「教える必要は?」8月5日
千葉大予防医学センター教授近藤克則氏が、『スポーツ観戦で健康に』という表題でコラムを書かれていました。その中で近藤氏は、『月1回~年数回、現地で観戦、あるいは毎週テレビ・インターネットで観戦している人は、全く観戦していない人に比べ、うつリスクが3割低かった』というデータを示し、『(スポーツを)みるだけでも健康に良い』と指摘なさっています。
そんな効用のあるスポーツ観戦ですが、最近、感じたことがあります。オリンピックの新競技、モトクロスバイクやスケートボード、サーフィンなどをテレビで見ていても、少しも楽しくないのです。年寄りだから感性が合わないのだ、と言われればそれまでですが、自分なりに理由を考えると少し違うのです。
分からないから、というのが楽しめない理由です。どんな技があるのか、どんな技にどのくらいのポイントがつくのか、技の失敗と成功を見極める着目点はどこか、などが分からないため、「物語」が共有できないのです。
そんな私につれあいは、「単純に、あんなにジャンプしてすごい」と感動すればよいと言いますが、それだけでは物足りないのです。なぜなら、金メダリストも、区役所の前でスケボーの練習している若者も、ある意味では私などには絶対できない技を披露しているという点では同じだからなのです。
私の数少ない趣味である将棋を例に言うならば、羽生善治や藤井総太も、区の将棋大会の優勝者も、10回対局して10回ともあっさり負けるという意味では同じですが、一手一手の指し手の意味や深さは比べものにならない、という感じだと言えば分かってもらえるでしょうか。将棋を全く知らないつれあいは、「藤井さん10連勝だって、すごいね」というレベルの感動ですが、日本将棋連盟から4段の免状をいただいている私は、「ここで角を打つのか」と、その手を発見したとき、筋が悪いその手を大事な対局で指すときの藤井2冠の心のありよう、十分に読んでいたはずなのに読み担い手を指された相手の動揺などを想像するからこそ、観戦が楽しいのです。
スポーツも、知ることで観戦から得る喜びや感動、あるいは共に悲しんだりする気持ちが深くなるのではないかと思うのです。では、どのようにして知るのか、と考えたとき、学校教育における体育の役割に考えが至るのです。音楽や美術における「鑑賞」にあたるものは、体育にはありませんが、必要なのではないか、と。体育教員はどう考えているのでしょうか。