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大日如来とは何か2

2025年04月23日 11時06分23秒 | 仏教に関する様々なお話
大日如来とは何か2




同じような話をいくつ書けば気が済むんだと言われそうだが、先月のことにはなるが、大日如来とは何かと話をした際に、皆さんキョトンとされていたのを思い出し、仏さんってどうなのって言う感じで気楽に書きはじめてみたい。

みんな、それぞれに仏さんに対する思いは違い、それぞれ信じられているように、そのままに信仰されるのが本当は一番なのだ。昔チベットのお坊さんが、こんな話をしていたのを今も思い出すのだが。毎日観音様の真言を唱え歩いているお婆さんが居て、頭の上を見れば観音様がずっと見守っておられたという。

だが、そのお婆さんの真言を聞くとどこかおかしい。それであるとき、いやいやそれはこう唱えるのだと間違いを正してあげたら、その正しい真言を唱えながら歩き出したお婆さんの上から、それまでいた観音様の姿が消えていたという話。正しい真言を唱え、それがしっくりとそのお婆さんの真言になっていけばまた観音様が現れるということもあるかもしれないけれども、その人なりのお唱え、仏さまへの向き合い方を尊重すべきということなのだろう。

仏さんとは私たちに救いをあたえ、願いを叶えてくれるものと思い、そこで仏さんとは、形あり実在するものと思ってしまう。だが、もともと仏さまは真理真如と一つになった者のことのことだそうで、お釈迦様は真理真如を発見し、そのものとなられ悟られた。つまり仏とは真理真如のことであり、悟りの智恵であり、それによるご利益、働きのことだということになる。

実在した仏さんはお釈迦様だけであり、お釈迦様はこの世の真理を発見され悟り、それを集まりきたる弟子や有縁の人々に教えた。それが仏教の教えとなっていく。お釈迦様は三法印といわれる仏教の標示たる無常・苦・無我の真理、縁起とも空とも言われる法、真理を発見され、私たちにもそれを見つけられるように教え諭されたのだ。心経に言うように、すべてのものが空であり、空だから存在しているという。

悟った弟子は沢山いたが、そうした事例も含め、仏滅後400年大乗の教えが興起すると、様々な教えが展開して、各々の智恵働きご利益が名前をもらって、沢山の仏菩薩を誕生させ、○○如来、○○菩薩となる。悩み苦しみ困りはてた人がきても、少しお釈迦様の言葉を聞いただけで救われ安心し満ち足りて帰る。そして、その人が亡くなった先まで心配されて一言二言アドバイスされる。そういうお釈迦様の智恵、教え、働きが各々様々な仏さまに姿を換えていったのだ。

誰でも癒されてしまう徳はお薬師さまとなり、観音さまなら人々の心の声を聞いて身近な存在に姿を換えてお救いくださるというように。阿弥陀さんなら、亡くなった信者を救ってあげよう浄土に迎えてあげようという慈悲心が形になったものであろう。そうして、お釈迦様の智恵、教えが、それぞれの仏さんとなる。その様々な仏さんの総体となるのがヴィルシャナ如来、大日如来であり、お釈迦様の真理真如に基ずく教え、その真理の言葉が虚空に満ちていると考え、その全体を体とするもの。

そして、大日如来の真言でもあり、また仏菩薩すべての総呪と言われるご真言に光明真言がある。「オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラ・マニ・ハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン」という。これはインドの聖典語サンスクリット語ではあるが、中国に来て漢字で表記され、さらに日本語なまりになった読み方で、本来の読み方は、「オーン・アモーガ・ヴァイローチャナ・マハームドラー・マニ・パドマ・ジュヴァラ・プラヴァルッタラ・フーン」となる。

オーンは、聖なる音で、神仏に御供えをするようなときに唱えられる呼びかけの言葉。アモーガは、空しからざる。ヴァイローチャナは、遍照なる大日如来のこと。マハームドラーは、どの仏さんも特徴的な手の組み方があるけれども、それを印相といい、マハーは大きなという意味で、マハームドラーで大印あるものとなり、偉大なる働きをなす者という意味となる。

マニは、摩尼宝珠という言葉があるように、宝珠のことで、願いを叶え、福寿安楽をもたらすことを意味する。パドマとは、蓮花のことで、蓮のように汚れの中にも穢れなき花が咲くように、世間の中に清らかな仏の心を有すること。ジュヴァラとは、光明のことで、永遠に光り輝く智慧を表す。プラヴァルッタラは、転ぜしめよとの意味で、迷い穢れを転じて悟りに至ること。フーンは、力を込めて祈り願うこと。

この光明真言にある、大印と宝珠と蓮花と光明は、つまり、仏さんとは、偉大な働きであり、宝珠のように願いを叶えて下さり、清らかな存在であり、永遠なる輝く智慧を有するということであろう。光明真言が総呪であることから、これらはすべての仏さんに共通するお徳、特徴とも言えようか。どの仏さん菩薩さんも、そのお姿に表れるように、働きを表す印を備え、願いを叶えてくれて、蓮花に乗り、光背を有する存在なのであるから。

けっして、遠く離れたところにおられるととらえずに、森羅万象も、作られたものも、私たち生きとしいけるものも、こうした仏さん方の働きやその智慧、真理により存在し、その因果応報の真理のままに生きている。つまり仏さんは身近な存在であり、私たちの心の中にあるとも言える。実はそう思って、そう自覚して、そう思えるようになったら、つまり仏さんと実感できたら、それが即身成仏といわれるのだとか・・・。


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