ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

柏崎が意味するもの

2016-11-24 13:48:09 | 日記
毎朝、起きだす前のベッドで、スマホを手にする。ネットの「新聞社説一覧」を開いて、
ざっと見出しを眺める。それが最近の、私の早朝の習慣になっている。

けさ目についたのは、《柏崎刈羽原発 お膝元は容認派を選んだ》というタイトルだっ
た。東京電力柏崎刈羽原発の再稼働問題を最大の争点にした新潟県柏崎市長選挙で、容認
派の候補者が、反対派の候補者に大差をつけて当選したという現実がある。これをどう受
け止めるべきなのか、興味が湧いたのである。

もっとも、この社説が産経新聞のものであることから、その主張の方向性は、私にもだい
たい推測できた。「原発のお膝元ですら、住民は再稼働を支持したのだから、我々も当然、
再稼働に積極的になるべきではないか」というようなことだろう。

トーストの朝食を済ませ、庭の雪景色を片目で眺めながら、産経のこの社説にじっくりと
目を通してみた。「「お金より命が大事だが、生活を支えて命を育むためにお金も必要」
という選挙戦での桜井氏の訴えは、柏崎市の生活者の過半を占める切実な思いだろう」と
ある。柏崎市の生活者の過半は、原発がまき散らす放射能のリスクよりも、原発がばらま
く「お金」のほうを重視して、再稼働を選んだということだろう。「地元の人々は原子力
発電の仕組みや放射線についての情報に接する機会も多く、「正しく怖がる」すべを知っ
ている」。住民による再稼働の選択は「その上での熟慮の選択」だったのだ、と社説は述
べるが、では、「正しく怖がる」とはどういうことなのか。「放射線の影響なんて大した
ことはない」と思うことなのか。

私が一読者として毎日読ませてもらっているブログがある。このブログは、(原発立地県
であり、原発事故被災県でもある)フクシマに住む「ゴマメのばーば」さんが、ほぼ毎日
アップしているものだ。そこにはこう書かれている。「「原発交付金」は、麻薬の様なも
の。一旦受けてしまうと、止められなくなってしまう」。「「再稼働容認」を市民の方が
選択したという事」は「一旦原発を受け容れてしまった地元の宿命とでも言うほかありま
せん」。「ゴマメのばーば」さんは、原発立地市町村に住む(同じ立場の)者として、
「(この)選挙結果に、残念 切ないなぁ、との思いがつのるばかりです」と書いている。

産経の論説委員には、こういう声があることも知ってもらいたいと思う。
コメント
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