礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

公法・統制法の優位は私法を排除しうるか

2024-03-29 01:16:43 | コラムと名言

◎公法・統制法の優位は私法を排除しうるか

 舟橋諄一訳著『民法典との訣別』第二部「『民法典との訣別』論について」の「一 序説」を紹介している。
 本日は、「一 序説」の「二」、すなわち第二項の本文および註を紹介する。本文中における㈤㈥は、註番号。本文に続く、(五)(六)は、それらに対応する註である。

  経済法が統制経済の法として理解せられ、公・私法の混淆乃至滲透、または、私法の公法化の現象として把握せらるべきものとするならば、基盤たる統制経済が自由なる商品経済に対する国家的統制を意味することと対応して、法的には、商品経済の法としての私法に対する、国家的統制法すなはち経済統制法の、働きかけの現象と見ることができるであらう。かくて、経済法の考察に当つて、統制する側たる経済統制法の研究の必要なことはいふまでもないことだが、他面、統制せられたる側の私法の方面よりずる研究もまた、欠くべからざるものといふことができよう。この両側面よりする研究によつて、はじめて、経済法乃至統制経済法の全貌が明らかにされうるものと考へる㈤。『民法典との訣別』論は、私法がいはば経済法に織り込まれ、公法による克服乃至滲透を受ける段階において、私法の原則法たる民法がいかにその機能に変化を生ずるかを示すものとして、右の、私法の私法の側面よりする経済法の研究に対し一つの寄与ともなりうるであらう㈥。シュレーゲルベルゲル教授の『民法典との訣別』論が、ナチス特有の観念乃至表現によつて基礎づけられてゐるにかかはらず客観的に見れば右のごとき意味を有するものと考へられるから、それは、単にナチス・ドイツに特殊な現象でばなく、普遍的意義を有するものとして、われわれ自身の問題ともなりうるのである。いふまでもなく、『民法典との訣別』に関する論議は、ひとりシュレーゲルベルゲル教授のそれに限るわけではないが、わたくしは、いま、それらを網羅的に紹介する余裕をもたない。ここでは、この種の論議の代表的なるものとして、教授のそれを取上げるにとどめるのである。

(五)末川博士も次のやうに説いてをられる。すなはち、『今日の統制経済にあつては、自由主義経済の内在的要素たる自然的秩序を自由競争の名において形成しつゝあつた経済活動の分裂した複数の単位が単一化されるのではなくて、寧ろ斯かる単位が各自の計算と責任とにおいて活動すべきことを前提としながら、その経済活動の自由が抑制され指導され調整されるのであるから、従来の私法の根幹たる私有財産制度の如きを基礎としてその上に新な理念と方向とをもつて統制秩序が進展しめられるのが常である。‥‥そしてこのことは統制経済の法的表現たる統制法がそれ自体全く新な構想の下に従来の私法制度と絶縁された体系として成り立つものではないことを示すのである。だから、それはまた、統制法規の理解の道が従来の私法の理解なしに開かれてゐないことをも教へるわけである』、と(末川博『統制法の強化と私法への関心』法律時報一三巻一〇号八頁以下)。
(六)民法と経済法との関係は、民法専攻の学徒としても、また、経済法の研究にわけ入らむとする者にとつても、解明の義務ある課題である。この点について、吾妻光俊『経済法と民法』(「統制経済の法理論」一五八頁以下、一橋論叢九巻五号)、および、原龍之助「統制と行政法の理論」五四頁以下は、最も注目せらるべき文献である。なほまた、経済法と商法との関係については、特に西原〔寛一〕・鈴木〔竹雄〕・大隅〔健一郎〕・米谷〔隆三〕・大森〔忠夫〕・三藤〔正〕などの諸教授により、貴重なる論議が展開されてゐる。しかし、右の課題の解明は、これを別の機会に譲ることとし、ここでは、さし当り、ただ、若干の問題を提出することにとどめておきたい。すなはち、民法と経済法との関連については―― 
(イ)民法は経済法の領域に織り込まれて存在を続けるか、それとも、民法乃至民法原理は経済法の領域外において独自の存在をもち、ここにその固有の妥当範囲を見出すべきか(民法の独自性の問題)。商法についても同様な問題がある(商法の自主性の問題)。わたくしは、民法をもつて商品交換の原則法とする立場から、前の見解をとるが、さうだとすれば、ここに、『民法典との訣別』、『民法よ、さやうなら』が或程度まで是認せられるわけである。
(ロ)私法は、経済法において、公法乃至統制経済法と融合するか、それとも、混淆乃至滲透の状態にあるか。いひかへれば、経済法は、渾然と一体化せる法体制を形成するか、あるひは、統制法と私法との対立・克服・混淆乃至滲透のうちに把握せらるべきか。立法の様式、研究の体系などとも関係のあることだが、わたくしは、経済法発展の現段階においては、後者のやうに理解したい。
(ハ)経済法が統制法と私法との対立・克服のうちに把握せらるべきものとするならば、統制法は民法の外にあつて統制してゐるのか、それとも、統制法は――民法と共に「経済の法」の一部をなすものとして――民法自体の原理を克服し民法の機能変化をもたらすものであらうか。これは川島〔武宜〕教授によつて提起された問題であつて、教授は後者の立場をられる(川島前掲箇所)。原〔龍之助〕教授も同説(原前掲書五九頁・七一頁)。
(ニ)経済が公私法の混淆乃至滲透のうちに把握せらるべきものとするならば、公法原理と民法乃至私法原理との適用乃至妥当関係はいかなるべきか。抽象的一般的にいへば、国家的統制の強度いかんにかかることであるが、具体的には、箇々の問題(例へば統制法規違反行為の効力の問題)について研究せらるべきものであらう。
(ホ)法発展に関する問題として、公法乃至統制法の優位は、私法の存在を全般的に排除しうるか。この点は、『民法典との訣別』の限界の問題とし本稿の最後で触れるつもりである。

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