今朝の上海は晴れです。予報は雲が多目の晴れ、最高気温は32度、最低は26度です。
湖北荊州は昨日で終わります。随分長いシリーズになりました。荊州の次には同じ湖北省の随州(ずいしゅう)に行ったのですが、ここも春秋戦国時代の青銅器の一大コレクションがあり、荊州とよく似た内容も多いので、随州より後に行った吉林省長春を先に紹介することにします。
最初は中国東北地方の衛星写真です。地図より判り易いのでこの図をつけます。写真中央、やや北東よりに長春の文字が見えると思います。長春は吉林省の省都です。戦前満州国があった時には新京と呼ばれました。
長春では第一汽車という中国最大の自動車会社が、フォルクスワーゲンやトヨタとの合弁で、或いは自社単独で自動車生産をしています。その関係で以前から長春には何度も行ったことがあるのですが、戦前新京と呼ばれた遺址は訪れたことがありませんでした。またまた中国東方航空の機内誌で見た旧満州国の遺址の写真記事に触発され、一度見て見ようと思い立った次第です。
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湖北荊州は昨日で終わります。随分長いシリーズになりました。荊州の次には同じ湖北省の随州(ずいしゅう)に行ったのですが、ここも春秋戦国時代の青銅器の一大コレクションがあり、荊州とよく似た内容も多いので、随州より後に行った吉林省長春を先に紹介することにします。
最初は中国東北地方の衛星写真です。地図より判り易いのでこの図をつけます。写真中央、やや北東よりに長春の文字が見えると思います。長春は吉林省の省都です。戦前満州国があった時には新京と呼ばれました。
長春では第一汽車という中国最大の自動車会社が、フォルクスワーゲンやトヨタとの合弁で、或いは自社単独で自動車生産をしています。その関係で以前から長春には何度も行ったことがあるのですが、戦前新京と呼ばれた遺址は訪れたことがありませんでした。またまた中国東方航空の機内誌で見た旧満州国の遺址の写真記事に触発され、一度見て見ようと思い立った次第です。
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国道256号線脇にある宝暦義民碑です。籐吉墓碑の横に昭和6(1931)年に建てられました。
江戸時代の宝暦5(1755)年美濃の国の郡上藩で大規模な一揆が起きました。年貢の取り方を変えて(検見法採用)農民に対する大増税を決定したからです。農民らは激しく抵抗し、幕府の老中への駕籠訴(老中の駕籠への直訴)や箱訴(将軍への文書による直訴)を決行しました。結果、大名金森は改易処分、老中など幕府中枢部が失脚するまでになった。この村の籐吉はその首謀者の一人です。
この一揆に立ち上がった人々およびその首謀者をのちの人々は「義民」として崇めています。
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江戸時代の宝暦5(1755)年美濃の国の郡上藩で大規模な一揆が起きました。年貢の取り方を変えて(検見法採用)農民に対する大増税を決定したからです。農民らは激しく抵抗し、幕府の老中への駕籠訴(老中の駕籠への直訴)や箱訴(将軍への文書による直訴)を決行しました。結果、大名金森は改易処分、老中など幕府中枢部が失脚するまでになった。この村の籐吉はその首謀者の一人です。
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