荘子の読解も、そろそろ佳境に入ってきた。
道に迷ったと思いこんで、
あちこちうろついていたら、
いつの間にか山頂の付近に立っていた、
という感じがする。
我々は前回、達人が看破する「大いなる一切肯定の世界」
に論及したのだが、まさにこのニーチェ的な境地こそ
「道」という、荘子思想の真骨頂の境地
に他ならないからである。
荘子は言う。
「究極の境地とは何か。
是非の対立を越えた是(ぜ)に、いいかえれば自然のままの道に、
ひたすら因(よ)り従うことである。
ひたすら因り従うだけで、その因り従っているという
意識さえもなくなること、
この境地をこそ道というのである」
(斉物論第二-12)
この重たそうな概念、「道」という概念は
老子にも見られたが、
荘子が老子とともに「道教」の祖の一人とされ、
「老荘思想」と一くくりにされることを思えば、
荘子があちこちで「道」を説くのも、
ごくごく当然のことと言えるだろう。
さて、老子の場合もそうだったが、
話が「道」に及ぶと、
登頂の道筋はとたんに険しくなる。
西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」などと同様に、
私は難解な形而上学的議論が苦手だし
好きではないので、
その種の議論はなるべく(敬して?)遠ざけてきた。
しかし、いつまでも逃げ回っていたのでは
埒が明かない。
そろそろこの問題に向き合う時期なのだろう。
ただ、向き合うといっても、
正面から向き合ったのでは、
これも埒が明かないので、
私としては、ここで一つの戦略を立てて
これに臨みたいと思う。
荘子には、「道は**によって明らかになる」という肯定形、
また、「道は**によっては明らかにならない」という否定形、
その両方の言い回しが見られるが、
私は前者、肯定形の主張に焦点を当てるという、
まっとうな正攻法の攻め方は取らずに、
後者、否定形の主張に重点的に焦点を当て、
「道でない」ものを徹底的に浮かび上がらせ、
これをそぎ落としていって、
逆にそこから「道である」ものを浮き彫りにするという、
迂回的かつ邪道じみた
レリーフの手法を取りたいのである。
はて、うまくいくかどうか。
それは私にも分からない。
道に迷ったと思いこんで、
あちこちうろついていたら、
いつの間にか山頂の付近に立っていた、
という感じがする。
我々は前回、達人が看破する「大いなる一切肯定の世界」
に論及したのだが、まさにこのニーチェ的な境地こそ
「道」という、荘子思想の真骨頂の境地
に他ならないからである。
荘子は言う。
「究極の境地とは何か。
是非の対立を越えた是(ぜ)に、いいかえれば自然のままの道に、
ひたすら因(よ)り従うことである。
ひたすら因り従うだけで、その因り従っているという
意識さえもなくなること、
この境地をこそ道というのである」
(斉物論第二-12)
この重たそうな概念、「道」という概念は
老子にも見られたが、
荘子が老子とともに「道教」の祖の一人とされ、
「老荘思想」と一くくりにされることを思えば、
荘子があちこちで「道」を説くのも、
ごくごく当然のことと言えるだろう。
さて、老子の場合もそうだったが、
話が「道」に及ぶと、
登頂の道筋はとたんに険しくなる。
西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」などと同様に、
私は難解な形而上学的議論が苦手だし
好きではないので、
その種の議論はなるべく(敬して?)遠ざけてきた。
しかし、いつまでも逃げ回っていたのでは
埒が明かない。
そろそろこの問題に向き合う時期なのだろう。
ただ、向き合うといっても、
正面から向き合ったのでは、
これも埒が明かないので、
私としては、ここで一つの戦略を立てて
これに臨みたいと思う。
荘子には、「道は**によって明らかになる」という肯定形、
また、「道は**によっては明らかにならない」という否定形、
その両方の言い回しが見られるが、
私は前者、肯定形の主張に焦点を当てるという、
まっとうな正攻法の攻め方は取らずに、
後者、否定形の主張に重点的に焦点を当て、
「道でない」ものを徹底的に浮かび上がらせ、
これをそぎ落としていって、
逆にそこから「道である」ものを浮き彫りにするという、
迂回的かつ邪道じみた
レリーフの手法を取りたいのである。
はて、うまくいくかどうか。
それは私にも分からない。