「教職への理解」11月25日
読者投稿欄に、愛知県の高校生U氏の『教員は授業だけではない』という表題の投書が掲載されました。その中でU氏は、『授業では学べないことを伝えるのも教員の仕事である、と私は思う』と書かれています。おそらく、多くの国民がU氏のように考えていると思います。
そうした多数派の声に後押しされて、「教員はまず人として自分を磨いてほしい」「せめて一つは、子供に胸を張って伝えることができるような中身をもつ教員であってほしい」「教員自身の生き様が子供にとって最良の教材である」というような教員観が、正当なものとして幅を利かすようになっているのです。
このブログで繰り返し述べてきたように、私はこうした考え方に反対です。授業こそ教員の本務であり、教員は授業の専門家であるべきと考えています。しかし、私の考え方が絶対に正しいと押し付けることはできませんし、多様な考え方があること自体は、教育論議を豊かなものにするとも考えています。ただ、こうした「授業では学べないことを伝える」派の方々が、「授業では学べないこと」とは何なのか、を定義づけしてくれないことが問題だと思うのです。
ある人は、教員の信念や経験を重視します。しかし公教育は、個人の信念や個人的な経験に基づく見方考え方、影響を極力排することで公的性格を維持できるのです。でなければ、聖戦思想も選民意識も肯定されることになってしまいます。そこまで極端でなくても、名著の世界に浸ることで自分を形作ってきた教員と、サッカーやラグビーなど仲間とともに汗を流し支えあってきた経験が自分のバックボーンになっている教員とでは、子供に与える影響は異なるのは当然です。それを積極的に認めるのか抑制的態度を求めるのかでは、学校教育は大きく変わってしまいます。
読書好きの子供が、「何やってんだ。みんなと一緒に汗を流してこそ、自分のようなまともな人間になれるんだ」と考える教員の下で苦しむということを肯定してはいけないはずなのです。
教員も人の子です。子供に対する好き嫌い、気が合う合わないということは必ずあるものです。そうしたとき、自分の嗜好、それは自分の経験や考え方に影響されているわけですが、そうした嗜好を私的なものとして抑えるという共通理解があるからこそ、様々な子供の居場所が確保されるのです。教員の価値観や信条、歩んできた道などの情報が開示されることがなく、子供が教員を選べない以上、平均的な教員が必要なのです。
教員が授業以外で伝える何か、とはどのようなものなのか、ぜひ明確にして議論したいものです。まさか、生命尊重、人権擁護、などといった普遍的価値のことを言っているのではないと思います。それは道徳の授業で指導していますし。