「曲則全。枉則直」。
〔曲なればすなわち全。枉(おう)なればすなわち直(ちょく)〕。
これは、老子の22章でも使われていた言葉である。
「木は曲がっていると、
(材木にならないため) 伐採されずに完全さが保たれる」
という意味である。
樗(おうち)の大木のことを指すらしいが、
日本で言えば、「独活の大木」ということだろう。
荘子は恵士に、この役立たずの大木のことを持ち出させ、
荘子自身への批判のために使わせている。
恵子は荘子にむかって言う。
「私のところに大木があって、人はこれを樗(おうち)と呼んでいますが、
その幹は節くれだった瘤だらけで直線はひけず、
その小枝は曲がりくねって、規(コンパス)や矩(さしがね)は使えない。
だから道ばたに立てておいても大工はふりむきもしません。
ところで、あなたの話も大きすぎて用いようがないから、
人々みんなにそっぽを向かれるのですなあ」
この恵士の批判に、荘子はこう答えている。
「あなたは、大きなものの使い方を知らないのですなあ。
あなたはなぜこの大木の下に寝そべって、その木陰でのんびりと安らぎ、
生の充溢を享受しようとしないのですか。
世間的には無価値だとしても、この大木は
それなりの意味と役割を持っているのです。
世間的な価値なんて、
そんなことは何も気にすることはありませんよ」
けだし名言である。
「独活の大木のレゾンデートル」とでも言わせてもらおうか。
はて、私のこのブログは・・・? その存在の意義は?
荘子の言葉は何かと私を勇気づけてくれるのだが。
〔曲なればすなわち全。枉(おう)なればすなわち直(ちょく)〕。
これは、老子の22章でも使われていた言葉である。
「木は曲がっていると、
(材木にならないため) 伐採されずに完全さが保たれる」
という意味である。
樗(おうち)の大木のことを指すらしいが、
日本で言えば、「独活の大木」ということだろう。
荘子は恵士に、この役立たずの大木のことを持ち出させ、
荘子自身への批判のために使わせている。
恵子は荘子にむかって言う。
「私のところに大木があって、人はこれを樗(おうち)と呼んでいますが、
その幹は節くれだった瘤だらけで直線はひけず、
その小枝は曲がりくねって、規(コンパス)や矩(さしがね)は使えない。
だから道ばたに立てておいても大工はふりむきもしません。
ところで、あなたの話も大きすぎて用いようがないから、
人々みんなにそっぽを向かれるのですなあ」
この恵士の批判に、荘子はこう答えている。
「あなたは、大きなものの使い方を知らないのですなあ。
あなたはなぜこの大木の下に寝そべって、その木陰でのんびりと安らぎ、
生の充溢を享受しようとしないのですか。
世間的には無価値だとしても、この大木は
それなりの意味と役割を持っているのです。
世間的な価値なんて、
そんなことは何も気にすることはありませんよ」
けだし名言である。
「独活の大木のレゾンデートル」とでも言わせてもらおうか。
はて、私のこのブログは・・・? その存在の意義は?
荘子の言葉は何かと私を勇気づけてくれるのだが。