礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

8月9日零時10分、ソ連兵が越境侵入

2024-03-01 02:44:13 | コラムと名言

◎8月9日零時10分、ソ連兵が越境侵入

『田中鐵三郎氏(日本銀行元理事) 金融史談速記録』(日本銀行調査局、1960)から、田中鐵三郎の手記「終戦前後の思い出」を紹介している。本日は、その三回目。

4 はからずも北鮮に現われたソ連兵
 もとより戦況の真相は一般人には推量できないところでありましたが、大本営発表の強気のうちにも戦線の消極性が次第にうかがわれ、内地においては高射砲陣地からの砲声は不活発となり沿岸防衛に竹槍論が出て来るといつた情勢となりましたが、七月二十七日には日本に対して降伏を勧告する米、英および重慶政府が共同宣言をやつたという報道も伝わって来ました。八月六日には広島で原爆の被害甚大なるを報じて来ましたが、これは新型爆弾というだけで京城ではその真の姿を容易に呑み込むことが出来なかつたことはもちろんであります。八月九日午後二時半、軍令部の井原〔潤次郎〕参謀長から会いたいとの申入れがあり、行つて話を聞くと形勢は全く飛躍的新事態を展開していたのでありました。いわく、「九日零時十分頃からソ連兵が越境侵入し、鮮内では土里に約七〇名、五家子〈ゴカシ〉に一個小隊、満洲内では虎林〈コリン〉および虎頭〈コトウ〉に各小部隊が来襲している。飛行機も既に元山に爆弾二発を投下し、満洲の数都市に焼夷弾を落している。なお土里東方海上の島影からは艦砲射撃もやつた。」ということでありました。ソ連の対日宣戦が伝わりまして、サン・フランシスコは四時、モスコウは四時二十分、簡単に日ソ開戦を放送しましたが、これで友交国ソ連はこの日から一方的に交戦状態に入つたのであります。
5 突然の事態に臨機の措置
 翌日からソ連の戦争活動は規模を拡大して来ました。ソ連機の爆撃による鮮銀としての最初の損害は、内地からやつと取り寄せて清津〈セイシン〉に荷揚げした鮮銀券一七二箱の中〈ウチ〉約九〇箱が罹災したということでありました。即日重役一行を清津に派遣したのもこの始末のためでもあつたのであります。この日は鮮銀総裁邸に各金融団の代表者が集まりまして、緊急事態に対する申合せを決議し協力体制を強化することにしましたが、特にこの際預金の支払は平常通りに取り扱い支障のないように図ることとしたのであります。八月十一日午後三時井原参謀長を軍司令部に訪問し、羅津〈ラシン〉、清津方面紙幣の回収や清津に到着せる前記罹災紙幣の残存部分の至急取り寄せ方等を打ち合わせましたが、渾沌たる現地の消息はますます不明となり、羅津、雄基〈ユウキ〉は最早自爆退去のやむなきに至つたらしい、というのです。咸興〈カンコウ〉との間の不充分な通話でわずかに断片的情報を得たのでありましたが、同日北鮮についての措置方針を決定し本店から相次いで出張員を同方面に派遣しました。八月十二日朝ようやく清津、咸興と電話連絡が出来、先発の出張員も既に咸興に到着しており、羅津、雄基、清津などについて紙幣の状況や、家族の引揚げ処置などの消息を伝えて来ましたが、もとより詳細のことはわかりません。しかも北方戦況の推移についての見透しはつかず、また軍司令部の見解と方針は皆目不明で見当がつきませんでしたが、ただ東京において時局大転換の棣相があるような感触を受けたのであります。そこで同夜緊急重役会を開いて合議の結果、この際時局の方向を確めることが肝要であり、既に北千鮮に対する措置は一応出来たことでもあり、また紙幣の損害およびその補給等の緊急な用事もあるので、総裁は至急上京するを可とするということを決議しました。この日たまたま同盟通信社の飛行機が北京から新京を経て夕方京城に到着、東京に向つて出発するということでありましたので、同夜早速これに便乗することに手配が出来たのは仕合せでありました。【以下、次回】

「4 はからずも北鮮に現われたソ連兵」の節に、「軍令部の井原参謀長」とあるのは、当時、第十七方面軍参謀長兼朝鮮軍管区参謀長・陸軍中将の井原潤次郎(いはら・じゅんじろう、1895~1971)のことである。
 また、「鮮内では土里に約七〇名」とあるが、この「土里」は、咸鏡北道あたりの地名か。その読み、正確な位置などは不明。

*このブログの人気記事 2024・3・1(8位の美濃部達吉は久しぶり、9・10位に極めて珍しいものが)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする