ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

荘子の道を登る

2016-02-26 16:35:28 | 日記
荘子の読解も、そろそろ佳境に入ってきた。

道に迷ったと思いこんで、

あちこちうろついていたら、

いつの間にか山頂の付近に立っていた、

という感じがする。

我々は前回、達人が看破する「大いなる一切肯定の世界」

に論及したのだが、まさにこのニーチェ的な境地こそ

「道」という、荘子思想の真骨頂の境地

に他ならないからである。

荘子は言う。

「究極の境地とは何か。

是非の対立を越えた是(ぜ)に、いいかえれば自然のままの道に、

ひたすら因(よ)り従うことである。

ひたすら因り従うだけで、その因り従っているという

意識さえもなくなること、

この境地をこそ道というのである」

(斉物論第二-12)

この重たそうな概念、「道」という概念は

老子にも見られたが、

荘子が老子とともに「道教」の祖の一人とされ、

「老荘思想」と一くくりにされることを思えば、

荘子があちこちで「道」を説くのも、

ごくごく当然のことと言えるだろう。


さて、老子の場合もそうだったが、

話が「道」に及ぶと、

登頂の道筋はとたんに険しくなる。

西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」などと同様に、

私は難解な形而上学的議論が苦手だし

好きではないので、

その種の議論はなるべく(敬して?)遠ざけてきた。

しかし、いつまでも逃げ回っていたのでは

埒が明かない。

そろそろこの問題に向き合う時期なのだろう。

ただ、向き合うといっても、

正面から向き合ったのでは、

これも埒が明かないので、

私としては、ここで一つの戦略を立てて

これに臨みたいと思う。

荘子には、「道は**によって明らかになる」という肯定形、

また、「道は**によっては明らかにならない」という否定形、

その両方の言い回しが見られるが、

私は前者、肯定形の主張に焦点を当てるという、

まっとうな正攻法の攻め方は取らずに、

後者、否定形の主張に重点的に焦点を当て、

「道でない」ものを徹底的に浮かび上がらせ、

これをそぎ落としていって、

逆にそこから「道である」ものを浮き彫りにするという、

迂回的かつ邪道じみた

レリーフの手法を取りたいのである。

はて、うまくいくかどうか。

それは私にも分からない。
コメント
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