礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

東京憲兵司令官が宇垣一成の車を止めた

2024-03-16 01:55:01 | コラムと名言

◎東京憲兵司令官が宇垣一成の車を止めた

 栗原健『昭和史覚書―太平洋戦争と天皇を中心として』(1959)から、第二部「大戦前史と天皇」の第六章「防共協定と宇垣内閣の流産」を紹介している。本日は、その三回目。

 ここで国内問題にかえる。翌十二年〔1937〕一月の第七十議会で、政友会の浜田国松と寺内〔寿一〕陸相との間で、有名な「切腹問答」までやりとりされた大衝突が起った。この問題で寺内陸相は議会解散を主張したが、閣議が同調しなかったので、辞表を出し、そのため広田内閣は総辞職のやむなきにいたった(防共協定で軍の主張をそのまま容れなかったことが、内閣打倒の真因だと言われているが。)
 さて、昭和十二年一月二十五日午前一時、組閣の大命は宇垣一成〈ウガキ・カズシゲ〉元大将に降下した。宇垣ならば軍部を押えることができるであろうとして、湯浅〔倉平〕内府は西園寺〔公望〕の同意をえて推薦したもののようであった。
 その夜これより少し前、お召しを受けて参内する宇垣の車を途中にまちうけた中島(今朝吾)東京憲兵司令官は、寺内陸相の伝言を申し伝えたいと同乗して、「今夜いよいよ閣下に大命が降下されると思いますが、陸軍の若い層が騒ぎ出し、容易ならぬ状勢であります。で、此度は参内されても一応大命を拝辞して頂きたい、との事。これは直接陸相がお話し申すべきでありますが、時局柄、私が代つて申上げる様にとのこと、悪しからず御了承下さい。……」と宇垣の善処を促した。宇垣は「では、私が若し大命を受けて組閣するとなれば、二・二六事件の様に部隊が動くとか、中隊の機関銃がうなるとかの徴候があるのか」と聞くと、中島は「いやそんな事はありますまい」と答えた。宇垣は中島を途中で下車させて、坂下門より宮中に入ったのである。
 大命をうけて宇垣は組閣に着手したが、問題は右のような陸軍の態度であった。陸軍の中堅層は「既成勢力と因縁ある人物」はこの際不適任であるとして宇垣内閣に反対した。二十六日夕刻、寺内陸相は宇垣を訪問、終始「閣下」「閣下」と呼びながら「三長官会議に於て慎重考慮の結果推挙した陸軍大臣候補者が全部辞退したことは誠に遺憾であります……」と伝えた。宇垣は陸相を得るべく百方手をつくしたが、駄目だったので、天皇の大権の発動を願う他なしとして参内し、大命再降下か或いは「後任陸相を推薦せよ」との御言葉を賜るよう湯浅内府にその執奏方〈シッソウカタ〉を求めた。しかし湯浅は「もし此の際、無理を重ねて再び流血の不詳事〔ママ〕を見るようになれば事〈コト〉重大です。……」との考慮から、重ねての宇垣の申出を容れなかった。【以下、次回】

 若干、補足する。宇垣一成は、1月24日、伊豆長岡の別邸・松籟荘(しょうらいそう)に滞在していたが、午後8時45分、百武三郎(ひゃくたけ・さぶろう)侍従長からの電話で、至急、参内するよう促された。すでに東京駅直行の列車はなかったので、午後10時沼津発横浜行きの列車に飛び乗り、翌25日零時25分に横浜駅までやってきた。同駅の駅長室で、長男一雄が持参したフロックコートに着替えたのち、神奈川県知事差し回しの乗用車に乗り込み、深夜の京浜国道を東京に向かってひた走った。途中、六郷橋の手前で、国道の中央に軍人が立っている。東京憲兵司令官の中島今朝吾(なかじま・けさご)中将だった。その後、宇垣は、泉岳寺付近で中島を降ろし、零時50分ごろ、坂下門をくぐったという。
 以上の補足は、宇垣一成述・鎌田沢一郎著『松籟清談』(文藝春秋新社、1951)に拠る。
 中島中将が宇垣一車を止めた時刻はわからないが、25日零時25分から50分までの間であることは間違いない。ウィキペディア「宇垣一成」の項は、中島が宇垣の車を止めた時刻を「24日夜」としているが、これは訂正されなければなるまい。

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