礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

国字問題の解決が急務となった1941年

2015-11-16 05:58:31 | コラムと名言

◎国字問題の解決が急務となった1941年

 本日は、松坂忠則〈マツサカ・タダノリ〉の「国字問題と国文学――表音カナヅカイによる」という論文を紹介してみよう。『科学評論』の一九四一年(昭和一六)一一月号に掲載されていたものである。
 松坂忠則(一九〇二~一九八六)は、カナモジカイに属するカナモジ論者で、戦後は国語審議会の委員にもなった国語学者である。

国 字 問 題 と 国 文 学
 表音カナヅカイによる
        松 坂 忠 則
 学問が尊重され、学者の意見に耳をかたむける人々の多くなることは、原則としてはもとより結構なことにちがいないのであるが、この風がさかんになるにつれて、しばしば大いなる禍〈ワザワイ〉を生ずることを警告したいと思う。それは時として専門外の学者を専門家だと思いちがいしてその門をたたく民衆が生じやすい点、およびこれを奇貨として、もしくは無意識のうちに、専門外のことがらに対して専門家ぶる学者を生じやすい点である、そのいちじるしい実例は、国字問題と国文学者との関係において見出される。
 一般社会の国字問題に対する関心が、今日のほど高まつたことはない。これは、いくつかの原因が、今日はからずも一時に作用したためである。その第一は、海外における日本語教育の大量な実施が必要になつてきたことである。文部省が二度にわたつて開催した国語対策審議会の決議においても、二度ながらに国字問題の解決の急務が唱えられている。第二は、国家意識が高まつて来た当然の結果として、文字に対する自主性が高まり、これまでの支那依存主義が許されなくなつたことである。大政翼賛会臨時協力会議における山本有三氏のカナ呼称改正論が、あれだけ大きな反響をよび起したのも、そのためである。第三は、国民教育の再出発にともなつて、国民精神、体育、科学、この三つの部面に対する大いなる要望が、結局、国字問題を解決しなければラチがあかないと、人々に気付かれるにいたつたことである。陸軍が率先して兵器用語の大改正をおこない、漢字は国民学校の四年生程度で習うものにし、カナヅカイは全部表音式に改めたのは、そのいちじるしい現れである。
 政府は、今年〔一九四一〕二月二十五日に、閣議において、国語国字問題解決を重要国策として取りあげることを申しあわせた。まことに時宜に適した処置である。私どもは十数年来この運動にたずさわつて来たのであるが、多くの人々は、しばしば我々に向つて「そんな運動は、社会が平穏無事になつた時にやるべきだ」と言われた。しかるに実情は、日本が、のるか、そるかのセトギワに立つに及んで、はじめて国字問題の解決が国策に取りあげられたのであつた。
 さて、このように進んで来るにつれて、人々は、いつたい国字問題はどのように解決すべきであるかを知ろうとした。ここに多くの国文学者たちが、古文書の虫食い穴を算える手をしばし休めて、やおら立ちあがつたのである。文学博士とゆう、あるいは大学教授とゆう肩書が、まず民衆の目をくらました。
 この「専門家」たちの意見は、かならずしも一致しているわけではなかつた。しかし、例外的な部分をのぞけば、一様に保守論の一点ばりである。文字は伝統に生きるものである。これを左右しようとするのは、門外漢の便宜論であるとゆうのである。私はますもつて、国字問題と国文学者との正当な関係がいかにあるべきかを考えてみたいと思う。
 国字問題が問題として取りあげている題目は、わが国字をして、国語を書きあらわす作用を最も完全にいとなましめるようにしなければならないとゆうことである。ここにゆう「国語を完全に書きあらわす」の意味は、まずもつて、国字が、国民共通のものである立場から、一人でも多くの者に、正しく読み書きされることを要求している。これに対して必要なことは、文字の習得に関する学習作業の実際、その結果であるところの国民各層の書取能力や、識字能力の実際、およびいかにすれば、この要求をよりよく満し得るかの具体案を研究することでなければならない。国文学とゆうものは、これに答える任務を持つているであろうか。全然、これは国文学のあずかり知らぬことなのである。また事実、国文学者たちは、一般国民が常識として考えつく以上には何も知つておりはしないのである。これについては、まずもつて多くの事実を集めなければならない。書取試験において、児童らがどんな答案を出したか。電報文にどんなカナヅカイが書かれたか。印刷物にどんな誤植がおこなわれたか、等々の事実をきわめなければならない。こうしたことは、国文学の営業科目の中にありはしない。
 国字問題の解決をさけぶ声の一つは、書字能率を、たかめることである。あらゆる事務、あらゆる産業は、文字を手がかり、足がかりとしておこなわれる。同一内容の事務をさばくのに、西洋で一時間で済むのを日本では五時間も六時間も費している。西洋に負けないまでに能率を高めるためには、タイプライタをはじめ、多くの、事務の科学兵器を採用しなければならない。また文字は、それらの科学兵器にあてはまるように改めなければならない。弓の矢を機関銃で発射することはできない。この問題に答えるのは、機械学であり電気学であり産業心理学であり能率学である。国文学は、この方面においては無能者である。
 国文学者が唱える保守論は、伝統を守らなければならぬとゆう一点につきる。過去に行われたことがらを、そのままに守るのが伝統であると信じているのであろう。漢字が支那から輸入された当時においては、我国ではこれを漢文として、すなわち外国語として用いたのであつた。しかしそれは本来、わが国に適合するはずのないものであつた。そののち、いくたの反省が加えられ、またそれが実行のうえにあらわれて今日にいたつているのが、わが国字の現状に外ならない。もしも、過去に行われているままを守るのが伝統であるならば、文字の無い国に漢字を取り入れたことも伝統破壊であり、また一たび取り入れたものをかれこれ改めることも伝統破壊であつたのである。が、かような伝統論が、いかに素朴な、有害なものであるかは多く説明するまでもない。われわれが尊重する「伝統」とは、生々発展してやまぬ国ぶりを発揮することである。
 たゞに漢字に対する問題ばかりではない。平安朝時代に用いられたカナヅカイを、未来永劫に用いさせようとするのが、多くの国分学者たちの説である。しかし、国語の本体は古文書の中にあるのではない。今日、毎日毎時あらゆる国民の口から更に語り交され、ラジオを聞くのにも電話をかけるのにも、物を考えるのにも常に用いているところのものこそ国語の本体なのである。歴史はこの中に生きている。これは神代以来の国民が総がかりで育てあげて来た文化財である。しかしながら、これは、国文学の対象とされているものではない。われわれは、いま国民服を制定すべく努力しているのであるが、国文学者は、いま国民服を要求している大人が、その幼時にどんな着物を著て〈キテ〉いたかを研究している人たちなのである。そして、その赤ん坊時代の着物の研究に便ならしめんがために、この大人に対して、昔のまゝの着物を著せておこうとするのである。それは、たしかに理由のある言いぶんである。しかし、国民がそうした申し出にしたがわなければならぬ理由は、一つもないことを、われわれは知らねばならない。

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