海釣りに行った夢を見た。こんな夢を見るのは久しぶりのことである。サーフでの投げ釣りだった。力まかせに遠投するのではなく、少し手前をねらって投げたほうが、釣果が上がる。釣れるのは小ぶりのピンギスばかりだったが、掛かったときのプルルというアタリの感覚が何ともいえず、私の胸を高鳴らせた。
実際に海釣りに行っていた頃、私はクーラーボックスに氷を入れ、釣れた魚をその中に放り込んだ。鮮度が落ちない状態で魚を食べるためである。もっとも、ボーズが大半の私の釣りは、空のクーラーボックスのまま、虚しく帰ることがほとんどだった。期待の半分も釣れれば、それで御の字。だが、そんなことも5回に1回ぐらいではなかったろうか。
この魚、持ち帰って捌くのは面倒だな。でも、これだけの大物だ、滅多にないことだから、子供たちに見せて自慢しなくては・・・。夢の中で、そんなふうに迷う私は、40センチほどのアイナメ(それともボラだったか)を釣り上げていた。迷っている状態で目が覚めた。
この夢が痛快だったのは、他人が一人も出てこなかったことである。昔の職場の同僚も登場しなかったし、他の釣り人も登場しなかった。いや、釣り人は私のまわりに何人かいたようだが、ほとんど気にならなかった。他の釣り人の釣果を気にする自分もそこにはいなかった。
半身不随の私もそこにはいなかった。手足が自由に動かせるとか、動かせないとか、歩けるとか、歩けないとか、そんなことを意識する自分もいなかった。
夢から我に返って、私はふと大学時代の友人・Aのことを思い出した。Aとは海釣りや渓流釣りに、よく釣行を共にしたものだ。数年前にFacebook で選挙をめぐる意見の違いから、諍いを起こした。ちょっとした見解の相違だったが、ものの弾みで絶交へと発展した。以来、メールでの交流はない。
Aは今頃どうしているだろうか。彼の住む埼玉県は、コロナの感染者数がうなぎのぼりで、緊急事態宣言の対象になったと聞く。そんな状態では、Aもおちおち出歩けないだろう。写真が趣味で、数年前は近所のスナップショットを撮り歩いていたようだが、今ではそんな「不要不急」の振る舞いもできず、自宅軟禁の巣ごもり状態で、さぞ悶々としているに違いない。
そんなAに較べれば、自分は・・・と、ついついAと自分を比較してしまっている私がいた。なんだかなあ。
実際に海釣りに行っていた頃、私はクーラーボックスに氷を入れ、釣れた魚をその中に放り込んだ。鮮度が落ちない状態で魚を食べるためである。もっとも、ボーズが大半の私の釣りは、空のクーラーボックスのまま、虚しく帰ることがほとんどだった。期待の半分も釣れれば、それで御の字。だが、そんなことも5回に1回ぐらいではなかったろうか。
この魚、持ち帰って捌くのは面倒だな。でも、これだけの大物だ、滅多にないことだから、子供たちに見せて自慢しなくては・・・。夢の中で、そんなふうに迷う私は、40センチほどのアイナメ(それともボラだったか)を釣り上げていた。迷っている状態で目が覚めた。
この夢が痛快だったのは、他人が一人も出てこなかったことである。昔の職場の同僚も登場しなかったし、他の釣り人も登場しなかった。いや、釣り人は私のまわりに何人かいたようだが、ほとんど気にならなかった。他の釣り人の釣果を気にする自分もそこにはいなかった。
半身不随の私もそこにはいなかった。手足が自由に動かせるとか、動かせないとか、歩けるとか、歩けないとか、そんなことを意識する自分もいなかった。
夢から我に返って、私はふと大学時代の友人・Aのことを思い出した。Aとは海釣りや渓流釣りに、よく釣行を共にしたものだ。数年前にFacebook で選挙をめぐる意見の違いから、諍いを起こした。ちょっとした見解の相違だったが、ものの弾みで絶交へと発展した。以来、メールでの交流はない。
Aは今頃どうしているだろうか。彼の住む埼玉県は、コロナの感染者数がうなぎのぼりで、緊急事態宣言の対象になったと聞く。そんな状態では、Aもおちおち出歩けないだろう。写真が趣味で、数年前は近所のスナップショットを撮り歩いていたようだが、今ではそんな「不要不急」の振る舞いもできず、自宅軟禁の巣ごもり状態で、さぞ悶々としているに違いない。
そんなAに較べれば、自分は・・・と、ついついAと自分を比較してしまっている私がいた。なんだかなあ。
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