ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

引きこもり、そして無為の学徒(その2)

2016-02-05 15:57:40 | 日記
18世紀のドイツの哲学者カントは、

ケーニヒスベルクという小さな田舎町を一歩も出なかった。

にもかかわらず彼は、世界情勢に関する広範な知識を持っていた。

カントの情報源は書物だったに違いないが、

我々の場合はそうではない。

現代の我々がカントと違っていることといえば、

21世紀の我々が発達したテクノロジーの恩恵を受けて、

パソコンを駆使することにより、国内外のあらゆる情報を、

文字だけでなく、画像や映像を通して享受できることである。

その気になりさえすれば、我々は書斎に引きこもったままで

博覧強記の人になることができる。

自室に引きこもったまま、パソコンのモニタと

対峙することによって、それが可能になるのである。

好い例が、この私自身である。

脳卒中の後遺症で片麻痺になり、引きこもりを余儀なくされなければ、

つまり、若い頃のように自由に出歩くことができたとすれば、

私はホイホイと書斎を出て徘徊を楽しみ、思索に集中することなどできなかっただろう。

ネットの森の徘徊に精を出すこともなかったし、

このブログを書くこともなかっただろう。

「その出ずることいよいよ遠(とお)ければ、その知ることいよいよ少なし

(遠くへ出かければ、出かける程に解る事は少なくなっていく)」

と老子が言う通りである。


ただ、私にも気になることがないではない。

老子がこうも言っていることを、

どう受けとめればよいのだろうか。

「爲學日益、爲道日損。損之又損、以至於無爲。」

〔学を為(な)せば日々に益(ま)し、道を為せば日々に損(そん)す。

これを損して又(ま)た損し、以(も)って無為(むい)に至る。「老子」48章〕

(学問を修めると日に日に知識が増えるが、

「道」を修めると日に日に知識が失われていく。

知識を減らした上にまた減らし、そうして無為の境地へと至るのだ。)

思索を深め、学を極めると、ついに私は「道」の思想を

体得することになるらしいが、

「道」の思想は無為の思想である。

したがって、この思想を体得したとき、私の頭は活性を失って、

どんよりと無為の状態に沈んでしまうようなのだ。

最初の私の心配は、こうして、思わぬ形で

現実のものになってしまうらしいのである。

トホホ。
コメント (2)
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