住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

仏教という教えの核心

2007年03月26日 17時55分14秒 | 仏教に関する様々なお話
ある先生との往復書簡の私からの回答をここに掲載します。この中に、仏教の核心が述べてあると考えますので、ご参考までにお読み下さい。

「・・・先生には、インドへ行かれたとのこと、多くのことを見聞なされたことと拝察いたします。インドには何度も行ける人と一度行って二度と行かないと言う人とあるようです。人によっては、インドには呼ばれないと行けない、だから行ける人と行けない人があるなどと神がかったことを言う人まであります。

幸い私は何度もインドに呼ばれて行く機会を得たことは、仏教を学ぶ者として誠に幸運であったと思っています。インドはしばらく暮らしておりますと、それはそれで誠に素晴らしい人々の合理的な営み、人種差別はあれど、それでも貧しい者が生きやすい知恵をもった国だと思えます。

ところで、私の狭小な知識で申し上げますことを御理解の上でお受け取りいただきたいのですが、先生の仏教に対するご認識には同意できない点がいくつかございますので申し上げさせていただきます。

先生の先日のメールの中に、『仏教は「無常」(つねなるものはない)などではなない。無我(むが、おのれの存在の否定)そのものだ。縁起(えんぎ)や、中観(ちゅうがん)ですらない。それらも、ブッダ本人は言っていない。』とお書きになっていますが、無我という言葉はその言葉だけで存在するものではなく、縁起や無常ということと切り離して考えることのできない教えだと思います。

また、『空(くう)とは、絶対的に、無 のことである。これ以外の解釈はすべてウソだ。 死ねば一切が、消える。ずべては、無だ、という思想です。ただし、激しい修行(苦行)などするな、という一点で、悟った。悟り(正覚)というには、解脱(げだつ)で、ブッダが35歳で到達したのですが、この「解脱」というのは、ヒンドゥーの思想そのものであって、仏教に中には、それに相当する言葉がない。』ともお書きになっておられますが、このようなお考えに至る資料などがおありでしたらお教えいただきたいと存じます。

私は、以前にも申し上げましたように空は無であるとは思えません。死ねば一切は消えるとも思えません。すべては無であるなら、何をしても意味がない、私たちは意味のない人生を歩んでいることになります。

死ねば何もないのであれば、何をしてもよい、悪いことをしても生きている間だけいい思いをして死ねればいい。つまり悪いことをしても捕まらずに済めばそれで済むという悪事ばかりがはびこる世の中になるでしょう。

そんな簡単なものではないよと、死んでも残るものがある次の世に行ったときに大変なことになるよと考えるのがインドの智慧です。業や輪廻の考えはインド世界に古くあったと言われますが、その思想を深く展開され単なる生まれ変わるということではない、それを生命観にまで高められたのはお釈迦様だと言われています。

解脱という言葉はジーヴァンムクタと言って、ヒンドゥー教の人たちも使うわけですが、だからといって、仏教の言葉ではないと言うことは出来ません。解脱とは、輪廻しないさとりを得らたということであって、大乗仏典ではない初期経典(南伝上座部所伝のパーリ仏典)に解脱という言葉はたくさん出てまいります。

『ブッダの80歳での死のことを、涅槃(ねはん、ニルヴァーナ)と言って、入寂、仏滅ですが、こっちのことを、本当の悟り(understanding )というのではないですか。』ともお書きなっています。

が、これは確かに、入滅したときを「無余涅槃」と言い、完全なさとりとも言うようですが、身体が死滅して生存に対する諸欲もなくなったという意味であって、だからといって生きておられたときが本当の悟りではないと言うことではありません。

『仏教には、悟り(解脱)というのは、無いはずです。 仏教(釈迦の教え、ブッダの言葉)は、徹底的に、死ねばすべてがおしまい、消えてなくなるのだ、という思想です。ブッダのあとから現れた、アホたちが、のちのちの高僧どもとなって、何を言ったかは、一切、問題ではない。ブッダがしゃべった言葉だけが、本物の仏教だ。それ以外は、ずべて、ウソだ。でっち上げです。』

これについても沢山の初期仏典にお釈迦様ご自身の言葉として私はさとったと言われていますので、先生がどのような見解からこのようにおっしゃられるのか理解できません。

『日本で、空海、最澄、親鸞やら、日蓮やら、道元やら、を崇拝するなら、どうぞ。それがその人の宗教ですから。「しかし、お釈迦様本人は、そんなことは、どこにも言っていないからな」「証拠を出してみろ」という、私からの、攻撃を彼らは受けることになります。 』

このことは先生のおっしゃるとおりです。私も同感です。ですが、もう一言いわせていただけば、輪廻など無い死んだら無に帰す、何もないという考えは、実は今の日本仏教の多くの学者、僧侶の取っている見解です。

明治までの学僧はみな輪廻ということをきちんと理解していました。現代の仏教者たちは、死ねば何もなくなる、仏の世界に行けるなどと簡単に言うことで世間に媚びている。だから、日本の仏教は何も意味のある真に仏教の仏教たる根幹を説けなくなった。仏の世界に誰でも葬式をすれば行けるなどと言って、仏教の教えを貶めているのです。

『私は、ゴータマ・シッダールダ本人が、しゃべった言葉、以外は、絶対に、仏教(ブッディズム)ではない、と原理的に、決め付けます。そして、一切のウソを排除します。』

お釈迦様本人の言葉というのがどこにあるかということが大問題でして、文献学上、私は、南伝上座部所伝のパーリ仏典中の相応部経典、増支部経典、小部経典、また中部経典であろうと考えております。スッタニパータ、ダンマパタ゜は小部経典に含まれます。そして、この姿勢から仏教を捉えますと、輪廻転生(つまり三世因果)、無常苦無我、縁起ということが仏教の中心課題になってまいります。

決して仏教はその人の短い人生に冷水を浴びせるようなものではありません。苦しみばかりの人生に意味を与え、明るく生き生きと過ごせるようになる教えです。仏教を学べば、悪いことが出来なくなり、善いことをしたくなり、自然と心が清らかに安らぎを感じる。そのような教えであると私は確信いたします。・・・」

みんな死んだらみんなおしまい、消えて無くなるなら、みんな生まれたときに違う環境に生まれてくることをどう説明できるのでしょうか。私たちはみんな生まれたときから違う人生を歩み、思いも行いも違います。だからこそ一人一人生きる意味がある。

その違いを説明するためにはみな違う原因を生まれてくるときに既に持っているからだと仏教では考えます。その原因がすでに生まれたときに存在するのは、その前世で死するときに心に抱え込んだ原因があったからだとします。その原因は、いわゆる業と言われるものであり、その人の行いの蓄積として抱え込んだ心に残されたエネルギーです。

そのエネルギーをよりよいエネルギーとするために仏教の教えがあります。今生で間違いのない人生を歩み、来世もより良いところに転生するため、少しでも心をキレイにしてよい業を蓄積するために。

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13 コメント

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輪廻について (豊嶋)
2007-03-28 00:01:36
興味深く拝読しました。

私は、輪廻ということに疑問をもっています。輪廻は宗派的な考え方でして、つまりそう考えなくてはこの世界を説明するのにつじつまが合わないということではないでしょうか。この世界はすべて説明する必要はないと思います。人間にすべてが分かるはずもなく、すべてを説明しようとすると真実とは関係のない考え方を持ち込んでしまうのです。

前世がなければ、現在の有様が説明できないとは、なんと情けない考え方ではありませんか。現在をすべて説明する気なのでしょうか。そんなことは出来ないことです。また来世を前提にしなければ、現世の生き方が危うくなるとは何故そんなな考えになるのでしょうか。これらに相関関係はなないと思います。

信仰ある人でも信仰を持たない人でも、そのようなことに関係なく、老人に席を譲る人は譲るでしょうし、世界平和を願って活動する人はするでしょう。来世の報いを当てにして行動しているわけではないと思います。

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拝読しました (ajita)
2007-03-28 06:13:44
全雄様

エントリ拝読しました。まさに「仏教という教えの核心」ですね。あやふやな認識によって形成された生半可な知識・固定概念(あべこべ思考)にしがみつく人々(仏教用語でいう愚者)が仏教の教えの理解できない部分(業、輪廻、三世、戒などなど)に難癖をつけるのは勝手ですが、仏教者がそれにおもねっては元も子もありません。

「『スッタニパータ』の後ろの方のほんのわずかな問答以外は仏説と認めない」などという極端な立場に固執しない限り、まともな読解力のある人であれば、経典のあらゆるところで説かれている輪廻の教えを否定することは不可能です。自分がそれを認める認めないは別として、資料に対して客観的な態度を取ればそうなります。

そういう最低限の理性的な態度も通用しないほど、知的と謂われる日本人の思考は劣化しているのです。自分の色眼鏡を横におくという発想すらない、強固な邪見で塗り固められた人々が我が物顔で仏教を論じているのは嘆かわしいことです。それだけ日本人は「仏教」を知らないまま仏教的な文化に慣れ親しんでいて、距離感がつかめないということかもしれませんが。

愚者の偏見ではなく一切智者の正見に従うのが、仏教徒のイロハのイです。全雄様が、諸仏の古道を歩む規範を示してくださったことに随喜いたします。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
返信する
豊嶋様 (全雄)
2007-03-29 08:28:19
いつもご覧下さりありがとうございます。輪廻ということを特別なものと考えることはないのだと思います。素直にお釈迦様が言われているからおっしゃっていることをそのまま受け入れようと思うだけなのです。

「輪廻は宗派的な考え方」とは、どのような意味なのか分かりません。輪廻の思想がなければ、「この世界を説明するのにつじつまが合わない」ということではなくて、インドの、又は他のかたでもいいのですが、多くの修行者が深い瞑想の中でその過去世や世の中の成り立ちをご覧になり、そのことを悟られたと言うことであろうと思います。そしてそう考えるとすべてのことが納得できるということではないかと思います。

「すべてを説明しようとすると真実とは関係のない考え方を持ち込んでしまう」とお書きになっていますが、真実とは関係ないとどうしてそのように断定的に判断できるのでしょうか。

たとえば、大乗仏教では亡くなるとみんな仏の世界に行くなどと言いますが、そのことを記した経典は膨大な経典群の随分後に書かれたほんの一部の経典に書かれているに過ぎません。それもとても微妙な書き方です。

ですが、それを取り上げて一度でも念仏すれば浄土に行けるなどと言っています。私にはその方が輪廻思想よりもよっぽど真実とかけ離れている、無理があると思えます。しかもこの死後浄土に往生するなどとというのも実は輪廻思想を前提に成り立っている考え方です。

仏典は、凡夫の私たちには計り知れない智恵を語るものとしてあります。私たちが狭小な現代の知識ですべてを推し量ろうとするところに誤りがあります。都合の良いところだけ受け入れずに、真に私たちの生き方を厳然と修正することを宣告する輪廻、業、因果応報ということをまずはきちんと受け入れることから仏道は始まるのだと思います。だからお釈迦様は、在家の人が来ると施論戒論生天論をお話しになりました。

私は私のこれまでの歩みの中でこれが本当のことだと思いここに書いております。それを皆さんに強制するつもりもありません。受け入れて賛同し共鳴して下さる方にお読みいただきたいだけなのです。
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ajita様 (全雄)
2007-03-29 09:01:01
お忙しい中お越し下さり恐縮です。明治の釈雲照師の研究から様々な明治時代の高僧や彼らに影響を与えた人たちの文章をあさっておりましたら、やはり明治時代には真言宗でも今のように誰でも即身成仏するなどとは言っておりませんで、即身成仏出来る人はごく限られた機根を持つ人だけで、あとの人たちはやはり二三生少なくともかかるとされていました。

普通の修行者は、天界に往生しても、さらに修行を続けよとそのような書き方です。ですから、専門に修行するわけでもない在家の人々がお葬式をすれば即身成仏するなどとは決して言えない。それが正しい。そんなに誰でも即身成仏するなどとしたら、全く仏法が不要になると思えます。

誰でも、何も勉強せず修行もせず。心が汚れたままで、死後仏の世界に行くなどと世の中に迎合した、耳障りの良いことしか言えないていたらくが仏教の教えをまともに説けなくなった原因であると言えます。勿論そのようになった根本には戒律を全く意識もしない僧伽の現状にあることは勿論のことです。

僧伽とも言えません。まずはそのことに誰もが気付かねばいけない。井の中の蛙ではいけない。おらが村のしきたりだけで生きていては、世界からつまはじきにあい、そのうち他国の仏教徒に仏教を標榜してくれるなと言われる時代が来ることでしょう。
返信する
仏教を学ぶことについて (豊嶋)
2007-03-29 21:30:15
この記事を惹き付けられるように読んで、思わず自分の感想が出てしまったので、他にまったく他意はありません。信仰者はそれだけで尊敬に値すると思っておりますし、そこに入れない懐疑派より心が広いと勝手に思い込んで書いてしまいました。大人気なかったかな、あるいは場違いだったかなと少し反省しています。

日本人として仏教の事をあまりにも知らないので恥ずかしいと思い、最近入門書など読み始めた初学者です。本当に釈迦が説いたのはどんな教えだったのか、まずそこから入ろうと思いました。

たとえば本堂(講堂というのでしょうか)ががらんどうで何もなく、そこで座禅や法話があるのであれば分かりやすいでしょうが、うしろに仏像群(?)がありますので途惑ってしまいます。拝まなければならないでしょうが、知らないものに手を合わせるのもしたくありません。ところで釈迦の時代には仏像はなかったし、釈迦本人も自分が仏像になるなんて、想像もしなかったと思います。してみると、釈迦の説いた教えと寺の中の仏教とは違うものかもしれないとも思います。本来、在家のものが入ってはいけないものかとも思います。

歎異抄(漢文の読めない私にも読めるので)を読んでも、親鸞の信仰は吐露されていますが、釈迦は出てきません。阿弥陀如来を拝む、これは釈迦の教えでしょうか。たぶん違うと思います。多くの宗派が後代に出来たので(そして理論武装しているので)、どれが本来の釈迦の教えなのかわからなくなって来ています。

私には、まず輪廻が躓きの石になったわけです。これもきっと釈迦が説かなかったものではないか、と私は仮に推定しました。信仰者はこのような躓きの石を飛び越えた経験があるのだと思いました。このような話は普段の生活の中で語られる機会はないし、しかし各自心の中で考えることは考えるので、blogの中でしか語れないものでしょう。

もうやめます。ありがとうございました。
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豊嶋様 (全雄)
2007-03-30 06:47:58
重ねてコメント下さりありがとうございます。私のブログに興味を持って下り、こうしてコメントされる方はそう多くありません。ですから、それだけで、とてもありがたく思っています。

豊嶋様のホームページを拝見しましたら、随分な読書をなさっておられて、しかも、増谷文雄先生の著作なども含まれておられるようですから、仏教については学ばれている方とお見受けいたします。初期仏教をまずはしっかり学ばれて、その後様々な祖師方の文章をお読みになられると、どのようなものか理解できると思うのですが。

お寺に行かれて、いろいろ迷われるのは私も同じです。手を合わさねばいけないということはありません。単なる習慣で手を合わすようなことならなさらない方がよいと思います。仏像などはもともとなかったものですから。絶対に必要な物ではありません。

これからも読書をなされるとは思うのですが、入門書でも、単に自説に誘導するようなものではつまりませんから、きちんとした宗派にこだわらずに書かれたものをお読み下さいますことをお勧めします。どうぞ、またお気軽にお越し下さい。



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仏教について (さんさんじけ)
2009-02-22 11:56:19
日本仏教は元々の釈迦の教えとは別物、葬式などの儀礼用である
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さんさんじけ様へ (全雄)
2009-02-22 19:39:18
日本仏教は、みな中国朝鮮からいたったものである限りにおいて、かなり当地の影響のもとに変質していることでしょう。ですが、そこにはお釈迦様の教えも当然ながら含んでいるものと考えられます。全くの別物とは言えないでしょう。

今目にする現象からだけ捉えることは無理があります。日本仏教の教えももともとは儀式用のものではなく純粋な教えである経典としてもたらされました。それを儀式に用いているだけなのです。

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ぶっきょうね (さんさんじけ)
2009-03-31 09:40:15
いくら強弁しても信じているのは、ほとんどいませんよ残念なことですが、なぜか考えた事ありますか・・・言っている事は立派でも教祖と同じ境地になったひとは?麻原さんならいますけどね
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ぶっきょうね (さんさんじけ)
2009-03-31 09:40:15
いくら強弁しても信じているのは、ほとんどいませんよ残念なことですが、なぜか考えた事ありますか・・・言っている事は立派でも教祖と同じ境地になったひとは?麻原さんならいますけどね
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