礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「君、切腹せよ!」(雑誌『公論』の一編集者)

2015-11-07 02:45:22 | コラムと名言

◎「君、切腹せよ!」(雑誌『公論』の一編集者)

 日本ジャーナリスト連盟編『言論弾圧史』(銀杏書房、一九四九)の紹介をしている。本日は、「出版弾圧史(昭和期)」の章(執筆・畑中繁雄)の「編集権の強奪はこうして達成された」の節から、「Ⅳ 別働隊」の一部を紹介する(一二七~一二九ページ)。

(4) 日本編集者協会
 裏切り行為は、そしてみずから言論の自由をファシスト支配に売りつけて行く一群は、編集者自身の中からも輩出してきた。
「日本編集者協会」(昭和十六年五月生誕)に寄つて、後年その指導権を担つた一部編集者の国粋ファナティストの群れがこれである。「日本編集者協会」の前身は、「日本編集者会」であり、これは、昭和十五年、近衛新体制運動の機運に即して結成され、また既存「東京編集者協会」を発展的にこれに合流せしめて生まれたものであつた。
 たゞし、前身たる「日本編集者会」の結成趣旨は、いまだはなはだ純真であつた。すなわち、建前においてこそ、いちおう新体制運動に即したとはいえ、それが究局の目標とするところは、いよいよ急速調にあつた反動攻勢を最後の一線において食いとめ、むしろ良心ある編集活動を防衛しようとする自覚ある細集者たちの結集体たることを期し、これを相互啓蒙と共同防衛の場たらしめようとしたものであつた。その中核体は、中央公論、改遣、日本評論、文藝春秋各社の総合雑誌編集者の有志によつて一時構成されたのであつたが、しかし組織において画一主義を採用し、都下全雑誌の編集者をほとんど無条件にこれに加入せしめたことに失敗の遠因があつた。情勢の変化発展は、かえつて新たに加入した反動分子のイニシアチーブを前面に押し出さしめ、後に『公論』〔第一公論社〕『現代』〔大日本雄弁会〕がこれに加入するにいたつて、軍部官僚の背後的バック・アップとその使そう〔使嗾〕とがこれにともない、ついに、さきの設立者らは後面におしやられ、実際的には指導面から完全に脱落してしまつた。そしてこれが「日本編集者協会」に発展して、ファナティスト斉藤龍太郎(文藝春秋社)がその会長に就任するや、その後は完全にファシスト編集者たる『公論』の下村亮一、上村哲彌、同勝彌、『文藝春秋』の柳沢彦三郎、下島連らによつて牛耳られてしまつたこのグループは、こうして、かえつて内側に向つて架けられた、ファシズム言論支配の橋頭堡と化してしまつたのである。
 いまはむしろ古風な尊王攘夷の志士をもつてみずから任ずるこうした編集者の一群は、こゝを足場として自由主義的立場にある編集者や出版社の内情探索から仲傷〔ママ〕密告をまであえてなし、研究会を名目として、非協力編集者の査問から勧告状通達などをことゝした。『公論』の一編集者が、真珠湾侵入直後、三木清の論文を掲載した他誌の編集者に向つて「君、切腹せよ!」と迫つたのも、こうした研究会(昭和十七年一月二十九日、文藝会館において)とやらの一席においてゞあつたし、また、昭和十八年末、都下の雑誌編集者の有志を募つて、彼らを錬成と称して「みそぎ」の勧行〔ママ〕に誘つたのも、この編集者会の残した業蹟の一つであつた。
 こゝでもう一つ注意すべきは、かつてブルジョワ・デモクラシーないし社会主義イデオロギー興隆の気流に乗つて生長した先進総合雑誌の、またそれゆえに今日の決定的頽勢のその間隙を狙つて、逆に天皇制ファシズム・イデオロギーをふりかざすことにより、一気にその膨脹肥大を焦躁する後進総合雑誌における商業主義的打算についてゞある。そのいずれであれ、根底を貰ぬくものは商業主義の原理であり、商業主義の本能的打算の前には、営業ジャーナリズムは勇敢にその自由と使命を時の権力者に売りわたすことをもあえてする。だからこそ、一面、主務官庁たる「情報局」はもちろん、その上に君臨している軍部も、その下にかしづぐ「日本出版会」(日本出版文化協会)も、ひとしく、新旧出版商人のそういう商略かつとう〔葛藤〕の巣窟と化しもしたのである。ファシストの絶対支配下、なおその延命策を願つて、そのころ出版社と軍人・官僚との間にかわされた頻々〈ヒンピン〉たる饗応、頻々たる待合取引がそれを雄弁にもの語つている。

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