礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ナチス法学と民法典訣別論

2024-03-24 01:06:22 | コラムと名言

◎ナチス法学と民法典訣別論

 本日は、舟橋諄一訳著『民法典との訣別』の「序」を紹介したい。

      
 民法乃至民法典が、はたして『さやうなら』をされるのかどうか、されるとしてもそれには限度があるか、また、限度があるとすればそれはどの程度か、といふやうなことは、民法の将来について関心を有する者にとつてはもちろん、生成の途上にある経済法の研究に志す者にとつても、甚だ興味ある課題であり、また、何らかの意味において解決を迫られてゐる問題でもある。ところで、『民法よ、さやうなら』といふ標語の典拠と目されてゐるのは、シュレーゲルベルゲル教授の『民法典との訣別』論であるから、ナチス法学に対し同情的態度をとると批判的態度をとるとを問はず、その所論を知ることが、問題へ近づく第一歩であらう。本書の「第一」として同教授の所論を紹介したのは、かやうな意図に基づくものである。
 しからば、われわれの立場において、このナチス法学的民法典訣別論を、いかに理解し、いかに評価し、いかに批判すべきか。これに対する解答は、見る者の立場々々によつて、それぞれ異なるものがあらうけれども、わたくしには、同教授の所論がその表現の甚だナチス的なるにかかはらず、これを客観的に考察するとき、統制経済の段階における民法の機能変化の現象を説いたにすぎないもののやうに思はれる。本書の「第二」は、これを論證しようとする一つの未熟なる試みである。
 最後に「附録」として収めたレンホフ教授の所説に拠る私法変遷論は、――同教授の原文も、それに関するわたくしの所論も、ともに十余年前の執筆にかかることとて――いささか時代遅れの感があるかも知れない。しかし、それゆゑにこそ、かへつて、独占経済の段階における私法変遷の現象を忠実に描き出してゐるともいへるのであつて、統制経済が独占経済よりの発展でありそれと切り離しては考へられぬ以上、右の論議も、今日の問題と密接なつながりをもつわけである。
 かくて、本書は、両教授の所説に拠りつつ、独占および統制経済の段階に対応する私法の変遷につき論述したものとも見ることができ、この意味からいへば、一種の「私法変遷論」ともなるであらう。だが、かやうなものとしては、一つには両教授の所説による制約もあらうけれども、主としてはみづからの力の足りないため、説いて尽くさず、考へて及ばざる点も少なくない。わたくしとしては、ただ、この小稿により、私法の変遷に関する論議に対して、何ほどかの寄与をなしうるならば、幸ひだと考へてゐる。
 本書の成るについてまづ第一に感謝すべきは、畏友菊池勇夫教授があらゆる機会に示された友情である。また、訳文の補正その他印刷に関する一切については、法学士佐久間正一君より献身的なる御助力をいただいた。深く感謝の意を表したい。
  昭和十九年九月十七日    九州帝国大学法文学部研究室にて
                        舟 橋 諄 一

 末尾に「菊池勇夫教授」に対する謝辞がある。菊池勇夫(きくち・いさお、1898~1975)は労働法学者。1943年から1945年まで九州帝国大学法文学部長、1949年から1953年まで九州大学総長を務めた。

*このブログの人気記事 2024・3・24(9・10位の緑十字機は久しぶり、8位に極めて珍しいものが)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする