雪が幼稚部501号室に到着すると、河村亮が小さな机で背を丸めているところだった。
ペンを額に当てながら、何やら必死に考えている。
そんな亮は雪に気がつくと、いきなり「遅いじゃねーか」と彼女をなじった。
「そのパズルのピース合わせといてくれ。ちょっと手が塞がってて忙しくてよー」
突然仕事を言いつけられて、雪はわけの分からぬまま、亮の言うなりに子供用パズルのピースを拾い始めた。
「てか‥あなたが一体どうしてここにいるのか、未だに疑問なんですけど」
なぜ自分がこんなことをしているのか考えると、自ずとなぜ彼がここに居るのかという疑問に辿り着く。
雪がその疑問を口にすると、亮は空を見ながら答え出した。
「モデル‥兼雑用って感じか?広告の写真撮らせてやったら、1階でバイトしないかって誘われてな」
亮は、これが結構金になるんだと言った。
雪は自分が拾い集めたパズルの子供用教材を見て、「もしかして補助講師なさってるんですか?」と聞いた。
近頃では補助講師も学歴重視で、なかなか採用されないと聞く。
亮が肯定したのを見て、雪はさすがハーフ、とそのエキゾチックな外見を眺めた。
「英語、さぞお上手なんでしょうねぇ」
そう言った雪に、亮は「いや?出来ないけど?」とあっけらかんと答えた。
意外過ぎる‥。
「でも幼稚園のガキどもよりはマシだ。ナメんなよ」とカッコつけた亮だが、雪は何と答えれば良いか分からなかった‥。
しかもなぜここに呼び出され、手伝わされているのか謎である。
雪が不当を訴えると、亮はちょっとぐらい手伝ってくれてもいいじゃねぇかとブーブー言った。
メシもおごらねーくせにと続ける亮に、雪は黙秘権を行使した‥。
しかし結局雪はその仕事を手伝っていた。
バラバラになったイラストと英単語を繋ぎ合わせながら、机に座った亮を横目で眺めた。
小さな椅子に座り大きな身体を曲げながら、眉間にシワを寄せてプリントと睨めっこする彼は、とても不思議な存在だった。
てか本当にこの人昔何してた人なんだろう?スポーツとか?
そう思いながらも真面目に仕事をこなす雪である。
そして自分の持っている象のイラストを見て、亮に声を掛けた。
パズルの片割れ、「Elephant」が亮の足元に落ちているのだ。
「あの、エレファント取ってもらってもいいですか?」
「は?」
最初雪は、亮が聞き取れなかったんだと思って、「エレファントですってば」ともう一度言った。
しかし亮は「なんだそれ」と全く分かってない様子だった。
ゾウですよと言ってようやく分かってもらえ、カードを拾った亮は雪に向かってヒュッと投げた。
続けて「カウとスネイクもお願いします」と雪は亮の足元にあるカードを拾ってもらおうとしたのだが、
亮は「スネイク」と「ステーキ」を聞き間違える始末だった‥。
そして何度も亮の作業を中断させ、声を荒げる雪に亮は青筋を立てた。
「ナメてんのか」とまで言った亮だが、負けずに雪も言い返した。
「はい?!もたもたなんてしてられないんですよ!もうすぐ授業が始まっちゃうんです!」
雪はついイライラして、「てかこんな簡単な英単語も分からないんですか?!」とまで言ってしまった。
亮はキレそうになるのを堪えながら、「お前の発音がクソだから聞き取れねぇんだろーが」と雪の非を責めた。
ハッキリ言って発音を問うほどの単語じゃない‥。
雪は亮の態度に苛ついた。
「そういうあなたはさぞお上手なんでしょうね?!」と皮肉を込めて言ったのだが、
「少なくともお前よりはな」と上から目線に返された。
続けて「オレはこう見えて教養人だからな~」と亮は言ったのだが、雪は微塵も信じなかった。
疑いの目を向けた雪を見て、亮は机に力強く指を広げて見せた。
「お前、Impromptuって知ってるか?」
「え? 何ですか?」
いきなりの質問に、雪は面食らった。
すると亮は「大学生のくせにそんくらいのことも分かんねーのかよ」と呆れたように言った。
「即興曲だよ、即興曲!」
幼い頃少しピアノをかじっていた雪は、それくらい知っていると憤慨した。
不明瞭な発音で突然そんなことを言われても、即答出来る方が珍しい。
そんな雪に、亮は「もう一つ」と質問を投げかけた。
「Die Forelleは?」 「はい?」
雪は亮に詰め寄った。
もう英単語ですらないじゃないかと。Dieという冠詞がついているところから推測するとドイツ語だ。
「そんなもん私に分かるわけないじゃないですか!」
そんな雪の主張にも、亮は「そんくらい基本的知識だろ」と悪びれない。
「英語はともかくマスくらい分かってもらわねぇとな。教養が足りねぇな~教養が」
タカタカと指を動かしながら亮は言う。
「Die Forelle」とは、シューベルトが作曲した「鱒」という曲だ。
高校時代、亮の好きだった、シューベルトの‥。
しかし雪にとっては意味不明である。
突然「鱒」と言われたって、何が何やら分からない。
亮は指を動かしながら、今度は英語の問題を出してやるよと言って、
「ノクターンって分かるか?ノクターン」と雪に聞いた。
「‥夜想曲?」
正解、と亮はどこか嬉しそうに言った。
しかし彼女がそれを知っているのは、教養が深いからでは無いと考えた。
「ま、あれか。あのキモい男が合コンの時にほざいてたことを、たまたま覚えてただけじゃねーの?」
雪はそう言われて、そういえばそういうこともあったと思い出した。
確かショパンの夜想曲について、又斗内はウンチクを語っていた‥。
「‥‥‥‥」
雪は自分も忘れていたようなことを言及した亮に驚いた。
あれはまだ彼が自分の前に姿を現す前だったはずだ。そんな時から‥。
亮の指が、音階を越えるように大きく動いていた。
久しぶりに口にする用語の数々に心が弾み、亮はつい自分の手のことを忘れていた。
「お前ってマジ面白ぇヤツ」と、ククッと笑った時だった。
突然異変を感じた。
脳内で鳴っていた音が、流れていた音符が、いきなりプツリと切れた。
机の上の手が、その指が、自分のものじゃないみたいだった。
動かないそれと共にしばし亮は、その場に固まった。
雪はその様子を黙って見ていた。
滑らかに続いていたタカタカという音は、ある時ピタッと止んだ。
そして彼の顔を見ると、苦虫を噛み潰したような表情で、舌打ちをした。
それきり亮は拳を握ったまま、雪の前で指を広げることはなかった。
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<ちらつく過去>でした。
二人のやりとりが面白いですね~。
シューベルトの「Die Forelle」
亮がタカタカと指を動かしていたのはこれでしょうか。
それともピアノ君が弾いていた&又斗内がウンチクを垂れたショパンのノクターンでしょうか。
しかし気になるのは、「元は左手だったけど故障した」と以前言っていたと思うのですが、
今回指を動かし、止まってしまったのは右手‥。
右手も故障しているのか、作者さんが間違えたのか‥。ちょっと謎が残ったところでした‥(^^;)
次回は<波乱の予兆>です。
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