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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

選ばれし50人

2015-12-11 06:51:59 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「選ばれし50人?」12月4日
 『「編集会議」に教員50人』という見出しの記事が掲載されました。教科書会社の三省堂が、教員に現金を渡して採択を有利に運ぼうとしていたという疑惑について報じる記事です。記事によると、『「三省堂」が「編集会議」の名目で小中学校の教員に検定中の教科書を閲覧させて現金を渡していた問題で、同様の会議は2009年度以降計7回開かれ、参加した教員は全国で約50人に上ることが同社の内部調査で分かった』ということです。
 さらに記事は、14年度の状況について、『都内のホテルで、青森や大阪、福岡など11の府県から公立小中学校の校長や教頭ら11人を招集。「編集手当」として現金5万円を渡し、会議後の懇親会費や宿泊費、交通費も負担していた』と生々しく報じています。
 またか、という思いです。教科書の採択時期を迎えるたびに、こうした不祥事が発覚します。教科書会社にしてみれば、採択の有無によってその後4年間の「儲け」が左右されるのですから、動機は常にあります。そうした意味では驚きはありません。一方、自分のキャリアが傷つき、何らかの処分が避けられないいもかかわらず、「5万円」と引き換えに危ない橋を渡ろうとする教員側の無自覚さ、無警戒が不思議でならないと感じる人は少なくないと思います。誰しもカネは欲しいですが、「5万円」に目が眩むほど、校長や教頭の給料は低くはありませんから。
 実はこの問題には、教員にしか分からない「名誉」の発想が影響しているのです。私は、教員は教えることのプロ、授業の専門家である、と主張し続けてきました。プロとして専門家としての技量や知見を認められ評価されることは、教員にとって大きな喜びであり、自尊心を満足させるものなのです。しかし、そうした評価が行われる場所は案外少ないのです。保護者や子供からの評価も嬉しいものですが、そこには相性や運という要素があり、素人による評価だという面もあります。やはり、専門家からの評価が欲しくなるのです。
 私自身の経験でいえば、社会科の実践家、研究家として多少は認められるようになったのは、都の教育研究員に任命されたときでした。そのときの晴がましい思いは今も覚えています。研究員に任命されるまで、区の教育研究会で何回も研究提案をし、全国規模の研究団体の研究論文集に論文を掲載されるなどの実績を重ねていたことが評価されたという気がしたものです。
 さらに、都教委の開発委員を務め、全国研究大会の基調提案についての作成者の一人になり、研究所に配属されて研究生として研究を進めるなど研究家としてのキャリアを重ねました。そうした研究歴に箔をつけるのが、教科書の著者になることです。しかしこれは、一つの教科において全国で10数人しかいません。とてつもない「難関」だからこそ、その教科のトップクラスの研究家としての証明になるのです。
 私程度の能力では、遠すぎる頂上でした。しかし、教科書の指導書の作成者やアドバイザー的なポジションであれば、無理ではありません。実際、私もそうした仕事をしてきました。それもまた「名誉」の一つであり、自尊心を満足させることでした。
 すべて、20年以上昔の話です。今では、いわゆる「癒着」はほとんどありません。しかし、当時の私がもっていた「虚栄心」ともいえる心情は、今も研究熱心で実践家としての自負がある教員の心の底にあるはずです。それは、授業を行わない管理職になっても変わりません。教員の世界は、法や経営の手腕に優れた管理職よりも教員として卓越した管理職を尊敬する風潮が残っているからです。
 今回の50人の中にも、自分は教科書会社がわざわざ意見を聞きたがるほどの専門性の持ち主なのだという思いから「編集会議」への参加を決めた人がいるはずです。この問題の根は深いのです。

 

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指摘、確認、評価、指導

2015-12-10 07:33:38 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「指摘、確認、評価、指導」12月3日
 須田桃子記者が、『批判あっての科学』という表題でコラムを書かれていました。その中で須田氏は、研究倫理についての公開討論会の様子を紹介しています。『若手の中には、実験データやその解釈について指導者から批判されると、自分の人格を否定されたように感じてしまう人が多い』という指摘があり、それについて須田氏は、『科学的な議論で批判を受けるたびに傷ついていたら、その人の身がもたないし、言う方も遠慮してしまう。批判を避けていれば、思い込みや間違いにも気付きにくい。若手の研究者にとっては、自らの成長の機会を失うことにもなってしまう』という懸念を感じていらっしゃいました。
 この批判=人格否定という短絡性は、学校でも見ることができます。子供同士、教員と子供、ベテラン教員と若手教員、管理職と教員など、あらゆる場面で目にすることができます。そしてそれは、須田氏が懸念するように、人間関係を悪化させ、正しい成長や望ましい軌道修正の機会を損なうことにつながってしまいます。
 原因は大きく分けて2つあります。批判をする側の伝達の拙さ、受け手側の理解力の乏しさ、です。しかし、子供同士の場合を除けば、批判を伝える側は比較上位者であり、その責任の多くは、批判する側の問題としてとらえることが解決の糸口になります。なお、ここまで、「批判」という言葉を使ってきましたが、より正確には「評価」という用語が適切だと考えます。称賛=人格の肯定という受け取り方も、また間違いだからです。
 さらに、教員が、正しい「評価伝達力」をもち、子供に適切に「評価」を伝えることを繰り返していけば、子供は無意識のうちに、「評価」と人格を切り離して考える姿勢が身についていくことになり、子供同士の関係も好転していくことになるはずです。
 では、教員、特にベテランや管理職はどのようにすればよいのか、というと、そればタイトルに掲げた「指摘、確認、評価、指導」という一連の流れなのです。まず、問題である、改善の必要があると感じた言動を具体的に「指摘」するのです。
 具体的に、学年主任が、若い教員の受け持ちの子供に対する指導の仕方についてアドバイスするという設定で考えてみます。「君は今日の昼休みに、窓ガラスを割ったAさんを職員室に呼んで~」というように、「指摘」するのです。次に、「指摘」した内容について、「僕にはそういう風に見えたんだけど間違いないよね」と「確認」するのです。ここで、両社が共通した事実認識の上で話すことが可能になります。
 そして、「君が教員として、小さなこともいい加減に対応するのではなく、きちんと、しかもすぐに指導しようとした姿勢はとても良いと思うよ。ただ、Aさんのした行為は確かに良くないが、他の教員が大勢いる場所で話すというのはどうだろうか。もし、私が今君に話しているのを、校長や副校長がいる職員室でやったとしたら君は恥をかかされたという気持ちにならないかな」と「評価」するのです。
 そして最後に、「Aさんを教育相談室に呼び、頭ごなしに叱るのではなく、Aさんの存在自体は君にとって大切であることを理解させたうえで、今回の窓ガラスを割ったという行為についてだけ~」とあるべき姿を指導するのです。
 須田氏は、批判=人格否定という考え方を我が国の文化というとらえ方をしているようですが、そうした文化を助長してきたのは、叱り下手な学校教育にも原因があるのです。

 

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共通点

2015-12-09 07:28:09 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「最高の教材」12月3日
 神保忠弘記者が、『プロ野球 巨人賭博問題 再発防止に「ざんげ録」を』という表題でコラムを書かれていました。その中で神保氏は、『3選手の更生プログラムの一環として、自分たちがわなにはまり、球界を追われるに至った一部始終を、手記にまとめさせ~(中略)~軽率な行動で野球選手としての未来を失った3人によるさんげ録は、どんな講習にも勝るリアリズムで選手たちに迫る、最高の教材になると思う』と書かれています。
 このコラムを読み、私は一瞬、神保氏は、私のブログを読んだのだろうか、という思いにとらわれました。もちろん、第一線の記者として多忙な神保氏が私のブログを読んでいることなどあり得ないのですが、あまりにも共通点があるので、そう感じたわけです。
 私は、都教委で教員対象の『服務事故再発防止研修』を直接の責任者として担当していました。『同世代の一般の若者と比べても社会経験が圧倒的に少ない者が多い』とされる野球選手と「学校の常識は世間の非常識」といわれる(私はそうは思わないが)教員、どちらも「再発防止」、似ています。さらに、私はこのブログで、再発防止研修に携わった指導主事が処分を受けた教員との質疑応答や指導を通して把握した、服務事故発生に至る詳細な経緯、そのときの精神状態、やってしまった後の心理、服務事故後の保護者やメディアとの対応、そこで感じたこと、処分を終えて思うことなどを資料化し、教員研修で活用すべきと述べてきました。神保氏の「ざんげ録」の発想と似ています。
 私がこうした発想をもつに至ったのは、処分された多くの教員と接する中で、彼らのほとんどが、それまでに受けてきた服務規律遵守に関する研修や管理職の指導について、「自分とは関係のない、特殊な教員の話」として聞き流していたという事実を再確認させられたからでした。ここでも神保氏と共通します。神保氏は、『新人選手研修などで野球賭博の危険性を再三、説いてきた。にもかかわらず事件は起きた。何が足りなかったのか。カギは「リアリズム」だと思う』と書かれています。つまり、熱心に説かれている内容は、他人事としてしか受け止めてもらえなかったということです。
 処分を受けた者にもプライバシーはあります。個人が特定される形での記録作成は難しいのが実情です。しかし、伝えたい趣旨に変更がない範囲で、状況や細部を変えて作成することは可能なはずです。豊富な事例を情報として保管している教委には、再度、リアリズムのある資料作りに取り組んでほしいものです。拙著「教員改革」が参考になれば幸いです。

 

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とらえた後は

2015-12-08 07:17:48 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「とらえた後は…」12月2日
 『小学生の暴力 社会問題ととらえよう』という表題の社説が掲載されました。そこでは、『教師が蹴られ続けたり、登校途中に注意した通行人に暴行したりした』という具体例や『06年度と比べると、1年生が5倍、2年生が4.3倍に上がっている』という低学年での暴力行為の急増という実態が示されています。
 こうした状況について、『文科省は「就学前に家庭でのしつけができていない」面などを挙げ、専門家は今の子供たちの抱えるストレスの大きさを指摘する』のだそうです。そして社説は、『「子供の問題」というより、子供が負わされた「社会問題」というべき』という主張へと展開していきます。
 正直、イライラします。私は「社会問題」というよりも「家庭の問題」と考えていますが、家庭の貧困や格差がその背景にあると考えれば、「社会問題」でもあるので、そのこと自体にはさほど拘りません。ただ、「社会問題」ととらえるとして、だからこうしようという話になっていないことが、イライラの原因です。
 認識しただけで何も対応がとられない間、教員だけは確実に負担を増大させていくのです。直接的な被害だけでなく、その子供の保護者への対応があります。こうした子供の保護者の大部分は、学校でのことは学校で解決してくれというスタンスであり、勤務時間外に何回も家庭訪問しても会うことさえできなかったり、会っても怒鳴られるだけだったりするのです。また。その子供が怪我をさせた子供の保護者への対応も重荷です。管理不足を責められ、「加害者を強制的に施設に入れろ」とか「教員を一人専属で加害者に付けろ」などといった実現不可能な対策を求められ苦しむのです。被害者の子供が不登校にでもなれば、その対応という重荷も加わってきます。
 授業中は、その子供への対応に時間と労力を奪われ、授業が遅れがちになり、そのことでまた保護者からの苦情にさらされることになります。そうした状況が続けば、子供たちも教員を「この先生だめなんじゃないの」という不信の目で見るようになり、そうなれば学級崩壊は確実です。しかもそうした苦労の後にくるのが、「指導力不足」という評価と周囲の目では、教職を続ける意欲さえなくなってしまいます。
  社会問題ととらえようが、私のように家庭問題ととらえようが、そんなことで教員の負担は何一つ軽減されません。クラスの子供が他の子供の髪を抜けるほど引っ張り、給食の牛乳瓶を投げつけて怪我をさせても、「社会問題ですから」と放置しておくわけにはいかないのですから。
 大新聞の社説であれば、何らかの解決策、せめてその方向性くらい示唆してほしいものだと思いました。私は、出席停止処分の活用、警察や関係施設の介入強化の2つはすぐにも実現すべきですし、実態を知らず理想的な人権論を振りかざす「人権屋」への反論を良識あるメディアに期待したいのですが。

 

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認められないはず

2015-12-07 07:25:37 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「サボっている?」12月1日
 記者の小國綾子氏が、『息抜き、できてますか』という表題で特集記事を書かれていました。その中で小國氏は、『息抜きとサボることとは違います。適度な息抜きはむしろ仕事の効率を高めます』という専門家の言葉を紹介し、職場での効果的な息抜き法として、『10分ほど自席を離れられるなら自然の音や癒し系の音楽の入ったCDを聞いて瞑想する手も。「最近人気なのは「涙活」。動画投稿サイトには数分で泣けると銘打った動画が大量に投稿されています』としています。
 私は、息抜きの下手な人間でした。法や規則を厳密に適用したがる癖があり、勤務時間内は職務に専念すべきであり、それ以外の行為は望ましくないという考えだったのです。ちなみに、教員を含む公務員には、職務専念義務が法で定められており、その趣旨を「きちんと」解釈したものです。
 ですから、休み時間に同僚の教員が、職員室で一服するのを見て、眉を顰めていたものでした。しかし、私自身が平均的な人からずれた意識過剰人間だとしても、一般の人はどうなのでしょうか。あなたが保護者として、あるいは地域の市民として学校を訪れた際に、煙草を吹かす教員、職員室の隅でストレッチをしている教員、目を閉じてCDに聞き入っている教員の姿を目にしたとき、「先生方は、うまく息抜きをして、この後の授業に良い状態で臨めるよう工夫しているのだな」と好意的に評価することができるでしょうか。
 私の経験では、多くの方が、「教員はのんきでいいなぁ」「こんなことをしていて子供から目を離していていいのか。もし事故があったらどうするつもりだ」などと考えるような気がします。実際、教委勤務時代には、毎年数件ですが、こうした趣旨の苦情電話を受けたものでした。
 特集記事では、息抜きの下手な人の特徴として、『自分より相手の事情を優先し、気遣いのある人』が挙げられていました。教員の仕事はまさしくこれに当てはまります。元々我が儘な私でさえ、教員を続けるうちに「まずは子供」という意識に染まっていったものです。つまり、教職こそ、息抜き名人にならなければならない職業なのです。しかし実際は、10分間も子供を忘れていることは難しいですし、本来職務専念義務が適用されない休憩や休息時間でさえ、「休む」ことはしにくく、教員自身が「休んでいる」自分に罪悪感を抱いてしまうのが現状なのです。実際、休憩時間に訪ねてきた保護者を待たせておいてお茶を飲むなんてことをしたら、非難囂々でしょうから。
 今月から、企業におけるストレスチェック制度が始まりましたが、教員に対するストレス対策は、教員を見る世間の目を変えるところから始める必要があると思います。

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専門家は勝てない

2015-12-06 08:04:22 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「勝てない」12月1日
 エコノミストの吉崎達彦氏が、『経済学と庶民感覚』という表題でコラムを書かれていました。その中で吉崎氏は、『自分が専門家の立場にあるときに、世論を説得できないのは何とも歯がゆいものだ』と書かれています。これは、「軽減税率」について、エコノミストで賛成している人は皆無であるにもかかわらず、世論調査では、常に賛成が多いという状況を嘆いたものですが、あらゆる分野において、同じ現象が見られるはずです。
 学校教育についてはどうでしょうか。例えば、小学校における英語教育です。実際に英語教育に携わったことがない様々な立場の専門家が賛否について意見を交わし、決着をつけたのは、世論でした。その世論を分析すれば、すでに他の地域において英語教育を取り入れているのに我が子の学校では英語教育をしていないのでは将来不利になる、というものでした。つまり、私利に基づく主張です。
 ちなみに、私が教委の指導室長をしていたとき、中学校の英語教員全員を対象に行ったアンケートでは、「英語専科のいない小学校で中途半端な英語教育を行うことはマイナスの効果しかない」という意見が最も多かったものです。私はこの「英語教育の専門家」の見解を基に慎重な姿勢を示しましたが、議会では一顧だにされませんでした。
 義務教育における学校選択制、民間人の積極的登用、教育行政における首長の権限拡大、道徳教科化などの諸改革についても、現場を知る専門家の見解を丁寧に聞き取ることなく、一方的な「宣伝」で世論を誘導し、その世論を根拠に、スピード感ある改革の旗印の下、進められてきているように感じられます。
 吉崎氏は、『経済学は庶民感覚に勝てない』と述べていらっしゃいますが、経済学は、まだしも独立した学問としての地位を認識されていますが、教育においては、教育史学、教育財政学、教育行政学、教育心理学、教科教育学など、どの問題については誰が本当の専門家なのか分からない状態が続いています。
 私は、あらゆる分野において、専門家の知見を尊重すべきという立場です。学校教育においても、目の前の問題について「専門家」は誰なのか、まずそこから議論をすべきであると思います。

 

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バスの行方

2015-12-05 07:12:54 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「バスはどこに」12月1日
 専門編集委員の玉木研二氏が、『期待は世につれ』という表題でコラムを書かれていました。その中で玉木氏は、文部科学省の学習指導要領作成や都教委の改革案などを分析し、『今教育界はとても忙しいらしい。バスに乗り遅れるな、という感じである。子供や若者たちにかかる期待、いかばかりかと思うが、「グローバル」という呪文のような言葉にいささか振り回されてはいないか』と述べていらっしゃいます。
 そして今から50年前、の『期待される人間像』を引き合いに出し、その内容を覚えている人がほとんどいないことから、「期待」を性急に実現させようと教育内容や制度をいじくり回すことに疑問を呈していらっしゃいます。私も同じ危惧を感じていました。
 今回の「期待」の特徴として、それが社会全体の要請というよりも、経済的な側面からだけ行われていることがあげられます。玉木氏も指摘しているように、『グローバル市場での熾烈な競争』『国内・地域市場での新陳代謝をいかに促し、活性化させるか』というような、学習指導要領についての文部科学省の説明がそれを象徴しています。
 実はこうした動きは今回が初めてではありません。昭和31年には、当時の日経連が、「新時代の要請に対応する技術教育に関する意見」を発表し、義務教育における理科教育の推進を求めています。60年も前の話です。その後もこうした「要請」は続き、平成7年には、経済同友会が「学校から合校へ」と題する提言を出し、日経連も「新時代に挑戦する大学教育と企業の対応」という提言を発表します。そこには「グローバリズムに対応できる人材」の育成が掲げられ、20年間、相変わらず似たような主張が繰り返されていることに、苦笑してしまうほどです。
 しかし、20年前の提言と同じ内容が今回もなされているということは、文部科学省が企業側の言いなりにはなってこなかった、ということをも意味します。この間、ほとんどが自民党政権であり、自民党と経済界が蜜月関係にあったことを考えれば、「異常」な状態だと言えます。もちろん、予算や法律、制度上の制限があり、改革したくてもできなかった側面はありますが、文部科学省の専門家としての矜持と、経済に教育を従属させるかのような発想に疑問を示す教育界の意向も反映していたはずです。
 しかし、現在の安倍1強の情勢下では、今までのようなブレーキ役は存在しません。今度の改革は、経済界の思惑を100%反映したものになる可能性が高いように思われます。だからこそ、玉木氏と同じ発想で、教育というバスの行方に注意を払っていく必要があると思います。学校が企業の人材育成の下請け機関となってはならないはずですから。

 

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教員にとっての男の子

2015-12-04 07:32:24 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「聞いたことがない」11月30日
 『悩む母親に「男の子」本』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『服のポケットを探ると虫や石が出てくる。「ダメ!」と注意したことをやる-。男の子の行動を「理解できない」と悩む母親も多い。近年、「男の子の育て方」に関する本が相次いで発刊されている』のだそうです。
 この記事を読んで、最初は「へえー」と思いました。そんなことがあるんだ、という感じでした。その後、自分は男なので、男の子の行動に違和感を覚えないけれども、異性である母親から見ると、分からないこともあるんだろうと、納得した気になりました。しかし、もう少し考えてみると、おかしなことに気が付きました。
 私が小学校の教員だったとき、男児の指導に気を遣わされた記憶はほとんどありません。高学年を担任することが多かった私は、女児への接し方に細心の注意を払っていたものでした。人間関係のトラブルは圧倒的に女児間で多かったですし、教員の些細な言動を「贔屓している」「○○さんばかり~」と非難するのも女児が多かったものでした。
 これだけなら、異性の私には女児の理解が難しかった、ということになりそうですが、実際には、同僚の女性教員もほとんどが、「難しいのは女児」と言っていました。同性間であっても、女児理解の方が大変だという認識だったのです。
 私が小学校教員をしていた時代と今とでは、子供が変わったのでしょうか。もちろん、多少の変化はあるでしょうが、本質的な部分に大きな変化があったとは考えられません。では、記事でいう「男の子」は、小学生ではない子供を指しているのでしょうか。しかし、専門家としてコメントを寄せている東京学芸大教授の小笠原恵氏は、中3の息子さんについて述べていらっしゃいますから、幼児に限った話ではないようです。
 もう一つ考えられるのは、親と教員とでは、見せる顔が違うということです。しかし、ギャングエージの子供、特に女児よりも精神年齢が幼いといわれるこの時期の男児が、意図的にそんな使い分けができるとは思えません。ただ、無意識のうちに使い分けをしている可能性はあると思います。
 少子化で、家庭の中で唯一の子供であるケースは珍しくありませんし、兄弟がいても男児は自分だけというケースを含めれば、多くの男児は、特別な存在として家庭の居場所を確保しているといえるでしょう。一方、学校では、その他大勢の一人です。
 教員が書く「男の子本」も見てみたいものです。

 

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構想力が問われるクロスオーバー

2015-12-03 07:34:49 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「クロスオーバー」11月29日
 書評欄に『星亮一、一坂太郎著「大河ドラマと日本人」』についての磯田道史氏による書評が掲載されました。その中で磯田氏は、『NHKの大河ドラマのほうが、学校の歴史教科書よりも、日本人の歴史観を形成するうえでの影響力が強いかもしれない』と書かれていました。
 同感です。単なる作りごとのドラマであるにもかかわらず、歴史好きの私の義父は、「水戸黄門と違って嘘の作り事じゃないから」と言って、欠かさずに見ていましたから。それよりも思い出すのは、私の教職の理想像、社会科教員としての目標であった目賀田八郎氏のことです。目賀田先生は、今年ご逝去されてしまいました。もう二度と先生のご指導を受けられないのかと思うと、その悲しみで胸が一杯になります。
 そんな目賀田先生が、大河ドラマを取り入れた社会科学習を実践されていたことがありました。私の記憶では、昭和53年か55年、いずれであったはずです。先生は、通常の小学校6年生の「歴史の授業」と並行する形で、週1回の大河ドラマの視聴を「宿題」とし、コラムのような形で触れ、補足説明をしたり、子供にはちょっとだけ難しい関連本を提示したり、感想を発表させたり、疑問点を整理させたりするやり方で、我が国の歴史への興味関心を高めていきました。
 もちろん、史実とそうでない演出の確認はきちんとなされていましたが、「作り事」の面白さも100%否定はせず、演出から史実を考えさせる工夫もなさっていました。当時すでに教員として社会科研究の道に踏み出していた私は、実際の授業を見ることはできず、毎月の勉強会に提示される資料からその展開を把握するだけでしたが、目賀田先生の構想力のすごさに圧倒されたものでした。それは、単に別仕立てで2つの授業をするというのではなく、本線として今学習している平安時代における歴史事象の見方・考え方とドラマで描かれる江戸時代における歴史的な見方・考え方が相互乗り入れするような、スケールの大きなものだったのです。
 この書評を目にして、私は過去の資料やファイルをひっくり返してみたのですが、当時目賀田先生が配布された資料を見つけ出すことはできませんでした。今思えば、それは現代の若い教員たちに、動的な歴史の授業について鮮明なイメージを与えることができる貴重な遺産であったのです。失ってその重要性に気づかされる、そんな実践記録でした。
 大河ドラマと授業、これは中高では考えられないことです。通史の歴史を学ぶのではなく、我が国の歴史について、人物と文化遺産を中心に時代の一断面を切り取り、その時代を1枚の絵図のようにイメージ化させ、歴史を学ぶことへの興味関心を高めることをねらいとする小学校でしかできない実践です。誰か挑戦してみる若い手教員はいないものでしょうか。

 

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促成栽培

2015-12-02 07:26:33 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「私立に対抗?」11月27日
 『中高一貫で理数教育』という見出しの記事が掲載されました。都教委が公表した都立高校改革実施計画案について報じる記事です。その中に『一部で6年間を見通した系統的な理数教育に取り組む』『医学部進学希望者がチームをつくり、放課後に医療機関を見学』という記述がありました。
 我が国では、中高一貫校といえば、私立校が長年その形をとってきました。公立校批判が強まるのに合わせ、私立校の方が優れた教育実践をしているというような論調が強まり、公立側が私立のよい面を取り入れるという発想の一つの表れが、公立中高一貫校設置という側面がありました。
 3年間という短い区切りではなく、6年間という長いスパンで柔軟性のある教育課程を組むということです。しかし、今回の改革案は、あえて私立校とは違う道を歩もうとしているように思えます。私立の名門校といわれる学校では、早期の選別は行わないところが大部分です。将来のエリートに求められるのは、広範な「知」に裏付けられたゼネラリスト的素養であるという発想があり、麻布でも桜陰でも、理数系に偏るというようなカリキュラムはとっていません。まして医学部という特定学部をターゲットにした教育を売りにするところはありません(受験に際するコース分けはありますが)。
 詳細は今後明確にされていくでしょうが、早期からのスペシャリスト育成に重きを置いている印象がします。それでよいのでしょうか。幅広い教養は軽視されてしまうのでしょうか。
 その他にも、『不足する介護・保育分野の人材を育成する専門高校』『英語教育で人気の国際高校は2校目を設置』などの方針を目にすると、生徒や保護者の人気重視、必要な人材の促成栽培などという面が目につきます。
 高校教育がほぼ義務教育化している現在、高校では将来のどのような進路選択においても基盤となり、地力となるようなゼネラリスト的教養こそ重要視すべきだと思うのですが。

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