組織内での評価に拘泥して、
あくせくと仕事に精を出す会社人たち。
彼らはあの小知の蝉や小鳩と変わらない、
と言う荘子のまなざしには
冷笑の趣きがある。
注意しなければならないのは、
荘子が自らのこの冷笑の姿勢そのものをも
批判の俎上にのせていることである。
荘子は言う。「宋栄子」がそうだが、会社人をあざ笑う人は、
世間の毀誉褒貶に心を動かされないだけの主体性を持ってはいる。
しかし彼は、世俗を否定の対象にするという形で、
なお世俗にこだわっている。
だから彼は、まだ世俗を離れ切ってはいないのだ、と。
世俗を離れて飛翔する第三の人物として、荘子が掲げるのは、「列士」である。
列士は「世俗を遙かなる高みへと超えるから、
世俗的な自我にとらわれることも、
世間的な価値に左右されることも、
人間的な言葉によって栄誉づけられることもなく」、
その点では、彼は「宋栄子」よりも優れている。
しかし、列子の飛翔はなお外部の風に依存し、彼の超越は
なお外在的なものにとらわれている。
つまり彼の超越は、
まだ真に自由自在な絶対の境地には達していない、と荘子は言う。
しかし、真に自由な境地に達することなど、
人間にできることだろうか。
「一切の時間と空間を超えた絶対自由の世界に逍遥して、
何ものにも依存することなく、
何ものにも束縛されることがない」ような
超越者の境地に達することなど、人間にできることだろうか。
あの大鳥にだってそんなことは不可能だろう。
荘子の人間を見る目には、厳しいものがある。
それだけ荘子の超俗への希求が
激しいということではあるのだが。
あくせくと仕事に精を出す会社人たち。
彼らはあの小知の蝉や小鳩と変わらない、
と言う荘子のまなざしには
冷笑の趣きがある。
注意しなければならないのは、
荘子が自らのこの冷笑の姿勢そのものをも
批判の俎上にのせていることである。
荘子は言う。「宋栄子」がそうだが、会社人をあざ笑う人は、
世間の毀誉褒貶に心を動かされないだけの主体性を持ってはいる。
しかし彼は、世俗を否定の対象にするという形で、
なお世俗にこだわっている。
だから彼は、まだ世俗を離れ切ってはいないのだ、と。
世俗を離れて飛翔する第三の人物として、荘子が掲げるのは、「列士」である。
列士は「世俗を遙かなる高みへと超えるから、
世俗的な自我にとらわれることも、
世間的な価値に左右されることも、
人間的な言葉によって栄誉づけられることもなく」、
その点では、彼は「宋栄子」よりも優れている。
しかし、列子の飛翔はなお外部の風に依存し、彼の超越は
なお外在的なものにとらわれている。
つまり彼の超越は、
まだ真に自由自在な絶対の境地には達していない、と荘子は言う。
しかし、真に自由な境地に達することなど、
人間にできることだろうか。
「一切の時間と空間を超えた絶対自由の世界に逍遥して、
何ものにも依存することなく、
何ものにも束縛されることがない」ような
超越者の境地に達することなど、人間にできることだろうか。
あの大鳥にだってそんなことは不可能だろう。
荘子の人間を見る目には、厳しいものがある。
それだけ荘子の超俗への希求が
激しいということではあるのだが。