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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

コンテンツ輸出

2019-07-11 08:11:37 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「コンテンツ輸出」7月3日
 『「第五福竜丸」米で伝える』という見出しの記事が掲載されました。『太平洋ビキニ環礁の米核実験で被ばくした静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」のドキュメンタリーアニメ映画が、今夏から米国の大学で教材として使われる』ことに関する記事です。
 記事によると、米国では『広島や長崎への原爆投下は知られているが、その後の米国による核実験はあまり知られていない』ということです。監督を務めたキース・レイミング氏は、『学校教育に取り入れることで若い世代に核兵器の恐ろしさを伝えていきたい』という考えを述べておられます。意義深い取り組みだと思いました。
 私はかつて核兵器による被害について、十数年前米国で作られたアニメを見て仰天したことがあります。細部はうろ覚えの部分がありますが、放射能の教委に対し、窓を閉めカーテンを下ろすことで防ごうとする内容だったからです。こんな誤った知識に基づいて核の脅威について話し合っても間違って結論しか出ないだろうと落胆したものでした。
 我が国では、放射能の被害を窓を閉めたぐらいで防げると考える成人はいません。一方で、米国人には核兵器を肯定する考えの人が多いことを思うとき、直面する社会問題について考えるには、正しい教育啓発が必要だと痛感させられます。
 と同時に、そうした視点で考えたとき、我が国が諸外国に「輸出」できる教育コンテンツはたくさんあるのではないかと思いました。広島・長崎に対する原爆投下の惨状に基づいた核の脅威に関する教育、東京電力福島原発事故を題材にした原発事故を考える教育、世界一の公害発生国であった当時の事例を取り上げた環境教育、前例のないスピードで進行する少子高齢社会への対応から人類の未来を考える教育(これは失敗事例に学ぶことになるかも?)、などです。
 我が国で行われているこうした教育に関する資料や実践例、学習指導計画などをセットにして翻訳するとともに、実践家の教員を一定期間派遣して現地の教員と共通理解を図るという事業を、国際協力の形で推進するのです。それは、新しい形の国際貢献になるとともに、我が国の学校教育がもつ潜在力を再確認し、学校関係者の自信を蘇らせることにみつながるはずです。
  また、こうした教育コンテンツの「輸出」は、一方で「輸入」も促す効果があるはずです。つまり、我が国で行われている教育活動の問題点を浮かび上がらせ、その改善にもつながっていくことが期待できるのです。
 例えば、私はこのブログで我が国の平和教育の限界を指摘してきましたが、安全保障問題について我が国のようなタブー意識のない国で行われている教育活動は、観念に流れがちな我が国の平和教育を見直す契機となるかもしれません。外国人やLGBT等の性的マイノリティーの人権に関する教育、高校生らが積極的に活動する地球温暖化に対する教育、政治的なことに対する過剰な自制から進展が見られない主権者教育、周回遅れといわれる性教育、など先進国の事例が交換輸入され、我が国流に咀嚼されていけば、それは大きな教育上の財産になることでしょう。
 文科省がNPOの後押しをするような形で実現しないものでしょうか。

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私的な領域での感覚は違う

2019-07-10 08:09:45 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「公私」7月3日
 『中日応援歌「お前」やめて』という見出しの記事が掲載されました。『中日ドラゴンズが応援歌で選手を「お前」と呼ぶのを控えてほしいと応援団に要請し、応援団が該当する応援歌の使用を自粛した』ことに関する記事です。『歌詞の「お前が打たなきゃ、誰が打つ」という部分』が問題の表現だそうです。
 他球団やJリーグの応援歌では、『お前が立つその場所は…』『チャンスで火を噴くお前のバット』『お前ならやれるはずさ』など、「お前」が使われている例があり、今回の措置について賛否両論あるそうです。「表現の自由」に詳しい武蔵野美術大教授志田陽子氏は、『これに影響され一般社会でも「お前」が使えなくなると窮屈な世の中になる』と指摘なさっていますが、私も同じ考えです。
 しかしその一方で、窮屈でも仕方がないとも考えています。私が教委勤務中に、保護者から「部活の顧問がうちの子を「お前」と呼ぶ。全員に呼びかけるときも「お前ら」。うちの子だけでなく多くの部員が感じ悪いと言っている。「お前」は教員の言葉遣いとして相応しいのでしょうか」という電話を受けたとします。当然、相応しくないという見解を伝え、生徒に不快な思いを与えたことを謝罪し、校長を通して指導すると話します。差別表現とまでは思いませんが、相手に不快感を与える「不快語」ではあると考えるからです。
 何が差別語で何が不快語かということについては、判断が難しいのでここでは触れませんが、少なくとも、他の表現で言い換えられるのであれば、不快感を与えない表現をもちいるということが良識でしょう。この場合、個人には名前を呼び、集団には「君たち」「あなたたち」を使えばよいのです。どちらも特殊な表現ではなく、極めて一般的な表現です。
 こうした指摘を窮屈だと考え、反発して指導に従わない教員は、教員失格です。少なくとも公立学校の教員という公的な立場を理解していないと言わざるを得ません。つまり、「公」の立場として、窮屈だと感じていても不快感を与える表現は慎むというのが正しい態度だということです。
 一方で、親しい気心が知れた仲間内で、「お前」を使うことは多くの場合問題ないと考えます。表現にまつわる問題は、その言葉自体の意味やイメージとは別に、使われる場、使う人の立場に応じて考えるべきであり、公的な立場で発する言葉は、窮屈でも慎重さが求められるという認識が必要です。
 ちなみに、「お前」「お前ら」を使う教員に体罰や他の暴言が多いというのは間違いのない事実です。「○○さん」と言いながら叩いたり、「みなさん」と発した後に、人格を否定するような言葉は出てこないものです。教員は、休み時間に子供と雑談しているときでも、自分が公的な立場で話しているということを忘れてはなりません。
 ところで私は、「~君(くん)」と話しかけられるのも、「君(きみ)」と呼ばれるのも嫌いで不快です。何を上から目線で、と反発したくなるのです。だからといって、「くん」も「きみ」も不快語だというつもりはありません。ただ、自分からは使いませんが。私的な領域での感覚は人様々ですよね。
 
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自分のこと、制度のこと

2019-07-09 07:56:03 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「自分のことと制度のこと」7月2日
 連載企画『読書日記』では、作家津村記久子氏が、『要点で学ぶ、デザインの法則150』を取り上げていらっしゃいました。津村氏はその中でいくつかの法則を拾い出して論じていらっしゃいますが、私は2つの法則に着目させられました。まず、『ダニング・クルーガー効果』です。『ある分野について経験を積んだ人より未熟な人の方が自信がある』というものだそうです。
 私のは覚えがあります。教員になって3年目、私は3年生を担任しました。初めの2年間は、5・6年生を担任し、学級経営も授業もうまくいかなかったのですが、3年目に受け持った学級は、子供や保護者との相性も良く、あらゆることが皆スムーズに進みました。子供には懐かれる、保護者には信頼され「先生の話を伺うと涙が出てきます」と、新興宗教の教祖様並みに信頼される、隣の学級が荒れているのを私が行って納めるなど学年内でも頼られる存在になる等々。正直なところ、私は自分が小学校の教員に向いている、教員としての資質に恵まれているとさえ、秘かに思ったくらいでした。
 それからの数年間は、自信満々、周りの先輩教員に対しても「大したことないな」と上から目線でみていたものでした。まさに、『ダニング・クルーガー効果』の典型です。そんな自分が変われたのは、以前もこのブログに書いた不登校のHさんに対する対応で、校長と教頭から指導を受けたからでした。津村氏は、『ダニング・クルーガー効果』の弊害を除去する手立てとして『経験の浅い人に能力の有無を見分ける方法を教え、定期的に周囲からの意見や批評を伝えて自己評価力の向上を促す』ことを挙げていらっしゃいますが、偶然にもHさんの対応がうまくできていなかった事実が、こうした機会を与えてくれたのでした。何もなくあと数年自己満足の塊のまま過ごしていたら、指導力不足教員となっていたことでしょう。危ないところでした。
  「指導力教員」という言葉が出てきたところで、教委勤務次第に「指導力不足教員研修」の受講者には、この「ダニング・クルーガー効果」が該当する者が多く見られたことを思い出しました。彼らに共通していたのは、研究授業等第三者から厳しい指摘を受ける経験がないことでした。その結果、根拠のない「高い自己評価」をもっていて、指導力が不足しているという指摘をなかなか受け入れようとはしなかったのです。そして多くが40代から50代のベテラン教員でした。それまでの長い間、「周囲からの意見や批評を伝え」られることがなかったため、既に手遅れの状態だったのです。
 さて、もう一つは『「フィーチャー・クリープ」と、それと共通する問題を抱えた「フレキシビリティの二律背反性」』という法則です。前者は、『便利だからといってある製品に機能をどんどん追加していくことによって製品が複雑化し、コストも嵩んでいく』という状況への批判です。具体例として、『17世紀のスウェーデンの軍艦は、建造の途中で大砲、砲甲板、船体を飾る彫刻などが後から追加されたため、初めての航海の際に1マイルにも満たない航行で沈没した』が挙げられていました。
 後者は、『フレキシビリティを重視すると、必然的に、より多くのデザイン上の要件を満たす必要が生じ、そうなればデザインは例外なく、より折衷的で複雑になる』ということで、具体例としては『スイス・アーミー・ナイフを例に機能を足せば足すほどその製品は使いにくくなっていく』が挙げられていました。
 軍艦は航行し戦えればいい、ナイフは切れればいい、という原点を忘れ、様々な機能を付随させようとしていくうち、本来に機能が発揮されにくくなってしまうということです。これは、学校制度の欠陥を言い当てているように思われました。明治5年に学制が発布され、我が国の近代的学校制度が始まりました。そのころ掲げられた目的はいたってシンプルなものであったはずです。
 その後、様々なな機能や役割が付加されていきました。特に近年の改革では、家庭教育や社会教育、それどころか本来は教育ではなく社会福祉や医療の分野が担うべき事柄まで、学校に求められるようになってきています。貧困世帯や育児放棄家庭の問題、家庭における虐待や外国人保護者の就業まで、学校現場に負担が寄せられているのです。私も、子供の両親の不倫と離婚問題に巻き込まれ往生したことがあります。教え子の幸せのためには、教育者として無関心でいてはいけないという雰囲気があったことを思い出します。
 1マイルで沈没する船にならないために、学校制度のデザインを見直す必要があると思います。
 
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他の誰かのためでなく

2019-07-08 07:46:22 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「第三者のためではなく」6月29日
 毎日ユニバーサル委員会第5回座談会の様子が掲載されました。『障害者の雇用と教育』がテーマです。その中で日本パラリンピアンズ協会会長河合氏の発言に注目させられました。
 ご自身も視覚障害者である河合氏は、『障害のある子が学ぶ時、一歩間違うと、その子が教材みたいになってしまうところがあって、気をつけないといけないと思います。その子がいるから他の子たちがダイバーシティー、インクルージョンについて考えてくれるという論理になりかねない』と語っていらっしゃるのです。現在の学校教育に対する貴重な指摘だと思います。
 障害のある子供に限らず、何らかの差別の対象になりやすい子供や教員などの就学や採用・配置を考えるとき、最も重視しなければいけないのは何か、という基本について考えさせてくれるからです。答えはもちろん、当人の幸福です。例えば知的障害のある子供の就学について考えてみます。
 その子供の障害の傾向や種類、そこ子供の個性などから考えて、その子供のもっている能力や資質を最大限伸ばすことができるのは、どのような環境かという視点で就学先を選択すべきだということです。知的障害の子供の指導において専門性をもつ教員の存在、教員の専門性を支える施設設備の整備状況、子供・保護者・教員の相性と信頼関係、校長以下職員全体の障害に対する理解度などの条件を総合的に勘案すべきなのです。
 しかし実際には、その子供の成長には望ましくない環境であるにもかかわらず、障害のある子供とともに学校生活を送ることで、他の子供たちの障害や障害者に対する理解が深まる、障害児の指導経験のない教員の知見が深まる、他の保護者の障害に対する偏見が除去される、障害に対応したカリキュラム・施設設備・人員配置の整備が進むといった理由から、学校や学級を選択することを強いられ、本来最も重視されるべきその子供の成長が十分に保証されないという事態が少なくないのです。
 しかも、学校評価において、その子供の成長をきちんと評価することなしに、周囲の子供や教職員、保護者の障害に対する理解が深まったという大きな成果があった、などと肯定的評価がなされ、問題点が放置されたまま次年度に進むということも珍しくないのです。
 つまり、無意識のまま、あくまでも善意に基づいて、障害のある子供を何か別の目的を達成するための手段としてしまうということなのです。それは本当の意味で望ましい教育活動とは言えません。
 一人の障害児を手段として他の子供の人権意識を育むことは厳に避けなければなりません。もちろん、結果として関係者の理解が進み、意識が高まることは歓迎すべきことですが。
 
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そんなことまで

2019-07-07 07:51:55 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「そこまで?」6月29日
 栄養専門学校長服部幸應氏がインタビューに答えていました。その中で服部氏は、外食チェーンのアルバイトが悪ふざけ動画をネットにアップする行為に言及し、『かつては家族で食卓を囲みながら、食事のマナーだけでなく、人として恥ずべきことをしないように見識を高めていったと思う。今の若者が人前で悪ふざけざんまいするのを抑えられないのは、食卓で学べなくなったからだと僕には見えて仕方ないんです』と述べていらっしゃいます。
 そういう面もあるかもしれません。しかしそこから『誰もが豊かな人間に育ってほしい。そんな思いから取り組んでいるのが食育の普及活動だ』とつなげられてしまうと、強い違和感を覚えてしまうのです。
 アルバイト先で、客に提供すべき魚の切り身をごみ箱に捨て、それを拾い上げてまな板で調理して見せる、その様子を大勢に人にネットで拡散する、こんな行為は理解不能です。食べ物を粗末にしてはいけない、食べ物は生き物の命をいただいているのだ、米でも魚でもそれを口にできるのは農家や漁家の人が一生懸命に働いてくれたからなのだから感謝しなければいけない、というような基本的なことの定着も学校が担うべきなのでしょうか。
 アルバイト先のレストランの魚は自分のものではない、アルバイトとはいえ給与をもらって働く以上勤務時間中は職務に専念する義務がある、雇用先企業のイメージダウンにつながる行為は刑法に触れる可能性があり損害賠償請求で賠償金を要求される可能性がある、不起訴のなったとしても捜査対象となるだけで自分の社会的信用は大きく低下する、というような常識も、学校で教えなければならないことなのでしょうか。
 これでは、学校は子供の成長において、衣食住を与えること以外のすべてを担うことになってしまいます。家庭教育も社会教育も存在しないということなのでしょうか。もしそうであるならば、従来の学校教育という概念を捨て去り、社会性総合育成センターとでも名称を変え、教員とそれを支える少数の職員から成り立っている今の組織を廃止し、里親や舎監のような役目を果たす専門職員を配置した、児童養護施設をさらに拡充した24時間養育体制を整えた機関とするしかありません。
 学校にそこまで求めるのはあまりにも非現実的です。食育にそこまでの効果を期待するのは、かえって食育の存在意義を弱めてしまいます。子供の成長において学校は何を担うのか、少子化社会を少子劣子化社会へと深刻化させないためにも、一度立ち止まって考えるべきだと思います。
 
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丸裸の子供

2019-07-06 07:12:35 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「パーフェクトオープン」6月28日
 インターネットイニシアティブ会長鈴木幸一氏が、『まずはプライバシーを捨てて』という表題でコラムを書かれていました。とても驚かされる内容なのです。コラムの中で鈴木氏は、『ある人が一切のプライバシーを放棄することで、まったく違う未来が見えてくる』と述べられています。
 そして、その未来について、医療を例に、『自らの身体に関するあらゆるデータが24時間1年を通じてリアルタイムに収集・解析され、何らかの異常値が検知された場合は、すぐにその後の対応が指示されるとする。病院に着く頃には、分析されたデータに基づき最適解とされた処方が準備されている』と描かれているのです。
 さらに、『位置情報も一体となっているわけで、異常値が発生した場所から最も近い治療センターが自動的に対応』『病を発症した個人の所得や資産から支払える医療費が自動的に割り出される。費用面から医療の対応もおのずと決まってしまう』という状況まで目にすると、古いタイプの人間である私など、何だか複雑な気持ちになってしまいます。
 鈴木氏はあくまで一つの未来像を描いているだけであり、そうした未来が人類にとって幸せなのか否かについては判断を避けていらっしゃいます。しかし、人間社会の変化の歴史から見て、ある方向に動き出すと、その後はどんどん加速度が増し、当初予想していなかった地点まで行き着いてしまうという傾向がみられることは事実です。鈴木氏が描く未来像は決してSF小説の中の出来事ではないと感じました。
 では、そんな未来の学校教育はどうなっているのでしょうか。その子供の学習や学校生活に関するあらゆるデータが、ビッグサーバーに集積されているということになるでしょう。今までであれば、教員の諸帳簿に記録されていた、出欠の記録、小テストの点数、作品や宿題の提出状況、それらに対する教員のコメント、個人面談・家庭訪問の記録、教育相談の内容、級友とのトラブル、問題行動の記録、部活の活動状況、受賞歴、授業で使われていた教科書や副教材、保護者から寄せられた苦情、保護者の保護者会等への出席状況、受験先と合否等々が日々蓄積されていくのです。
 さらに、塾や予備校、さらには家庭教師等による指導の記録も任意提供という形で実質的に強制されるようになっていくことも予想されます。もちろん、ピアノや水泳、英会話といった習い事も含まれるようになっていくはずです。
 その結果、転校してもその子供の状況は瞬時に把握され、転校先の学校において最適な適応指導が行われることが可能になります。進学に際しても、人間関係や興味関心に応じて学級編成をすることができるようになります。もちろん、そこではAIが膨大なデータを処理して最も望ましい結論を出すことになります。そもそも、それだけのデータがあれば、何もわざわざ膨大な労力と時間をかけて入試を行う必要もなくなり、出願さえすれば、データ照合でっという間に合否が決定するようになっているかもしれません。
 究極の形としては、教員がいちいちデータ入力しなくても、教室に備え付けられた監視カメラが、一人一人の子供を認識し、その学習行動を自動的に記録していくという状況が一般化していくでしょう。そして、現在のようにある学校に所属して登校するという形は時代遅れになり、近隣校の中でその子供の能力や興味関心にあった授業をしている教員の授業が自動的に示され、難航をも転々とする、そして飛び級は当たり前、となっていても不思議ではありません。
 鈴木氏ではありませんが、そんな学校生活が幸せかどうかは分かりませんが。
 
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最高レベルのやり方を見せて

2019-07-05 07:49:54 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「大学における評価は?」6月27日
 『いでよ和製ジョブズ デッサン、アニメ、合唱…東大が授業導入へ』という見出しの記事が掲載されました。『東京大学が、美術や音楽、演技など芸術実技の授業を本格的に導入している』ことを取り上げた記事です。記事によると、『“エリートの卵”に専門を超えた斬新な発想力や多様な価値観、幅広い教養を育んでもらう狙いがある』とのことです。
 さらに、『芸術的感性は、技術開発や科学研究においても重要』『米国や中国では芸術教育に力を入れる総合大学が増えている』と背景が説明され、『カリグラフィーなどに打ち込み、合理性と造形美を併せ持つコンピューター製品を生んだ米アップル社の創設者スティーブ・ジョブズ』のような人材育成をイメージしているようです。
 大変興味深い記事だと思いました。ただし、芸術と科学の関係性とか、創造性と合理性の共通性といったことへの関心ではなく、大学で芸術履修する際の評定をどのように行っているのか、ということへの関心です。
 私はこのブログで、音楽や図工・美術の授業における評定の基準や客観性について、素朴な疑問を投げかけてきました。学校教育も国民の税金で営まれる公的な事業である限り、説明責任が求められます。保護者や子供から、どうして自分の成績は5段階の2なのかと問われたとき、その理由をきちんと説明できる必要があるのです。その際、音楽や図工・美術といった芸術系の教科においては、その説明が難しいということを指摘してきたのです。教員の感覚や好き嫌いという要素が影響するのでは、十分な納得は得られませんから。
 小学校では、音楽や図画工作の成績が2だろうが4だろうが、実質的な影響、損得はあまりありません。ですから、保護者の関心も低く、苦情等も少ないのが実情です。しかし、大学で履修ということになれば、単位認定等も関係し、何らかの評定は必要とされるはずです。また、評定のように数値化、ランク付けとは異なりますが、学習者の理解や技能の到達度を測る評価がなければ、指導と学習のサイクルが成り立ちません。そして、その際にも、評価項目や基準があるはずなのです。
 我が国の最高学府とされる東大で、芸術系においてはこれも最高レベルにあるとされる芸大等の教授が行う講義、そこで行われている評価や評定は、義務教育段階における音楽や図工・美術の評価や評定にも大いに参考になるはずだと考えるのは、当然ではないでしょうか。
 記事からは、その点がよく分かりませんでした。もし、評価や評定に値する行為はなしということであれば、それはそれで、義務教育段階でも芸術系の教科には評価は不要という考え方を補強するものになります。どうなっているのでしょうか。

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個性は進度ではない

2019-07-04 07:15:55 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「はき違え」6月26日
 『指導力向上へデータ活用 文科省が推進策 児童生徒に端末整備』という見出しの記事が掲載されました。文科省の『試験結果などの学習履歴を蓄積したビッグデータを活用して効果的な学習や指導につなげる方針』についての記事です。
 時代の趨勢としてそうした方向性が打つ出されるのは容易に予想が付くことです。ただ、記事の中に気になる記述がありました。『先端技術を活用した「202X年の未来の学校」のイメージとして▽教員がAIを活用して、「子どもたちの宿題の進捗状況を朝のうちに把握し、その日の授業の展開を考える」』というものです。
 ご丁寧にイメージ図まで添えられ、『Aさんは宿題をやったのが夜11時か…今日は寝不足かも』『Bさんは短時間で一番難しい問題まで到達しているぞ。褒めよう』『Cさんをはじめ、立体図形の展開図でつまずいている子が多いな』と教員が把握している様子が描かれています。
 いくつかの問題点が指摘できます。まず、教員が出勤してからのわずかな時間で授業の展開を考えることができるという想定の非現実性です。実質5分あるかないか、その時間で30人の子供の状況を見るだけでも難しいでしょう。一人10秒ですから。その上授業の展開を考えるというのですが、板書計画や発問計画を修正するのにどれだけかかると考えているのでしょうか。しかも、新たにプリント等を用意しなければならない場合、そんな時間がどこにあるのでしょう。
  次に、授業の前提として宿題を想定している点です。もしこの通りのことを実行するとすると、教科担任制の中学校では、各教科担任が自分のペースで宿題を出し、生徒はパンク状態という状況に陥ります。文科省は、小学校高学年でも教科担任制の導入を考えているはずですから、同様の問題は小学校でも起こります。そもそも、家庭の状況に左右されやすい宿題を前提として授業を構想すること自体に問題があります。
 さらに、把握した実態をどのように生かすのかの検討が足りません。例を挙げれば、イメージ図に示された「今日は寝不足かも」という実態把握をどのように授業に生かすのでしょうか。まさか、「寝てていいよ」とは言えないでしょう。寝ぼけた頭でも分かりやすいように丁寧に説明しようというのであれば、常に丁寧な説明が必要だよと言い返されてしまいます。
 最後に最大の問題点として、授業における望ましい指導を、子供の理解度に合わせた指導だと考えていることです。おそらく個に対応した指導をそうしたイメージで捉えているのでしょう。明確に間違いです。もちろん、理解度を無視してよいといっているのではありません。しかし、ある程度の経験を積んだ教員であれば、子供の理解度に合わせた指導はそれほど難しいことではありません。というよりも、ほとんど無意識のうちにそうした指導をしているはずです。
 教員にとって難しいのは、一人一人の子供の興味関心のあり方、考え方の癖や傾向、こだわりをもつ事柄、認知の枠組み、などを把握しそれを生かした授業展開、助言や情報提供を行っていくことです。これらは、宿題がどこまで終わっているかというような数値化できるものではなく、授業職人としての経験と勘が求められる部分なのです。
  これをAIによってデータ処理分析できるようになったとき、初めて文科省の構想が意味をもつのです。その日はいつになるのか、想像がつきませんが。
 
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認めてくれる誰かがいれば、ではだめ?

2019-07-03 07:45:26 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「一人の開放感」6月25日
 オピニオングループ小国綾子氏が、『あなたは孤独ですか?』という表題でコラムを書かれていました。その中で小国氏は、『今の若者について「人間関係こそが自己肯定感の中心的基盤となっている」』という社会学者土井孝義氏の指摘を紹介しています。
 さらに土井氏の、『若者にとって自己評価を決めるのは成績でもルックスでもなく人間関係。「孤独」は「ぼっち」と同義で、「孤独」と口にすると自己評価が揺らいでしまう。また、どれだけ他人から承認されているかが自分にとって大事だからこそ、承認を与えてくれる友達や両親に気を使うあまり、「孤独と言うなんて申し訳ない」という言葉が出た』という見方も提示なさっています。
 人間が「承認」を求めるのは当然です。しかし、他者からの「承認」、多くの人からの「承認」がなければ生きていけないというような状況は行きすぎだと思います。自分が好きなことに熱中しているとき、それだけで幸福感を感じることができるのも人間の特性であったはずです。小さい子が昆虫に興味を抱き、日が暮れるまで網をもって神社の林を駆け回り、今まで見つけたことのない昆虫を発見する、そんな感覚です。
 また、家族や大切な人に認めてもらえれば、多数の人の無視や低評価は気にならない、というのも一般的な心の働きでした。自分を取り巻く人すべてから高評価を得るというのは、非現実的で欲張りな願いであることを自覚しなければ、常に「承認飢餓症」に悩まなければならなくなります。
 今、土井氏の指摘のように、子供を含め多くの若者が、「承認飢餓症」供いうべき状況に陥っているとすれば、それへの対応は、学校や教員にとって急務となります。いじめ自殺問題においても、大人が「その程度のことで自殺を……」と驚くことがありますが、いじめ=無視=承認なし=自己評価が最低という図式で考えれば、当然だということになります。いじめとされるここの言動のつらさだけではなく、自己評価の低下が辛いということなのですから。教員が励まそうが、保護者が声を掛けようが、多数からの承認がないという状況は変わらないのですから、何の効果もないことになります。
 いじめだけでなく、不登校問題への対応でも、勉強ができても、スポーツができても、その子供が得意な何かで成果を上げても、承認を得られ続けない限り、学校には行きたくないということになり、解決はできないのです。
 では、それほどに求められる「承認」とは何でしょうか。言葉によるのでしょうか、態度で示されるのでしょうか。そもそもその「承認」は正当なものなのでしょうか。不当な承認、いい加減な承認でも構わないのでしょうか。誰の承認も、等価値なのでしょうか。国体に出場経験のある顧問の「よし!」も、ラケットを握ったこともない級友の「うまいじゃん」も同じなのでしょうか。「承認」を求める相手は誰なのでしょうか。学級?部活?学校全体?ラインのグループ?SNSでの知り合い全部?分からないことが多すぎます。
 以前も書いたことですが、学校生活に孤独を導入することを真剣に考えてみるべきなのではないでしょうか。そのときは、考える力の育成の視点で、授業の中の沈思黙考の重要性を見直すということでしたが、それに加えて、他人の「承認」が一切ない場面や機会を作ることで「承認」がなくても生きていけるという体験をさせるという狙いをもって、孤独を再評価するのです。月1回、SNSも含めて登校時から下校時まで誰とも交流せずに過ごす日を設けるというのはどうでしょうか。
 
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遠回りし試行錯誤

2019-07-02 07:43:13 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「気がついたら」6月25日
 京都大情報学研究科特定教授川上浩司氏への『「不便」で活力引き出せ』と題されたインタビュー記事が掲載されました。『もの作りを長い間支えてきた「便利・効率的」という思想と一線を画し、不便ゆえの楽しさを製品作りに生かす「不便益」の考え方』に関する記事です。
 記事では「不便益」の例として、『家庭菜園。店で買えば便利なのに、野菜をわざわざ育てるという「不便」を通して、収穫の喜びという「益」を得る』を挙げています。また、『わざと階段や長い廊下を設けて』いるデイサービスセンター、これは、『利用する高齢者に頑張ってもらうことによって、筋力や認知機能の衰えを防ぐ』という「益」を得ているわけです。面白い考え方だと思います。
 しかし私が注目したのは、そうしたユニークな発想の事例ではなく、川上氏が語った『「おなかを引っ込めたいから仕方なく一駅手前で電車を降りて歩く」のではなく、一駅手前で降りて歩くという「不便」を楽しんでいたら、結果的におなかが引っ込んだ、という流れでありたい』という言葉でした。
 私はこのブログで、学校教育の在り方について触れてきました。学校教育の在り方については、大きく分けて2つの考え方があります。一つは、国家や集団の維持発展に必要な能力を備えた人材を育成するであり、もう一つは、学習者としての個人を尊重し、人間が生まれながらにもっている知的好奇心や探求心を満たす喜び、成長したという満足感や達成感を得させることで人生を豊かにするというものです。
 私は後者を重視する立場であり、その立場から近年進められている、産業界経済界からの要請に基づいた人材育成に偏った教育改革を非難してきました。実学重視で教養を軽視する流れを批判してきたのも、こうした考え方に基づくものでした。
 でも、川上氏の言葉を目にして、2つの立場を矛盾させずに融合する考え方があることに気付きました。つまり、「経済発展に寄与する人材をとなるために学ぶのではなく、自分の興味関心に基づいて気になる事柄について調べたり探求したり考えたりしていたら、結果として経済発展等に資する能力が身についていた」という在り方です。
 グローバル化する社会において諸外国のエリートと対抗するために必要な能力は〇〇と△△であると定義し、その獲得に向けて効率的なカリキュラムを組むというのではなく、子供の知的好奇心や探求心を最大限発揮させることが可能なカリキュラムを編成し、遠回りや試行錯誤を容認し、そのことが独創性やチャレンジ精神の獲得に結びつくというイメージで学校教育を構想するということです。キーワードは、遠回りと試行錯誤です。
 
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