住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

タイの僧侶と語る会3より 

2005年05月15日 10時12分09秒 | 仏教に関する様々なお話
タイ比丘藤川清弘師をお招きしての「タイの僧侶と語る会」は、11日に地元紙中国新聞朝刊に案内が掲載され、檀信徒はじめ遠方からも大勢お越しになり、熱のこもった講演に続きこの度は、質疑応答も活発であった。

はじめに、藤川師から、「アジアの各国を訪問し、様々な戦争の傷跡を目にし、また慰霊をする中でやはり慈悲の大切さを痛感する。慈悲は日本では、他人に利益のある行いをしたり、苦しみを取り除いてあげることといった教え方がなされるが、本当の慈悲とは、慈・悲・喜・捨という四つの心を言うものだ。

慈とは、誰をも友と思う心であり、悲とは、その友が、つまり誰もが苦しんでいるときに助けてあげようとする心、喜とは、その友が喜んでいれば自分も我が事のようにうれしく思う心であり、捨とは、あるがままに物事を見て動揺しない心のこと。

私たちは自分だけのことを考えがちであり、ともすれば他を押しのけてまで幸せになりたいと思う。これでは何も変わらない。これら慈悲の心を強引にでも心にたたき込むために慈悲の瞑想をする必要がある。毎日慈悲の瞑想をするなら、平安な日々が送れ、老いてもぼけないと言われる。是非実践して欲しい」

それから質疑応答に移り、日本の仏教では信ということを大切にするが、どう思われるかとの質問に対し、「やはり大切なのではないか、自分も坊さんになってから勉強して勉強してお釈迦様の教えに対する信が確立してから本当に気持ちが楽になった。やはり信がなくてはいけない」

また、日本の仏教の将来についてどう思うかとの質問に対し、「一番の問題点は、志もって在家から坊さんになった人の道が閉ざされているように思う。お寺の息子さんが寺を継がれるのも結構だが、やはり、悩んで揉まれて、自ら発心して坊さんになった熱意ある人たちが然るべき役割を担える仕組みがなくてはいけないのではないかと思う。

仏教というと日本では葬儀法事となるがその辺の役割を決めつけてしまっている在家の皆さんの考えもいかがかと思う。お釈迦様は弟子たちに墓地で人の身体が埋葬され変化していく様を観察し瞑想しろと命じられた。無常、全てのものは変化していく、美しいものもあえなく汚れていくさまを見よと言われた。

その辺から坊さんと死が結びついていったのではないかと考えている。昔ネパールに行ったとき、行列について行くと川原で死者を火葬にした。その後、何を思われたのかその参列者が自分の所に来てお布施を一人一人置いて行かれた。そんなことが仏教と死者儀礼との出発点だったのではないか。つまり本来葬儀に参加するのは、あくまで自らの修行のためということであって、葬儀のために坊さんが居るのではない。」

後半ではアジアでの活動に触れ、「ミャンマーの日本、英国、インドの激戦地域メッティーラというところでは、日本語学校を作った。初めは現地の人のためと思っていたが、日本人の若者で心を病んだ人たちに行かせたところ、現地の人たちの純粋な笑顔、優しさに触れみんな元気になって、新しい生きがいを見出して帰ってくるようになった。

それが既に15人ほどになる。ミャンマーのためと思ってしたことが、実は自分たち日本人のためになっていた。人のためだからと思って逡巡することなく、良いことをしていたらきっと自分に返ってくるということではないか」

最後に仏教の瞑想に話し及び、「仏教の瞑想は坐禅と一緒と思われるかもしれないが、随分違う。ヴィパッサナーと言って、よく観ること、観察することだ。何を観察するかと言えば、自分の身体、特に呼吸と心。腹が立っても、そのことに自分が気づけば冷静になれる。

まず呼吸を見る。鼻から出入りする息の温度や勢いなどを観察する。しかしすぐに心に雑念が湧く。そんなことを一つ一つ細かく知っていく。私たちは何に対しても過去の様々な経験から物事を判断しているが、その判断もせずにものを見るように心がける。そうするとただ変化していくものが分かる。

つまり無常ということが分かってくる。人に対しても初対面でも見てくれで何か判断している。だが、みんな変化していくのだから、その人の真実などない。呼吸が乱れたときは心が動揺している。気づいたら、すぐに呼吸を整えるようにすれば心が落ち着く。

こうした瞑想の前には、必ず慈悲の瞑想をする。上座仏教では、自分が幸せでなかったら人も幸せに出来ないと考える。自分が病気で伏せっているときに人に優しい心で接することは難しい。やはりまずは自分が幸せでありますようにと念じ、それから親しい人たちが幸せであるように。そして生きとし生けるものが幸せであるようにと願う。

それから大事なのは、自分が嫌いな人も自分を嫌っている人も幸せでありますようにと念じられてはじめて本当に安らかな気持ちになれるものだ。なぜなら、自分に対して向かってくる敵をも幸せにしてしまうことで自分が無事になるのだから」

最後に参加者一同で慈悲の瞑想を実習してこの度の講演を終えられた。この後、メッティーラから同行された敬虔な仏教徒マンゲさんから、日本の仏教徒に向けて、輪廻についてお話があった。

「私たちは、死んで終わりではない。死んでも次に行く来世がある。来世は生きてきた違いによって、地獄や餓鬼、畜生の世界に行くかもしれないし、修羅の世界に行くかもしれない。人間に生まれても様々な違いがある。だから私たちは良いことをして沢山の功徳を積まなければいけない。お坊さんに施しをしたり、困っている人たちの手助けをして功徳を積む、そして瞑想したりして心を清める生活こそ私たち仏教徒の勤めなのだと思う」以上

この後藤川師は、長野での瞑想会に向け14日早朝にここ國分寺をお発ちになりました。
来年も新たなご経験お考えをもって来山されることと思います。来年も沢山の方々のご参加をお待ちしています。ご期待下さい。
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2 コメント

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お久しぶりです (みやっち)
2019-02-02 11:03:16
私は福島県に住んでます、高校が定時制で少しぐれてた頃にチンナワンソさんが高校に来て自分が今生きている意味や、なぜ自分は今この生活をしているのかを沢山教えて頂き、気が付くと真剣に話を聞いていました!

オモロイ坊主になったって話も直接聞き感動致しました!オモロイって言っても凄く苦労なされたと思います!私からすれば、貴方のお蔭でグレた心が無くなりました。お礼を言いたいです。


高校の時に作文を書いて皆渡しました!
読んでくれたのかと思うと少し恥ずかしいですが、貴方なら立派な、御釈迦様になれると私は思いました!機会を作り、花を持ち貴方へお礼を言いに行きたいと思います
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みやっちさまへ (全雄)
2019-02-03 06:33:13
お越しくださり、コメントを残してくださって、ありがとうございます。

https://blog.goo.ne.jp/zen9you/s/%E8%97%A4%E5%B7%9D%E6%B8%85%E5%BC%98

私もいろいろなご縁をいただき、学ばせていただきました。もっと長生きしてたくさんの人たちを導いて欲しかったと思います。残念です。
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