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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

過ぎに役立たない教育こそ

2015-12-21 07:08:20 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「囚人以下」12月15日
 『刑務所で大学教育』という見出しの特集記事が掲載されました。米国の刑務所で受刑者を対象に大学教育を行っているという記事です。この制度の創始者であるマックス・ケナー氏はインタビューに答え、『-なぜ職業訓練ではなく、教養教育が有効なのでしょうか。 ◆受刑者だから何か異なることをすべきだと考えるのは間違っています。刑務所では職業訓練や薬物指導などが必要だと思われています。職業訓練は特定の仕事の準備にはなりますが、その仕事がなくなった時どうすべきかの訓練にはなりません。教養教育は予想しない事態に直面した時の準備につながります』と述べています。
 このインタビューには、『教養身に着け自信』という小見出しがついていました。私は、我が国でも刑務所で大学教育を、と主張するつもりはありません。ただ、マックス氏の言葉の中の、「教養教育は予想しない事態に直面した時の準備につながります」という指摘は、我が国において学校教育を考える際に、決して忘れてはならないと思います。
 私の中学校時代の恩師は、苦労して大学の夜間学部を卒業した人でした。彼女の口癖は、「今、自分の将来を決める必要はない。将来、ある職に就きたいと思ったとき、大学を卒業していなければ付けない職がある。そのときになって、大学に行っておけばよかったと思っても遅すぎることがある。仮に将来、大学での学びが直接必要とされる職に就かなかったとしても、大学で学んだ教養は人生を豊かにしてくれるはずだ」でした。ご自身の体験に基づいた言葉だったと思います。大学が就職予備校化し、高校や中学でも職業体験などのキャリア教育が重視されている現在の状況とは真逆かもしれませんが、我が恩師の言葉は、マックス氏の言葉と共通する部分があります。教養は、自信を生み、生き方を考える力となるという意味で。
 さらに、マックス氏の指摘は、現代社会特有の職業事情からも重要です。このブログでも取り上げたことがありますが、人工知能の飛躍的な発展により、10年後には、多くの職が人工知能に置き換えられるという予想がなされ、その数は全ての職の半数に上るという予測すらあります。つまり、マックス氏が言う「その仕事がなくなった時」というのは、企業の倒産といった個別的かつ不運なケースだけでなく、誰の身の上にも起こりうることになってくるのです。
 そうした時代状況を考えれば、早期に特定の職への適応を進めようとする現在のキャリア教育は、非常に危険であるとさえ言えるのです。そうした事態に能動的に対応できる人材育成という功利的面かれでも、教養教育は武器になるのです。決して古くさい役に立たない学問というわけではないのです。
 我が国でも、教養教育の充実をもう一度小学校段階から構想してみるという試みが待たれます。

 

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一つでなく

2015-12-20 08:01:25 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「いくつある?」12月14日
 『年間ビルボードチャート発表 デジタル時代のヒット反映』という見出しの記事が掲載されました。今年のヒット曲に関する記事です。記事によると、『「売れた局をヒットと言う」とする明快な原理に、これまではそれほど違和感はなかった。だが、21世紀に入り、音楽を聴くメディアが一気に多様化。特にここ数年「ヒット感」が「セールス」とかなり食い違うようになった。そこで「体感」に合うようなチャートを、と考案されたのがビルボードチャートである。ビルボードの場合、パッケージのセールスはもとより▽配信売り上げ▽ストリーミングで聴かれた数▽ラジオのオンエア数▽パソコンに取り込まれた数▽ツイッターでアーティスト名と曲名が同時に「ささやかれた」数▽ユーチューブで国際標準楽曲コードが付けられている曲の再生回数…を勘案する』とあります。
 正直に言うと、ここに書かれている内容はほとんど理解できませんでした。分かるのは、CDの売り上げという単純な基準では、その曲がヒットしたかどうかを評価することができなくなっており、そうした時代に相応しい新しい評価の視点や基準が設けられるようになり、そのことにより、体感と評価を近づけることができるようになった、という大筋だけです。
 そして私が考えさせられたのも、まさにその点です。教員を評価するとき、こうした多様な評価の視点が必要なのではないかという問題意識です。教員評価は、今から十数年前に、本格導入されました。都教委の場合、教員一人一人について年度ごとの自己申告と業績評価が制度化されるようになり、同時に保護者や児童生徒による授業評価も一部で導入されるようになっていったのです。
 しかし、このブログで繰り返し述べてきたように、授業評価は非常に難しいものです。私が教委勤務時代に担当していた指導力不足研修においても、授業評価は難問中の難問でした。指導主事や校長、管理主事や指導室長といった「専門家」が、共通の評価項目で評価しても、不一致は少なくありませんでした。評価項目ごとの点数をすべて合計しても、いわゆる「体感」と異なるというケースが生じてしまうのです。
 そこで、授業評価においても、「ヒット曲」評価と同様に、多くの視点で評価を立体化するという作業が必要ではないかと考えたのです。思いつきのレベルですが、教員自身による自己評価、校長等管理職による評価、指導主事等教委関係者による評価、子供による評価、保護者やPTA代表者による評価、教員仲間代表による評価などを同時に行うのです。評価項目は同じとし、ただし項目ごとの点数配分は評価者の「好み」によるものとし、各自合計が100点になるように設定するのです。
 こうした評価を多くの授業について行い、学校種、教科、学年、座学中心か討論型か体験型か調べ型かといった授業形態別に統計処理をし、それぞれのケースで最も「体感」に近い評価のあり方を明らかにするのです。なお、この場合の「体感」とは、その教科の授業の専門家である指導主事の「体感」を想定しています。
 こうして雛型をを決めておけば、授業評価において上記の評価者を全てそろえることができなくても、適宜「換算」することでより良い評価が可能になるのではないかと思います。教委と国立教育研究所が共同で取り組んでみてはどうでしょうか。

 

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「誤解」だと思うんだけど

2015-12-19 07:37:38 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「誤解」12月13日
 読者投稿欄に、千葉県の教員S氏の『処分は地位の高低に関係なく』という表題の投書が掲載されました。その中でS氏は、三省堂が編集会議と称して校長や教頭に謝礼を渡していた件について、『本紙夕刊によると一番重い処分を下す教育委員会でも減給2カ月、中には処分なしという教育委員会もある。我々一般教員であれば懲戒免職だ。この差は何かと考えたが、出席したのが校長や教頭だからだろう』と述べ、『地位の高低に関係なく同様な処分をすべき』と主張なさっています。
 S氏が勤務なさっている学校を管轄している教委が、どこなのか分からないので、100%否定はできませんが、S氏の指摘するような実態は、ほとんどの教委であり得ないことは断言できます。私は教委の幹部として、教員の処分に関する職務に携わってきましたが、実態は全く違います。それは私が勤務していた教委だけが特別なのだといわれるかも知れませんが、そうではありません。私の部署には全国の教委から多くの人事担当者が来訪し、情報交換し相互理解していましたし、文部科学省に設置された処分に関する検討会の草案には、全国の教委の人事担当者の代表が参加して話し合っていたのですから、一部の教委だけが全く異なる処分基準を設けるということはあり得ないからです。
 では、「地位の高低」に関係なく処分が行われているのかというとそうではありません。同じ不祥事の場合、処分は校長に重く、一般教員に軽いというのが共通する原則です。私が関わった例でいえば、運動会後、勤務時間中であるにもかかわらず校内の反省会で飲酒したという事例がありました。飲酒した教員は口頭注意、校長は戒告処分となりました。ちなみに、口頭注意というのは処分歴にも残らない形式的なもので、正式な行政処分ではありません。一方、戒告は正規の行政処分で、退職するまで履歴事項に記載されついて回るものです。
 また、体罰などの場合、校長は自分が体罰をしたわけでなくても、管理上の責任を問われ処分されることが多いのです。私が担当であったとき、一年間で処分を受けた教職員は、校長が最多であり、一般教員の処分数を大幅に上回っていました。その大部分が、部下の教員の不祥事の責任を負わされたものです。
 さらに、減給や停職等の処分を受けた校長のほとんどが処分決定後自主退職します。重い処分を受けながら教員を指導監督し、子供や保護者の信頼を保ち続けるのは困難であるという判断です。一方、一般教員の場合、自主的に退職するものは多くありません。体罰や教え子へのわいせつ行為で停職処分を受けた後、復職した教員がまた授業を受け持つことに対する反対運動が起きるという記事を目にするのは、そうした現状を表しているのです。
 こうした処分の原則は、大きな権限を与えられているものはそれに見合う義務を背負っており、その義務に反する行為をした場合、義務の大きさに比例して罰も重くなるべきである、という考え方によるものです。S氏は、本当に教委における処分の実態を把握した上で主張なさっているのか疑問に感じました。また。M紙は、S氏の主張の裏付けをとっているのでしょうか。教育行政について、間違った認識が広がらないように願いたいものです。

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オッパイの話

2015-12-18 07:33:50 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「オッパイの話」12月11日
 『意見分かれる卒乳に戸惑い』という表題の連載特集記事が掲載されました。その中に、『世界保健機関とユニセフは、2歳以降も授乳を続けることを推奨する~(中略)~小児科医の黒部信一・すずしろ診察所所長は「先進国で離乳が遅いのは日本だけ。米国では6~9カ月で授乳は終わる」と指摘する。「母乳中心だと、成長するにつれてビタミン類やカロリーが不足しがちになる。食事中心の生活に移行すべきだ」という。WHOやユニセフの方針については「離乳食などが手に入りにくい発展途上国向けのメッセージではないか」と話す』という記述がありました。
 私は、男ですし、子育ての経験がないので、授乳や離乳について悩んだことはありませんし、知識もありません。正直なところ、記事に対する感想は、「こういうことで悩んでいる人がいるんだ」という程度のものでしかありませんでした。
 ただ、黒部氏の「発展途上国向け」というフレーズには、ある感慨をもたざるを得ないのです。我が国が「子供の権利に関する条約」を批准し、学校においても、同条約を受けどのような対応が必要か、教員への啓発はどのように行うかということが具体的な課題となりました。そして、資料を作成し、研修会を実施し、学校現場における対応を円滑に進めることができました。
 しかし、ほっとしたのもつかの間、本当の苦労はその後にやってきました。学校教育に限らず、市として子供の権利保護にどのように取り組むべきか、ということが大きな問題となり、首長部局に担当が置かれ、市民運動家の要求に基づいて、彼らの代表で構成される公聴会が開かれるようになったのです。学校教育を最もよく知る存在として、私も公聴会への参加を義務付けられました。
 同条約は、元々、児童労働が当たり前のように行われ、就学率や識字率が低く、子供が大人の所有物のように扱われることが日常となっている途上国の子供を守るという趣旨でつくられたものです。それをそのまま、条文を金科玉条のように墨守して我が国に当てはめようとすれば、不要な混乱をもたらすだけです。しかし、市民運動家の皆さんは、教育課程は子供の意見も聞いて決めるべき、校則も子供の同意なしに決めてはならない、教員が子供の意に反して強制することはあってはならない、などという暴論を主張し、自分たちの意見を後押ししてくれる「専門家」を参考人や講師として呼び、意見を開陳させるのです。大げさではなく、人民裁判のような場でした。
 しかも、議会は保守系首長に対し野党が過半数を占める状態で、野党議員が運動家の後押しをし、議会で質問という形で、彼らの後押しをしてくるのです。首長からは、野党を刺激せずにしかも相手の主張を認めるな、という指示がでているので、苦しさは増すばかりでした。
 すべて、国情を無視して万国共通を押し通すという発想の貧困さ、柔軟性の欠如の結果です。離乳と子供の権利、テーマは違っても、外国の事例を無批判に持ち込もうとするという共通点があります。他にもこんな問題があるのではないでしょうか。歴史や文化を無視し、フィンランドの教育を真似よう、というような。

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暴行

2015-12-17 08:03:10 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「暴行」12月11日
 『握手会で女優に男が暴行の疑い』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『握手会で女優、柳ゆり菜さん(21)の腕を引っ張った』ことで、21歳の男が暴行容疑の現行犯として逮捕されたということです。私が何でこんな記事に注目したかというと、私が教委の指導室長をしていたときに起きた「体罰事件」を思い出したからです。
 定年退職を半年後に控えた60歳の教員が、音楽の合同授業できちんと並ばずにふざけていた男児に注意をしました。それでもふざけ続けた男児の腕をつかみ、「ちゃんと並べ」と言いながら強く引っ張り、整列させたのです。男児の母親は、帰宅したわが子の腕に教員の指の跡がついているのを見て激昂し、近くの医院で全治3日の診断書をとり、校長室に向かいました。母親の話を聞いた校長は、母親を帰した後、教員を校長室に呼び、事実関係を確認し間違いがないことを確かめた後、教委に電話してきたのです。
 私は別の学校を視察中でしたが、直ちにその学校に出向いて校長と会い、体罰報告書を作成して提出するように指示しました。私のこうした対応について、上司である教育部長が、「こんなことが体罰になるのか。これじゃあ先生方もたまったもんじゃないだろう。体罰と体罰じゃない線引きはどうなっているんだ」と問い質してきました。
 当時、教委内では、この部長を含め、委員長をはじめとする教育委員なども、私の対応に批判的でした。「この程度のことで…」という感覚だったのでしょう。私は、「教員から子供に対して物理的な有形力の行使があり、子供側が体罰を受けたという被害の認識を訴えた場合、体罰があったという前提で調査をする」という基本認識を示し、納得してもらいました。
 正直に言えば、私自身にも「この程度のことで…」という感覚はありました。また、この母親と教員の間に過去にも感情的な対立があったことも把握していました。全治3日というのは、ほとんど無傷であるという意味であることも理解していました。しかし、もし、この件を「校長から注意しました」というような扱いで処理すれば、メディアや議員を巻き込んだ大事件に発展するという予感もありました。さらに、内々で処理すれば、噂は教員の間で広まり、「教委は体罰には甘い」という誤解を与えかねないという思いもありました。そうしたことを総合的に勘案し、体罰としての処分を内申する決定を下したのです。
 今回の記事を読み、その後の経過を調べてみると、被害を受けた女優は元気で活動を続けているようです。おそらく私が関わった体罰の「全治3日」程度の被害だったのでしょう。それでも、暴行罪なのです。当時の私の判断は正しかったということの証明になるのでしょうか。もっとも、この男が不起訴処分になっても、私は自分の判断が間違っていたとは思いませんが。

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学校のバカ

2015-12-16 07:32:20 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「2つの組織」12月10日
 須田桃子記者が、『組織の「バカ者」』という表題でコラムを書かれていました。その中で須田氏は、『組織を活性化するのに必要な人材は、まず「若者」、次に組織を客観的に見られる「よそ者」、3番目は急に思いがけないことを言い出す「バカ者」だ』という言葉を引用しています。
 私も聞いたことがあります。この言葉はかなり広く定着しているようで、教員や校長に民間人を積極的に登用する際にも、盛んに使われていた記憶があります。教員等への民間人登用についてはさんざん取り上げてきたので、今回は「よそ者」ではなく、「バカ者」について取り上げてみたいと思います。
 学校に、「バカ者」の教員がいたらどうでしょうか。実は私も「バカ者」度の強い教員だったことがあります。教員になって3年目、「運動会の目的に照らしてPTA競技や来賓競技があるのはおかしい」と主張して、先輩から呆れた目で見られました。国旗国歌問題でもめている職員会議では、「学校という公的機関における民主主義とは教員の多数決ではなく、民意の多数を尊重することである」と言い、猛反発を受けました。今考えると、おかしな奴、です。しかし、学校文化に一石を投じる内容も含んでいたとも思います。
 もちろん、この程度では、須田氏が言う「組織を活性化させるバカ者」にはほど遠いでしょう。ただ、私は「バカ者」ぶりは、学校という組織にプラスにもならなかった代わりに大きなマイナスにもならなかった、とは言えるでしょう。自説は職員会議でしか主張しなかったからです。しかし、実際には、大きなマイナスをもたらす「バカ者」をたくさん見てきました。
 「言葉で言って分からない子供には体罰をすることもあります。ただし、叩くのはお尻だけです」と保護者会で宣言した教員がいました。「バカ者」です。この後、学校はこの発言を巡って大きく揺れました。賛成派反対派のの保護者間の対立、教委からの指導、議会での追及、校長の責任追及、保護者から他の教員への「立場確認」など、必要のない混乱が続き、信用を損なったという結果だけが残りました。
 「バカ者」は確かに必要です。しかし、「思いがけない意見」は、内部で発信するのがルールです。保護者や地域住民は、一教員の発言も学校としての見解と受け取ります。まして、保護者会やPTAなどでの発言は、準公式発言としての重みをもちます。無思慮は言動は、その中に仮に真理が含まれていたとしても、組織を傷つけます。
 組織には、絶えず創造的な革新を続けることが最優先される組織もあれば、安定や継続が求められる組織もあります。公立義務教育学校は、安定と継続こそが重要であり、そうした姿勢が子供や保護者に安心感を与え、信頼を形作るという面が大きいのです。独立した研究者の集まりである研究所や大学とは違うのです。学校に求められる「バカ者」像について、しっかりと理解してほしいものです。

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理科教育に求められること

2015-12-15 07:20:04 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「理科教育の必要性」12月10日
 読者投稿欄に、下関市のT氏による『親までが現実逃避しないで』という表題の投書が掲載されました。『7歳の男児がインスリン注射を与えられずに亡くなった』事件についての投書です。その中でT氏は、『親までが「嫌だ」と現実逃避をしてはならない。病気についてしっかりと学び、理解して「注射さえすればみんなと一緒」と励ましてほしかった』と書かれています。
 もっともな指摘です。私もこの事件については、悲しみと同時に怒りを感じました。ただ、T氏の見方とは若干異なります。T氏は、親の行動を「現実逃避」としています。確かにそうした一面もあるとは思いますが、私は、親の非科学的な思考に問題意識を感じてしまったのです。
 男児の両親は、学ぶまでもなく、担当医師からⅠ型糖尿病について何回も説明を受けていたはずです。医師は、医学について学び経験を積み重ねてきた「専門家」です。そして現代医学は、様々な専門家が再現性を重視した研究と検証によって構築された科学の体系です。私は科学的思考に弱い文系人間ですし、もちろん医学の知識も糖尿病についての知識も皆無に近い「素人」です。でも、現代医学が科学の一分野をなしていることは常識として知っていますし、治療法については、「専門家」である医師を信頼するしかないことも理解しています。もちろん、セカンドオピニオンは大事ですが、それは「専門家」間にける見解の相違を見極めるためのものでしかありません。
 そうした基本姿勢に立てば、ろうそくを立てて手をかざすというような行為が、似非であり、決して信頼してはいけない行為であることはすぐに判断できるはずです。今、理科教育の振興充実が叫ばれています。反対はしません。ただ、義務教育段階における最も必要な理科教育は、先端科学技術を担う人材の育成を目指すことではなく、科学的な常識を身に着け、迷信や虚言に惑わされることがない合理的姿勢を培うことだと思うのです。
 20年前、オウム真理教事件では、高等教育を受けた人物が麻原教祖の、空中浮遊やテレパシー交信などのたわごとに惑わされていた実態が暴露され、世間を驚かせたものです。そのときと今と、何も変わっていない、進歩していないと思います。それどころか、コーヒー浣腸や金の延べ棒で体をさするといった怪しげな健康食品やあり得ないダイエット法などに飛びつく人が少なくない現状を見ると、事態は悪化しているのではないかとさえ思えてきます。
 理科教育の振興では、今回のような悲劇の再発を防ぐことにも留意してほしいものです。

 

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中間線

2015-12-14 07:13:50 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「中間線」12月9日
 社会活動家湯浅誠氏が、『子供の貧困二つの提案』という表題でコラムを書かれていました。その中で湯浅氏は、重要業績評価指標(KPI)について『貴重な税金を投入する以上、費用対効果の検証は不可欠』としながらも、『子供の発達支援は「テストの点数が10点上がったから効果あり」というものではない。笑わない子に笑顔が戻るだけでも、将来的には大きな変化につながる可能性がある』と述べ、子育て全般に関わる事業の評価のあり方について問題提起していらっしゃいます。
 複雑な思いです。私自身、過去も現在も、「学校教育という営みに関する評価」について揺れ動いてきたからです。基本的には、湯浅氏の意見に賛成です。例えば、ペーパーテストの点数といって一つの指標だけで、学校や教員を評価することについては大きな疑問を抱いています。全国学力テストの結果を公表し、それが教員や学校の実力を表しているというような乱暴な議論に反対してきたのは、そうした考え方に基づいています。
 一方で、教委に勤務し、各校の研究や都の研究員の研究の指導をする際には、教員の「主観」による研究成果の提示を堅く戒めてきました。「目を輝かして」「意欲的に」「自ら進んで」などの表現を使うのではなく、「授業中の発言量が3割ほど増えた」「挙手する児童が1.6倍になった」「まとめの小作文において、結論の理由として複数の視点を挙げて論述する生徒が7割を占めた」などの、数値化を求めていたのです。
 当時の私の頭の中には、ある歴史家が書いた、戦前ナチスドイツを教育視察した政府要人の報告書に「ドイツの興隆は疑いない。ヒトラーを敬慕する少年たちの瞳は青く輝いていた」という趣旨の記述があったという記憶がありました。その歴史家は、ドイツ人の目が青いのは当たり前だと皮肉っていましたが、情緒的且つ主観的評価の恐ろしさを象徴する話として、強い印象を残していたのです。
 様々な背景を背負っている子供たちを育てるという営みは、単純な評価にはなじまないという思いとともに、ある価値観にゆがめられた色眼鏡で主観的に評価する恐ろしさ、おそらく適切なのは両者の間にあるのだということは分かりますが、その中間線をどこに、どのように引けばよいのか、今でも迷い続けてしまうのです。
 

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大ウソ

2015-12-13 08:01:32 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「嘘」12月5日
 人生相談欄で、作家の高橋源一郎氏が、就活を控えた大学生からの進路に関する悩みに答えていらっしゃいました。その中で高橋氏は、『大学生は卒業したら「やりたい仕事」につくことになっています。そんなの大ウソです。それがほんとうに「やりたい仕事」なのかわからないまま、彼らは仕事を始めるしかありません。それが「やりたい仕事」なのか「それほどやりたいものではないけれど我慢できる範囲の仕事」なのか「我慢できない仕事」なのか、それを決めるのは、あなたなんです』と述べていらっしゃいます。
 全く同感です。今、中年期以上の人の多くは、高橋氏の指摘に同意すると思われます。だからこそ、「我慢できない仕事」→不本意退職というミスマッチをなくすために、インターンや職場体験が導入されるようになったんじゃないか、という人がいるかもしれません。確かに、ほんの少しだけ、ミスマッチの悲劇や無駄を減らす効果はあるでしょう。しかし、短期間のインターンや職場体験だけでは、その仕事の一部が見えているだけにすぎません。
 教員として採用される若者はすべて教育実習を経験しています。最近では、本来の教育実習以外にも、大学生のときから学校に補助指導員的な立場で関わる学生も少なくありません。それでも、多くの新規採用教員が、学校にこんな仕事があるとは思わなかった、教員がこんなに忙しいとは想像もできなかったなどと言います。教員という職は、若者のほぼ全員が子供時代に身近に接してきた経験をもつものであり、それだけイメージがしやすいはずなのに、こんな状態なのです。
 話を一般企業に戻します。仮に優れた文学をこの世に送り出したいという願いをもって出版社に就職できた若者が、経理や総務に回されたり、書店回りをする営業に回される可能性があります。企業の多角化で、文学とは関係のない漫画やスポーツ誌、芸能ゴシップ週刊誌部門が設けられそこに配属されるかもしれません。社内の移動を拒むことは大変難しいでしょう。つまり、「我慢できる範囲の仕事」につければ御の字だというのが現実なのです。
 ですから、今、中高で行われている職場体験やキャリア教育は、高橋氏が指摘する「大ウソ」から距離を置き、仕事というものの本当の姿を伝えるように変えていかなければならないと思うのです。

 

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給与と人物

2015-12-12 07:18:27 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「お給料」12月5日
 『大谷選手2億円 プロ4年目最速タイ』という見出しの記事が掲載されました。日本ハムの大谷選手が契約更改で来季の年俸が2億円になったことを報じる記事です。記事の中に大谷氏のコメントが掲載されていました。それは、『それくらいもらうだけの価値がある人物かどうか、自問自答しながら日々の練習をできればプラスになる』というものでした。
 私はこのコメントに強い違和感を覚えました。2億円という年俸は、大谷氏の人物の価値を基準に決定されたものではないからです。防御率、勝数、勝率という投手3冠の実績、160kmを超す速球のもつ潜在性、整った容貌にも支えられたスター性、などの総合評価です。一般に「人物」という言葉からイメージされる、知性、人間性、規範となる生き方、確固たる価値観などといったものについて支払われるものではないからです。
 私は大谷氏を誹謗中傷しているのではありません。むしろ21歳の若者としては、責任感や克己心など人並み外れた優れた資質をもっている方であると考えています。それでもなお、平均的な日本人の20倍以上の「人物」であるとは思えません。そもそも仮に「人物」度を測る尺度が存在するとして、常人の20倍などという人ははありえないでしょう。ガンジーだろうが、キング牧師だろうが、ナイチンゲールだろうが、常人をかなり上回る程度でしょう。
 なぜこんなことをグダグダ書いているかというと、我が国に蔓延る、能力や業績は人間性に裏付けられるという「神話」の影響が、大谷氏の発言からも感じられるからです。特にそうした傾向が強いのが、教職についてです。子供という人間と魂の触れ合いを通して感化・陶冶する教員という存在にはまず高潔な人間性が求められるべきだ、というような教員観の持ち主は少なくありません。私は、それは違う、ということを主張し続けてきました。
 上記のような考え方は、教員聖職論につながるものであり、教員に必要な専門的な知識や能力、経験を軽視し、その精神性だけを過度に重視するものです。そうした考え方に基づく、教員養成や研修は、精神論に傾きがちであり、最も重要な授業力の育成を疎かにしてしまうのです。社会人経験者を教員として採用したり、教員に起業体験をさせたり座禅をさせたりといった研修が注目を浴びたりするのも、こうした考え方が根底にあるからだと思います。
 さらに、過度に人間性という評価不能なものを重視する考え方は、指導力不足教員に、「子供を愛している」「教育への情熱はだれにも負けない」などという言い逃れを許すことになり、教員の資質低下に結びついてもいます。
 仕事は、「人物」とは切り離して考えるべきであり、具体的な評価としての給与は、現時点での成果と将来の成果を期待させる能力・資質に応じて決定されるということについて、広く共通理解が図られるべきだと思います。教職も例外ではありません。

 

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