オピニオングループ小国綾子氏が、『合唱指揮者という生き方』という表題でコラムを書かれていました。その中で小国氏は、『合唱指揮の第一人者である清水敬一』氏を取り上げていらっしゃいました。そして同氏の著作に書かれた作曲家三善晃氏に関するエピソードを紹介なさっています。
『三善さんは、素晴らしく精密な演奏をする中高生の合唱団の演奏を聞いたあと、こう語りかけたという。「皆さんが美しい声で歌うだけではだめなのです。音楽は、皆さんが演奏した音の中で、聴いている人たちが、生きられなければならないのです」その場に居合わせた当時、まだ23歳の清水さん。相手が中高生でも容赦なく本質に切り込む姿勢に驚きつつ、何十年もこの言葉を胸にあたため続けてきた。そして還暦を迎えた今、<(この言葉は)音楽科として生きていく私の、これからを磨き続けてくれる大切な路標です>』
うーん、正直なところ、カラオケでがなり立てる以外、音楽に対する思い入れのない私には、三善氏の言葉の意味はよく分かりません。何となく「いいこと」を言っているような気はするのですが。多くの中高生もそうなのではないかという気がしてなりません。もちろん、「素晴らしく精密な演奏」をする中高生ですから、一般の平均的な中高生とは違い、音楽に対するその理解度、共感度は多少高いのでしょうが、それでも全員が理解できたとは思えません。
そして三善氏の言葉を「胸にあたため続けてきた」清水氏は、当時23歳という音楽の道を歩もうとしていた立派な大人であり、その後「合唱指揮の第一人者」となる逸材です。栴檀は双葉より芳し、と言いますが、23歳の当時、既に音楽というものに対して一流の感性をおもちであったことは間違いありません。つまり、「特別な人」です。
なぜ、こんな分かり切ったことを書いているかというと、三善氏の言葉は、中高生を指導する者の言葉として適切なものであったのか、という問題意識をもっているからです。より明確に言えば、もし三善氏が中高生を教える音楽教員だとしたとき、紹介されている言葉は、適切な指導助言とは言えないということです。
小国氏は、三善氏と清水氏の間で世代を超えて響きあった言葉として、三善氏の言葉を評価しているように思えるのですが、そして私もそのことを否定はしないのですが、指導する者とされる者との間で交わされる言葉としては、抽象的且つ個人の思い入れが強すぎる表現だと思います。
私は、高校まで実質的に義務教育化している現状において、高校以下の学校教育は、平均的な凡人を想定して行われるべきだと考えます。そこでは、ごく一部の才能や資質に溢れた生徒に感銘を与えることよりも、平凡な生徒群に分かりやすく受け入れやすいことを、平易な表現で伝えることが最優先されなければなりません。それが、求められる教員の資質だと考えています。そのことをクリアした上で、一部のスーパー生徒に響く言葉も発することができるのであれば、それは言うまでもなく最高の教員です。でも、一般の教員はそんな高みを目指す必要はないのです。