立山日和。

立山連峰の山々を眺め富山県内を徘徊する日々を綴ったフォト日記。2014.11.3.までは友人の中国旅を毎日掲載した。

越中のばんどり騒動(5)・・・ばんどり騒動の評価

2010年10月13日 | Zenblog
 無量寺のある舟橋村では「ばんどり太鼓」という太鼓の演奏があったり、図書館や学校でもばんどり騒動を取りあげています。また、立山町でも取りあげています。
 しかし、富山県の歴史を述べた一般向け書物では、富山県の近代化、民主主義発展の歴史のなかに必ずしも正当に位置づけられてはいないと感じました。たとえば、忠次郎の「決して堅気とは言えない」側面を強調したり、一般農民より「貧農層が多数参加」したから打ちこわしに走った、そして歴史的評価を与えずに記述を終わる、などです。
 弱点や未熟な側面よりむしろ「ばんどり騒動」がはたした積極的側面を評価すべきではないかと思います。

 立山町塚越の八幡社前の畑には、その評価には関係なく、忠次郎に供えるかのように気取らない花が咲いていました。セイタカアワダチソウまでも咲き誇っているのは容量の大きさを示しているのでしょうか。

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越中のばんどり騒動(4)・・・義民忠次郎

2010年10月13日 | Zenblog
 一揆の首謀者は、塚越村の忠次郎が金沢出訴の提案をし「死ぬ」決意を公言していましたが、ほかに数名が嘆願書を出すなどして逮捕されたものがありました。しかし、当局は忠次郎以外は「やむをえぬ行動であった」として放免、忠次郎のみを斬罪としました。
 それまでの政治の「ご破算」がこの一揆によって実現したと感じ、富山県人は、義民忠次郎によって新しい時代が始まったと意識したとも言われます。

 写真は立山町塚越の八幡社にある忠次郎の事績をたたえた顕彰碑です。

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越中のばんどり騒動(3)・・・一揆拡大と収束

2010年10月13日 | Zenblog
 農民の集団は、嘆願運動からやがて不作を過小評価した十村(トムラ=村役人・庄屋)に対する打ちこわしに転じました。最終5万人にもふくれあがった一揆集団は滑川・魚津・入善・泊へと越中新川地方の東端まで向かい村役人の家を多数打ち壊しました。
 しかし、ついには一揆勢力は、金沢からの援軍を受けた郡治局役人と滑川で衝突し壊滅しました。一揆の成果は、年貢の減免措置や有力者からの義捐金、十村などの役人の交代、打ちこわしで書類が焼き捨てられた結果の借財からの解放などがかちとられました。

 昭和初期の恐慌による小作争議が多発した昭和5年に、立山町塚越の八幡社境内にばんどり騒動の中心人物忠次郎を顕彰する「義人碑」が建てられました。写真はその八幡社です。

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越中のばんどり騒動(2)・・・舟橋村の無量寺に集合

2010年10月13日 | Zenblog
 嘆願書に対する回答がくるという10月29日には、夜も明けぬうちから、常願寺川と白岩川の間にある各村の人々がむしろ旗に村の名を大書し、すげがさ・ばんどり(みの)・草刈り姿で棒や竹やりを持ち、松明をかざし舟橋村竹内の無量寺(浄土真宗・鎌倉時代の古刹)に集合しました。
 郡治局からの回答は、日暮れに及んでも音沙汰がなく、農民らは再度嘆願のためほら貝、鐘、太鼓を打ち鳴らし無量寺を出発しました。「会津の世直し」と並んで史上に残る農民一揆の始まりです。(舟橋村商工会「ふなはしがいど」より)
 無量寺は富山地鉄の越中舟橋駅に接する隣にあります。

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越中のばんどり騒動(1)・・・明治2年の発端

2010年10月13日 | Zenblog
 明治2年の農民一揆で”ばんどり”とは『みの』のことを指します。明治維新によって、納米方法が古桝から新京桝に変わったにも拘らず、時の郡宰と村役人(十村役)は私服を肥やすことのみを考え、古桝を改めようとしませんでした。
 明治2年夏は氷雨続きで大凶作に見舞われ、農民が飢餓に頻し貢祖軽減を求める為に信望の厚かった塚越村(立山町)の宮崎忠次郎をたて、郡宰山本又九郎に嘆願書を提出しました。(舟橋村商工会の「ふなはしがいど」より)

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山上部分からの下り・金先生のやぶにらみ・・・JingShangの遼寧桓仁への旅

2010年10月13日 | JingShang君からの上海レポート
 山上部分からの下りです。ここはまだ緩やかそうですが、急な階段しかない部分もあります。

 金先生の話を続けます。その当時でももうかなりのご高齢でしたが、やぶにらみの目をしておられ、こちらを見ていないと安心していると、突然「××ゆうてみい!」(××は日本人姓の中国語読み、あとは関西風日本語)とご指名がくることがありました。今は懐かしい思い出です。

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居住区遺構・金先生の中国語・・・JingShangの遼寧桓仁への旅

2010年10月13日 | JingShang君からの上海レポート
 居住区です。写真後ろのV字の柱がその覆う為のものです。

 金先生は祖先から何代も北京暮らしで典型的な北京官話を話される先生でした。中国語の四声のうち、第1声は高い平らな音ですが、金先生は飛びぬけるほど甲高い、頭を突き抜けるような1声を出されるので、喫驚しましました。当時NHKのテレビ中国語会話にも出演しておられました。

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五女山の居住区遺構・金先生は満族・・・JingShangの遼寧桓仁への旅

2010年10月13日 | JingShang君からの上海レポート
 高句麗の遺構のうち、居住区です。風化を避けるためか、日本の家庭にあるカーポートの屋根のような覆い(但し低い)がついているものもあります。

 満族に関する私の思い出話をします。私が中国語を学んだ中国人招聘教授の一人は金先生といって北京のご出身ですが、清朝満州貴族の末裔と聞いていました。

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天池・満族について(続)・・・JingShangの遼寧桓仁への旅

2010年10月13日 | JingShang君からの上海レポート
 2枚目の写真は天池を縦方向に見たものです。池の中の銭形は当然当時は無かった筈です。

 満族の話を続けます。満族は人口が多く同化も進んでいる為か、少数民族に許される夫婦で二人の子供は許されないそうです。これは運転手の口コミです。
 言葉は満州文字もあり辞書もありますので、満語もある(あった)筈ですが、現在家庭でも満族間同士の会話も漢語のようです。

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五女山の天池・満族について・・・JingShangの遼寧桓仁への旅

2010年10月13日 | JingShang君からの上海レポート
(今日は仕事で杭州滞在中)
 昨日の夜より仕事で杭州に来ています。昨日上海は予報に反して雨がふりませんでした。しかし、夜杭州駅についた頃には雨が振り出し、今朝の杭州は小雨です。予報は小雨、後中雨、最高気温は21度です。上海世博の昨日の入場者数は41.5万人でした。

(今日のブログ)
 さて、今日も遼寧桓仁の五女山を続けます。1枚目は天池と呼ばれる山上部分の池です。貯水池のようです。井戸がこの近くにあります。山上ですが、水を得ることができるのがこの地を都城に選んだ理由の一つでしょう。

 桓仁の五女山は高句麗の最初の都城であったことは何度もお話しています。高句麗が現在の朝鮮族と垂直的な先祖であるかどうか議論があるようですが、現在の桓仁は満族自治県となっており、満族の多い地域です。それで、今日は満族の話をします。
 中国で満族は広西の壮族に次ぐ規模の民族のようで、2000年の人口普査統計によると1068万人いるそうです。遼寧省が最多で、その他吉林、黒竜江、河北、内蒙古、新彊、甘粛、山東等の分布しているとのことです。

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