礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

8月16日、大蔵省に広瀬蔵相をたずねる

2024-03-03 00:04:29 | コラムと名言

◎8月16日、大蔵省に広瀬蔵相をたずねる

『田中鐵三郎氏(日本銀行元理事) 金融史談速記録』(日本銀行調査局、1960)から、田中鐵三郎の手記「終戦前後の思い出」を紹介している。本日は、その五回目。

7 命 拾 い の 日
 明くれば八月十四日、午前六時半三国飛行場を出発しました。密雲深くたれ込めて地界は全く見えませんが、雲上の飛行は一望千里と晴れ渡り、姿をかくした富士の山頂と長野あたりに点々と高山の頭がわずかに雲の上に現われているのみでありました。ほかには飛行機の片影さえ見えない壮快な単機突破であつたのです。午前七時半を過ぎた頃、機は密雲に突入して高度三千メートルから急角度に降下し二一〇メートルに及んでようやく雲がきれて来ました。見れば多摩川沿いであり、電柱が間近く迫まつております。奧多摩の起伏せる山岳の間、視界なき密雲の中に突込んで、降下がかくも手際よく行われたことはさすがに鍛錬された操縦士の自信のほどを示すものであつてただただ驚嘆するのみでありました。そして立川を過ぎ所沢に着陸したのでありますが、丁度機から降りて互に無事を喜びかつ感謝しつつ荷物を手にした時、けたたましくサイレンが鳴り渡り警戒警報が発せられたのです。次の瞬間頭上雲を隔ててB29の爆音を聞いたのであります。さすがに密雲が深くて米機は爆弾を投下することなく通り過ぎたのですが、もしわが機の着陸が三、四分遅れていてなお雲上に飛んでいたとしたら、外見爆撃機の形であるこの一輸送機は、B29編隊のただ一撃の犠牲となつてもはやこの世の存在ではなかつたでありましよう。全く幸運でした。話を聞くとこの所沢飛行場は前日午後六時までしつようなる反復爆撃を受けまして、わが方は機関銃で応戦したけれど手ごたえがなく、飛行場にカモフラージして置いたわが飛行機の損害は大破炎上六機、中破七機を出したということで、見洩せば諸所にその気の毒な残がいが横たわつているのでした。休憩所に荷物を運んで落ち着いて見ましたが迎えの車はおりません。随行の秘書が先ず銀行に帰つて連絡してくれましたので午後四時やつと一台の車が迎えに来てくれました。五時すぎ銀行に着きその晩は銀行に泊ることにしたのですが、その夜半また空襲がありまして、B29、二五〇機の編隊が関東、福島、新潟等に焼夷弾を投下して去つたのでした。
8 大 詔 渙 発
 東上して始めてわが方の和平申入れのことを知つたのでありますが、翌十五日は大詔渙発、正午から陛下の戦争終結に関する詔書朗読が放送された感慨無量の日であります。午後三時半鈴木〔貫太郎〕内閣が総辞職をしました。この日午前中行内重役、部長の打合せ会議を開き、午後は日銀で特殊金融機関の代表者および大蔵省顧問の会合が開かれました。翌十六日は大蔵省に広瀬〔豊作〕蔵相をたずねて諸般の事情を聴取しかつ打ち合わせましたが、前途の措置については政府からはまだ別段の構想は聞かされませんでした。当日後継内閣組織の大命が東久邇宮〔稔彦王〕に降下し、翌十七日新内閣が成立して津島〔寿一〕蔵相が就任されました。即日大蔵省との事務的折衝をやり、内地への引揚者に対する現金払い、為替送金の内地現金払いの限度、外地預金の措置等についての方針がきまり、更に翌十八日午後大蔵省に特殊金融機関代表者の会議が開かれましたが、この際モラトリアムはやらないが、軍需産業の平和産業への移行、退職金の支払いによる現金増発に基因するインフレの防止を如何にするか等が議題でした。当時日銀の発行高は既に三二〇億円に達していたのであります。【以下、次回】

「8 大詔渙発」の節に、「翌十六日は大蔵省に広瀬蔵相をたずねて」とある。広瀬蔵相とは、鈴木貫太郎内閣の大蔵大臣だった広瀬豊作(ひろせ・とよさく、1891~1964)のこと。同内閣は、8月15日に総辞職したが、各大臣は、17日に新内閣が成立するまで執務を続けていた。

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