住職のひとりごと

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四国遍路行記37

2015年06月14日 16時16分54秒 | 四国歩き遍路行記

讃岐國分寺の多宝塔造りの大師堂をお詣りし、奈良時代に鋳造されたという梵鐘が吊されている鐘楼を拝見する。国の重要文化財。今では、広大なかつての寺域が国の特別史跡に指定されており、近年の発掘により珍しく僧坊跡が確認され一部復元されている。資料館に復元模型が展示されているという。

國分寺を後にして、住宅街を通ってしばらくして案内板の矢印に従って山道に入る。山道はやはり楽しい。登りで体はきつくとも、生き物と共にあることを肌で感じるからか。国道の側道を歩いていると体が衰弱してくることが分かる。一時間ほどで休憩所があり、しばし休んでまた歩き出す。急坂が続く、いわゆる遍路転がしと言われる難所である。途中地蔵菩薩の祀られた広場から左に白峰寺右に根香寺という道しるべがあった。そこから左に歩いて半時間ほどで第八十一番白峰寺にたどり着いた。三段に掛け下ろしの瓦屋根の山門をくぐる。

白峰寺は弘法大師が弘仁二年(八一五)に山中に如意宝珠を埋めて井戸を掘り衆生済度を祈願したのが始まりという。その後天台宗の智証大師が白峰大権現の神託をえて瀬戸内海の流木で千手観音を刻んで本尊とした。その後、天皇寺に流罪で逗留していた崇徳上皇が荼毘に付されたのがこの地であり、寺の裏山に葬られ白峰御陵として祀られている。たまたまお遍路さんの姿が見えなかったからかもしれないが、ひどくひっそりとして天気は晴れやかなのに暗い境内を歩き、長い石段の先に建つ本堂に、そして大師堂に参った。夕刻が迫っていたこともあり、早々においとまして、次なる根香寺に向かった。

実は、白峰寺から根香寺までの遍路道は、歴史的な面影を色濃く残しているとされ平成二十五年に国指定の史跡となっている。道が史跡になるというのは珍しいことなのではあるまいか。百メートルごとに立つ丁石、中務茂兵衛の道標や閼伽井があり、記憶に強く残る遍路道の一つである。木々に囲まれた自然のトンネルのような遍路道を心地よく二時間ほど歩いて根香寺山門にたどり着いた。 

仁王門前には、山号ともなっている青峰山にいたと伝承される大きな牛鬼像が祀られていた。仁王門を入ると下りの石段があり、しばらく行くと登りの石段が続く。その右手には修験道の開祖である、大きな役行者像、左手には水掛地蔵尊が祀られていた。

第八十二番根香寺は、入唐前に弘法大師が五大明王を祀り、草庵を結んだところといわれている。後に智証大師が巡錫して、香木で千手観音を刻み本尊とした。その時香木の根まで香り高かったためそれが寺号になったと言い伝えられている。鎌倉時代には九十九院を誇る大寺となり後白河法皇の勅願所だった時代もあるとか。しかし兵火にかかり一時衰退し、寛文四年(一六六四)に高松城主松平頼重によって再興され、その時天台宗に転じている。

このとき既に暗くなりかかっていた。その日は夕食を手当もせず、買い物出来る場所もない。仕方なく、大師堂の脇に置かれた縁台にそのまま寝袋を広げた。夜中にオートバイのエンジン音をふかす音で目覚めると、数人の若者たちが大きな声で話しながら近くまでやってきた。慣れたものなのだろう、人が寝ていても知らん顔で去って行ってくれた。翌朝は六時前に起き出して洗面を済ませ、そこからさらに石段を登り、回廊を巡って本堂前に出て理趣経一巻。大師堂、それに、弘法大師ゆかりの五大尊堂にお詣りした。

五大尊とは、本山大覚寺の本尊でもあるが、不動明王(中央)はじめ、降三世明王(東方)、軍荼利明王(南方)、大威徳明王(西方)、金剛夜叉明王ないし烏枢沙摩明王(北方)の五尊のこと。明王の明とは、智慧の光明を生ぜしめる真言・陀羅尼のことで、それは最も重要なものとして王と尊んで、その真言を宣布する尊格を各々○○明王と呼ぶ。えてして悟り難き衆生を調伏するために忿怒の形相をして威圧する姿をとる。

 

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