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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

ごめん、ただの癖なんだ

2021-08-21 08:12:48 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「猿沢の池」8月14日
 書評欄に、『「俳句で学ぶ唯識 超入門」多川俊映著(春秋社)』に対する書評が掲載されていました。その中に次の短歌が引用されていました。『手を打てば鯉は餌と聞き鳥は逃げ、女中は茶と聞く猿沢の池』です。
 ちなみに猿沢の池は、奈良興福寺そばにあります。この歌は、主が手を叩いたとき、その音を鯉は餌がもらえる合図だと思って池の岸に近づいてくるし、鳥は驚いて逃げる、女中は主が「お茶を持て」と命ずるつもりだと思い準備を始めるという情景を詠んだものでしょう。つまり、ある「情報」が、受け手によって違う意味に受け取られることがあるということを表しているのです。
 思い当たることがあります。授業中机間指導をしているとき、側に立ち止まり、何気なく手を動かし腕組みをしたり、腰に手を当てたりすると、首をすくめ頭を抱える子供がいたのです。彼は家で父親からよく頭を叩かれており、大人が近づいてきて手を動かすと頭を叩かれると思い条件反射的に頭を守ろうとしてしまうのでした。先輩教員に聞くと、そういう子供はたくさんいるとのことでした。私は何気ない動作で、子供を脅していたことになります。猛省です。
 教員は、本人が意識しないままに、様々な情報を発しています。深く息を吐く、首をひねる、コツコツと机を叩く、目を細める、腕組みをするなど、単なる癖になっているものもありますが、子供や保護者は深読みし、そこから不機嫌や不満、怒りや諦めなどの意図を感じ取ってしまうことがあります。
 私は子供のころから歯が悪く、よく「シーッ」とする癖がありましたが、あるとき「先生、すぐシーッと鳴らして怒るから嫌だ」と言われて驚いたことがあります。別に怒ってなどいないのにその子供は、私の機嫌が悪いと思い、その音を聞くたびびくびくしていたらしいのです。
 教員は、自分の言動が何か別のシグナルとして誤解されていないか、振り返ってみることが必要です。

 

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犬は犬だが……

2021-08-20 08:11:31 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「分からないけれど」8月14日
 論説副委員長元村有希子氏が、『居酒屋のある街』という表題でコラムを書かれていました。コロナ禍が酒禁止という状況をもたらしているという内容ですが、最後の記述に引っ掛かりました。
 『コロナ後の居酒屋文化はどうなるのだろう。太田(居酒屋についての著作のある方)さんは「一夜にして復活しますよ」と言い切る。「人が生きていく上でなくてはならないものだから、復活しないわけがない。その証拠に、居酒屋のない国なんてないでしょう」』という記述です。
 そうなんでしょうか。私は世界の居酒屋事情について調べたことがあるわけではないのですが、どうしてもそうは思えないのです。今何かと騒がしいアフガニスタン、イスラムの戒律を厳格に適用するタリバンが、全土を掌握しようとしていますが、タリバン支配下の国に居酒屋は存在するのでしょうか。今冬には、餓死者が出ると噂される北朝鮮。今まで何かと優先されてきた軍でさえ、三度の食事が摂れなくなっていると報じられる状況で居酒屋はあるのでしょうか。もちろん、飲酒ができる店はあるでしょうが、庶民が気軽に立ち寄ることができる居酒屋が。
 私の想像ですが、太田氏が口にした「国」とは、宗教上の戒律が厳しく国民生活に制約を加えている国や多くの餓死者が出る国、強圧的な独裁者が国民が集まることを禁止している国などを除いた「普通の国」なのではないかと思うのです。
 言葉にはいくつかの種類があります。犬という単語は世界中どこに行っても同じ犬という概念を表します。自然にあるものだからです。一方、人が、人の社会が生み出した言葉には、同じ単語に訳されていても、全く異なるものを意味する場合があるのです。同じ民主主義という言葉でも、朝鮮民主主義共和国の民主と我が国の民主主義とは、似ても似つかない別物です。
 国というものに対するイメージも同じです。私も、日常口にする「国」は、我が国のような国を頭に浮かべているのです。私たち日本人は同質性が高いと言われます。そのため、日本人同士では、一つの言葉が表すものは共通理解されているという前提で使われることが多いように思います。しかしそれは過去の話なのではないでしょうか。みんなが朝食に米飯を食べ、大晦日には紅白歌合戦を見る、そんな時代は終わっているのです。
 教員は、自分が発している言葉は、子供たちの頭の中に自分と同じイメージで伝わっているのか、常に確認するくらいの心構えが必要です。

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原爆って何?

2021-08-19 08:01:45 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「これも多様性」8月13日
 読者投稿欄に、京都市K氏による『信じられない黙とうなし』というタイトルの投稿が掲載されていました。その中でK氏は、『(広島)市長は「心の中で広島での平和祈念式典に参加するよう呼びかけてほしい」などとする要請文をバッハ会長に送りましたが、直接的な回答はなかった』ことに言及し、『会長の広島訪問は単なるパフォーマンスだったのでしょうか』と疑念を表明なさっています。
 同感です。ただ、私とK氏は同年齢で、同じ日本人(たぶんジュンパ)です。きっと原爆投下、広島・長崎の悲劇について、似たような情報に触れ、学び、印象を形作ってきたと思われます。でも、IOCを構成する国々の全てが、同じ情報に接しているわけでも、同じような文化・思想をもっているわけでもありません。
 浅学な私が知る限りでも、中国や韓国は「戦争加害者である日本が原爆をもち出し被害者面するのは卑怯だ」という感覚が一般的だと言われますし、当事者である米国は「原爆が日本降伏を早め多くの戦争犠牲者が出るのを未然に防いだ」という認識が根強いようです。また、日本と同じ敗戦国であるドイツでは「自分たちはナチスの残虐行為を認め真摯に謝罪してきたのに、日本は謝罪を棚に上げて原爆のことばかり強調する」という類の反感が強いとも聞きます。
 さらに我が国と関係が乏しい国々の中には、原爆投下の事実さえ広く知られていない国も少なくないはずです。つまり、日本という枠を飛び出し、世界全体で見たとき、8月6日の黙祷は、常識でもなければ、共有された価値観でもない可能性が高いのです。悔しいことですが、それが現実です。そして、そうした事実を現実として理解することもまた、多様性の尊重ということであり、寛容の精神でもあるのです。
 だからこそ、8月6日の黙祷を世界の常識とするべく、私たち一人一人が自分の出来ることを地道の努力していくことが必要なのです。学校における平和教育では、諸外国のこうした「冷淡さ」にも触れ、考えさせていくことが大切です。

 

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押し掛け『指導』

2021-08-18 08:28:59 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「指導ということ」8月12日
 読者投稿欄に、生駒市S氏による『高齢政治家は完全引退』というタイトルの投稿が掲載されていました。その中でS氏は、『「老害」という言葉があります。老いたことに気づかずに結果として後進の活躍を妨げてしまう害悪です』と述べ、『ある程度の年になったら完全引退して後進に道を任せ、指導に注力してほしい』と書かれています。
 S氏は政治家について書かれているのですが、全ての分野において言えることだと思います。学校においても、です。ある小学校の校長は、退職後も頻繁に学校に顔を出していました。植物が好きな人で、その学校の特色であった広大な学校園の世話に訪れるのです。実際にこまめに世話をしてくれるので、職員もPTAの役員も、「校長先生、本当に助かります」と言い、みんなに感謝の言葉をかけられた前校長も嬉しそうです。職員室に座り込み、出されたお茶を飲んでお菓子をつまみ、「○○先生、元気にやってる?」「○○先生、A君の様子はどう?」などと話しかけ、昼過ぎから夕方まで過ごしていきます。
 教員もPTA役員も大人ですから、親切で来てくれる人に「邪魔だ」などとは言いませんが、退職して半年たっても、週に何回も顔を出し、忙しい最中に話しかけられ、話し相手をしなければならないので、内心は不満をもつ人が多くなってきました。
 そのうち、「今の校長さんは、職員の話をきちんと聞いているのかな。きちんと聞いてあげていないから、みんな僕に相談してくるんじゃないのかな」などと口にするようになりました。そして、校長室に入り込み、現校長に校長としての心構えを得意そうに話すようになっていったのです。老害の見本のような話です。
 この前校長が、元の勤務校に入り浸り、かつての部下の教員や後任の校長に得々として訓戒を垂れるのは、「指導」でしょうか。私はそうは思いません。S氏も同じように考えると思います。「老害」に陥らない指導とは、押し掛けるのではなく、後輩やかつての部下から求められたときに、話を聞き、控えめにアドバイスをすることです。
 誰からも相談を求められないときにはどうするかって?そのときには、自分には人望がないのだと諦めるしかありません。その潔さがもしかしたら人望を生むかもしれません。

 

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それは迎合

2021-08-17 08:16:30 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「過剰な寛容」8月11日
 『寛容とは-苦手な相手に礼節を』という見出しの記事が掲載されました。国際基督教大教授森本あんり氏へのインタビュー記事です。その中で森本氏は、『寛容とは是認でも理解でもない』と言い、『誰でも苦手な相手はいるでしょう。寛容は相手を善と認めることではないし、相手を好きになれということでもない。それでも相手を拒絶したり排除したりせず、お互いに礼節を守って考えを聞き合えば、共存することはできるはずです』と述べられていました。
 全く同感です。国際化が進み、異文化との触れ合いが進むこれからの社会に生きる子供たちに、寛容の精神を培うことが学校教育に求められています。そのときに重要になるのが、礼節ということなのではないでしょうか。現在の学校教育は、寛容の精神を培うとき、礼節については無視、もしくは著しく軽視しているように思われます。では何を重視しているかというと、森本氏の話に出てくる「理解」であり、「是認」であり、「受容」なのです。
 つまり、自分とは異なる文化や価値観、思想に直面したとき、「分かりました。私の文化や価値観とは違うようですが、あなたの文化や価値観もまた素晴らしいものだと思います」という態度が望ましいという考え方なのです。ひねくれた言い方をすると、「あなたの話はじっくりと聴かせてもらった。でも、どうしても理解できない部分がある。また、理解はしたが、到底納得できないこともある。それが正直なところだ。多分あなたも私の話を聞いて、そういう部分があると思う。でも、それは当然だよね」という態度ではいけないということです。
 私は食べ物の好き嫌いが激しいです。食については大変保守的です。半分孵化しかかった卵を食べる東南アジア某国の映像を見てぞっとしたことがあります。私がその国に行き、その卵を勧められたとき、無理して食べるのが前者に近い態度で、相手も好意に対して失礼にならないように拒絶するのが後者に近い態度だと言えば分かりやすいでしょうか。
 学校教育において、寛容を指導するとき、今後力を注ぐべきなのは、具体的な礼節、場面に応じた礼節のノウハウであるべきと考えます。精神論ではなく、実用的な技術というわけですが、実はこれは我が国の学校教育が最も苦手とすることなのです。多様性、寛容、思いやり、相互理解、協調など精神的な、そして美しいお題目を並べ、その重要性を説くことは得意なのですが、ノウハウの指導は苦手なのです。
 かッとして暴力を振るう子供に、「ぶたれた子の気持ちになってごらん」と諭すことはしても、「カッとしたとき、心の中でゆっくり6数えてごらん」とアンガーマネジメントの初歩を教えることはほとんどなされないというのが実態なのです。
 精神論優先の土壌は、教員自身が、精神論で育てられ、ノウハウを身につけていないことが原因の一つです。寛容を支える礼節のノウハウ、教員研修に加えたい項目です。

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「人間」の範囲

2021-08-16 07:30:31 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「アテネ型」8月10日
 オピニオングループ小国綾子氏が、『安易に「調和」と言わないで』という表題でコラムを書かれていました。その中で小国氏は、米国在住中のユダヤ系米国人の知人との会話を紹介なさっています。中米からの若い移民のマクドナルド店員がスペイン語で話していたことに憤慨する彼に対し、『いいじゃん、彼らの母語なんだから、と返すと彼は真剣に言う。「俺の祖父母はこの国に来て以来、家庭でも英語を話そうとした。この国では英語はただの言語じゃない。どんな出自の移民もアメリカ人にしてくれる絆なんだ」』。
 彼は、英語さえ話せば、どこの国から来ようと、どんな肌の色をしていようと、どんな宗教を信じていようと、アメリカ人として認め、アメリカ人として遇してくれる国、アメリカを誇りに思っているのです。こんな誰にでも開かれた、多様性を尊ぶ、人権尊重の国はないだろうと、心の底から考えているのです。
 私はこの話から、古代アテネの民主制を連想してしまいました。古代アテネは、「経済活動と言論・表現の自由によって商工業が栄え学術は盛ん」であり、「アテネ市民は、貧富や家系・職業によって差別されることなく、政治の参画し発言することができた」と言われています。ここまでならば、今の日本よりも進んでいると評価することもできそうです。しかし、古代アテネには、「大量の奴隷が存在した。彼らには政治的発言権はおろか、人格的な尊厳も経済的自主権もなかった」ことを知ると、ひどい人権無視だと非難したくなるかもしれません。でもそれは的外れな指摘です。
 古代アテネ市民は、奴隷を人間として意識せず、むしろ家畜に近い一種の原動力つき道具のように考えていたのです。人間ではないのですから、人権侵害ではないのです。犬や猫、豚や牛に発言権を認めないことを疑問視する日本人がいないのと同じことなのです。つまり、人間の範囲が、現代日本人と違うのです。
 小国氏に論争を挑む「彼」も同じです。「彼」にとって英語を話す人だけがアメリカ人なのです。アメリカに住みマクドナルドで働いていてもスペイン語を話す人間はアメリカ人ではないのです。だからそんな若者に対して、どのように強く非難しようが、拒絶しようが、人権侵害でも異文化の否定でもなく、アメリカという国の素晴らしさは微塵もゆるがないのです。
 「彼」を笑うことはできません。ある特性をもつ集団に属する人たちだけが人間であり、それ以外の人々は人間ではないのだからどうなろうと関係がない、そんな意識は多くの人の中にあるからです。
 学級内でいじめが発生します。いじめ加害者は、ある個人を無視し、排除し、本人がいかに傷つこうとも意に介しません。では、そんな彼ら彼女らは人の気持ちを察することができない感情の欠けたロボットのような人間かというとそうではないのです。仲間内では、常に今誰はどんなことを考えているんだろう、私の言ったことやったことはどのように受け止められているんだろう、と病的なほど細やかに気を遣って生きているのです。学校から家に帰ると、その緊張が解け、思わず倒れこんでしまうほどに。
 いじめ加害者集団にとっては、自分たちの仲間だけが人間で、被害者は人間ではないのです。だからそもそも被害者に悲しいとか切ないとか言った感情があるなどとは思っても見ないのです。いじめの指導をしていると、加害者の考える人間同士や仲間同士という範囲の狭さに驚かされることがあるのです。
 優しく常識もあると思われる子供がひどいいじめを平然と行っている、そんなとき教員は、彼や彼女にとっての人間はどこまでかということに目を向けてみる必要があります。

 

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それが多様性?

2021-08-15 07:21:38 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「多様性?」8月10日
 『余禄』欄に、名前についての考察がかかれていました。その中に次のような記述がありました。『ひらがな、片仮名、漢字を自在に使い、初見では正しく読めない名前が増えた。個性的過ぎて当初は「キラキラネーム」と呼ばれたが、こうした名こそ多様性を尊ぶ時代の反映だろう』という記述です。
 私はそうは思いません。現代は「キラキラネーム」ではない子供を探す方が難しいような状況です。女児の名前が「○子」が主流であったときに、美誠や萌寧という名前をつけても、「おかしな名前」「日本人じゃないみたい」などと非難されることなく受け入れられる、という状況こそ本当の多様性が尊ばれる時代と言えるのではないでしょうか。
 みんなが「キラキラネーム」のときに、我が子にキラキラネームをつけるのは、多様性ではなく、かつての女の子は○子時代に、幸子や典子と命名するのと同じであり、多様性というよりも多数派に無難に従う意識の現れであるように思うのです。むしろ流行に左右される主体性のなさという指摘の方が正しいのではないでしょうか。
 学校教育においても、多様性の尊重は重要な概念です。しかし、教員が多様性ということについて正しく理解していなければ、それは間違った方向に子供たちを誘導することになりかねません。
 標準服を廃止し、自由服での登校を認める学校が少しずつ増え続けています。良いことだと思います。それは、服装という自己表現の在り方について、自己決定する権利を保障するという意味においてです。しかし、標準服こそないものの、流行を過剰に意識し、○○さんたちのグループと同じ格好しなくちゃ(仲間外れにされる)、となるのでは多様性を尊ぶという視点からは満足できません。一見すると、少女のファッションに疎い大人からは個性的に見えても、リップの色やアクセサリーの小物などで画一性が求められているというのでは、子供の中に多様性を尊ぶなどという考え方は根付かず、むしろ個性を消して多数に埋没することが生きる知恵、と考えるような子供に育ててしまうことにもなりかねないのです。
 多様性を尊ぶとはどういうことか、教委も校長も教員も、きちんと正しく共通理解することが重要だと考えます。

 

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『誰か』は誰だ?

2021-08-14 07:16:43 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「現代でも?」8月9日
 映画監督河瀨直美しが、『モチベーションとなる「誰か」』という表題でコラムを書かれていました。東京五輪の記録映画の監督を務める河瀬氏は、アスリートたちの挑戦を見つめ、次のように書かれています。『客観的に見れば選手は自己との戦いであり、観客の有無に左右されるものではない。それでもアスリートの一番のモチベーションは自分ではない「誰か」の存在なのではないかと、私は確信している(略)人はひとりでは生きていけない。人は誰かの支えの中で育まれている。そして人はその関係性の中で喜びがあり、悲しみがある』と。
 おっしゃりたいことは、何となくわかるような気がします。共感も覚えます。ただ、少しの違和感もあるのです。河瀬氏は、初めはオリンピックの、アスリートのことを述べていらっしゃいますが、最終的には、普遍的な「人」という存在について語られています。
 戦後の教育は、家や国家などに縛られた個人というものの在り方を否定し、独立した一人の人間という概念に基づいて行おうと意図されて始まりました。他人への思いやりや共感ということは大事にしながらも、自分以外の他人の思惑や考え方、価値観といったものに束縛されることなく行動できる自立した人間の育成を目指してきたのです。
 近年のオリンピックもその延長線上にありました。「日本を代表して」「国民の期待に応えられるように」といった集団への帰属意識ではなく、「思いっ切り楽しんできます」「自分らしいパフォーマンスができればいいと思います」「世界の一流選手に自分の力がどこまで通用するか楽しみです」というような、あくまでも個人の目線でのアスリートの発言が多くなっていったのは、その表れでしょう。
 しかし、河瀬氏は、「誰か」という他者が、選手を支えていると指摘なさっているのです。その他者は、家族かもしれませんし、コーチなどのスタッフかもしれませんし、母校の後輩や地元に人たちかもしれませんし、ネット上で応援をくれる顔も知らない数万人のサポーターかもしれません。いずれにしろ、そこに登場するアスリートは単なる個人ではなく、多くの人との人間関係の中にある「個人」なのです。
 当たり前といえば当たり前のことです。河瀬氏は、そうしたアスリートたちの在り方を肯定し評価しているように思われます。私の感性も同じです。ただ、そこに集団への帰属感が過剰であった戦前への回帰の兆しがあるのではないか、という懸念も感じてしまうのです。
 スポーツの熱狂は独裁者への熱狂に、メダリストへの一体感は日本という国への盲目的な一体感に、そんなことになってはいけません。東京五輪開催に当たっては、オリンピック教育が必要だと言われてきました。オリンピックが終わった後にもオリンピック教育は必要です。そこでは、国同士のメダル獲得競争などとは一線を画した、真のオリンピック精神を学ぶことが行われてほしいものです。

 

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自分が噛むのは問題なし?

2021-08-13 06:39:50 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「突き詰めて考える」8月6日
 『メダル「がぶり」名古屋市長が謝罪』という見出しの記事が掲載されました。『後藤希友選手(20)=トヨタ自動車=の金メダルを4日、表敬先の河村たかし名古屋市長が突然かんだことに、激しい批判が出ている』ことを報じる記事です。
 私もテレビでこの場面の映像を見たとき、「えっ、何だこりゃ」と驚き、猛烈な批判が寄せられるなと予想しました。案の定です。しかし、河村氏の行動が言語道断であることには同感ですが、それでは具体的にどこがどう悪いのかとなると、記事を読んでも判然としないのです。
 記事では、『「気持ち悪い」「無礼、失礼」などと抗議が殺到した』とありますし、河村氏は『金メダルを汚す行為』と謝罪しています。また、謝罪を受けたトヨタ自動車は、『コロナ禍でメダル授与ですら本人が首にかける状況下、今回の不適切でかつあるまじき行為はアスリートへの敬意や称賛、感染予防への配慮が感じられず大変残念』とコメントを発表していました。
 「気持ち悪い」というのは私も感じましたが、個人の感情であり、もし当事者である後藤氏はそう感じてはいなかったということであれば、批判されることではありません。なお、後藤氏自身は「気持ち悪い」とは発言していません(おそらくそう感じていたでしょうが、市長を前にして言いにくかったと推察されます)。
 コロナ禍云々ということは、もしコロナ感染が存在しない状況下であれば、問題なかったということになります。私は、そうは思えませんが。
 無礼、失礼、敬意が感じられないという指摘にも同感ですが、メダルを嚙むという行為自体は、今までの五輪や世界選手権等でよく目にする行為です。つまり、叩きつける、投げ捨てて踏みにじるなどといった、誰の目にも侮辱と感じられる行為とは異なり、状況によっては許される行為であるということです。
 では許されるか否かの境界線は何かということになると、メダリスト自身の行為であるか、もしくはメダリストの許可を得た行為であるかということだろうと思います。そうなると、今回のケースでも、河村氏が後藤氏に「かじってみていいですか」と尋ね、「はい、どうぞ」と言われてからかじったとしたら、そしてきちんと消毒してから返したら、問題にならなかったということになります。
 まとめると、河村氏の行為の問題点は、後藤氏の許可を得なかったことと消毒して返還しなかったことということになります。何だか違和感のある結論になってしまいました。なぜ、こんなことをだらだらと書いたかというと、教員が子供を叱るとき、悪いことをした、だから反省しなさい、謝りなさいというメッセージだけが強く伝わり、どの行為がなぜ悪かったのか、ということについてきちんと伝えていないことが多いように思っていたからです。教員が、○○したのが悪いことは当たり前、と思っているケースが多いと思われますが、そのことをいちいち丁寧に伝えていかないと、子供は先生が怒っているから悪かったんだ、というように悪の基準を教員の怒り具合で判断する癖がついてしまいます。それは、子供の心の中に善悪の基準を打ち立てるという教育の役割を果たせていないということです。
 さらに、なぜ悪いのか、教員自体がきちんと理解しておらず、きまりを破ったから、程度の認識で怒っていると、それが子供に伝わり、そのうち「○○してはいけないなんてきまり、どこに書いてあるの?」などと言い出すようになってしまうのです。
 私は、河村氏は、また同じようなことをするような予感がしています。騒ぎになったから謝っておくというだけで、なぜ悪いのかきちんと理解していないように見えるからです。河村氏のような子供を育てないために、教員は叱るとき、悪い理由を突き詰めて考えてみることが必要なのです。

 

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教員ユーチューバー

2021-08-12 07:45:21 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「本当に怖いこと」8月5日
 三沢耕平記者が、『霞ヶ関のユーチューバー』という表題でコラムを書かれていました。『農水省の官僚ユーチューバーたちが異彩を放っている』という書き出しで始まるコラムでは、『チャンネル登録者数は7万人を超え』ていること、『70本近い動画を配信してきた松岡慧さんは「最初は怖かった」と明かす。それでもコメント欄の声を政策立案のヒントにする「相互性」に魅力を感じているといい、「顔を出すからこそ共感を得られる」と話』していること、などが紹介されていました。
 そして最後は、『今の時代に必要なのは、顔を出して社会とつながる働き方改革なのではないか』という、官僚ユーチューバーの積極的な肯定で結ばれていました。本当にそうなのでしょうか。大いに疑問を感じます。
 それは、農水省という組織の公的な意思決定と官僚個人の情報発信との関係がよく見えないことが理由です。勤務時間内に公務として行っているならば、一つの情報発信について、起案者がいて承認権者がいることになります。そうであるならば、官僚個人が顔を出すということ以外に、省の広報ビデオやHPとどこが違うのでしょうか。
 個人が顔を晒すという行為は、政府や農水省といった行政府に対する不満や恨みの吐け口として、個人やその家族が標的にされるという危険を伴います。それだけのリスクを冒しても、それ以上のメリットがあるのでしょうか。
 もし、起案者→承認権者という通常の公務とは異なり、官僚個人が、自分のアイデアや思いを自由に情報発信するというのであれば話は別です。新しい切り口からの発信や問いかけが可能になりますし、世間の関心事に合わせたスピーディーな対応も可能になるからです。しかし、そうなると、別の問題が発生します。政府や省の方針との整合性の確保、個人の職務範囲からの逸脱という問題です。
 私は、このコラムを見て、もし教員ユーチューバーが現れたらどうだろうか、と考えてしまいました。公立学校の教員は、教育行政を担う一員です。政府や文科省の方針、関係法規、教委の規則や指針、校長の方針などに基づいて、公務員としての活動を行う義務を負うています。
 多くの教員はあまり意識していないかもしれませんが、授業を行うに当たっては週案簿等で概要について校長の承認を得ることが必要ですし、校長は承認するに当たって学習指導要領等を意識して判断しているのです。学級便り等の文書を保護者に配布する際にも、事前に起案→承認という行政手続きを経ているのです。ですから、学級便りを発行するのと同じように、動画で発信するというのであれば、問題はありません。ただその場合、文書が動画になったという以上の効果は期待できません。私見ですが、学校の多忙化に拍車がかかるというマイナスの方が大きい気がします。
 しかし、そうした校務執行の基本とは別に、教員が勝手に外部に情報発信し、その内容が、教委の指針や施策と反していた場合、必ず問題が発生します。学校の統廃合、給食調理の民間委託、SCやSSWの配置基準など教委の施策について、学校図書の購入等校内予算の使途、校務分掌の在り方など校長決定への異議、小学校英語教科化や道徳教科化など文科省施策への不満、などが発信されれば、大混乱が生じます。それは、保護者や市民を巻き込んで、対立や非難中傷を巻き起こすでしょう。その負の効果は「相互性」などで得るプラスを大きく上回ると思われます。
 組織内の個人がユーチューバーとして発信する、それは本当に素晴らしい状況なのでしょうか。

 

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