きのうになって、ようやく石原慎太郎の遺作『「私」という男の生涯』を読み終えた。デイサで読もうと思って買った本だったが、結局その大半は自宅で読むことになった。面白くて目が離せない、そんな感じで、一気に読み終えた。テレビドラマなどよりはるかに面白かった。
とはいえこの本は、高齢の著者が己の老いと,、迫りつつある死の予感に向き合いながら書いたもので、決して明るい本ではない。著者特有の自慢話を除けば、暗く重苦しい印象が強く残る本である。以下、印象に残ったことばを引用しておこう。
「ジャンケレ ビッチの 死に関する労作『死』の中で、 彼は老化についても的確な分析をしている。老いるということは人間は必ず死ぬという運命の 兆候であり、死そのものの前駆性であり、死によって不可避な限界をつけられた 生成が 長い年月の間に死のこちら側で必然に取る変形 だと。老化は一種の希薄化された死であり 、死という瞬間への 減速装置があって、言葉では表現不可能な死という瞬間を時間の経過の中に溶かして伝達する作用だろう。
(中略)
人間が生きながら育つということは死という非存在に向かっての連続的な歩みと言えるが 、しかしその 登山の終盤においてようやく山頂が間近に目に入ってきた段階において、登山者が登り切ったはるかに 高く長い道程を振り返り、見下ろし 見直した時に感じる眩暈に似た幻惑こそが老いへの自覚とも言えそうだ。(中略)今この頃ほど私は己の存在への強い意識を抱いたことはない し、肉体の衰退はその意識を裏切ろうとしている。
(中略)
最近たどり着いた高齢のせいだろうか、私が強く予感し、予感しながら決して怯えではなしに強い関心と言おうか、ある忌々しさと言おうか、今まで味わったことのない一種投げやりな感情でしきりに思うのは、この私自身にとっての『最後の未知』『最後の未来』たる己の『死』のことばかりなのだ。」
とはいえこの本は、高齢の著者が己の老いと,、迫りつつある死の予感に向き合いながら書いたもので、決して明るい本ではない。著者特有の自慢話を除けば、暗く重苦しい印象が強く残る本である。以下、印象に残ったことばを引用しておこう。
「ジャンケレ ビッチの 死に関する労作『死』の中で、 彼は老化についても的確な分析をしている。老いるということは人間は必ず死ぬという運命の 兆候であり、死そのものの前駆性であり、死によって不可避な限界をつけられた 生成が 長い年月の間に死のこちら側で必然に取る変形 だと。老化は一種の希薄化された死であり 、死という瞬間への 減速装置があって、言葉では表現不可能な死という瞬間を時間の経過の中に溶かして伝達する作用だろう。
(中略)
人間が生きながら育つということは死という非存在に向かっての連続的な歩みと言えるが 、しかしその 登山の終盤においてようやく山頂が間近に目に入ってきた段階において、登山者が登り切ったはるかに 高く長い道程を振り返り、見下ろし 見直した時に感じる眩暈に似た幻惑こそが老いへの自覚とも言えそうだ。(中略)今この頃ほど私は己の存在への強い意識を抱いたことはない し、肉体の衰退はその意識を裏切ろうとしている。
(中略)
最近たどり着いた高齢のせいだろうか、私が強く予感し、予感しながら決して怯えではなしに強い関心と言おうか、ある忌々しさと言おうか、今まで味わったことのない一種投げやりな感情でしきりに思うのは、この私自身にとっての『最後の未知』『最後の未来』たる己の『死』のことばかりなのだ。」