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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

目指すのはもっと低いところ

2019-07-21 08:56:17 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「響く言葉」7月16日
 オピニオングループ小国綾子氏が、『合唱指揮者という生き方』という表題でコラムを書かれていました。その中で小国氏は、『合唱指揮の第一人者である清水敬一』氏を取り上げていらっしゃいました。そして同氏の著作に書かれた作曲家三善晃氏に関するエピソードを紹介なさっています。
 『三善さんは、素晴らしく精密な演奏をする中高生の合唱団の演奏を聞いたあと、こう語りかけたという。「皆さんが美しい声で歌うだけではだめなのです。音楽は、皆さんが演奏した音の中で、聴いている人たちが、生きられなければならないのです」その場に居合わせた当時、まだ23歳の清水さん。相手が中高生でも容赦なく本質に切り込む姿勢に驚きつつ、何十年もこの言葉を胸にあたため続けてきた。そして還暦を迎えた今、<(この言葉は)音楽科として生きていく私の、これからを磨き続けてくれる大切な路標です>』
 うーん、正直なところ、カラオケでがなり立てる以外、音楽に対する思い入れのない私には、三善氏の言葉の意味はよく分かりません。何となく「いいこと」を言っているような気はするのですが。多くの中高生もそうなのではないかという気がしてなりません。もちろん、「素晴らしく精密な演奏」をする中高生ですから、一般の平均的な中高生とは違い、音楽に対するその理解度、共感度は多少高いのでしょうが、それでも全員が理解できたとは思えません。
 そして三善氏の言葉を「胸にあたため続けてきた」清水氏は、当時23歳という音楽の道を歩もうとしていた立派な大人であり、その後「合唱指揮の第一人者」となる逸材です。栴檀は双葉より芳し、と言いますが、23歳の当時、既に音楽というものに対して一流の感性をおもちであったことは間違いありません。つまり、「特別な人」です。
 なぜ、こんな分かり切ったことを書いているかというと、三善氏の言葉は、中高生を指導する者の言葉として適切なものであったのか、という問題意識をもっているからです。より明確に言えば、もし三善氏が中高生を教える音楽教員だとしたとき、紹介されている言葉は、適切な指導助言とは言えないということです。
 小国氏は、三善氏と清水氏の間で世代を超えて響きあった言葉として、三善氏の言葉を評価しているように思えるのですが、そして私もそのことを否定はしないのですが、指導する者とされる者との間で交わされる言葉としては、抽象的且つ個人の思い入れが強すぎる表現だと思います。
 私は、高校まで実質的に義務教育化している現状において、高校以下の学校教育は、平均的な凡人を想定して行われるべきだと考えます。そこでは、ごく一部の才能や資質に溢れた生徒に感銘を与えることよりも、平凡な生徒群に分かりやすく受け入れやすいことを、平易な表現で伝えることが最優先されなければなりません。それが、求められる教員の資質だと考えています。そのことをクリアした上で、一部のスーパー生徒に響く言葉も発することができるのであれば、それは言うまでもなく最高の教員です。でも、一般の教員はそんな高みを目指す必要はないのです。
 
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不信で成り立つ学校

2019-07-20 08:12:58 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「悲しいけれど、信用してはいけない」7月14日
 総合研究大学院大学長長谷川眞理子氏が、『暗黙知の軽視 「人を見る目」置き去りに』という標題でコラムを書かれていました。その中で長谷川氏は、標題に掲げた『人を見る目』を例に、『(人を見る目は)とても大切な能力であると思う。しかし、そんな曖昧な第六感をもとに、人を採用したり、試験で不合格を出したりすることは、なかなかできない』『「人を見る目」は確かに存在するのだが、問題は、その判断を、手持ちの数値の組み合わせで明示的に表現することは難しい』と現状を説明し、『何もかも数値にしなければ、納得してもらえないのだろうか?いろいろ測定はするとして、最後に人間の判断が出てこないのであれば、それは、人間が信用されないということなのだろう』と、『人を見る目』という暗黙知の重要性を指摘するとともに、数値評価万能主義を批判なさっています。
 私はこのブログで、評価の問題を繰り返し取り上げてきました。子供の評価の場合もあれば、教員の評価について述べたこともありました。入試における面接のあり方、教員採用試験における合否の判断、指導力不足教員の適否の判定など、具体的な場面での経験を基に論じてきました。その根底には、長谷川氏が指摘したように、何でも数値化して根拠を示さなければならないことへの疑問がありました。しかし、長谷川氏のように、この問題を「人間不信」という視点から考えたことはありませんでした。せいぜい、情報公開、恣意性の排除、公平公正の原則、というような視点から考えるだけでした。
 私は、他者を評価する側に身を置くことが多かったのです。そこで、おそらく、長谷川氏の指摘を無意識のうちの避けていたのだと思います。判定者としての自分が信用されていないという事実から目を背けたかったのでしょう。
 私は、判定者として、決断を下すのが早い方でした。第三者からは、「よくそんなに早く結論が出せますね」と言われたものでした。正直なところ、教員の資質を見抜く目についてだけはあるという自負がありました。それは、数値化できる能力ではなく、『曖昧な第六感』的な意味で、です。もちろん、当たりはずれの多い「ヤマカン」ではなく、経験に裏打ちされた「暗黙知」としての、「目」としてです。
 そして密かに私の「人を見る目」による結論を尊重せず、「裏付けのデータがないとね」と首を傾げる素人たち、多くの場合行政系の管理職で、学校についても、教員についても、授業についても何も知らない人たちに、反感を感じていたのでした。
 でもよく考えてみると、彼らは私の鏡像でもあったのです。私自身が、教委において部下の指導主事たちには、「第三者に説明できるだけの説得力のあるデータを集めて」と言っていたのですし、そこには部下の「人を見る目」に対する不信感があったのですから。
 人間が相互に信用されない社会、悲しいですが、現代はそういう時代なのでしょう。自分が部下を信用してこなかったのに、自分のことを信用してほしいとは言えませんから。そして将来、AIがすべてを数値化するようになり、人を信用することはできなくても、AIは信用できるというときがくるのかもしれません。しかし、人を信用しないシステムの中で、学校教育は成り立つのでしょうか。
 
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有効利用の発想

2019-07-19 07:22:19 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「有効活用の思想」7月14日
 やましたひでこ氏の連載コラム『断捨離でごきげんな毎日を』は、『隙間の役割とは』という表題でした。その中でやました氏は、『隙間とはとっても魅惑的で、私たちは棚や引き出しにそれを見つけるたびに、喜々として、あるいは、無意識のうちにモノを突っ込むもの。なぜなら、それで、床にはみ出たモノたちが、テーブルに出しっぱなしのモノたちが、しまえて片づくと思い込んでいるから』と、『隙間は有効活用すべし』という思想について述べられています。
 そしてこの思想に対して、『隙間があるからこそ、モノが取り出しやすく~』『空間があるからこそ、ゆとりが見いだされる』『隙間を埋めていくこと、すなわち、それはゆとりの喪失。狭い、忙しい、疲れた、の発生源』と、批判をなさっています。
 やました氏は、あくまでもモノについて、空間的な隙間について断捨離の専門家の立場で述べていらっしゃるのですが、私には学校教育改革に対する姿勢を問うているように感じられました。学校という場には、多くの隙間がある、より正確には、多くの隙間があるように外部の人たちからは見えている、ということです。そしてそうした人たちにとって、隙間そのものは無駄であり、何とかして隙間を埋めたいという衝動、隙間を埋めることは良いことだという思い=「隙間有効活用」的な考え方が抜きがたく染みついているのではないかということです。
 さらに、やました氏が指摘する、隙間に何かを突っ込むと片づいたように感じる感性は、学校教育にも当てはまるのです。社会において何らかの不都合な問題が発生、もしくは認知されると、多くのその分野の「識者」たちは、何かしなければならないという焦燥感にかられます。何もしないというのは、自分たちの無能さが問われているように感じてしまうのです。しかし、多くの対策は予算面の制約等もあり、実現不可能です。そのとき、学校教育の「隙間」が目に入ってくるのです。ここにまだ隙間があるじゃないか、とこの発見を喜び、自分たちが抱える問題を学校の「隙間」に突っ込んで、責任を果たしたようなスッキリ感を味わい、満足の吐息をもらすのです。「ああ、うまくいってよかった」と。
 人口減が経済成長に深刻な影響を及ぼす→外国人を受け入れよう→学校で日本語教育の充実をとなるのです。憲法改正をしたい→国民投票法の整備で18歳から選挙権を→学校で主権者教育をとなったわけです。アベノミクスで失敗できない→株価高値維持が絶対条件→貯金から投資へ誘導→金融教育を充実もその一つです。社会福祉費用の高騰を抑えたい→自助・共助の精神を涵養(公助は当てにしない)→道徳教育で自主自立・協力の精神をというのも、実はそうなのではないでしょうか。
 もちろん、一つ一つの施策に意味はあります。それなりの効果はあるでしょう。しかし、その一方で、学校の隙間をなくし、ゆとりを奪い、忙しい、疲れたが充満する潤いのない場所にしてしまうマイナスについては軽視されているのではないかと思えるのです。学校に隙間があることは許されない悪なのか、望ましいことなのか、私の考えは後者です。
 
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ほのぼのとした、はダメ?

2019-07-18 08:21:44 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「微笑ましいと思ってくれるか」7月15日
 川柳欄に、亀岡市のびた氏の『答案の余白マンガに二重丸』という句が掲載されました。試験の際、正答が分からなくて考えるのを諦めて時間が余ったのか、簡単すぎて時間が余ったのかは分かりませんが、余った時間を使って解答用紙の余白部分にマンガを描いたところ、採点する教員がその出来栄えを見てニンマリし、二重丸を付けて返してくれた、という情景でしょう。
 実際にこんな経験をした人もいそうです。子供側としても、教員側としても。或いは、保護者として我が子の答案用紙に二重丸を発見した方も。私はマンガを描く技量がありませんでしたし、教員時代にも、そんな余裕はありませんでした。もちろん、マンガか描かれた答案用紙は何回も目にしましたが、スルーしてお終いでした。
 今回、なぜこの句を取り上げたかというと、この教員の行為をどのように評価するかということを考えてみたからです。何も感じないという方がいるでしょう。単純に、子供と教員のほのぼのとした人間関係を想起し、微笑ましいと感じた方もいるはずです。その一方で、この子供はテストをまじめに受けていないのに、そのことを叱るどころかむしろ肯定してしまっているのは問題だという受け止め方をする方もいると思われます。同じように、教員の行為を否定的に評価しながらも、この教員はよほど暇なのだな、と思う方もいるかもしれません。
 ではそこから一歩進めて、「けしからん」派の保護者が、教委に苦情を言ってきたとしたらどう対応するでしょうか。「まあまあ、そんなに大したことじゃありませんよ」というような対応は問題を大きくしてしまいます。保護者の言い分を頭から否定してしまっているのですから。
 だからと言って、「そのマンガを拝見しないことには、教員の評価の適否を判断することはできません。素晴らしい才能を見出したのだとすれば、それを評価し励ましてやるのは教員の役目ですから」と真正面から対応したのでは、からかっていると誤解されまねません。
 もちろん、「とんでもないことです。厳重に対処します」という訳にもいきません。こんなことで厳重注意したのでは教員は委縮し反発しますし、口先だけで注意もしなければ、嘘ついて騙したことになり、かえって問題を大きくしてしまいます。
 さらに、こうした苦情が保護者から議員に伝わって議会で取り上げられるというようなことになれば、問題は一層複雑化します。そうなれば、日ごろの教員の姿勢、管理職の指導、校内の雰囲気、教員と子供の人間関係、これは教員が舐められているのではないかという非難の意味です、などに論点が拡散し、騒動が続いていくことになります。
 私見ですが、学校という場には、ある種ののほほんとした雰囲気が必要です。法や規則の解釈という面から考えるのではなく、慣習として、学校文化として、いい加減さが欠かせないのですが、最近はそうした考え方が通用しない雰囲気があります。私自身も、学校教育に法や規則に対する意識を浸透させようとしてきた立場に人間なのですが、そんな私でも息苦しさを感じることがあるようになってきました。どうなのでしょうか。
 
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これって美談?公平、公正、透明性は?

2019-07-17 08:24:23 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「私企業ならOK?」7月11日
 余録欄に、先日亡くなったジャニー喜多川氏についてのエピソードが綴られていました。『「きょうのオーでションは、終わり」。宣言したのは先ほどから書類選考を通った数十人の少年に「飲み物は要らないか」とカップを配っていた中年男(略)男はジャーニー喜多川さんだった。黙ったまま受け取る者、声かけを無視する者、むだ話をやめない者、開始時間が話と違うのに文句を言う者は、その時点で失格となった(略)オーディションの合否は飲み物を受け渡す時のやりとりの印象で決まった。ご当人は「ぼくは素を見て判断する」』というエピソードは、よく知られたものの一つです。
 余録欄を書いた人は、ジャニー喜多川氏の人となりを描くのに、どうしてこのエピソードを選択したのでしょうか。故人を誹謗中傷する意図はないはずですから、このエピソードを肯定的に捉えていたことは間違いないでしょう。
 しかし、このエピソードは本当に「良いこと」なのでしょうか。ジャニー喜多川氏が行ったのは、オーディションをするといって集めた少年に対し、実際は別の機会(飲み物の受け渡し)が実質的なオーディションであると騙した行為、合否の基準を示さないまま判定をしたという行為です。もし、こんなことを公立高校の面接試験で行っていたら、メディアはその行為を非難し、厳しく糾弾するのではないでしょうか。
 実際、公立高校の入試で、服装等の基準を校内で設け、それを公にしないまま選抜を行った学校とその校長が大きな非難にさらされた事例がありました。また、面接会場外での言動も参考にしていたことで非難された事例もありました。私はそれらの件について、このブログで取り上げ、入試の合否基準は校長に決定権があること、金髪に染めていたり乱れた服装をしているという生徒は問題行動に走る確率が高いという経験則には一定の信頼性があることなどを指摘し、基準設定自体に問題があるというよりも、その基準を隠していたことが問題であるという見解を述べました。面接終了後の行動に本当の姿が現れやすいという考え方にも合理性がありますが、そのことを知らせずに評価するというのはフェアではないと指摘しました。
 それは妥当な見解であったと今でも考えます。そしてその考え方からすれば、ジャニー喜多川氏の行為は、公平さを欠き、透明性に問題があると思うのです。まして、開始時間が話と違うということについては、苦情をいうのは正当な権利であり、民間企業の面接で、こうした苦情を言ったことで不採用となったら、それこそ企業側の常識が問われるはずです。
 学校や一般企業では許されない行為が、どうしてジャニー喜多川氏については、許されるばかりでなく、「良いエピソード」として伝えられるのでしょうか。ダブルスタンダードではないのでしょうか。
 ジャニーズ式合否判定が許されるのであれば、基準を隠したまま様々な工夫をして多様な合否判定をしたいと考える学校関係者は多いと思います。

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遅らせても、ダメな場合

2019-07-16 07:35:31 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「教員の存在感」7月10日
 『いじめ告発後激化 岐阜の中3転落死』という見出しの記事が掲載されました。『いじめを見かねた同級生が数々のいじめを時間を追って記したメモ』を処分していたこと、校内で情報共有されなかったこと、などが問題になっている事件についての記事です。
 その中にとても気になる記述がありました。『メモを受け取ってすぐ指導したら、うらみを募らせていじめが激しくなることが多い』『被害者や告発者を守る対策をした上で指導すべきだった』という指摘です。
 分からないでもないのですが、誤解を生みやすい表現だと感じました。いじめがあるという情報を得ても、教員はすぐに指導に乗り出してはいけない、という意味の受け取られる可能性があるからです。また、いじめを知った教員が、何もしなかったことについて指摘されたとき「告発者などを守る対策を講じていた最中だった」という言い訳の余地を与える懸念もあります。
 この指摘とは逆に、いじめを知った教員がすぐに解決に向けた行動を起こさないと、いじめ加害者側に対して「先生は、今回のことをあまり重要視していない」「○○(いじめ被害者)の見方をして助けるつもりはないんだ」という誤ったメッセージを送ってしまう危険性があることも忘れてはなりません。
 いじめを知った教員がとるべきなのは、直ちに毅然とした態度で、「いじめは何があっても絶対に許さない」という姿勢を示すことなのです。その強い覚悟が、加害者たちから被害者と告発者を守るのです。もし、いじめを知った教員が指導に乗り出したことで、かえっていじめが激しくなるとしたら、それは指導が中途半端であるか、教員の存在感が軽く、普段から子供になめられているか、です。
 前者のケースは、いじめ加害者に対し、「君たちの言い分も分かるよ。だけど、○○君は嫌がっているんだから。もうやめるべきじゃないのか。○○君と話し合ってみてはどうかな。先生が立ち会うよ」というような融和的な対応をしてしまうことです。これでは、表面的に和解し、その後で仕返しするという悪循環を誘発しているようなものです。
 後者のケースは、教員が指導に臨んでも、「誰がそんなこと言っているんですか。やってません。濡れ衣です。証拠見せてくださいよ。先生は一方的に私たちを悪だと決めつけている。それこそ人権侵害、教員によるいじめだ。こっちが訴えてやる」と、加害者に言い負かされてしまうようなイメージです。
 どちらのケースにも共通する問題点は、教員がいじめの事実を隠蔽しようとしていると疑われることです。自分の学級や部活でのいじめは教員としての失点、だから大事にせず穏便に済ませたい、というような姿勢を感じ取ると、加害者は本能的に、自己防衛のために、そこを突いてくるのです。ですから教員は、いじめの事実を学年、学校で共有していることを示し、「傍観者」と言われる周囲の子供にもいじめがあったことを知らせ、広く情報提供を呼びかけるのです。そして周囲の子供にも、いじめは何があろうと絶対に許さないと言う強い決意を知らせることによって、いじめ加害者に「自分たちの味方はいない」ということを感じ取らせるのです。
 いじめは即対応、です。しかも、強く学校ぐるみで、です。ただし、今まで繰り返し述べてきたことですが、いじめという行為を糾弾するのであり、いじめ加害者もまた自分の大事な教え子であるということが伝わるような配慮も忘れてはなりません。

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もう一度・・・

2019-07-15 07:08:08 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「良い~」7月8日
 『お坊さん7組「法話グランプリ」』という見出しの記事が掲載されました。『法話の魅力を発信する大会が6月2日、神戸市須磨区の須磨寺で開かれた』ことを報じる記事です。その中に考えさせられる記述がありました。『審査基準が教えの優劣や話術ではなく「もう一度会いたいお坊さん」だった(略)踏み込んだ教えに触れたい人には、誰にでも分かりやすい法話が物足りなかった(略)また大会中、客席からアイドルさながらに僧侶の名を呼ぶ声が上がる場面が何度かあった。聴聞者の「ファン」化は僧侶個人への執着につながる~』というものです。
 私は法話自体に関心をもっているわけではありません。法話という評価しにくいものを対象に、どのようにしてグランプリを決めるのか、その観点や基準、方法に興味があったのです。それは、私が教委勤務時代に「指導力不足教員研修」を担当し、教員の授業をどのように評価するかという課題に悩んだ経験があるからです。
 もちろん、教員の授業評価は、相対評価ではなく、絶対評価で行われます。つまり、複数いる教員の中で誰の授業が一番かを決めるのではなく、合格レベルか否かを決める評価です。全員が合格レベルとなることもあれば、全員が不合格となりこともあり得ます。一方、「~グランプリ」という形式は、とにかく順位を付ける評価になります。そうした違いはありますが、評価に観点や基準、方法が必要なことは共通しています。
 しかし、記事の内容はあまり参考になりませんでした。先ほど引用した部分に、問題点が集約されています。もし、授業評価を、「もう一度授業を受けたい教員」という基準で子供に選ばせるとしたらどうでしょうか。そもそも、授業は二度と同じ内容で行われることはありません。ある時間の授業の内容が理解できたら、次の時間はその先の内容を扱うのです。もし再び同じ内容の授業をするとしたら、それは行った授業の内容が理解されておらず、仕方なしにもう一度繰り返すということであり、それは授業の失敗を意味するからです。
 「もう一度授業を受けたい」というのはそういう意味ではなく、その教員の授業の魅力を問うのだ、という指摘もあるでしょう。しかしそれは、『聴聞者の「ファン」化』という記述にあるように、一度その教員にファンになってしまえば、「あばたもえくぼ」式に、授業そのものの出来不出来に関係なく、いつでも人気のある教員に授業が選ばれるという事態になってしまいます。そしてそこには、授業そのものではなく、その教員の、年齢や性別、外見など、授業と関係のない要素が大きく影響している可能性が高いのです。
 さらに、『踏み込んだ教えに触れたい人には、誰にでも分かりやすい法話が物足りなかった』という指摘も、授業評価にも当てはまる問題点です。私が「指導力不足教員研修」を担当していたとき、算数の観察授業で、とても簡単な内容、ごく僅かな学習量で授業をする教員がいました。授業時間のほとんどが既習事項の復習にあたるもので、子供は盛んに手を挙げて答えますし、与えられた問題もどんどん解いていきます。教員は「よくできましたね」と笑顔で褒めることを繰り返すという授業でした。
 授業後の子供に書かせた自己評価表には、「先生の話す内容が理解できた」「先生に褒めてもらえた」などの項目に多くの○がつき、教員は「授業は成功だった」と自己採点していました。とんでもない話です。しかし、授業で取り扱う内容を簡単且つ少量にすれば、多くの子供に「できた」という気持ちをもたせやすいという側面があるのは事実ですし、そうした授業では、理解力の高い少数の子供には不満が残るというのも事実です。
 要するに、「もう一度授業を受けたい教員」という基準では、授業評価はできないということです。
 
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よくある光景、あってはならない光景

2019-07-14 07:30:55 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「どんなイメージ?」7月8日
 川柳欄に、横浜市のおっぺす氏の『聴いてない生徒に講義師の修行』という句が掲載されていました。何となく分かるような気がします。選者も詠まれている情景が浮かんだからこそ、この句を選んだのでしょう。
 私なりに情景描写をすると、「教員が授業中一生懸命に説明しているが、ほとんどの生徒は聴こうとせず、私語や居眠り、漫画を読んだり、ボーッとしていたりしている。どうせ注意しても、一瞬静かになるだけですぐに元の木阿弥。聴かせることを諦めた教員は、それでも授業の途中で教員室に戻るわけにもいかず、ただ機械的に講義ノートに書かれた内容を話すだけで、チャイムが鳴るのを待っている」ということになります。
 そしておっぺす氏は、こんな状況にある教員に同情しているのでしょう。あるいはそこには、生徒たちの行動を非難する気分も含まれているのかもしれません。さらに、「修行」という言葉には、こんな辛い経験も、将来何かの役に立つときがあると慰め、励ます意味が込められているのだと思います。
 私も教委に勤務する前に長年教員をしてきました。でも、こんな経験は一度もありません。それは、小学校だから中高のように反抗的な子供はいなかったということではなく、私が授業の上手い教員だったということでもありません。実際には、一生懸命に授業をしているのに、子供たちが思うような反応を示してくれないことの繰り返しで、満足のいく授業など、1%もありませんでした。
 ただ、おっぺす氏が描く教員と違うのは、ただ時間が過ぎてチャイムが鳴るのを待つ、という「悟り」の境地になることがなかったということです。あるときは怒りました。声を荒らげたこともありました。机を叩いて脅したことさえあったのです。若いころはそんな姿を見せてしまうことが多かったように思います。
 また、一斉に説明するのをやめ、個別学習に切り替え、机間指導に切り替えることもありました。理解できていない子供に一人一人やりとりをしながら話せば、こちらの意図が浸透していくと考えたのです。なかなかうまくはいきませんでしたが。
 あるいは、大きな絵や写真、映像など、子供たちが興味をもちやすいと思われる資料を提示することで注目を集めようとしたこともありました。こうしたケースでは、あらかじめ子供たちが興味をもてなくなる時間帯があることを予測し準備していたわけです。予測準備ができるということは、少しは教員として成長していたのかもしれません。
 さらに、最初から、体験活動を組み込むこともありました。昔の道具を実際に使わせたり、自動車の分解をさせたりするのです。外部の方を呼んで生々しい話を聞かせてもらうという工夫もしました。子供というものを少し理解できるようになり、騒がしく集中しないのは子供が悪いのではなく、自分が未熟なのだと考えようとする姿勢が身についてきつつあったような気がします。
 経験を積むにしたがって、授業中、教員である私が話す時間が減り、子供が発表したり、子供が作業したり、子供同士が話し合ったり、まとめの作品づくりをしたりする時間が増えていきました。まだまだ「授業の上手い教員」の域には達しませんでしたが、授業とは教員が説明し、指示し、命令することではなく、子供が考えたり刺激し合ったりして主役になるものだと思うようになっていきました。あくまでも現実ではなく、理想でしたが。
 多くの教員が、私のような発達段階を経て、教員として成長していくのだと思います。おっぺす氏が描く教員は初心者中の初心者教員なのだと思います。もし、3年も4年も経っていながら、おっぺす氏の句に登場するような状況にある教員がいたら、その人は転職を考えた方がいいと思います。子供を放置し時間が過ぎるのを待っているのは、教員としての使命感も向上心もない給料泥棒なのですから。授業は講義ではないのですから。
 
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そうなったら少し寂しい

2019-07-13 07:43:55 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「教員と社会人」7月5日
 客員編集委員近藤勝重氏が、『「芸人」と「社会人」』という標題でコラムを書かれていました。闇営業問題など、芸人の不祥事が次々と明るみに出る最近の風潮を踏まえた内容です。その中で近藤氏は、『横山やすしさんなどは「社会人って、ワシら常識からズレてるから芸人なんや」と言ってはばからなかった』という過去の事例を挙げながら、そんな言い分が通用しないように時代が変化していることを指摘なさっています。芸人であるとともに良識ある社会人であることを求められる世の中になっているということです。
 ただ、『これからは一般社会でも仕事ができそうな芸人がリードするのでは、の声も聞くが、一方でお笑い芸人が世間的に収まっては、の声もないではない』とも書かれ、芸人がすっぽりと典型的な社会人の範疇に入ってしまっては、その特徴、存在意義まで失ってしまうのではという懸念も表明なさっています。難しい問題です。
 公立学校の教員もまた、善良な社会人であることが前提です。だからこそ、ドラマの中に登場する破天荒な教員は、実際には存在を許されないのです。いくら教え子と深い信頼関係にあろうが、ビンタをすれば体罰を理由に処分され、悩みを抱え雨の中泣きながら教員の自宅を尋ねてきた教え子を、保護者や管理職に無断で泊めてやれば、信用失墜行為として咎められるのです。
 経済的に苦しい家庭の教え子の家にコンビニの弁当を買って夜の8時に訪ねる行為も、星に興味をもっている教え子を休日に自宅に呼んで天体望遠鏡で星を観察させてやる親切も、音楽に興味をもっている教え子に自分が学生時代に使っていたクラリネットをただであげることも、職務上教員はすべての子供に対して公平であるべき、という社会常識からみて、問題ある行動とされるのです。それでよいのです。私が教委勤務時に、こうした事案に直面すれば、やはり注意なり指導なり処分の対象とするでしょう。
 とはいえ、教員という人間たちが自然にもってしまう、ある種の偏りのある特性、それは目の前の子供のためになるなら、その子供が笑顔を見せてくれるなら、つい公平性の基準を踏み外してでも何とかしてあげたいと考える習癖、そんなものが完全になくなってしまったとき、今よりも良い学校になっているかと聞かれれば、自信をもってそうとは言い切れないような気もするのです。
 私は、冷たい教員でした。教委の幹部としても、法令を頑なに守ろうとするタイプでした。指導主事の後輩からは、彼が泥酔したとき、鉄仮面と言われたものです。血が通っていない建前だけの人間というような意味だったのでしょう。間違いなく彼の本音だったはずです。
 コストや効率、数値目標、達成率、性悪説、契約の概念、普通の民間企業のサラリーマンならば常識として身についている感覚について、多くの教員は違和感を感じ、消極的な拒絶反応を示します。私はそうした教員気質を非難する立場で仕事をしてきました。私はそんな人間ですが、それでもどこかに、教員臭さのようなものが残っているのを自覚しています。
 世間とはどこかずれているがゆえに、良い教員として慕われる、そんな面もあるのかもしれません。どうなのでしょうか。

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それは中間管理職

2019-07-12 07:17:28 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「リーダー」7月5日
 コラムニストのジェーン・スー氏が回答者を務める人生相談欄に、中学生からの相談が寄せられていました。『リーダーの「あり方」とは』という見出しがつけられた相談の内容は、『私はリーダー的な位置に立ちたいタイプで、学級委員も務めています(略)先生に「成功する人は、人をうまく使える人だ」と言われ、自分のあり方に疑問を持ち始めました~』というものです。
 スー氏の回答は、『自分で考えるヒントをくださる先生と出会えて幸運』『あとは、周囲の人の個性に合った分かりやすい指示の出し方を学ぶだけ』『「どうすれば相手が喜んで気持ちよく行動するか」をおもんぱかる力を今から付けておく』といった内容でした。
 私は最初、特に引っかかることもなく読み過ごしました。よくある悩みであり、スー氏の回答も平凡ですが的を射たものだと思ったからです。しかし、何となく気になってもう一度読み返してみて、「先生」のヒント、スー氏の言葉に共通する問題点に気付かされました。私、「先生」、スー氏は日本人の大人です。ですから、3者が思い描くリーダー像は似ているのです。似ているからこそ、スー氏は「先生」のヒントを肯定的に評価し、私は先生とスー氏のもつリーダー像を前提に語られる結論をすんなりと受け入れ抵抗を覚えなかったのです。
 そのリーダー像において重視されているのは人を動かす力です。しかし、よく考えれば分かることですが、リーダーには、人を動かす前にもっと大事なことがあるのです。それは、正しい目的を明確に掲げてその意義を周囲の人に理解させることです。もし、他者から目的を与えられ、その目的に従って効率的に、円滑に、人を、組織を動かすとすれば、それはリーダーというよりも中間管理職やサブリーダーというイメージの方が相応しいでしょう。
 最近、独創性をもって時代を切り開く人材が求められているようです。シリコンバレーで働く人、GAFAのような先端企業で働く人などは、そうした人材であるといわれています。そして、そのためには受験秀才のような知識だけ豊富な人ではダメだともいわれています。受験秀才は、前例踏襲の発想で、与えられた課題をそつなくこなす官僚などには向いているが、これからは自分で課題を見つけていくような人材が必要なのだという考え方です。言い換えれば、自分で課題を発見し、目的を掲げてプロジェクトを立ち上げて引っ張っていくリーダーシップです。
 しかし、「先生」も、私もそうであるように、我が国の学校で育てるリーダーシップは、子供自らが目的を掲げる形のものではなく、学校が、教員が目的を決め、それを子供に与え、子供の中の疑似リーダーが教員の期待に添って子供たちの間を調整するという形なのです。私も、「先生」も、そしておそらく学校で日本式リーダーシップを培われてきたスー氏も、無意識のうちに、リーダー=調整者としてしまっていたのではないでしょうか。 学校における特別活動は、子供たちの主体性を重視することになっています。しかし、あくまでそれは「建前」止まりなのではないでしょうか。私は、学校が人材を育成するためにあるという考え方には反対の立場ですが、我が国や社会が真のリーダーシップを持った人材を必要としていることについては異論はありません。お仕着せの与えられたリーダーシップではない真のリーダーシップの基盤を学校で培うには、自ら目的設定することができるリーダーを育成するには、と考えてみることは意味あることだと思います。
 
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