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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

教えるのは、誰?

2021-08-11 07:53:08 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「教える必要は?」8月5日
 千葉大予防医学センター教授近藤克則氏が、『スポーツ観戦で健康に』という表題でコラムを書かれていました。その中で近藤氏は、『月1回~年数回、現地で観戦、あるいは毎週テレビ・インターネットで観戦している人は、全く観戦していない人に比べ、うつリスクが3割低かった』というデータを示し、『(スポーツを)みるだけでも健康に良い』と指摘なさっています。
 そんな効用のあるスポーツ観戦ですが、最近、感じたことがあります。オリンピックの新競技、モトクロスバイクやスケートボード、サーフィンなどをテレビで見ていても、少しも楽しくないのです。年寄りだから感性が合わないのだ、と言われればそれまでですが、自分なりに理由を考えると少し違うのです。
 分からないから、というのが楽しめない理由です。どんな技があるのか、どんな技にどのくらいのポイントがつくのか、技の失敗と成功を見極める着目点はどこか、などが分からないため、「物語」が共有できないのです。
 そんな私につれあいは、「単純に、あんなにジャンプしてすごい」と感動すればよいと言いますが、それだけでは物足りないのです。なぜなら、金メダリストも、区役所の前でスケボーの練習している若者も、ある意味では私などには絶対できない技を披露しているという点では同じだからなのです。
 私の数少ない趣味である将棋を例に言うならば、羽生善治や藤井総太も、区の将棋大会の優勝者も、10回対局して10回ともあっさり負けるという意味では同じですが、一手一手の指し手の意味や深さは比べものにならない、という感じだと言えば分かってもらえるでしょうか。将棋を全く知らないつれあいは、「藤井さん10連勝だって、すごいね」というレベルの感動ですが、日本将棋連盟から4段の免状をいただいている私は、「ここで角を打つのか」と、その手を発見したとき、筋が悪いその手を大事な対局で指すときの藤井2冠の心のありよう、十分に読んでいたはずなのに読み担い手を指された相手の動揺などを想像するからこそ、観戦が楽しいのです。
 スポーツも、知ることで観戦から得る喜びや感動、あるいは共に悲しんだりする気持ちが深くなるのではないかと思うのです。では、どのようにして知るのか、と考えたとき、学校教育における体育の役割に考えが至るのです。音楽や美術における「鑑賞」にあたるものは、体育にはありませんが、必要なのではないか、と。体育教員はどう考えているのでしょうか。

 

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自分が暴君

2021-08-10 08:02:24 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「主権者教育の要点」8月4日
 『論点』欄のテーマは、『歳費返納・停止の議論』でした。『「政治とカネ」を巡る問題などの事件で拘留されたり、有罪が確定して当選無効となったりした国会議員の歳費の取り扱いを巡り、与党が議論を始めた』ことについて、3人の識者が自説を展開なさっていました。
 この問題の発端は、河井元法相夫妻の大量買収事件でした。有権者を舐め切ったあまりにも悪辣な犯罪行為であったため、河井夫婦叩きが起こり、その一部として、採否返納問題が注目を浴びたということだと思います。私も怒りを感じましたが、国会議員の採否返納問題については、冷静に考える必要があると思っています。
 駒沢大学法学部教授大山礼子氏はこう語っています。『一旦支給停止を認めてしまうと歯止めが利かなくなり、将来、対象が広がってしまう可能性がある(略)「仕事の怠慢」などという評価の難しい事柄を理由に支給を停止する余地を作ってしまい、非常に危険だ』と。全く同感です。
 つまり、一度返納・支給停止制度ができてしまうと、この制度を悪用し、権力をもつ多数派が、反対派・少数派弾圧のために使うことが危惧されるという指摘です。また、自主的な返納についても大山氏は、『所属政党や国会、さらには世論から自主返納を迫る圧力が生じ、議員の自由意思に基づく返納ではなくなってしまう』とし、やはり反対派弾圧に使われることを懸念なさっています。
 今、学校において主権者教育を行うべきという主張が盛んです。そしてこうした主張は、どちらかと言うと野党に共感する人たちからなされることが多いように思われます。その割には抜け落ちていると思われるのが、「権力」による弾圧への警戒心です。国会議員の採否返納についても、野党内には返納制度の実現を求める声が強いようですが、「権力」による弾圧への警戒心が不足しているように思うのです。
 それは、河井夫婦=自民党=権力側、返納を迫る自分たち=野党側=反権力というような図式でこの問題をとらえているからです。反権力、権力を監視する側の自分たちが求める制度だから問題ないという発想なのです。
 しかしそれはあまりにも歴史を知らない者の発想です。歴史は2つのことを教えてくれます。1つは、作られた制度や法は、制定当初の意図や理念とは無関係に権力者に利用されるということであり、もう一つは民衆やメディアも権力者として大きな力を振るうことがあるということです。大山氏が示された懸念はまさにこの2つを指しているのです。
 私は主権者教育を、子供たちにとって身近な小さな問題から始めるべきだという主張に対し、主権者教育は民主制が内包する様々な問題について過去の歴史から学ぶことが欠かせないと主張してきました。
 例えば、第一次世界大戦は、欧州の多くの国の指導者、大統領や首相、国王などが望んでいないにもかかわらず、燃え上った民衆の圧力が開戦に踏み込ませ、国歌を挙げての総力戦に導いたことを十分に学べば、単純に民意に委ね反映させればうまくいくというものではないことは理解されるはずです。
 我が国が太平洋戦争に突入していったのも、統帥権は天皇に属するという、本来は問題にならないはずの仕組みを軍部が悪用し、政治のコントロールを脱してしまったことが大きな要因であることを、きちんと学べば悪用される可能性がある仕組みや制度・法規などの制定には、慎重であるべきだということが理解できるのです。
 主権者教育は、国民=主権者=善という発想ではなく、主権者である我々もときに間違うので、そうした間違いが悲劇に直結してしまうことがないように何十にも歯止めをつくることが必要ということを学ばせることこそ大事だと考えます。

 

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自宅学習を基本に

2021-08-09 08:05:04 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「努力しております」8月4日
 『自宅で急変 懸念残す』という見出しの記事が掲載されました。『新型コロナウイルス感染者について、政府派感染急増地域は自宅療養を基本とする方針を示した』ことについて、様々な問題点を指摘する記事です。
 記事によると、政府はその意図を、『急激な感染拡大においても医療提供体制を確保し、誰もが症状に応じて必要な医療を行うことができるよう方針転換した』と説明していますが、『自宅療養者の病状急変に対応できなくなる』『体調が急変してもすぎに入院できないことになりかねない』など懸念する声が多いとのことです。
 この記事を読んで、私はコロナ禍の対応とは別におかしなことを連想してしまいました。
 学校で、いじめや学力不振、校内暴力や発達障害などによる学校不適応などの問題が頻発し、このままでは授業が成り立たない状況が、全国各地に広がりました。政府は、多数派である「普通の子供」の学習権を保障するために、上記のような問題行動をとる子供については、「自宅学習」を基本とするという方針を示したのです。また、特に学習が進んでいる子供、いわゆる「浮きこぼし」状態の子供についても、自宅学習を勧めることも併せて発表したという話です。
 当然、子供の切り捨てだ、全ての子供に学びを保障するべき政府の責任放棄だ、という懸念や批判の声が高まります。しかし政府は、各教育委員会が、「自宅学習者フォローアップセンター」を設置し、保護者等からの相談に応ずる体制を整備すること、自宅学習者を対象に、無料通信アプリのラインを使った学習状況観察や相談に応ずること、などの対策を取るので、子供の学習に問題は生じないことを強調し、新方針を変えることはないことを宣言するのです。
 荒唐無稽ですね。しかし、そうした批判は脇に置いて、こうした対応をした場合、教委・学校・教員の負担は軽減されるのでしょうか、ということを考えてみたいと思います。相談に応ずるのは、素人にはできません。結局、教員が交代制か、もしくは現場から何割かを抽出して業務に充てるかするしかありません。その一方で、学校では人数こそ減ったものの、通常通りの教育活動が行われているわけですから、自宅学習対策に引き抜かれ、少なくなった教員の負担は増すばかりです。
 しかも、センターに寄せられる相談の内容によっては、その子供をよく知る元担任に問い合わせなければならないことも増え、センター側の教員、学校に残った教員双方に労力と時間を費やすことを強いる結果になります。
 また、学校とセンターの2カ所を管理運営する教委、2カ所の分かれて勤務する教員を管理監督する校長などの負担も増します。結局、こんな愚策は、現場を知らない、あるいは知ろうともしない政府が、何か対策をしていますよというポーズをとるためのものでしかないということになります。
 病人が医療を受けることも子供が学校教育を受けることも、国民に保障された権利であるということを忘れてはなりません。

 

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音楽の力?

2021-08-08 08:04:09 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「音楽活動?」8月3日
 『「被爆ピアノ」演奏会 子どもたちへの平和の種』という見出しの記事が掲載されました。被爆ピアノ資料館を開いたピアノ調律師矢川光則氏へのインタビュー記事です。ちなみに、被爆ピアノとは、『原爆爆心地より約3㌔以内で爆風や熱風、放射線などの被害を受けながらも奇跡的に焼け残ったピアノ』のことです。矢川氏は、被爆ピアノ演奏会を、全国各地の学校などで開いてきた方だそうです。
  記事の中に気になる記述がありました。『被爆ピアノの音色は世界共通言語』『原爆の恐ろしさや戦争の悲しみ、平和の大切さを伝えるために、必然的に残されたピアノだと、音色を聞いて感じました』『(被爆ピアノは)聴覚に、五感に直接訴えることができる。それがピアノの、他の被爆資料との違いです』などの記述です。
 私は音感が鈍いと自覚しています。楽器は何もできません。音の高低もよく分かりません。ですから音楽について語る資格はないのかもしれませんが、それでも疑問なのです。被爆ピアノには、他の古い痛んだピアノとは違う独特の音色があるのか、ということです。それは、特に音感が鋭いわけでもなく、特別な音楽教育を受けたわけでもない小学生でも分かるほど明確に存在するものなのか、とモヤモヤしてしまうのです。
 素直に物事を見ることができない私のようなひねくれ者からすると、被爆ピアノについての事前学習により影響を受けたからこそ、被爆ピアノの音色が特別に感じられるのではないか、もし、被爆ピアノの事前学習の後に、被爆ピアノではないただの古いピアノの演奏を聞かせても、同じような感想が聞かれるのではないか、と考えてしまうのです。また、被爆ピアノの事前学習なしに、いきなり被爆ピアノを聞かせたとしたら、平和云々の感想は聞かれないのではないか、とも思ってしまうのです。さらに、被爆ピアノで、アップテンポの明るい曲、楽しい歌詞の歌を演奏しても、戦争の悲しみを感じ取ることができるのか、とも。それともやはり「本物」だけが持つ力といったものがあるのでしょうか。
 私は社会科授業の研究・実践をライフワークにしてきました。指導の工夫に一つに実物に触れさせるという方法があります。伝統工芸品に触れさせ、職人技を感じ取らせるというようなことです。しかし実際には、高価な輪島塗を何の説明もなく子供に触らせたところで、予備知識のない多くの子供は、これといった感想を口にできません。教員が説明をしたり、資料集等で調べさせたり、実際に職人の方に話を聞いたり、お手紙を出して質問したりというような学習活動を組み合わせて、初めてその良さを体感するのです。
 そのとき、安物の輪島塗を提示したとして、子供の感想は変わるでしょうか。そんなことは詐欺であり、実際にはしてはいけないことですが、教員時代に考えてみたことがありました。答えは、変わらない、でした。大人でも伝統工芸品の良さなどよく分かりません。素直な子供は、その場の雰囲気や教員の表情や語りに影響を受け、職人さんの作品に対する熱意と誇りはすごい、というような感想を口にするのではないかと思ったものです。
 不遜な言い方になってしまいますが、「学習」には、モノよりも教員の技量が大きな力をもっている、と考えてしまうのです。それだけ責任が重いと自覚すべきと考えるのであれば、少しは不遜という批判を免れることができるかもしれません。

 

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美術の領域?

2021-08-07 08:50:33 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「誰が教える?」8月2日
 『識者に聞く「表現の不自由展」』という見出しの記事が掲載されました。『2019年のあいちトリエンナーレで、会期の大部分で展示中止に追い込まれた企画展「表現の不自由展・その後」。今年6~7月、その出品作品を中心に3都市でそれぞれ展覧会が企画された』ことを踏まえた記事です。
 記事に中に、とても考えさせられる記述がありました。『そもそも日本では、現代アートは多義的で、「読む」芸術だという基本的な前提が、ある程度のインテリの間ですら共有されていない(略)学校教育で、アート作品に接して「読み解いて考える」ことをきちんと教えるべきだ』というものです。 
 具体的に言えば、従軍慰安婦問題に関わって製作された「平和の少女像」について、その歴史的な事実や制作された社会的背景、関係する人々の思惑、などについて理解させたうえで作品に向い合せるということです。
 私は図画工作・美術教育における「鑑賞」について、このブログで取り上げたことがあります。指導主事として多くの授業を見てきた経験を通して、同じ芸術教科である音楽に比べて、「鑑賞」の授業を目にした記憶が圧倒的に少ないことを述べ、その在り方について率直によく分からないと告白した内容でした。
 芸術作品に対する「鑑賞」について、私の問題意識はあくまでも図画工作・美術の授業におけるものという前提に立ち、図画工作・美術教育を専門とする教員(以下、美術教員とする)たちに問いかけるという形のものでした。ところが、記事にあるように「読み解く」となれば、それを美術教員だけに委ねてよいのかということが気になったのです。
 それは社会科教員の仕事なのではないか、社会科の授業で行うべきなのではないか、あるいは合科・総合的な学習の時間として取り組むべきなのではないか、社会科と美術家の教員がTTを組んで指導すべきなのではないか、などの問いが頭の中をぐるぐる回っている状態なのです。
 また、より根本的な問題として、現代アート(そうでないアートとの違いがよく分からないのですが)は学校の美術教育で対象とすべきなのか、対象にするとすればどの段階からなのか(小中高のどこからか)ということもよく分かりません。記事を読む限り、現代アートの技法や感性的な部分についてどのように鑑賞すればよいのかについては、全く触れられていなかったことも、迷いを深めます。もしかしたら、現代アートにおいて「鑑賞」などなくあるのは「読み解く」だけなのかという疑問さえ浮かんできてしまいました。
 美術教育教員の意見が聞きたいものです。

 

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脱功利主義からの主体的な学び

2021-08-06 08:26:59 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「誰のために」7月31日
 『豊かな生き物と共存を』という見出しの記事が掲載されました。30年にわたって自然番組作成に携わってきたNHKディレクター岡部聡氏へのインタビュー記事です。その中で岡部氏は、『この30年間、環境問題は再三言われ続け、人びとはようやく重い腰をあげようとしていますが、理由は自然保護のためではなく、「人間が困るから」というのが現実でしょう』と語っていらっしゃいました。
 そうだと思います。少なくとも私はそうでした。生き物が嫌いで猫も犬も可愛いという人の気持ちが理解できず、花を愛でる心も乏しい私は、抽象的に「生物多様性の維持が人間に利益をもたらす」という考えで、環境保護を考えています。
 しかし、長年自然を見つめ続けてきた岡部氏は、『経済的な豊かさより自然との共存』に価値を見出す若者が増えてきていると言います。より「本質」に気付き始めた人々が現れてきているというのです。
 私は、岡部氏のインタビューから、学校教育を巡る問題を連想しました。それは、主体的な学びについてです。なお、ここからは私流の解釈ですので、そのことをあらかじめお断りしておきます。
 私は、文科省が、学習指導要領において主体的な学びを推奨してくるようになった背景には、国際的な競争力向上を目指す経済界と政治からの有形無形の働きかけがあったと考えています。つまり、今までの知識注入型(私は全面的には賛成できないが)の学びでは、同一規格大量生産型の経済に向いた人材を育成することには有利だが、一人一人の独創性が求められるこれからの社会においては、必要な人材を育成することができなくなるという危機感から、方向転換を迫られたということです。
 要するに、利益をもたらすからということでその改革が支持されているという点で、生物多様性の問題に見られた功利主義と共通するということです。では、功利主義からではなく教育の「本質」から、主体的な学びの意味を考えるとどういうことになるでしょうか。
 それは、学習者としての子供のやりがい、分かる喜び、やり遂げた達成感を満たす学びであるということだろう考えます。人間には本質的に新しいことを知る、発見すること自体に喜びを感じる性質があると言われています。知的好奇心と言ってもよいかもしれません。それにもかかわらず、学びが苦行であることは、学ぶ楽しみを味わうという権利を奪ってしまうことなのだと考えると、やらされる勉強は人権侵害であるとさえ言える可能性があるのです。ですから、主体的な学びは、子供の人権回復の一環であると考えれば、教員の使命の大きさが再認識されるはずです。
 もちろん、教え込むことが全て否定されては、教育という営みは成り立ちません。ただ、文科省が言うから、教委が煩いから主体的な学びに取り組むのではなく、子供の人権回復、教育の本質を実現するために主体的な学びに取り組むのだと考えれば、教員ももう少し頑張れるのではないでしょうか。

 

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年に数回、は義務

2021-08-05 07:26:06 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「みんなの~」7月31日
 俳人坪内稔典氏が担当している『季語刻々』欄に、後藤比奈夫氏の『捕虫網持たせておけば歩く子よ』という句が紹介されていました。今はどうか分かりませんが、私が子供のころは都会でも、夏は虫取りの季節で、様々な昆虫を捕まえたものでした。そこには、後藤氏が描いたような子供の姿が見られたものです。
 普段は歩くのを嫌がる子供が、これから雑木林なり草原なりに行って昆虫採集だとなると、歩きなさいなどとも言われずともどんどん歩いていくという光景です。この句は、子供の行動が自らの興味関心によって影響を受け、やりたいことに取り組むときには、大人が驚くようなパワーを発揮するということを示しています。
 学習指導要領が言う主体的な学びとは、この句の子供のような状態を堅苦しく言い表したものです。教員に強制され何かをやらされているのではなく、自分の内部にある「早くやりたい」という欲求に突き動かされて、学習に取り組むことなのです。
 ですから、主体的な学びを促すためには、教員が子供に「捕虫網」を持たせることが重要になってくるのです。とはいえ、そのこと自体はそれほど難しいことではありません。ただし、指導者と子供が一対一で向かい合い、時間的制約や内容の制限がないのであれば、です。その子供と向き合い意思疎通を繰り返す中で、子供が今やりたいと思っていること、興味をもっていること、不思議さを感じていることなどを感じ取り、きっかけとなる情報を提示し、挑戦できる環境を整え、後は躓いたときに助言をしてやればよいだけです。
 しかし、学校はそういうわけにはいきません。学習指導要領において学ぶべき内容は決められていますし、学びに費やすことができる時間にも枠がはめられているからです。しかも、対象となる子供は一人ではなく、数十人いるのですから、異なる興味関心、思考の筋道をもつ彼らに数十種類の「捕虫網」を用意するのは容易なことではありません。
 そんな困難な課題を与えられているのが教員という職なのです。文科省は安易に主体的な学びという言葉を口にし、教育学者なども理想を説きますが、そんなに簡単なものではないのです。
 私は、全ての授業で主体的な学びを実現するなどという非現実的な理想を追い求める必要はないと考えています。ただ、年に数単元、入念に構想を練り周到な準備をした上で、子供に自らの興味関心に基づいて、自分の力で(ときに教員の支援を受けながら)問題を追究していく「楽しさ」を味わわせることは教員の義務だと考えます。若い教員の皆さん、義務は果たせていますか。

 

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うちの息子は英語なんかしゃべれなくてもいいんです

2021-08-04 08:04:16 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「満足度」7月29日
 東京女子医科大学形成外科教授桜井裕之氏が、『患者の多様な満足度』という表題でコラムを書かれていました。その中で桜井氏は、『キズを治すことはできても傷痕は残ります。傷痕に対する患者さんの感じ方は千差万別で、同じような結果でも患者さんによって満足度は全く異なります。また、キズが治らなくても、自宅で管理できるようになったり、痛みを伴わなくなったりすることで満足される患者さんも意外に多いのです』と書かれていました。
 とても考えさせられる話です。桜井氏は、『だからこそ、形成外科医の仕事は、患者さんが何を求めているかを理解することから始まります』と書かれていますが、もし、患者が、「もう痛くないからこれ以上の治療は結構です」と言った場合、医学的には傷痕を完全に治すことができるケースであっても、治療を中止するのでしょうか。それは、医学者として望ましい態度なのだろうか、という疑問が湧いてきたのです。
 そして同じことは、教員の仕事でも起こり得るのです。ある子供が算数の成績がすごく悪かったとします。そのとき、子供自身も保護者も「将来店を継いで寿司職人になるんだから、算数なんてどうでもいいんですよ」と言ったとき、それで満足しているのであれば、それ以上教える努力をしなくてよいのか、ということです。
 私はいけないと考えます。しかし、私が教委に勤務していた20年ほど前、学校は教育というサービスを提供するサービス機関であり、教員はその従業員、子供や保護者はお客様という考え方が提唱されていました。その考え方の延長線上には、学校が重視すべきなのは顧客満足度であり、如何に子供や保護者の意向に沿うことができるかが大事なのだ、という価値観が重視されるようになるのは必然でじた。
 つまり、その考え方から言えば、「そういうご意向でしたら、今後算数の時間は寝るなり、漫画を読むなり自由にしてくださって結構です」という対応こそが正しいということになるはずなのです。違和感を覚えるのは私だけではないはずです。
 しかし、実際にいたのです、こうした保護者が。でも今は20年前とは状況が違います。子供の学力向上に最善を尽くすのが教えることの専門家である教員の義務だとする考え方の方が強くなってきています。その一方で、桜井氏も触れていますが、『多様化した時代』を迎えている現在、かつては一度わがまま、非常識として否定された「算数は要らない」という「権利主張」にも配慮が求められる時代が来る可能性は否定できません。どう考えるべきなのでしょうか。

 

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学校>組織委?

2021-08-03 08:02:57 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「儀式に当たって」7月28日
 『組織委「開会宣言でトラブル」』という見出しの記事が掲載されました。『東京オリンピックの開会式で、菅義偉首相は、大会名誉総裁を務める天皇陛下による開会宣言の冒頭で規律しなかった』ことについて、組織委が説明、謝罪したことを報じる記事です。
 ネット上では首相の行動について不敬だと非難する声も上がっているので、首相に責任はないと擁護する必要にかられたのでしょう。記事によると、『起立を促す場内アナウンスが事前に流れる予定だったが、国際オリンピック委員会のトーマス・バッハ会長がスピーチの最後に開会宣言をお願いしたため、アナウンスを流すタイミングがなくなってしまった』ということでした。
 お粗末すぎます。開会式について言えば、バッハ会長は来賓、天皇陛下は身内です。来賓が想定と異なる行動をとったからといって、それを責めることは出来ません。そうではなく、どのような事態になっても儀式が円滑に進行するように事前の準備を万全にすることが主催者側に求められているのです。
 難しいことではありません。陛下に対して、「大会名誉総裁の天皇陛下から開会のお言葉をいただきます、皆さまご起立ください、というアナウンスが流れますので、そうしたらお立ちになって、宣言をお願いします」とお話しておけばよいだけの話です。
 その程度の配慮が出来ないはずがありません。学校でも、卒業式をはじめ、周年行事など様々な儀式的な行事があります。子供や教職員は事前に練習ができますが、来賓についてはそうはいきません。招待したお客様に何かを強制するというのは、最小限にとどめなければなりませんから、ときに思わぬ言動をとる来賓がいます。悪意はないのですが、拍手をしてしまったり、突然参列者に指示をしてしまったりというような。
 実際、周年行事の式典で、その年を最後の定年退職する校長に対し、「校長先生の長年のご尽力に対し感謝の拍手をお贈りしようではありませんか」と言ってしまった来賓がいました。困ったものです。そんなときでも、教職員やPTA役員、子供たちといった身内の者に、司会の教頭先生の指示で動く、ということを徹底させておけば問題は起こらないものです。
 組織体として未熟だと、何かと非難される学校ですが、その程度のことは出来ています。

 

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それは愛想笑い

2021-08-02 08:03:02 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「稀なこと」7月28日
 読者投稿欄に、岩国市Y氏の『教え子同士の結婚に喜び』という投稿が掲載されました。Y氏は元中学校教員、投稿には『2人の友人から2人が結婚するとの電話があり、大きな驚きと喜びを感じた。自分が受け持った学級の生徒同士の結婚は非常にまれで(略)コロナ禍が収束したら、若夫婦は私に子供を抱いてほしいという』と書かれていました。
 率直に、羨ましいと思いました。私も何回か教え子の結婚式に声を掛けてもらったことがあります。いずれも、教え子同士ではなく、教え子と知らない人の結婚式でした。それが不通で、Y氏が書かれているように、教え子同士というのは極めてまれです。私の知人の教員に聞いても、そうした例はありませんでした。
 しかし、羨ましいというのは、そこではありません。教え子同士が結婚して、その2人が揃ってY氏に結婚を祝ってほしい、生まれた子供を抱いてほしいと言っていることが、羨ましいのです。
 教え子から慕われるということは、教員であるならば誰にもあることです。しかし、同時に嫌われる、疎まれる、恨まれる、憎まれるといった負の感情をもたれることも少なくありません。
 私は2校目の小学校に9年間も勤務しました。当然のことですが、兄弟姉妹を受け持つことがありました。Nさんを担任したとき、何となく関係がうまくいっていないという感覚がありました。その後Nさんの弟を担任しました。家庭訪問のとき、Nさんの母親は、「正直に言ってH(姉)は先生を嫌っていて家でもあまり良いことは言わなかったのでJ(弟)の担任にまた先生がなったとき、嫌だなと思っていたんです。でも、Jは先生が好きらしく、嬉しそうに今日先生とね~、と話してくれるので今はホッとしています」とお話しになったのです。J君を担任した2年目には、Nさんの母親はPTAの委員も引き受けてくれました。
 姉弟でもそんなものなのです。教え子が10人いれば、卒業後も慕ってくれるほど好感情をもってくれるのはせいぜい2人、あんな奴と顔も見たくないと思うのも2人くらい、他の6人はクラス会があれば顔を出すが別に先生に会いたいわけじゃないという程度というのが普通でしょう。もちろん、その教員の「良さ」によってこの比率は変わりますが。
 ですから、結婚した2人が2人とも、結婚式に来てほしい、子供が生まれたので抱いてほしいというほど、Y氏に好感情を抱いているということが羨ましかったのです。教員冥利に尽きます。
 教員は、間違っても自分がほとんどの教え子から好かれている、感謝されているなどと自惚れてはいけません。自分は教員という強者の立場にいるから、本音を出せずに愛想笑いをしているのではと疑い、自分の言動が子供たちにどのように受け取られているのか、見つめ直す姿勢が大切です。

 

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