礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

元朝鮮銀行総裁・田中鐵三郎の「終戦前後の思い出」

2024-02-28 01:52:17 | コラムと名言

◎元朝鮮銀行総裁・田中鐵三郎の「終戦前後の思い出」

 当ブログ、先週24日の記事「元日銀理事・田中鐵三郎が語った二・二六事件」では、『田中鐵三郎氏(日本銀行元理事) 金融史談速記録』(日本銀行調査局、1960年4月)という本を紹介した。
 この本の277~287ページに、参考として「終戦前後の思い出」という文章が収録されている。これは、速記録ではなく、田中鐵三郎自身による手記である。
 田中鐵三郎は、終戦前後、朝鮮銀行総裁の要職にあった。「終戦前後の思い出」は、そのころの体験を綴った手記である。本日以降、何回かに分けて、同手記を紹介してみたい。

(参考) 終戦前後の思い出
1 被 爆 の 夜
 米飛行機の来襲は昭和二十年〔1845〕に入つてから関東、関西、東北、九州とようやくひんぱんになり、爆撃の規模も大がかりになつて来ました。同年五月二十四日には大蔵大臣(広瀬)官邸で特殊金融機関首脳者の会議をやるということであつたので、私も京城〈ケイジョウ〉から出かけて参りまして二十三日の夜東京に着いたのですが、翌二十四日は午前一時頃から東京は大空襲を受け、官邸や知人宅なども相当多数が焼失しました。正午から蔵相官邸の会合が開かれましたが、出席者の中にも被害者があり、衷心これをお慰めしたわけですが、まさかその翌晩には自分がやられる番になろうとは全く思いもよらないことでした。二十五日は正午から支店内で部長会議をやり、夕方からは重役の会合で九時半頃散会しましたが、十時半になるとB29は房総と伊豆との両方面から帝都に侵入しまして殆んど全市にわたつて焼夷弾の雨をふらせたのであります。宅は東中野の塔の山にあり、環状道路に沿つて塔の山小公園を控え家もまばらで閉静な住宅地であつたのですが、猛火は烈風に乗つて四方から攻めよせて来たのです。夜半を過ぎてわが家にもまた庭と玄関前とに同時に焼夷弾が落ちて来て盛〈サカン〉に火花を散らしたのです。当時宅には雇い人はなく、妻と若い縁故者二人とそれに丁度前日京城から来た私を加えて四人が二手に別れまして、かねて習い覚えた通りバケツと濡れムシロとで手際よく消しとめたのですが、周囲の火はますます猛烈を加えまたますます近くなり、横なぐりに吹きつけて来る火の子は火せん〔火箭〕のごとくしかも大きな固まりとなって飛んで来るのです。いずれの方角へこの猛火を突破すべきか実はちゆうちよせざるを得なかつたのでありますが、時は迫つているので家財はつめ込めるだけ防空壕につめ込み、手に持ち出したものは祖先の霊神を祭つた小やしろとラジオセットと書類入れのリユックサックだけで、頭から毛布をかぶつて飛び出しました。選んだ行先は、風下ではあつたがこの前の空襲で焼けてしまった地域のあることを思い出し、火の雨の中を走つて一〇町ばかりのところの崩れた土塀の陰に身を寄せました。同じ焼け跡にうごめく避難者は数千人、四望〈シボウ〉火の手の盛に上つているところにはまだ焼夷弾は落ち続けていました。時々風向きが変るので、三度ばかりかくれ場をかえてうずくまつていました。かくて不気味な一夜は明けて火は下火となり、余燼から立ち上る煙の中を塔の山のわが家に帰つて見たのですが、家は綺麗になくなつていました。万一を期待していた防空壕も全滅し、唯門柱のみが名残り〈ナゴリ〉を残す存在でありました。付近を見ると逃げ遅れた気の毒な人であろうか、門前から道路沿いの溝などに無残な姿が散見されたのであります。やがて縁故の者が来たのでまず銀行に連絡にやり、またぼつぼつ見舞の知友も見えられたので、ひとまず中野区桃園町〈モモゾノチョウ〉の星野〔喜代治〕氏(副総裁)の避難先きに落ちつくことにしました。お陰でその夕方は風呂などに入って清そう〔清爽〕な気分を取り戻すことが出来たのは仕合せでした。二十八日から丸の内ホテルに小さな部屋を借りることになり、そこに寝泊りすることになりましたが、窓掛け〔カーテン〕が薄かつた関係でありましようか、日が暮れると蛍の光ほどの電燈で、書くことはもちろん新聞すらも読めないのでただベッドに横たわる外には何とも仕様がなく、これにはほとほと屈託せざるを得ませんでした。【以下、次回】

 田中鐵三郎は、1942年(昭和17)12月から、1945年(昭和20)9月まで、朝鮮銀行の第八代総裁を務めていた(最後の総裁)。
「星野氏(副総裁)」とあるのは、田中総裁の下で副総裁を務めていた星野喜代治(ほしの・きよじ、1893~1979)のことである。星野喜代治は、戦後の1957年(昭和32)、日本不動産銀行(あおぞら銀行の前身)を設立し、その初代頭取となっている。
 文中、丸の内ホテルの電燈が暗かったとある。これは、「燈火管制」を意識し、ホテル側が、あえてそうしていたのであろう。

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