住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

やさしい理趣経の話-9 常用経典の仏教私釈

2012年02月03日 18時25分06秒 | やさしい理趣経の話
第七段の概説

「ふぁあきぁあふぁんいっせいぶきろんじょらい・・・」と第七段が始まる。ここに「一切の戯論を無くした如来」とあるが、これは教主大日如来が世間の分別、見方を超越した如来・文殊師利菩薩として登場し教えを垂れるのである。

前段までの四段は、それぞれ教主大日如来の智慧を分担する阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来の四人の如来が登場して、第二段で示した四つの平等の智慧とはいかなるものかを開示するものであった。そして、この第七段からの四段は、四人の菩薩が次々に姿を現されて、その智慧を獲得し、悟りの境地に至るにはどのようにしたらよいのか、その具体的な実践について説くのである。
 
その最初に登場する菩薩、文殊菩薩は智慧の仏として有名ではあるが、その智慧とは分別、煩悩を断ち切る智慧を意味する。私たちがものを考え判断する際の知識、情報はそれぞれに自己の目を通してその理解力によって捉えたものに過ぎない。だから、何かに悩んだり、人間関係に支障をきたすとき、また心とらわれるとき、私たちはそれぞれのこだわり、損得や名誉、メンツに振り回され、自己を主張して妄想し、自己を正当化し、自己弁護に戯れる。

それらは小さな個としての執着、妄想に他ならない。このように、およそ私たちの考え、計らいは自他にとらわれ、本質を捉えることなく、煩悩に振り回されている。そのことを戯論といい、そうした煩悩にとらわれた心を断ち切り、真実を観る智慧を持つ仏が文殊菩薩であり、だからこそ無戯論如来と言われるのである。

そして、第七段では、その文殊菩薩が説く教えを、「転字輪の般若理趣」であると提示する。転字輪とは、字輪を転じること。字輪とは、すべての根源を表す阿(ア)の字を転じ、その立場でこの世の一切を観るのである。が、ここでは特別に、文殊菩薩の真言にある五字輪を意味すると教えられている。

「(オン)・ア・ラ・ハ(パ)・シャ・ノウ(ナ)」という真言の中に表現されている五字である。この五字を転ずることを簡潔に述べるならば、すべての存在は移り変わり、美醜、清濁、長短、軽重など物事を比較、差別、批評する世間的なものの見方により私たちはこだわりや執着を生むのであるが、こうした見方を超越し、なんの差別もない永遠なる時間軸でものごとを観ていくことによって、すぐれた心の働きが生じ、真実の姿を開顕することが出来るとするのである。それは文殊の利剣によって諸々の戯論を払いつつ真実に近づいていく様に喩えられる。

三解脱門と光明

その教えを具体的に展開するならば、まず「諸法を空なり」と観よ、とあり、なぜなら「すべてのものは無自性であるから」と続く。自性がないとは、そのものが独立自存ではないということで、すべてのものが他によって他の影響によって生じ存在せしめられているということである。あらゆるものはそのようなあり方をしているのであるから、瞬間的に存在している仮の存在に過ぎないと観よというのである。

次に、「諸法は無相なり」と観よ、なぜなら「すべてのものは無相であるが故に」という。本来のあり方としてすべてのものが無相、つまりその特徴とするものなどないのだからそのように観なさいということ。

続いて、「諸法は無願なり」と観よ、「すべてのものは無願であるが故に」とある。これも本来すべてのものに無願、つまり目的などないのだからそのように素直に観なさいということ。

これら、空・無相・無願は、迷いから解放され涅槃に入ろうとする者が必ず通らねばならない解脱に至る三つの門と言われる。

私たちは見るもの聞くものすべてのものに接するとき、ものの出来具合、良し悪し、大小などその特徴を見て、そして、その働き、役割、目的などを見て、自分にとって好ましいものか、役に立つものか、利益になるものかと考え、そのものに関心を持ち、執着し、とらわれていくであろう。

甘い物が好きな人は、一つの饅頭を見るとき、それはどこの饅頭で、どのような物で造られ、どのような味のするものかを一瞬のうちに見て取る。そしてそれを手に入れ食べたいと思う。しかし、その好きなものでも食べすぎたら、その嗜好はにぶり、それでも食べ続ければ、様々な障害をきたすことになる。それこそ長くそのような習慣を続ければ糖尿病にもなるかもしれない。

そして、ひとたび病気になってから、その大好きな饅頭見るとき、その饅頭を食べたならば内臓に苦痛をもたらす、ないし病状を悪化させるとしたなら、まったくこれまでとは違う感覚で同じものを見ることになるであろう。自分にとって好ましいもの、好きなもの、とらわれるものに対して、そのような見方で、無感覚で、つまり、無相、無願に見ていけるならば、そのものの空なることにも通じて、諸々の戯論を廃していくことが出来るとするのである。

すべてのものは空なのだと、何もずっとそのものとして存続するものなどなく、みな移り変わり変遷していく。断定的、固定的な物の見方も、こだわりも、とらわれもなく物事を見ていくとき、そこにはすべてが清浄に光り輝くものとして姿を現す。だから、このあとに、「諸法は光明なり。般若の智慧は清浄なるが故に」と続くのである。すべてのものが光を放って存在することを見るとき、自と他の対立を越えた般若の智慧によってすべてのものが清らかなものとしてあることを観るからである。
 
文殊菩薩の心真言

以上の教えを説き終わり、文殊菩薩がこの教えを改めてもう一度重ねて明らかにするために、微笑まれた。そして、自分の利剣でもって一切の如来の教えを断ち切り、この般若波羅蜜多の最勝のすぐれた教えの真髄、すべてのものに阿字を配することで真実なる世界が明らかになる転字輪を意味する、真実なる心真言「アン」を唱えた。


(↓よろしければ、クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村



コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする