解している」ということと、「今週の福音の学び」この2点を与えられた字数で書いてみました。まず、ミサ中の説教をどう理解しているかですが、司祭の説教は、福音朗読箇所の読書感想文であってはいけないと思います。

「わたしはこう思う」という説教も、それはその司祭の「わたしはこう生きようと思う」という姿勢であるべきだし、説教を聞く人にとっては「ではわたしたちはこう生きていこう」という招きであるべきです。しかも、「イエスに倣って、こう生きようと思う」という説教でなければ、聞く人の心に届かないと思うのです。

次に福音の学びですが、今週の福音の冒頭、「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」とあります。いよいよ、イエスのこの地上での歩みが完成する場所へと近づいています。エルサレム、それは三度にわたってイエスの死と復活が予告された場所、復活したイエスが再び弟子たちと出会う場所、聖霊が注がれて、ここから福音があまねく宣べ伝えられる場所です。イエスのすべての歩みがそこへと秩序づけられる場所へ、いよいよ向かわれるのです。

当然、イエスを信じる人すべてに、イエスは弟子としての覚悟をお求めになります。サマリアの村人は、イエスを歓迎せず、弟子としての準備がととのっていないことをさらけ出してしまいます。「あなたがおいでになるところなら、どこへでも従って参ります」と言う人には、その覚悟が自分の身を横たえる場所、つまり「枕」すら取り上げられても変わらないか、と問われます。

別の人は「主よ、まず父を葬りに行かせてください」と懇願しました。ですがたとえ「父母を敬いなさい」という掟でも、イエスに従うことより優先させてはいけないのです。同じように「家族とのいとまごい」すら、イエスに従う弟子の覚悟を鈍らせてはいけないのです。大変厳しい要求のように思えるかもしれませんが、わたしたちに最初に福音を知らせにきてくれた数えきれない宣教師が、イエスの求めに喜んで応え、身をささげてくださいました。

では振り返って、わたしたちはいつ、「エルサレムに向かう決意を固める」すなわちそれぞれの場所でイエスの弟子として生きる決意を固めるのでしょうか。「生涯互いに、愛と忠実を尽くすことを誓います」と契約を交わした夫婦は、いつその契約の完成のためにいのちをかけるのでしょうか。「わたしとわたしの後継者に、尊敬と従順を約束しますか」「約束いたします」と公言した司祭は、いつその言葉のゆえにこの世に死ぬことができるでしょうか。「清貧・貞潔・従順」を神に誓った修道者は、いつその三誓願が束縛ではなく自由と感じられるようになるのでしょうか。

イエスは、だれも決意を固められずにいたその時に、自ら先頭に立ってエルサレムに向かう決意を固められました。わたしたちの模範となるためです。わたしたちがイエスの後について、イエスが歩いたように歩くことができるためにです。もう一度尋ねます。わたしたちはいつ決意を固めるのですか?もちろん「今でしょ。」

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‥次の説教は‥‥
年間第14主日
(ルカ10:1-12,17-20)
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ちょっとひとやすみ
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▼何か、押し入れで電子音が鳴っている。「大きなのっぽの古時計」が鳴っている。一体何だ?朝の6時半。たまーに、この電子音が聞こえる。なぜだ?4年目にようやく理由が飲み込めた。日曜日だけ、朝の6時半に、2階の事務机に座っているからだ。どうやら朝6時半でセットされた目覚ましなのだろう。
▼しかし、この電子音に覚えがない。毎日、わたしが聞くことのできない平日も、「大きなのっぽの古時計」は鳴り続けているのだろうか。だが、音は聞こえても場所を特定し、目覚ましと思われる未確認物体を見つけ出すのはおそらく無理だろう。不可能に近い。わたしの荷物の中でこうした「気掛かりな物」を発見するのは砂漠で1円玉を探し出すようなものだ。
▼4年前に浜串に転勤してきたとき、荷物整理中にお気に入りのカッターナイフが見つかった。「処分した覚えはないので、どこかにあるはずだが」と気にはなっていたが、すべての物を動かす時にようやく巡り合えた。今度は目覚ましだが、またどこかに転勤するときまで遭難信号を発してくれるだろうか?それが問題だ。
▼こんな話題を取り上げているからだろうか。同じ物を2度買った夢を見た。代金は600円くらいのものだが、絶対に2つ必要ないものを買ったという後悔で落ち込んでいたら朝4時半に目が覚めた。なんとも目覚めが悪かったので、30分歩いてシャワーを浴び、朝のミサをささげた。
▼最近、何かに取りつかれたかのように歩いている。1万歩が目安。1週間前は1時間半もかかっていたが、今は1時間15分以内で1万歩に到達する。日によって十分時間が取れない日もあるが、まとまった時間でなくても足し算して1時間15分歩けば効果が期待できるらしい。どんなに忙しい日でも15分を5回探す。1ヶ月は続けてみたい。

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今週の1枚
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第264回目。職場復帰した歩数計。ケータイも利用。現場まで片道10分。

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年間第12主日(ルカ9:18-24)「神からのメシアを知る道」がある

2013-06-23 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
13/06/23(No.656)
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年間第12主日
(ルカ9:18-24)
「神からのメシアを知る道」がある
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運転ルールを守らないのは中田神父だけかと思いましたが、どうやらそうでもないようです。わたしがいつだったか車を出して福見に行こうとした時、教会前の十字路で、浜串に帰って来るお母さんの運転する車が十字路を斜め45度に横切っていきました。それはつまり、一時停止をせず、直角に曲がらずに、けっこうなスピードで斜めに横切ったということです。

わたしは車庫から出たばかりだったので、速度は出ていませんでしたが、怖いなぁと感じました。わたし自身もあちこちで他の車に迷惑をかけているのであまり言えた義理ではありませんが、心の中で「事故起こさないでね・・・救急車で運ばれたりして、わたしの仕事を増やさないでね」と祈りました。けがなくて、良かったです。

あちこちで、「お腹出てきたね」と言われるようになりました。「最近、走ってないの?」と遠回しに言う人もいます。正直、秋口にならないと走る理由が見つからないので走っておりませんが、まだイトヨリのシーズンに入っていないことだし、時間の無駄遣いをするくらいなら、走ったほうがよいかもしれません。心を入れ替えて、走ってみようかと思います。

今週の福音朗読を読み味わうのに、直前の箇所を頭に置いておくと役に立つと思います。ルカ福音書の9章が選ばれていますが、9章の始めで、ヘロデが、イエスの噂を聞いて戸惑う場面があります。「いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。」(9・9)

ヘロデはイエスを信じることはありませんでしたが、イエスが弟子たちに問いかけた「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」(9・20)ことばの前に、図らずも立たされていることになります。ユダヤの王ヘロデがイエスを「何者だろう」と不思議に思ったということは、ユダヤの国民すべてが、イエスに関心を持つきっかけになったでしょう。

そんな中で、「五千人に食べ物を与える」奇跡が取り上げられ、今週の朗読箇所へと続いているのです。ヘロデ王が、イエスを「何者だろう」と思っている。そんな中で、イエスは五千人に食べ物を与えてくださる。それを目の前で見た弟子たちも、当然「このかたは何者だろう」と考えたはずです。

イエスは、これらの出来事、つまりヘロデの当惑、パンの奇跡を見たあとで、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と弟子たちに問いかけます。これまでよりも適切な答えをイエスが期待していたとしても不思議ではありません。そこでペトロが代表して「神からのメシアです。」(9・20)と答えました。

ペトロの答えは、十分なものだったのでしょうか。ペトロは適切な答えを言ったのですが、ペトロ自身には、言葉の重さがどれほどのものであったかが理解できていませんでした。実際イエスは、弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じておられます(21節参照)。

言葉の重みを分かってなくても、答えは立派です。ただ、いつかはその言葉の重みを理解しなければなりません。イエスは、「神からのメシア」が「苦しむメシア」であることを、正しく理解する道も示してくださいました。それが、「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(9・23)という道でした。

この道を、何の疑いもなく歩んでいけるなら、弟子たちに沈黙を守るように戒めたりはしなかったでしょう。ですが、「自分を捨てる」とか「十字架を背負って」といった生き方は、喜んでは引き受けられない生き方です。難しい道ですが、この道を通らなければ、「神からのメシア」「苦しむメシア」を理解することはできないのです。

「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」(9・22)「必ず・・・ことになっている。」これは神のご計画です。人間の、なかなか当てにならない計画とは比べものにならない確かな計画です。

わたしたちは、イエスに従う道を選ぶか、拒むかを決めなければなりません。「苦しむメシア」が苦しむ理由は、ほかでもない、わたしたちのためです。わたしたちのためにイエスが苦しむことを、わたしたちが信じるために、わたしたちも日々、自分の十字架を背負って、イエスに従うのです。

もちろん、わたしたちは自由に物事を選ぶ自由意志を与えられています。ですから、自分の十字架を避けて通ることも可能です。しかしそれは、「苦しむイエス」を信じないことになります。「神からのメシア」が示す神秘に背を向けることになります。

イエスが示す「神からのメシア」への信仰を、ペトロは表明しました。その言葉の重みも、わたしたちが理解するために、今日の自分の十字架を背負うことにしましょう。報いが欲しいから自分の十字架を背負うのではなく、十字架を担うことに意味があり、イエスがどなたであるかを知る道があることを信じましょう。十字架を愛するための恵みを、このミサで願うことにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第13主日
(ルカ9:51-62)
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ちょっとひとやすみ
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▼プロ野球もおよそ半分の試合を消化して後半戦に入った。あいかわらずわたしの応援する広島カープは見た目には3位か4位だが首位から10ゲーム以上離されて蚊帳の外。気持ちはチャンピオンシップ戦に残りたいと思っているが、今の状態でCS戦に残っても、相手に花を添えるようなものかもしれない。
▼プロ野球は統一球問題で揺れに揺れた。コミッショナーは「知らされてなかった」と言うが、何の責任も感じていないのだろうかと唖然とした。「お飾り」のような日本のコミッショナーの立場を考えれば、それも致し方ないのかもしれず、記者会見はむしろ可哀想でもあった。
▼それはともかく、広島に行って、マツダスタジアムで野球を観戦する名案はないのだろうか。広島まで往復するには、新幹線が現実的だが、新幹線で行くと25000円はかかりそうだ。しかも時間がかかる。昼から飛んでいって、ナイターを観戦して、帰りは翌日。ゆっくり広島を見物する時間も欲しいし、何か名案はないだろうか。
▼1つだけ、名案がないわけでもない。ただ、この書き込みは最近見ている人が少なくないので、見た人からの意見が回り回って・・・ということもなきにしもあらずだから、発言は控えなければならない。
▼広島のチームカラーは赤である。赤いユニフォームが似合うとは思っていないが、前田智徳選手の背番号のユニフォームは、かっこいいからぜひ着てみたい。そのためには、体づくりをして、ユニフォームに恥じない姿になる必要がある。そういえば生活習慣病検診も受ける時期が来ているし、やはり運動を始めなければならないようだ。

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今週の1枚
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第263回目。前田智徳選手の背番号1。こんなユニフォームが着てみたい。

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年間第11主日(ルカ7:36-8:3)神の全能の力は弱さの中に現れる

2013-06-16 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
13/06/16(No.655)
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年間第11主日
(ルカ7:36-8:3)
神の全能の力は弱さの中に現れる
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木曜日に、少し怖い思いをしました(イノシシと納骨)。福見の曽山という墓地で納骨を頼まれていて、祭服を着て墓地に登り、納骨の祈りを済ませてきました。帰り道、まだ雨のあとだから足もとに気をつけてと言われたその直後に足をすべらせてしまい、石段を三段くらいすべって、尻もちと、手を擦り剥き、小指の爪が割れていました。

側にいた参加者が「キャー」と大声を出しまして、祭服に泥が付いてしまいましたが、幸いにわたしは起き上がることができまして、今こうして報告することができています。あとで、肩胛骨あたりがやけにひりひりするので確かめましたら、そこも擦り剥いていました。

今になって考えると、よくあれくらいの擦り傷で済んだなぁと胸を撫で下ろしています。頭を打ったり、首を痛めたりしていてもおかしくない状況でしたから、神さまに感謝しなければと思います。ついでの話ですが、少し寄付をしますので、横道に入る手前の石段に、手摺りを付けてください。次に納骨をお願いされた時、安心して出掛けたいです。

さて、今週の福音朗読には、イエスが罪深い女をゆるすという場面が選ばれています。16日(日)の午後に、わたしは信仰養成講座の講師を頼まれているのですが、講話のために準備していたことが今週の朗読された福音の学びと結びついたので、講話の紹介も兼ねて話したいと思います。

午後からの信仰養成講座でわたしが担当するのは、信仰宣言の中の「父なる神」についてです。わたしたちは信仰を言い表すにあたって、この「父なる神を信じる」ということが何より大切になります。わたしたちが信じようとすることがらが、すべて父なる神を信じることに深く関わっているからです。

この父なる神についてわたしたちが宣言するのは、「天地の創造主」という信仰と、「全能の父である神」という信仰です。わたしたちの多くは、神さまの特徴について次のようなことを習い覚えたと思います。「神は全知全能永遠で限りなく尊く、また慈愛深いお方です。」

ところで、わたしたちが唱える信仰宣言の中で、父なる神について、「全知全能永遠で限りなく尊く、また慈愛深い」とすべてを並べて宣言しているわけではありません。ただ「全能である」そのことだけを取り出して宣言しています。ということは、もっとも古いとされる使徒信条や、ニケア・コンスタンチノープル信条が固まった時代には、「全能の神」ということがとくに重要視されていたということなのでしょう。

そして、この「全能の神」という性質を、今週の福音朗読を読み解く鍵に使いたいのです。さてカトリックの教えを学ぶ規範版として福者ヨハネ・パウロ二世が最後に手掛けたのが「カトリック教会のカテキズム」という書物です。そして、最近この本を要約したものが出まして、この中に「全能の神」の性質がとくに現れるのは、「無からの世界の創造」「愛による人間の創造」において現れるとあり、さらに、「御子の受肉と復活」「人を神の養子とするたまものにおいて」また「罪のゆるしにおいて」現れることが説明されています。

今週の「罪深い女をゆるす」という場面は、まさに、罪のゆるしにおいて神の全能が発揮された特徴的な場面です。「イエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」(ルカ7・38)この女性は、あわれみがもっとも必要な状態にありました。

ところが、この場面で女性にあわれみをかける人はだれもいません。「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」(7・39)ファリサイ派の人の心の声は、イエスの弟子たちの声も代表していたかもしれません。みなが、女性を罪人として排除しようとしていたのです。

ここに、神の全能が働きます。神お一人しか、この女性にあわれみをかけることはできませんでした。それは、神の全能の力でしか、この女性の罪を覆うことはできなかったということです。イエスがパウロに語った「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(二コリント12・9)ということばの通りです。

もしわたしたちが、今週の福音朗読を通して「神の全能の力は、弱さの中で働く。罪人のゆるしの中で働く」ということを信じるとき、過去に起こった出来事だけに目を向けてはいけないと思います。むしろ、神の全能の力は、今この時代に、わたしたちの今の生活にも発揮されるのだと信じる必要があるのです。

イエスは、かつてファリサイ派の人の招待した家で全能の力を示してくださったように、わたしたちの家庭にも、わたしたちの小教区にも、わたしたちの社会にも、罪のゆるしを通して神の全能の力を示し、罪人に近づいてくださいます。わたしたちは今日の物語のファリサイ派の人のように罪人を排除するのか、罪人をゆるして受け入れるのか、どちらか選ばなければなりません。

この21世紀においても、わたしたちは神の子イエス・キリストの「全能の力」を信じる人でありたいと思います。イエスに神としての全能の力を信じなければ、「あなたの罪は赦された」ということばも、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」ということばも聞くことはできません。全能の力を信じなければ、2千年前と何も変わらないことになります。

全能の神が、弱さの中に、罪の中に、力を発揮してくださると信じましょう。信じたことを、生活の中で声にしてみましょう。全能の神の力を信じるとき、わたしたちは変えることのできなかった社会を変えることができるのだと思います。

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‥次の説教は‥‥
年間第12主日
(ルカ9:18-24)
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ちょっとひとやすみ
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▼イノシシの話。上五島に住んでいると、鹿とイノシシに頻繁に遭遇する。だれもが遭遇するわけではないと思うが、夜に車を走らせたり、早朝に移動を繰り返す人なら、鹿とイノシシに遭ったことのない人のほうが珍しいだろう。
▼木曜日の納骨、午前10時過ぎの約束だった。それで朝9時半ころに浜串から岩瀬浦小学校の前を通って福見に移動していた。天気もとてもよかったので、その日はバイクで移動した。岩瀬浦小学校の隣には、施設があり、そこに「中山」というバス停がある。
▼わたしはバイクでのんびりその道を流していた。すると目の前に、道路脇の溝に鼻を突っ込んでいるイノシシがいるではないか!とっさにバイクを減速し、ギアを下げ、いったんはそおっと通過した。しかし未練があり、ケータイで写真を撮影しようとUターンして反対車線から近づいてみた。
▼このイノシシは、よほど溝にたまっていた泥の中の虫(ミミズか?)に気を取られていたのか、まったく逃げる様子もなかった。しかしケータイで確実に姿を捉えようとしたとき、バイクのマフラー音にようやく気づいて、その場を離れ、残念ながら写真に収めることができなかった。
▼イノシシが逃げた先は、わたしが接近するために近づいた反対車線だった。これはまずいと思い、少し離れて様子を見ていると、「中山」という停留所の脇の茂みに隠れてしまった。その茂みは周囲が100mくらいの小さな茂み、人が大勢いたなら、イノシシを捕まえることができたかもしれない。
▼いや、ケガをする危険のほうがはるかに大きい。ただでさえ墓地からの帰りに足をすべらせ、肩胛骨の打ち身で痛い思いをしている体である。これ以上あえて危険に近づく理由はどこにもない。あとで考えたら、いつか道路でイノシシが事故に遭ったのを撮影した場所もまったく同じ場所だった。これからあのバス停周辺は、要注意である。

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今週の1枚
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第262回目。あとで掲載しますが、信仰養成講座の様子。

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年間第10主日(ルカ7:11-17)キリスト者は御聖体のイエスにいのちの根拠をもつ

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こうじ神父
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13/06/09(No.654)
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年間第10主日
(ルカ7:11-17)
キリスト者は御聖体のイエスにいのちの根拠をもつ
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今年度の教区司祭黙想会に参加してきました。約一週間にわたる黙想会の最初のほうは、よく説教師の講話に集中して耳を傾けることができたのですが、終わりのほうになると小教区の皆さんのことがだんだん気になってきて、浮き足立ってしまいました。

今週末には浜串教会の旧教会跡地で記念碑の祝別とミサを予定していましたし、福見教会の人で病者の塗油をお願いされている人のことも気になっていました。そのほかにも船舶検査の係官から連絡が入ったりして、だんだん帰ってからのことが頭の中で膨らんでいたのです。

それでも、今年の説教師から持ち帰ることのできた収穫はたくさんありました。その中から、6回目の説教で話された「御聖体についての講話」を紹介しながら、今週の福音に結びつけていきたいと思います。

御聖体の秘跡は、皆さんご存じのようにイエスが最後の晩餐の席で弟子たちを目の前にして制定されたものです。この最後の晩餐の雰囲気を、説教師の塩谷神父さまは「この上なく愛し抜かれた弟子たちに最後に残した形見、それが御聖体である」と説明してくださいました。

イエスと弟子たちは、3年間の宣教生活の間、イエスのことばによれば、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(ルカ9・58)という生活をしていて、この世的には何も残せる財産は持ち合わせていませんでした。

イエスもそのことは十分承知していたでしょう。そのような中で、イエスが弟子たちに残せる形見、財産は、イエスご自身だったわけです。もはや弟子たちに残せる形見は、ご自身のからだしかなかったのです。

この雰囲気を感じ取りながら、わたしたち司祭はミサをささげていきたい。説教師の神父さまはそうわたしたちに呼びかけました。「みな、これを取って食べなさい。これは、あなたがたのために渡されるわたしのからだである。」

別れの間際に、形見を残しておきたい。しかしイエスには、物質的な形見となるようなものは何もない。ただあるのは、ご自分のからだのみ。このわたしのからだを、あなたたちに形見として残そう。そんな思いを、司祭たちもミサの聖変化の時に感じ取ってほしい。説教師が最後の晩餐の場面を深く理解していることが、この日の講話から十分伝わりました。

黙想会のこの学びを、今週の福音朗読を読み解くきっかけにしたいと思います。選ばれた箇所は、「やもめの息子を生き返らせる」という場面でした。すでにやもめとして登場する母親は、今度は一人息子まで失うことになります。男性が絶対的に優位だった2千年前のユダヤ社会の中にあって、頼るべきものをすべて失った。それがこのやもめの姿でした。

イエスは、すべての希望を失っている親子に近づきます。イエスは若者を生き返らせ、母親に返してくださいました。本来いのちに満ちあふれているはずの若者が、いのちを絶たれてしまっている。この場面でイエスが与えることができるのは、この世的な何かではなく、やはりイエスご自身のいのちだったのではないでしょうか。いのちの与え主である神として、若者のいのちを取り戻してくださったのです。

今ここで泣いている母親にとって、「もう泣かなくともよい」と言うことができるのは、若者のいのちを取り戻せるお方しかいません。母親はきっと、一人息子のいのちの他に何も望みはなかったからです。イエスは、母親の「これしかない」という望みに答えてくださいました。

実は、イエスはその当時も今も、人間の「これしかない」という願いに応えてくださるお方なのだと思います。わたしたちキリスト信者は、この世にすべての希望を置きません。キリストに希望を置いて、この世を生きています。それは、この世にすべての希望を置く人からすれば滑稽な姿かも知れません。

この世にすべての希望を置く人に対するわたしたちの答えはこうです。「わたしたちの希望は、イエスにしかありません。」御聖体のうちにおられるイエスにしか、この世にすべての希望を置かない生き方を説明できる根拠はないのです。

司祭・修道者は、結婚生活などに代表されるようなこの世のパートナーをもちません。お互いに助け合う生き方である結婚生活は本当にすばらしいわけですから、それを手放して生きることは、司祭・修道者の生き方に縁のない人々にとっては滑稽に見えるかも知れません。

司祭・修道者にとって、自分たちの生き方に価値を与えるのは御聖体のイエスさま、これしかありません。単に独身生活を保って社会に貢献する生き方を目指すのであれば、司祭・修道者になる必要などどこにもありません。御聖体のイエスしか、司祭・修道者の生き方を説明できる根拠はないのです。

キリスト者の生き方は、日本の中にあってたった1%しかいない人々の生き方です。99%の人々にとっては滑稽な生き方かも知れません。しかし、わたしたちがこの生き方に絶対の自信を持って生きるなら、パン種が練り粉全体を発酵させるように、日本の社会に変化をもたらすことができるのではないでしょうか。

そのためには、「わたしたちが1%しかいない人々の生き方ができる根拠は、御聖体のイエスにしかない。」そう固く信じて、生きていく必要があります。

今日のミサでみことばと聖体に養われながら、「わたしたちが確信を持てる根拠は、御聖体のイエスにしかない」と、信仰を言い表すことにしましょう。わたしたちキリスト信者の生き方が、日本に住む多くの人の生き方に響きますようにと、ミサの中で恵みを願いましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第11主日
(ルカ7:36-8:3)
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ちょっとひとやすみ
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▼黙想会に参加するため、長崎本土の長崎市内に5日間滞在した。こまごましたことは気にしないが、通信環境は離島とは隔世の感がある。宿泊先のカトリックセンターで、自由時間にクラウドに置いているさまざまなファイルにアクセスしたいが、通信手段を確保できるか心配していた。
▼わたしの記憶しているかぎり、カトリックセンターは1階にカフェがあり、ここでは無料のWi-Fiネットワークを利用できることは知っていた。だが自室は5階、これだけ離れているとカフェの無線LANは利用できない。かと言って、1階までわざわざ降りて行くのも辛い。どうしたものかと心配しつつカトリックセンターに入室した。
▼ところが、5階の自室で無線ネットワークを確認してみると、なにやら非常に強いシグナルのサービスがあるではないか。SWS1dayという表記になっている。おそるおそるつなぐと繋がった。しかし、ブラウザを開くとソフトバンクと1日分の契約をするようにとの案内。なるほど。ソフトバンク利用者でなくても、1日単位での契約ができるわけか。490円はちと痛いが、便利さに負けて契約をした。
▼通信速度も問題なく、すこぶる快適である。お金がかかっていることを忘れてしまいそうである。黙想会の説教会場は大司教館だ。大司教館の説教会場では無線LANが不自由なく使えるので、説教会場でメモを取り、それをiPadで写真に撮り、facebookにアップしたり、DropBoxにアップしておく。
▼カトリックセンター自室に戻ったら、大司教館で作ったものをソフトバンクWI-FIスポットEXサービスで受け取る。これは便利だ。多少の出費はあるが、今年は部屋でポテトチップスも食べていないし、まじめに過ごしているので自分としては納得している。
▼ただし、今回のサービスは24時間限定のサービスである。明日も契約を更新することになるだろう。睡眠時間も、大司教館で講話を聞いている時間も、24時間の中にカウントされている。お金はかかる。でもそれでも、本土は便利だなぁ(泣)

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今週の1枚
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第261回目。声の奉仕会マリア文庫で会員と道行く人を見守るマリアさま。

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キリストの聖体(ルカ9:11b-17)イエスに渡し、イエスの祝福を受ける

2013-06-02 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/130602.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。)
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こうじ神父
「今週の説教」
13/06/02(No.653)
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キリストの聖体
(ルカ9:11b-17)
イエスに渡し、イエスの祝福を受ける
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典礼暦C年の「キリストの聖体」の主日は、ルカ福音記者が書き記したパンの奇跡の出来事を福音に選びました。ルカは、福音を書き残すのにマルコ福音を参考にしたようです。ただ、マルコ福音を丸写しするのではなく、マルコが伝える物語の中で、自分が伝えたいことに合わない部分は省略したりしています。

2つその例を挙げますと、朗読の最初に「イエスは群衆に神の国について語った」とありますが、参考にしたマルコ福音書には「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」(マルコ6・34)となっていて、「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れむ牧者の姿」をルカは省略しています。

また、パンを群衆に分け与えるときに、マルコ福音書では「イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった」(マルコ6・39)とあるのですが、今日朗読したルカ福音書の同じ箇所では「イエスは弟子たちに、『人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい』と言われた」(9・14)となっています。

これは、パンを増やす奇跡物語を通して、福音記者が何を伝えたいかを知ると理由が分かります。マルコ福音記者は、「羊を青草に休ませ、豊かに養う牧者の姿」を伝えようとして、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れむとか、群衆を青草の上に座らせるとかの記述があるわけです。

ルカ福音記者は、それとは違うイエスの姿を伝えようと考えているので、あえてマルコの強調点を後ろに下げて、見えなくしているのです。ルカが伝えたいのは、弟子たちが「あなたはキリストです」と信仰告白できるための姿、神のキリストとしての姿なのです。

では弟子たちは、イエスのどんな姿を見て、「あなたはキリストです」と信仰告白できるようになったのでしょうか。単純に、五つのパンと二匹の魚を増やしてくださったことでしょうか。

それは、どうすれば食べ物を大勢の人々に渡せるのか、そのことに気づいたときでした。弟子たちがわずかな食べ物を差し出し、イエスの働きに協力すると、絶望的とさえ見えた大群衆に食べ物が行き渡りました。いったん自分たちのパンと魚をイエスに渡し、イエスから受け取ったパンと魚を群衆に配ったときに、彼らはイエスがだれであるかに気づいたのです。

わたしたちの体験に照らして考えてみましょう。4月29日、わたしたちは高井旅教会献堂五十周年、福見教会献堂百周年を祝いました。この記念事業はどうしてもなし遂げたい事業でしたが、わたしたちの努力で、本当にその日を迎え、すべてをなし遂げることができると、最初からお考えだったでしょうか。

わたしの頭の中は、こんな大きな事業を無事になし遂げるのは、難しいのではないか、わたしの力では無理なのではないか。最初はそんなことを思っていました。だれか代わりに、陣頭指揮を執ってくれないだろうか、一度も経験したことのない大きな計画に圧倒されて、もしかして三年で転勤しないだろうか、そういうことすら考えていたのです。

わたしたちの手元にあったのは、本当はパン五つと魚二匹、それくらいしか持ち合わせがなかったのです。本来なら、これだけの事業をなし遂げるにはあまりにも頼りない出発でした。けれどもわたしたちだけですべてをなし遂げるのではないと途中で気づき、多くの先輩、この土地をふるさとにしている多くの出身者、そうした人との繋がりの中で、一筋の光が見え、道が示されていったのです。

それは、言ってみれば、パン五つと魚二匹を、いったん神さまにお渡しすることでした。わたしたちだけではとても無理です。今ある知恵、今使える人材、お金はこれだけです。どうかこれをあなたの祝福で満たしてください。

そう願ったとき、イエスはわたしたちの五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて渡してくださったのです。イエスの祝福を受けて帰って来たとき、わたしたちが持ち合わせていた物はすべての必要を満たすほど豊かになっていました。

わたしは、今回の高井旅教会献堂五十周年、福見教会献堂百周年をとおして、パンの奇跡を体験し、イエスを「神からのメシアです」と信仰告白できる力をいただいたのだと思います。遠大な計画を可能にしたのはイエスのおかげですと、今は自信を持っていうことができます。

わたしたちの体験は、大切なことを教えていると思います。わたしたちが持っているものを、いったんイエスに渡すこと。そしてイエスの祝福を受けて渡してもらうなら、豊かにしてもらえるということです。イエスが祝福して豊かにしてくださったとき、それはわたしを満たしてくれるだけでは終わらず、わたしを通して多くの人を豊かにしていきます。

では何を、イエスにお渡しすれば良いのでしょうか。何よりもまず、今日一日の始まりを、イエスにお渡しするのがよいと思います。わたしたちは、たとえばこうして主日のミサに集まり、礼拝をささげています。それは、今週一週間を、イエスにいったんお渡しすることです。イエスに委ねることで、イエスが祝福し、もう一度渡してくださいます。その時、祝福された一週間は、わたしだけではなく、数えきれない人を豊かにする時間に変わっているのです。

ミサは、みことばと聖体の食卓に近づくことです。わたしたちの持っているもの、時間も知恵も、大きなことを成し遂げるにはあまりにも非力です。それをささげものとしていったんイエスに渡し、みことばと聖体に近づくとき、大きな祝福を受けます。

キリストの聖体の祭日、いったんイエスに明け渡して、大きな祝福を受けてもう一度授けてもらう体験を積みましょう。体験を通して、「イエスは神からのメシアです」と、力強く信仰をあかしできるよう、恵みを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第10主日
(ルカ7:11-17)
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ちょっとひとやすみ
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▼教会に集まってくる子どもたちと自分の年齢が、確実に親子ほど離れてきた今、いまだから感じたり考えたりすることがある。水曜日の夜、教会学校を終えた中学1年生の男子1人と女子1人が、「神父さま、帰り道こわいので、一緒に家まで歩いて行ってください」と言ってきた。
▼可愛いなぁ、とまず思った。30代の時なら、一緒にはついて行っても、可愛いなぁとは思わなかっただろう。それと同時に、この子たちと関わりはじめて4年、何かの絆が生まれてきているのかなぁとも感じた。
▼平日朝6時のミサに、2人ずつミサのお手伝いをする侍者がやって来る。「何時に起きたの?」と聞くと「朝5時」という。実際には5時40分くらいにしか来ないが、それでもたいしたものである。そんなこどもが侍者服を着る前に「あー疲れた」と背伸びをした。
▼何気ない仕草で、別に何も考えずにしたことだろうが、わたしは朝疲れていても「あー疲れた」と背伸びをするわけにはいかない。羨ましいというか、微笑ましい。「昨日夜更かししたんでしょ」と聞くと、「うん」と言う。10時まで起きていたそうだ。
▼こうした場面が繰り返されているので、これからは、どこに行っても親子、ある場合はそれ以上年齢差があることを自覚して、接する必要がある。絶対に、「お兄さん」ではあり得ない。わたしが近づけば一歩下がる子どもたちを見て、「どうして近づいてくれないのだろうか」と頭を抱えていたが、そうではない、近づきがたいのである。

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今週の1枚
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第260回目。福見教会聖堂内のマリアさま。10月に福見で聖母行列をしたいです。

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