礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

金浦飛行場の草原で兌換箱を見張る

2024-03-04 00:19:32 | コラムと名言

◎金浦飛行場の草原で兌換箱を見張る

『田中鐵三郎氏(日本銀行元理事) 金融史談速記録』(日本銀行調査局、1960)から、田中鐵三郎の手記「終戦前後の思い出」を紹介している。本日は、その六回目。

9 終戦とともに半島への通貨補充
 八月二十日頃から頭の左半面が妙に痛み出しましたが、毎日の打合せや、会識、措置推進等に紛れて多忙のうちに別段気にも留めず過ごしておりまして、この時絶えず気にかけていましたことは、朝鮮における兌換券発行元の補充ということでありました。京城の印刷所は用紙迄確保して準備を急いでいたのでありますが機械設備が間に合わない。もちろん急激な事態の変化とはいえ、私はあくまでも半島経済の安定を期して鮮銀の職能は最後まで完全に発揮するという堅い建前を持つていたのでありまして、それには何とかして京城への兌換券の補充を図らねばならないと思つていました。二十二日夕方の京城からの消息によりますと、ここ十日ばかり各銀行の預金払出しが増加し、鮮銀発行高は八月二十日、六六億九千万円となつたのです。その日夕方から大蔵省銀行課と打ち合わせ、更に夕食後大蔵大臣室に大臣、〔山際正道〕次官及び日銀新木〔栄吉〕副総裁に集まつてもらつて会議を開き、飛行機で内地から鮮銀券と日銀券とを朝鮮に輸送することを決定し、早速飛行機の手配をすることにしましたが、おりあしくその夜は大嵐となりました。二十三日飛行機は出航出来ず、二十四日、大本営の飛行機三機を京城に向けて出してもらうことに話がまとまり、東京と福岡から兌換券を積み出すことになつたのであります。
10 初めて経験した空中現送
 明くれば八月二十四日である。私は自ら宰領して兌換券現送に当るべく午前六時家を出て所沢に向いました。この時、三、四日前から始まった左半分の頭および顔の痛みが強くなり、歯ぐきと口びるがはれて食事が不自由となり、あごにおできようのものが出来、耳またやや痛みを感ずるに至つたので、周囲からの忠告はしきりに東京で静養することを勧められました。しかし単なるかぜひきだとのみ思つていた私は、まだ医師にもみてもらわず、京城に行つて一晩熟睡すれば直ると思つて、忠告を聞かずにそのまま兌換箱とともに旅についたのであります。その日は朝来雨降り続きで、天気を案じてなかなか出発如何が決まりませんでしたが、午後二時半に至つていよいよ出航と決定しました。一番機(これは東京と福岡から兌換券を積む)二番機(東京から兌換券を積む)、三番機(東京から兌換券を積む)という順に所沢を飛び立ちまして、私は三番機に乗り込んでおりました。西方は晴れて、一直線に京城に向い、午後六時半私の機は金浦〈キンポ〉飛行場に着陸しましたが、先発の他の二機の姿は見えないのです。飛行場には人影もありません。連絡がついていないと見えて銀行からの迎えの車も来ておりません。しかも私の乗つてきた飛行機は長く滑走路に留まつているわけにはいかぬと言つて、兌換箱〈ダカンバコ〉を草原に投げ降ろして去つてしまつたのです。随行の秘書は連絡のためあちこちと舎屋をかけめぐつており、私は一人で野原に放り出された巨額の兌換券を見張りしてなければならないということで実に当惑してしまいました。たまたま数名の兵士がどこからともなく来合せたので、これに頼んで兌換箱を草原から一応飛行場事務所の応接間に移し、ここでお金の番をやりながら残留せる隼飛行隊〔第五航空軍〕を見つけ出して銀行に連絡してもらつたのですが、なかなか迎えの姿は見えないのです。灯火は消え警備はなく治安の気づかわれる闇の夜に緊張の時は移つて午後九時半に及びました。その時であります。一台の軍用トラックがどこからか帰つて来ました。空車です。これさいわいと事情を話とすこぶる親切で、荷物を京城に運んでやるということになり、兵士の手を借りて早速応接間から兌換箱を車に積み、荷物にまたがつて京城に向かうことが出来た時は実際ほつとしました。漢江の鉄橋の手前の土手上にかかつたとき、前方から銃剣つきの四人の兵士に護衛されて迎えのトラックが来るのに出逢つたのは既に午後十時過ぎでした。そのまま銀行に行き着いて金庫に収めたが、数日前からのからだの調子がいよいよ面白くありません。其夜は熱が一層高くなり宅に帰るとすぐさま寝についたのであります。なお所沢からの輸送機中一番機はその後に着き、二番機も翌朝着いたということを後で聞かされました。

「10 初めて経験した空中現送」の節に、「現送」という言葉が出てくる。現送は、現金または現物を輸送することで、この場合は、朝鮮銀行券および日本銀行券を、内地から朝鮮に航空機で輸送したのである。
 なお、この時期、朝鮮銀行券・日本銀行券の現送が迫られたのは、朝鮮銀行の閉鎖を恐れる預金者、内地に引き揚げる日本人などが、朝鮮銀行の本支店から預金を引き出す動きが起きていたからだと思われる。

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